合氣道界では伝説となっている有名なエピソードがあります。語る人によって内容に若干の違いがありますが、ざっと以下のような話です。
実戦合氣道の達人として有名な塩田剛三先生(養神館合気道創始者)に、ある日、お弟子さんが「合氣道はどうすれば上達するのですか」と質問したそうです。
それに対して、塩田先生は、「それなら素直な人間になりなさい」と答えたそうです。
合氣道界ではカリスマと呼ばれている先生が、「上達するためには素直な人間でなくてはならない」と仰っているのですから、我々も決して無視する訳にはいきません。
一方、合氣道とは全く違う分野で、偉大なカリスマと呼ばれている人物が、「素直な心」の重要性を生涯説かれていました。
その人が、現パナソニックグループ創業者、通称「経営の神様」、松下幸之助です。
松下幸之助は、ビジネスマンにとっても、最も大切な人間的資質は「素直な心」であると説かれていました。
片や合氣道界のカリスマ、片や経営者のカリスマ、この両者が同じく「素直さ」の重要性を説いている。
これは単なる偶然ではないでしょう。両者にはきっと通じるものがある筈です。
我々も、もっと素直な人間になることで、合氣道も更に上達できたら良いのですが、この「素直さ」とは一体何なのか、自分なりに考えてみました。
「素直さ」と一言で言っても、一般的に考えられている「人間性としての素直さ」と、それとは少し分けて考えるべき「技術としての素直さ」があるのではないかと思います。
この両者は繋がっていて、決して全く関係のない別物ではないと思います。しかし、上達のためには、一旦分けて考える方が妥当なのではないでしょうか。
合気会師範部長の多田宏先生が以前、「月刊 秘伝」(2011.1月号)誌上で興味深いことを仰っていました。
多田先生は、イタリアを中心にヨーロッパ各地で合氣道を指導してこられた方ですが、海外で稽古している外国人の方々の多くが、きちんと合氣道の精神性や東洋の伝統的身体技法を理解してくれる、と仰っていました。
しかし一方で、却って日本人の方が、
「だが日本では精神、心という言葉が日常生活の中で時には主軸をしめる普通の言葉となっているため、心を技術的に捉える人が少なく、時にはいやがる傾向がある。(後略)」
「我々が合気道の話をしている時に、本当は心の技術の話をしているのに、それを社会道徳だと解釈して、技術的なものを求めようとしない人がある。そんな技術があることを知らないままで居る人もある。呼吸法を真剣に行ってから行える事を、ただ気持の問題と捉えてしまう事もある。」
といった具合に、心の技術を単なる精神論として捉えてしまう傾向があると述べられていました。
また、中国武術・韓氏意拳の光岡英稔先生は、『荒天の武学』(内田樹/光岡英稔、集英社新書)の中で、「意識の拡散と集中」という問題を通して、核心を衝いた指摘をされていました。
「文字をたくさん操れる現代人とか、情報も多く、社会性の強い人の方が自分に対する疑いを持っていて、意識が拡散しています。そうすると何かを行うときに、テクニックやメソッドという回り道を辿っていかないといけなくなる。(後略)」
「現代人は頭で学んでいる習慣、癖がついているせいで、習い覚えた癖を捨てることが怖いので手放せない『順序を追ってしか学べないんじゃないか』という思い込みがあるので、何かをぱっと見取って学べる自分というのを殺してしまっている。
でも、身体を使うことに戻っていくと、少しはそういう見取ってしまえる自分にアクセスできます。そうすることで徐々に『物事は思考によって学ばないといけない』という思い込みから抜けられるんじゃないかと思います。」
「素直さ」には、技術としての「素直さ」と、人間性としての「素直さ」があって、両者は決して関係のない別物ではないけれど、合氣道の上達のためには、我々はまず、技術としての「素直さ」を身に付けることから始めなければならない、そう考えます。
では、技術としての「素直さ」とは一体どういうものか?
自分なりの言葉で定義すると、
「よく分からないものをよく分からないまま、しっかり自分に受けとめて、よく分からないままきちんと体現する能力」
と言えるのではないかと思います。
そして、この技術としての「素直さ」を発揮した人物として、もう一人のカリスマの例が挙げられます。
そのもう一人のカリスマとは、昭和の歌姫、美空ひばりです。
美空ひばりさんは、8歳で初舞台を踏み、9歳で天才少女としてデビューしました。それ以来ずっと第一線で活躍されました。
恐らくは、少女時代は忙しさ故に、学校の授業も休みがちだったのでは?と思います。
そんな美空ひばりさんは今から数十年前に、英語が全く話せなかったにも拘わらず、ネイティブスピーカーが聴いても完璧な発音の英語でジャズを歌いました。
なぜ彼女はそんなことができたのか?
これこそが、技術としての「素直さ」だと思うのです。
技術としての「素直さ」が身に付いていない凡人の多くは、「よく分からないもの」に出会った時に、それを無理矢理、「自分が今までの人生で培ったもの」の中に当て嵌めて解釈しようとしてしまう。
英語が解らないのなら、それを無理矢理、「カタカナ(日本語)」に当て嵌めて歌ってしまう。
しかし、それでは上手く英語でジャズを歌ったとは言えません。
美空ひばりさんも、レコーディングはカタカナで書かれたカンペを見ながらやっていた、という証言もあるみたいですが、基本、彼女がやったことは、英語の意味など解らなくても、耳で聴いたままを、そのまま素直に再現していただけに過ぎないのではないでしょうか。
ネイティブの人が聴くと、原曲の歌手のアメリカ南部訛りまで完璧に再現していたというから驚きです。
我々のやっている合氣道は、心身統一体で、臍下丹田の力を駆使したり(開祖の説く「魄」の側面)、氣を導いて(開祖の説く「魂」の側面)行うものです。
しかし、殆どの現代人はそれまでの人生で、「丹田」や「氣」など意識したこともないのが実情です。
本当は「よく分からないもの」に出会っている筈なのに、それを無理矢理、自分がこれまでの人生で培ってきた「よく分かっているもの」に当て嵌めて解釈してしまうと、「人体構造上の弱点を攻めて倒す」とか「関節技で制圧する」とか、合氣道としては甚だ出鱈目で頓珍漢なものになってしまうのです。
我々はまず、技術としての「素直さ」を身に付けなくてはなりません。
そのためには、世間の常識や固定観念に囚われず、感覚・感性を研ぎ澄ませることが大切です。
そして、「よく分からないもの」に出会っても、決して焦って「分かった振り」をせずに、「よく分からないもの」のままでも良いから、それをそのまま上手く再現・体現できるように試行錯誤を繰り返すことが大事ではないかと思います。
この技術としての「素直さ」を身に付ける上で、まず最初にやるべきことを、より具体的に説明すれば、まずはきちんと合氣道の「受け」が取れることではないかと思います。
合氣道の「受け」は、投げられてもいないのに、自分勝手に倒れたり転がったりしてはいけません。
だからと言って、逆に、意地になって抵抗しているようでは、それでは全く稽古になりません。
正しい合氣道の技が掛かった時の感覚は、譬えて言うなら、公園の遊具や遊園地の乗り物に乗った時のような、楽しいような気持ちの良いような感覚があります。
その時は、決して踏ん張ったり強張ったりして、無駄な抵抗はしないことです。
勿論、自分勝手に倒れたり転がったりしてもいけません。
それが気持ち良くて楽しい、合氣道として正しい技だったら、「受け」は一切の迷いなく自身を技に投入させ、技に乗ることが肝心です。
そして、その時の感覚を身体イメージとして記憶し、逆に自分が「投げ」を行う時は、その記憶の中にある身体イメージの感覚を駆使して、気持ち良く楽しく相手を導いて投げてやることが肝心です。
そして、技術としての「素直さ」がある程度分かってきたら、次はいよいよ、人間性としての「素直さ」が技に直結してくるレベルへと至ります。
いずれ詳しく書こうと思いますが、合氣道も、「氣結び」で技をなす段階になると、心の有様が技に直結してきます。
何事も最後は人間性だとはよく言われることですが、合氣道もやはり、最後は精神論がそのまま技術論になる、という点が面白く、やはり人間修行としての「武道」なんだなとつくづく感心させられます。
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