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星野源さん、新垣結衣さん、ご結婚おめでとうございます!

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星野源さん、新垣結衣さん、ご結... 星野源さん、新垣結衣さん、ご結... 星野源さん、新垣結衣さん、ご結...





 令和3(2021)年5月19日(水)。
 TBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で共演された、星野源さんと新垣結衣さんのご結婚が発表されました。

 実は、平成28(2016)年12月のブログに書かせて頂きました通り、当道場は、星野源さん新垣結衣さんのお二人が、社会現象にもなった「恋ダンス」の練習をされた世界で唯一の武道道場です。
 更に、星野源さんとは、目に見えない不思議なご縁で結ばれた道場(?)と言っても良いでしょう。

 あれから5年近くも経ったことですし、お二人へのお祝いの氣持も込めて、自分にとっても「懐かしく、同時に少し悲しい思い出ともリンクしながら、それでいて楽しく『不思議』な思い出話」として、当時のことを再び書きたいと思いました。
 平成28(2016)年のブログと重複する内容もあるとは思いますが、読んで頂けたら幸いです。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/286079/2016-12-20



 平成28(2016)年9月19日(月・敬老の日)。
 テレビ番組制作会社から一本の電話があり、「テレビのロケで道場を使用させて欲しい」という依頼がありました。
 その時、まず最初に頭の中を過ったのは、昔、某バラエティー番組の撮影に学校全体で協力したものの、「番組を面白くするため」という口実のもと、校内をメチャクチャにされ、撮影後の原状復帰が大変だったという、知り合いの学校教員から聞かされたボヤキでした。
 それ故、当初自分は、過分に警戒心を持って対応をしていましたが、詳しく話を聞くと「TBS秋の新ドラマ撮影の楽屋/控室として、可能ならば是非道場を使わせて頂きたい」「道場の外観や内装に原状復帰できないような手を加えたりすることは全くありませんので、どうかご心配なく」とのことでしたので、「それなら稽古のない日/時間でしたら全然構いませんよ」とこちらも快く承諾しました。
 巨匠、黒澤明監督は、映画の撮影のためなら邪魔な家一軒丸ごと解体させた、などといった逸話(都市伝説?)がありますが、考えてみれば今の時代にそんな暴挙が許される筈もなく、自分も少々心配し過ぎだったかな、と今となっては恥ずかしい氣持です。

 そして翌日、9月20日(火)の午前中。
 『逃げ恥』の制作主任だったWさんが直接道場に下見に来られました。
 自分はそれとなく「明日は有名な俳優さんが来る予定なんですか?」と訊いたところ、Wさんは「くれぐれも内緒にして欲しい」という前置きで、新垣結衣さん、星野源さん、宇梶剛士さん、富田靖子さん、石田ゆり子さん、といった錚々たるスターの名前をこっそりと教えてくれました。
 自分は驚いて「えぇ~、そんな有名な方々が来られるんですか?何のおもてなしもできませんが、何だか却って恐縮です」と思わず興奮気味な声を出してしまいました。
 そして万一、このことがアッという間に世間に広く知れ渡って、ファンの方々が大挙して押し寄せて来ようものなら、ドラマの撮影に悪影響があるばかりでなく、道場まで揉みくちゃにされてしまいそうだなぁと「これは絶対に秘密にしなきゃな・・・」と心に強く思いました。
 また一方で、「実は自分・・・、星野源さんには個人的にちょっと思い入れがあるんですよ・・・」と白状し、平成24(2012)年に母がくも膜下出血で倒れて後、長い闘病生活中に、星野源さんも同じ病で倒れられて、ずっと母と共に星野源さんの病気平癒を祈っていた旨をチラッとだけ告白しました。
 「ファンだと知られたら変に警戒されてしまうかな?」と思い、「安心して下さい。ご迷惑はお掛けしません。明日は基本的に、自分は二階の住居にいますから」と伝えましたが、「あの星野源さんがうちに来られるのか・・・」と思うと内心では感慨深いものがありました。

 因みに、母は1年以上の闘病の末、平成25(2013)年8月初めに帰らぬ人となってしまいましたが(※星野源さんの二度目の手術がちょうどその頃でしたね)、星野源さんはその後見事に復活されました。
 平成27(2015)年の大晦日。
 元気に回復された星野源さんが『NHK紅白歌合戦』に初出場し、ヒット曲『SUN』を歌っている姿を見た時は、本当に感無量の思いで、不思議と涙が止まりませんでた・・・。



 話を元に戻します。

 9月21日(水)の朝。
 制作主任のWさんを始め、スタッフの方々が続々と集結し始め、道場内に衣装やメイク用の鏡台、休憩用の椅子やテーブル等が設置されました。
 お昼前に撮影が一旦休憩に入り、道場の鍵を開けに行った時、ふと、道場内に、普段は扉に隠された状態の大きな鏡があることを、関係者に伝え忘れていたことに氣付きました。
 「こちらの鏡だと全身がチェックできて便利ですよ、是非有効に使って下さい、何か困ったことがあれば遠慮なく呼んで下さいね」と言って鏡を開けて立ち去ろうとした時、ちょうど午前中の撮影を終えた新垣結衣さんがやって来られました。

 目の前で拝見して驚いたのは、思っていたよりずっと長身だったということでしょうか。
 芸能界に疎かった自分は、「ガッキー」という可愛らしい愛称で呼ばれているくらいだから、てっきり小柄で可愛らしいアイドル的な雰囲気の方だと思っていましたが、実際の新垣結衣さんは、その時はジーンズにスニーカー、黄色い半袖のニット(※『逃げ恥』の「森山みくり」の衣装ですね)に、ベージュのストール(※後に第5話で登場しました)を羽織ったカジュアルな服装でしたが、長身に長い脚と小さなお顔で、ファッションモデルのようなスタイルの良さが際立ち、「可愛い」というよりは、むしろ、本当に「美しい」「綺麗な」方だということを思い知らされました。
 新垣結衣さんを目の前にして、自分は「あっ、どうも~」しか言えなかったのが未だに心残りです。もう少し気の利いた挨拶ができなかったものか、悔やまれるところです。



 新垣結衣さんが休憩に入られてから暫くして、星野源さんがやって来られました。
 自分は二階の窓から見ていたのですが、白いミニバンがスーッとエンジン音もなく道場の前で止まり、後部のスライドドアが開くと、黒いキャップにマスク姿の星野源さんが一人で降りて来られ、そのまま迷わずに道場の中に入って行かれました。
 練心館道場の小・中・高生の若い生徒さんの中には、親御さんに車で送り迎えしてもらっている子も多く、「何だかいつも見慣れた光景に似ているな・・・」なんて思いながら、「星野源さんが道場の生徒さんだったらどうだろう?上達するかな?・・・」などと妄想してしまう自分が可笑しく、一人でニヤニヤしてしまいました。

 因みに、宇梶剛士さん、富田靖子さん、石田ゆり子さんのベテラン勢は隣の「すみれが丘会館(町内会館)」を控室にされていて、新垣結衣さん、星野源さんの若い主演のお二人が、大勢のスタッフと共に道場を控室にされていました。

 お昼休憩の時間、道場では、まだ発売前の星野源さんのニューシングル『恋』のイントロ部分とアウトロ部分が何度も何度も繰り返し大音量で流され、そのうち、リズムに合わせて「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」と掛け声と共に手拍子を打つ音も聞こえてきました。
 その時は「いったい何をやってるんだろう?」と不思議に思っていましたが、この疑問は、後にドラマのエンディングを見て解けました。
 先程自分が開けた道場の大きな鏡の前で、お二人で「恋ダンス」の練習をされていたのでしょう。
 後にこの「恋ダンス」は社会現象と言われる程の大ブームとなりましたが、星野源さんと新垣結衣さん、ご本人たちが「恋ダンス」の練習をされた「武道道場」というのは、間違いなく世界で唯一うちだけだろうと今でも自慢です。



 お昼休憩が終わり、午後の撮影がスタートしました。
 新垣結衣さんはマスタードイエローのロングスカンツに青いストライプのシャツ(※これも『逃げ恥』の「森山みくり」の衣装ですね)、星野源さんは黒縁のメガネを掛け、灰緑色のパンツに白いシャツ、その上に青いカーディガンの姿(※『逃げ恥』の「津崎平匡」の衣装ですが、この「青いカーディガン」は放送では一度も登場しませんでした)に着替えられ、二人仲良く揃って、颯爽と撮影現場へと向かわれました。

 その後、お二人が道場に戻ってくることはありませんでしたが、スタッフの方々が全ての後片付けを終えて撤収するのは、完全に空が暗くなっている頃でした。
 その日は早朝の6時台から準備が始まっていたことを考えると、私たちをいつも楽しませてくれるこの「テレビドラマ」というものの制作現場は、本当に大変な仕事なんだな・・・と思い知らされ、頭の下がる思いでした。




 10月になり、待ちに待った『逃げるは恥だが役に立つ』の放送が始まりました。


 第1話を見て、「不思議な偶然もあるものだな・・・」と驚いたのが、ドラマの中で、新垣結衣さん演じる「森山みくり」と星野源さん演じる「津崎平匡」が契約結婚して同居するマンションの、設定上の架空の住所(※どうやら横浜市にある実在の地名をランダムに組み合わせて創ったようです)が、自分の実家の住所とほぼほぼ同じだったことでした(※番地は違っていましたが、ドラマに登場した番地と現実の実家の番地との距離は、僅か20m程しかありません)。
 またドラマでは、「○○○一丁目」と縦に書かれた住所表示の青いプレートが撮影用小道具として電柱に付けられていましたが、それと同じもの(※本物)は実家の目の前の電柱にも付いています。


 第2話は、「津崎平匡」の職場の同僚が家に遊びに来るという話でした。
 星野源さん演じる「津崎平匡」が、同僚と駅前で待ち合わせるシーンを見て「どこか見覚えのある場所だな?」と思いハッと気付かされました。
 そこは、くも膜下出血で倒れ遷延性意識障害になってしまった母が、平成24(2012)年の夏から亡くなるまでの一年間、人生最期の時を過ごした療養型病院の最寄り駅、相鉄いずみ野線の「南万騎が原駅」でした。
 第1話での偶然もあったばかりなので、「これも不思議なご縁だな・・・」と自分は妙に感心してしまいました。


 そして第3話を見て、これらの一連のシンクロニシティは単なる偶然ではなく、きっと目に見えない世界のお導き、ご縁があるに違いない、と自分は確信するに至りました。


 第3話では、石田ゆり子さん演じる「土屋百合(森山みくりの伯母)」の運転する車で、皆で山梨県へ遊びに行くという話でした。
 そして、ドラマでも重要なシーンのロケ地として、勝沼町の古刹、大善寺が登場した時は、まさに驚愕の思いでした。
 『逃げ恥』ファンにとっては、国宝である大善寺薬師堂の中での「みくり」のセリフ「私は、平匡さんが一番好きですけど、しみじみと、しっくり、落ち着いて・・・」は、印象的な名シーンとして記憶に残っているのではないかと思います。


 実は、平成24(2012)年に母がくも膜下出血で倒れて後、たびたび病気平癒の願掛け(※星野源さんが母と同じ病で倒れられて後は、一緒に星野源さんの回復も祈願していました)に参拝しに行っていたのがこの大善寺でした。
 切っ掛けは、たまたま母が倒れる直前に、自分が大善寺にお参りしていた、ということでした。


 大善寺は奈良時代から続く由緒ある古刹で、ご本尊が国指定の重要文化財である秘仏の薬師三尊像(※薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)だったことからも、もしかしたら病気平癒の御利益もきっとあるのではないか?と、何かしら不思議なご縁も感じられて、当時は藁をもすがる思いで参拝していました。
 その後、結局は母が亡くなった直後にも、お世話になったご挨拶も兼ねて参拝しましたし、お墓への納骨直後のタイミングで、五年に一度の本尊の御開帳もあり、秘仏の薬師三尊像をありがたく拝ませて頂きました。


 因みに現在でも、毎年、大善寺に参拝するという習慣はずっと続いており、星野源さんと新垣結衣さんが当道場に来館された平成28(2016)年9月の、ちょうど一か月前にも参拝したばかりでしたし、五年に一度の本尊の御開帳を拝ませて頂くことも、その後もずっと欠かしていません。




 そんな訳で、図らずも自分にとっては、星野源さん、新垣結衣さん、そしてTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』は、生涯忘れることのできない、目に見えない世界のご縁で結ばれた(?)特別な存在、となってしまいました。

 この度、お二人がおめでたくご結婚されるというニュースを知り、後出しジャンケンのように聞こえるかも知れませんが、自分は、いつかこのような日が来る予感がずっとしていました。
 これも間違いなく目に見えない世界のご縁であり、運命であり、必然なんだろうなぁ・・・、と自分は確信しております。


 星野源さん、新垣結衣さん、これからもずっとお二人を応援しつつ、末永く、健康でお幸せに過ごされることを祈っております。
 またご縁がありましたら、是非、「最強パワースポット(?)」でもある合氣道練心館道場にいらして頂きたく、お待ちしております。
#ブログ #仏教 #合気道 #武道 #芸能

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恐怖を超えてゆけ♪

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 趣味である神社仏閣参拝後に不...  趣味である神社仏閣参拝後に不思議な雲が現れるのはいつものことですが、令和2(2020)年8月。千葉県君津市の三石山観音寺、加名盛観音堂、安房郡の保田神社、市原市の養老山立國寺(出世観音)に参拝した帰りには、空に翼を広げた巨大鳳凰が現れました。
 その直後に、かつての練心館道場の生徒さんで、鳥好きで有名なフリーアナウンサー、新井恵理那さんから素敵な残暑お見舞いの品を頂いたので、今思えば、この鳳凰はその予兆だったのかも(?)知れません。
恐怖を超えてゆけ♪
 




 皆様、明けましておめでとうございます。


 今年は残念ながら、合氣道練心館最大のイベントである「鏡開き・新年祝賀会」が、社会状況に鑑みて中止となってしまいました。
 鏡開きでは例年、館長年頭挨拶として「今年の練心館のテーマ」を発表するのが恒例です。

 今回は、生徒さんや保護者の方々を前にした口頭での大演説(?)は無しとして、先ずはこのブログにて新年のご挨拶と「今年の練心館のテーマ」を発表させて頂きたいと思います。


 令和3(2021)年の合氣道練心館道場のテーマは、「恐怖を超えてゆけ」。


 これで行くことに決めました。


 お気付きの方も多いでしょう。ハッキリ言って便乗させてもらいました。ですので、どうぞ星野源さんのヒット曲『恋』のメロディーに乗せて脳内再生して頂ければと思います。
 正月2日にTBSテレビで放送された「『逃げるは恥だが役に立つ』ガンバレ人類!新春スペシャル!!」をご覧になられた方も多いと思いますが、ご存知の通り当道場は、新垣結衣さん星野源さんご本人たちが「恋ダンス」を練習した、世界で唯一の武道道場ですので、これも「ご縁」と言うか「必然」ということでお許し頂ければと思います。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/286079/2016-12-20

 現在、世界は恐怖に包まれていると言えます。そして、この恐怖はいつ収束するのか、まだ先の見えない状況です。
 もちろん、こんな異常な世界がいつまでも続いて良いはずもなく、いずれ必ず光は見えて来ることでしょう。
 しかしこの、世界に蔓延する「恐怖」こそが、医療や保健・衛生の専門家が対峙する問題とは別に、合氣道家としての、自分が対峙すべき大切な問題なのではないかと考えるのです。




 合氣道の「合」は「愛」に通じ、合氣道とはまさに「愛の武道」なのだと言われます。
 開祖、植芝盛平先生は仰います。

「合気道の極意は、己れの邪気をはらい、己れを宇宙の動きと調和させ、己れを宇宙そのものと一致させることにある。
          (  中  略  )
 では、いかにしたら、己れの邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるであろうか。
 それには、まず宇宙の心を、己れの心とすることだ。宇宙の心とは何か? これは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』である。」
          (『合気神髄』P34)


 世界が恐怖に包まれている今、私たちが気を付けるべきこととは、むしろ、心を恐怖に乗っ取られ、心を恐怖に支配されないようにすることではないかと思います。

 人間は恐怖に支配された時、正しくものを見ることや冷静に物事を判断すること、延いては自分の頭で根本的に物事を考えるということが出来なくなり、思考停止、判断停止に陥りやすいと言われます。
 そしてそれ以上に危険なのは、人間は恐怖に支配された時、平時では考えられないような残忍さや冷酷さを発揮してしまいがちだということです。
 まさに「愛」を失ってしまうということです。


 悲しいかな人類は、歴史上、数多くの戦争、虐殺、粛清を繰り返してきました。
 特に世界の近現代史を俯瞰すると、まるで虐殺史の様相を呈している、というのはちょっと言い過ぎでしょうか・・・?。
 人類学者でカリフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授は、伝統的部族社会の頃と近現代社会を比べれば、虐殺によって殺された人数は圧倒的に近現代社会の方が多いが、総人口の内、虐殺によって殺された人数の割合を調査すれば、その割合は伝統的部族社会の方が逆に多いということが判り、人類社会は曲がりなりにもちゃんと進歩しているのだと主張されていました。
 これを聞いた時は「なるほど!」と頭では理解出来たものの、心の中ではモヤモヤが消えませんでした。

 戦争による大都市への無差別攻撃に始まり、スターリンによる大粛清、南京事件(※日本では見解が分かれる所ですが、元日本兵の証言全てが嘘だとも思えず、戦争という時代状況の中、規模の如何に拘わらず何らかの残虐行為はあったのだろうと考えます)、ホロコースト、原爆投下、文化大革命、ポル・ポトによる大虐殺、記憶に新しいものとしては1990年代中頃にルワンダ大虐殺というものもありました。
 それでも人類社会は進歩していると言えるのか?、未だにモヤモヤは消えない所です。

 なぜ、人間はこれ程にまで残虐で冷酷になってしまえるのか?

 自分は、この根本的原因こそ人間の心に巣食う「恐怖の心」だと思っています。

 そして、チンピラが喧嘩の強さに憧れるのも、海外で人々が護身のために銃を買い求めるのも、国家間の際限なき軍拡競争も、根本は皆同じ、全て人間の「恐怖の心」だと考えます。



 武術とは、そのルーツをたどれば戦争における殺人術でした。
 そこには敵を恐れる「恐怖心」は切っても切り離せないものがあります。しかし、合氣道開祖、植芝盛平先生は、厳しい修行の末に、この「恐怖の心」を真に克服する術を知ったのだと思います。それは自らが最強になること等では決してなく、「愛」を以て全てを包み込む以外にあり得ないということでした。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/326709/2018-06-14

 人間という存在は、予め危険を察知するために、意識を「恐怖」の対象へと強く向ける性質を、生存本能として持ち合わせています。
 現代社会では、この人間の本能を利用して、人々を恐怖で支配しコントロールしようとする「恐怖マーケティング」があらゆる分野で常套手段となっています。
 私たちは生活する上で、この手法に余りにも慣れ過ぎてしまっている嫌いがありますが、やはり恐怖に支配された人間は、特にそれが群集心理と結びついた場合など、時として普段では考えられないような残忍さや冷酷さを発揮してしまう、という事実を私たちは決して忘れてはいけないと思います。
 このまま行って近い将来、現実に戦争や虐殺・粛清が起こるとは、さすがに自分も思ってはいませんし、思いたくもないですが、普段は優しく思いやりに溢れていたような人が恐怖に囚われた結果、人が変わったように差別やいじめに加担してしまう、というのは現実にあるような気がしてとても心配です。




 ところで、話はガラッと変わりますが、こんな状況でも漫画・アニメ『鬼滅の刃』が大ブームになっていますね。
 練心館でも「子どもクラス」や若い生徒さんの間でファンが結構居り、合氣道界でも、武術描写の中に合氣道の極意に通じるものが多く描かれていると話題になっていて、自分もずっと気になっていました。
 今回、年末年始に録り溜めていたアニメの総集編を見て、『鬼滅の刃』に関して、個人的にとても評価すべき点がありましたので是非ともここで語らせて下さい(それ程詳しい訳でもないのにすみません)。

 アニメ『鬼滅の刃』は、子どもが見るには残酷な描写も多く、決して合氣道の心を余す所なく表現したアニメと言えるものではありません。
 しかし、「これは合氣道の説く『愛』にも通じるのではないか?」と個人的に強く心に残ったのは、主人公、竃門炭治郎(かまどたんじろう)が、鬼殺隊の任務として討伐する対象である「鬼」に対しても、常に憐みや慈悲の心を持ち続けているという点でした。
 その心は、鬼に家族を惨殺され、妹、禰豆子(ねずこ)だけが唯一生き残ったものの、彼女は鬼の返り血を浴び感染することで鬼に変貌してしまい、炭治郎は最愛の妹を人間に戻す手掛かりを得るために鬼殺隊に入ったものの、鬼である禰豆子は、すでに幾度か鬼殺隊に殺されそうになっている、という苦い経験から来るものでした。
 炭治郎は鬼を憎みながらも鬼を愛するという、アンビバレントな感情を抱いたまま熾烈な戦いへと進むのですが、この点こそが、この作品世界を大変味わい深いものにしているのではないかと個人的には思いました。

 もしも『鬼滅の刃』が、「兄であり鬼殺隊員である炭治郎が、同じ人間である最愛の妹、禰豆子を邪悪な鬼から守る」という話だったら、自分にとっては面白くも何ともなかったと思います。



 先程、合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉を引用しましたが、合氣道の説く「愛」とは、「宇宙の愛」であって「人間の愛」とは違います。
 この「宇宙の愛」とは如何なるものか、説明するのは非常に難しいのですが、近いものとしてはイエス・キリストの説く「神の愛」、若しくは仏教における「仏の慈悲」といった、極めて宗教的な情操に根差したものであると言えると思います。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/233975/2015-03-10

 イエス・キリストは言います。

「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。天の父はその日を悪しき者のうへにも、善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給ふなり。なんぢら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや。兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。然らば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ。」
          (マタイ5:44~48)

「なんぢらの仇を愛し汝らを憎む者を善くし、汝らを辱しむる者のために祈れ。(中略)なんぢら己を愛する者を愛せばとて、何の嘉すべき事あらん、罪人にても己を愛する者を愛するなり。汝等おのれに善をなす者に善を為すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても然するなり。(中略)至高者は恩を知らぬもの、悪しき者にも仁慈あるなり、汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。」
          (ルカ6:27~36)

 自分はひねくれ者(?)なので、『鬼滅の刃』を世間一般で言われるような「美しい兄妹愛、家族愛の物語」としての評価はしません。
 多少意地悪な言い方になってしまいますが、新約聖書の言葉にあるように、誰だって自分を愛してくれる者を愛するのは当たり前であって、自分の大切な家族を愛すること等どんな犯罪者でもやっていることです。
 『鬼滅の刃』の最大のポイントは、鬼殺隊員として鬼を討伐する任務を負った主人公、炭治郎の、最愛の妹、禰豆子が鬼である、という点に尽きると思います。
 この作品において、もしも禰豆子が普通の人間という設定だったら、炭治郎にとって鬼とは単なる恐怖と憎悪の対象に過ぎず、炭治郎はむしろ、鬼に対してどこまでも残忍で冷酷になれていただろうと思うのです。
 そして皮肉なことに、「禰豆子を守る」という強い気持、つまり妹を大切に思う兄妹愛、家族愛といった「人間の愛」が強ければ強い程、それを脅かす存在である鬼への恐怖と憎悪は際限なく増大してしまうはずです。




 話を元に戻しましょう。
 人間は恐怖に支配されてしまった時、普段では考えられないような残忍さや冷酷さをを発揮して、「愛」を失いがちだと言いました。
 もちろんこの「愛」とは決して「人間の愛」ではなく、むしろ「宇宙の愛」「神の愛」に近いものです。
 自分は「人間の愛」を決して否定する訳ではありません。この「人間の愛」は、人間であれば誰でも当たり前に持ち合わせているものです。
 しかし一方で、この「人間の愛」は歴史上、時として恐怖や憎悪を煽るために悪用されがちであるということも、私たちは心の片隅に置いておくべきではないかと思います。

 国家などの巨大な権力が人々を支配・コントロールして戦争に駆り出そうとする時、「愛する家族、友人、恋人の命を守れ!」と煽り立てることによって人々の恐怖や憎悪を煽り、戦意を高揚させて戦場に駆り立てていくというのは、今も昔も変わらぬ常套手段ではないでしょうか・・・。




 今年の練心館道場のテーマは「恐怖を超えてゆけ」。

 これはもちろん、恐怖を誤魔化して怖くない振りをしろとか、蛮勇を発揮して無茶をしろ、などという意味では決してありません。
 怖いものは怖いままで良いのです。恐怖は小さくまとめて常に心の片隅に置いておくことで、正しく怖がれば良いのです。
 しかし、心が恐怖に乗っ取られて恐怖に支配されてしまっては、私たちは正しいものの見方を失い、正しい判断力を失い、延いては自分の頭で根本的に物事を考えることを止め、思考停止、判断停止に陥ってしまいます。また、恐怖に支配されてしまった人間は、時として平時では考えられないような残忍さや冷酷さを発揮してしまうことがあり、まさに「愛(※『宇宙の愛』『神の愛』)」を失ってしまうのです。

 そんなことに陥らないためにも、私たちは今こそ、合氣道で培った「落ち着き」「前向きな心」「宇宙の愛」を活かすべき時です。


 まだ暫らくは、この辛い時代、異常な社会は続くかも知れませんが、本年も皆様からの温かなご理解、ご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
 みんなで「恐怖を超えて」行きましょう!その先に明るい未来があることを信じて・・・。
#アニメ #キリスト教 #ブログ #合気道 #武道 #芸能

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新井恵理那さん、ありがとう。

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新井恵理那さん、ありがとう。 新井恵理那さん、ありがとう。 新井恵理那さん、ありがとう。 新井恵理那さん、ありがとう。 新井恵理那さん、ありがとう。





 令和2(2020)年3月18日(水)。
 テレビ朝日「あいつ今何してる?」にて、フリーアナウンサーとして活躍する新井恵理那さんが通っていた合氣道道場として当道場が紹介されました。
 放送をご覧になった方々から大きな反響を頂きまして、誠にありがとうございました。



 あれから5カ月も経ってしまいましたが、せっかくなので、放送では触れられなかった裏話を書こうと思います。



 番組は、中学時代の新井恵理那さんが密かに憧れていた道場の年上のお兄さん「K君」を捜す、という内容でした。
 実は色々と事情があって、平成17(2005)年に自分とK君とは何となく気まずい別れ方をしたまま、ずっと音信不通になっていました。
 彼とは、かつて先代館長、藤野進先生の下で共に稽古に汗を流し、「子どもクラス」の夏合宿では自分とK君で藤野先生を補佐するのが毎年の恒例でした。
 藤野先生亡き後、先生と個人的に親しかった方からも、弟子の中でも毎年合宿の補佐をしていた自分とK君の二人に、先生は特に期待を懸けていたのだと聞かされていました。
 今回、番組の企画にかこつけて、自分は、K君との14年振りの再会に、今まで心の中にモヤモヤとずっと消えずに残っていた忸怩たる思いを、お陰様で少なからず晴らすことができました。


 新井恵理那さんにとっては、憧れのお兄さんを捜し出し再会させることに貢献した自分は、ある意味キューピッドなのかも知れませんが、自分にとっては新井恵理那さんこそが、気まずい別れ方をしたまま10数年間ずっと音信不通になっていた同門の友と再会させてくれた、素敵なキューピッドです。
 (※新井恵理那さんをビーナスではなくキューピッドに譬えてしまうこの贅沢、お許し下さい。)




 恵理那さんが受験勉強に専念するために道場を休会した平成16(2004)年の秋冬頃、先代館長、藤野進先生は著しく体調を崩され、年末に緊急入院、そして年明けの1月4日に呆気なく帰らぬ人となってしまいました。
 病床の藤野先生より、まるで映画やドラマのワンシーンのように、「もしもの時は君に後継者になって欲しい」と指名され、自分はその約束を果たし現在に至っています。


 しかし何処の世界でも、トップが亡くなると燻るのが後継者問題です。


 お恥ずかしい話ですが、正直、自分が2代目を継ぐ時もすんなりと満場一致でという訳には行きませんでした。
 以前のブログにも書きましたが、自分が先代館長の下で稽古した期間はたったの5年。それ以前は別の道場で別の先生の門下でした。

 参照 http://jp.bloguru.com/renshinkan/256471/2015-12-24

 今思えば、当時の練心館道場の一部の先輩達にとっては、他所の道場から来た年下の者が、たった5年間師事しただけで後継者に指名されるというのは、合氣道家としての実力云々とは別の、どうしても納得出来ない問題だったのだと思います。

 平安時代初期、無名の留学僧に過ぎなかった弘法大師空海が、遣唐使として渡った長安の青龍寺で、たった2年の修行で恵果和尚より密教の後継者に指名されたという逸話がありますが、空海はその後、即刻日本に帰国してつくづく正解だったと思います。
 そのままいつまでも長安に留まっていたらきっと面倒なことになっていただろうな、と烏滸がましくも自分の経験と照らし合わせてそう思います・・・。
 (※「何様のつもりだ!」と突っ込みをどうぞ。)



 当時、練心館道場は自分を後継者として支持してくれる齋藤派と、それは認めないという反齋藤派に分裂し、まだ学生だったK君もその板挟みの間で葛藤し、随分悩んだのではないかと思います。
 先代館長、藤野進先生は、自分に対しては「齋藤君をただの弟子とは思っていない、同じ道を極めんとする同志であり、寧ろライバルだと思っている」と言ってくれていました。
 一方で、小学生の頃からずっと道場に通い続けているK君のことは、お子さんのいらっしゃらない先生にとっては、まるで本当の息子のように特別に可愛がっているように見受けられました。
 同様に、K君にとっても藤野先生は単なる習い事の先生を超えた、決して替えの効かない特別な存在だったのだと思います。
 結局、自分に藤野進先生の代わりなど務まる筈もなく、K君はこの騒動の中、道場を離れて行ってしまいました。


 この頃は色々ありましたが、最終的な責任は全て館長たる自分にある訳で、お恥ずかしい話、全て自分の不徳の致す所です。




 今回、新井恵理那さんが中学時代に憧れた合氣道道場のお兄さんを捜索し再会するという番組企画において、道場のシーンのロケは令和元(2019)年の8月末でした。
 撮影中、14年振りにK君と楽しく話したり、合氣道の稽古も出来て、本当に感無量でした。
 そしてそれを誰よりも喜んでくれていたのは、天国の藤野進先生だったと思います。
 藤野進先生門下、道場の後継者となった自分、道場は離れてしまったけれど今はゲームプランナーとして好きなことを仕事にして頑張っているK君、そして、何よりも今回の再会の切っ掛けを作ってくれた、今やフリーアナウンサーとして大活躍する新井恵理那さん。
 人の縁というものは、途切れてしまっている様でも何処かで繋がっていて、時として運命は、その繋がりを再確認させてくれるような粋なことをするものです・・・。





 さて、当初、新井恵理那さんと自分は全く接点が無かったものと思っていましたが、それは自分がすっかり忘れていただけで、たった一度だけ、それも結構強烈な出会いがあったことを後に鮮烈に思い出しました。
 その切っ掛けは、昨年、ちょうど番組の撮影があった頃に出版された新井恵理那さんのフォトエッセイ集『八方美人(宝島社)』(※該当部分は第2章、P24~26「ミスチルが頭の中で鳴り響き……」)を読んだことでした。




 平成16(2004)年の秋冬頃、体調を崩されていた先代館長、藤野進先生に代わって稽古を担当していた最中、当時中学校3年生だった新井恵理那さんと弟さんがお父様に連れられてやって来られました。
 訊けば、恵理那さんは高校の推薦入試に失敗し酷く落ち込んでいる様子でした。
 嘘みたいな話に聞こえるとは思いますが、彼女を一目見た瞬間、全身にビビビッと電気が走ったような衝撃を受け、その時自分は何かしら使命を課されたような感覚がありました。
 自分は何者かに突き動かされるように「いつまでもクヨクヨしてたってしょうがないだろ!」の言葉を皮切りに、随分厳しい態度で叱咤激励しました。
 またその時は、持ち前のスピリチュアル的能力も不思議と全開になり、恵理那さんの将来について予言めいたことも言ったと思います。
 帰り際には、北野武監督「キッズ・リターン」の名台詞を引用して、「君の高校入試はこれからで、まだ何も始まっちゃいないよ!」といった言葉で送り出した筈です。


 当時の恵理那さんには、自分は相当嫌われてしまったと思いますが(恵理那さん、あの時は本当にごめんなさい・・・)、お父様は自分のこの厳しい叱咤激励を凄く感謝して下さり、その後、本人が頑張って一般入試で希望の高校に無事合格した時はもちろん、大学(因みに自分も青学出身でNHKの藤井彩子アナウンサーとは同期で同じゼミでした)に合格した時、セント・フォースさんに所属が決まった時も報告の電話を下さいました。
 しかし自分は、直後の高校合格時点まではまだその時のことを覚えていましたが、大学合格以降は、自分が恵理那さんにガミガミ叱咤激励したこと自体を完全に忘れてしまっていて、お父様をがっかりさせてしまいました。
 新井恵理那さんには是非、お父様に「以前は大変失礼致しました。今は全て思い出しました。」と宜しく伝えて頂きたいです・・・。




 今回の、テレビ朝日「あいつ今何してる?」や、新井恵理那さんのフォトエッセイ集『八方美人』を通して、会えなくなっていた人と再会できたり、忘れていた記憶が蘇ったり、これらも皆、天から頂いた不思議な「ご縁」だと思っております。
 頂いた素敵な「ご縁」を大切にし、これからもずっと道場挙げて新井恵理那さんを応援していくつもりです。
 恵理那さん、お体に氣を付けて、末永くご活躍することを期待しております。
#アナウンサー #ブログ #合気道 #武道 #芸能

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心で目的を達成するー令和2年鏡開き年頭挨拶ー

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中学生が揃って杖術の型を披露し... 中学生が揃って杖術の型を披露しました。 女子高校生の演武。袴姿が凛々し... 女子高校生の演武。袴姿が凛々しいですね。 70代でも現役で稽古を続けられ... 70代でも現役で稽古を続けられ、日々向上し続けることができる。これも合氣道の素晴らしさです。 今年の館長演武は「胸突き自由技... 今年の館長演武は「胸突き自由技」「正面打ち自由技」「杖取り」「太刀取り」をやりました。 道場でキッズダンスチームを編成... 道場でキッズダンスチームを編成して、Foorinの「パプリカ」を踊りました。練心館道場37年の歴史の中で初の試みです。




 お久し振りです。
 3月18日(水)放送のテレビ朝日『あいつ今何してる?』にて、フリーアナウンサーとして活躍する新井恵理那さんが通っていた合氣道道場として当道場が紹介されました。
 ご覧になって下さった方々から、たくさんの反響を頂き、誠にありがとうございました。
 この件に関しましては、また次回のブログにでも書こうかと思っております。



 思い起こせば、3か月前の1月19日(日)に道場の「鏡開き」のイベントが無事終わり、ホッとしたのも束の間、突然親族の不幸があり、そんな状況下で何とか確定申告を済ませ、今度は全国放送のテレビ番組で道場を紹介してもらうという栄誉にあずかり(私も出演致しました)、そうこうしているうちに世界は新型コロナウィルスの感染拡大で大変なことに・・・。
 全く、人生は流転し、世の中は激しく移り変わって行くものです・・・。



 ところで、例年通り今年も「鏡開き」の館長挨拶では、「練心館の今年のテーマ」を発表させて頂きました。
 あれから3か月経ってしまいましたが、例によって今回も予めの原稿などはありません。
 取り敢えずは、3か月前のことを色々と思い出しながらここに書き記して置こうと思います。



 皆様、明けましておめでとうございます。

 昨年の練心館道場のテーマは「型(形)を信頼する」でした。
 劇作家で批評家の福田恆存氏の論考などを引用して、「型(形)」があるからこそ人間は救われるのだ、といったお話をしたと思います。

(※参照)https://jp.bloguru.com/renshinkan/342729/2019-02-13

 それは確か、曹洞宗の大本山である總持寺の僧侶のお話から着想を得たものでした。



 早速ですが、今年の練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」で行こうと思います。



 今回のテーマに思い至った経緯は、漢方医として活躍され、一般向けの著書も多数書かれている桜井竜生(さくらいりゅうせい)さんのエッセイを読んだことが切っ掛けです。
 そのエッセイの内容は、桜井氏が、『日本の弓術』(ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルが日本滞在中に弓道の伝説的名人、阿波研造(あわけんぞう)に入門し、数多のカルチャーショックを乗り越えながら修業に没頭してゆく様が書かれた名著)を読んで衝撃を受け、ご自身の漢方医としての仕事にも照らし合わせて深く考えさせられた、というものでした。


 ドイツ人であるオイゲン・ヘリゲルは、当初、日本の弓術もヨーロッパのアーチェリーや射撃と同じ、所謂「スポーツ」であろうと考えていましたが、その予想は阿波先生によって真っ向から打ち砕かれます。

*「弓術はスポーツではない」

*「弓は筋肉を弛めて力を抜いて、心で引く」

*「無心になれ」

*「的を狙ってはいけない」

*「弓を引いたら矢がひとりでに離れるまで待つ」

 等々。

 的に矢を当てるためのテクニックやコツを習得するよりも、力を抜き、無心になり、自然に矢が的と一体となる感覚を掴め、という阿波先生の教えは、漢方医としても、無理に治すことだけに執着せず、無心を追求してただ診察治療することで患者さんが快方への良い流れに乗る、という、診療現場でもしばしば起こる現象に何か通じるものを感じる、とのことでした。

 そして、物事を成し遂げる時には、二種類の達成方法があるのではないか、と桜井氏は言われます。

 一つはスポーツや現代医学のように、徹底的にテクニックを磨きコツを掴み、鍛錬を通して達成するという方法であり、もう一つは、阿波先生が説かれたような、力を抜き、我を捨て去ることで、現状を、目標となる状態に自然と一体化させていく、という精神的な方法だと言います。
 いずれにせよ、後者のような「心の世界を求め、心で目的を達成する」という精神的な方法を我々日本人は過去に持っていたということを忘れてはいけない、と『日本の弓術』は思い出させてくれた、とのことでした。



 ここではいつも言っていることですが、合氣道はスポーツ化を免れた現代では稀有な武道です。

 完全にスポーツ化し、「いかに相手より先に多くのポイントを取るか」「いかに相手をK.O.するか」の観点ならば、科学的かつ合理的にフィジカルを鍛錬し、徹底的にテクニックを追求する方が確かな結果を得られることは確実でしょう。
 それらはオリンピックや国際大会で活躍するアスリートの姿を見れば自明のことです。
 しかし、これもいつも言うことですが、そうなってしまった時点で、我々の世界では、それらはやはり厳密には「武道」と呼ぶに相応しくないのではないか?というのが自分の本音です。



 先程いくつか簡単にまとめた、弓聖、阿波研造先生が『日本の弓術』の中で説かれている教えは、合氣道風にアレンジすれば、そのまま合氣道にもぴったり当てはまります。

*「合氣道はスポーツではない」
 オイゲン・ヘリゲル風(柴田治三郎訳)に言うのならば、合氣の「術」とは、主として肉体的な修練によって誰でも多少は会得することのできるスポーツの能力、すなわち「相手を倒す」がその標準と考えられるような能力、ではなく、日本弓術と同様に、それとは別の精神的な鍛練に起源が求められるものだ、と言えます。

*「合氣道の技は筋肉を弛め力を抜いて、心を積極的に駆使することでより理想的に成立する」
 リラックスして心と身体を完全に一体化させた「心身統一体」になることで、身体の重心や臍下丹田(腹圧)の力といった、むしろ強大な力が自在に扱えるようになるものです。

*「我を捨て去り、いかに無心になれるかどうかも技の完成度を大きく左右する」
 心の中での「我」、すなわち拘りや思い込みが強過ぎると、それはすぐさま身体の力みや強張りに直結します。それでは「心身統一体」は成立しません。

*「相手に技を掛けてやろう、倒してやろう、と狙ってはいけない」
 これらがまさに克服すべき「我」そのものであり、この「我」は、事に臨んでの臨機応変が求められる武道では、却って心身の自由を制限しパフォーマンスを下げてしまう要因となります。

*「相手の意思を尊重してやれば相手を正しく導くことができ、結果相手は喜んで倒れる」
 相手の攻撃の軌道は、相手の意思そのものの方向性であり、相手の氣の流れそのものです。それらを邪魔することなく尊重してやれば相手を正しく導くことができ、結果として相手は喜んで倒れてくれます。



 科学万能の時代とも言える昨今では、「心の世界を求め、心で目的を達成する」ような方法は、非効率的で費用対効果の悪い、時代遅れのものだと言われてしまうかもしれません。
 明治の近代化・西洋化以降、日本人は具体的に可視化されたテクニック(技術)や数値化して比較考量できる成果を追い求め、それなりに大きな成果を出してきたという歴史があります。
 最近ではそこに「情報」という要素も追加され、情報収集の能力こそが物事の結果を左右するとまで喧伝されるようになってきました。

 しかし、今の時代に、逆に「心の世界を求め、心で目的を達成する」方法だからこそ得られる、大切なものもあるのではないかと思うのです。



 合氣道家としても名高い哲学者・思想家の内田樹先生は、我々が真に「ものを学ぶ」とは、自身の「価値観そのものが変容し進化する」ことだと以前から頻りに説かれています。
 それは譬えるならば、「便利で有用そうなアプリを手っ取り早く自身にダウンロードする」という作業では決してなく、「自身を根本から突き動かしている基本OS(Operating System)そのものを書き換える」ことだと言えます。

(※参照)https://jp.bloguru.com/renshinkan/278405/2016-10-05


 目に見える上達のスピードは確かに遅いのかもしれませんが、「心の世界を求め、心で目的を達成する」方法で何らかの技芸を身に付けた者は、稽古・修行を通して、「価値観そのものが変容し進化」している、ということが言えるのだと思います。
 そしてそれこそが、昔から武道や芸事などで重視されてきた、稽古・修行を通して技だけではなく、心・魂を磨き、人間を磨くということの真相なのではないでしょうか。


 「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法は、確かに明確な具体性に欠けた、曖昧で、雲を掴むような話に聞こえるかもしれません。
 しかし、画一的な近代学校教育や西洋式軍隊、近代スポーツなどが導入される前の江戸時代以前の日本では、意外と誰もが普通にやっていたことなのではないか?とも思うのです。
 そして本来、そういったやり方こそが、あるべき日本の伝統に則った武道や芸事の稽古・修行のあり方なのではないかと思います。
 これもいつも言うことかもしれませんが、「稽古」とは、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という意味ですから・・・。


 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」。


 もちろん、そればかりでは習う側の生徒さん達は大変でしょうから、要所要所ポイントを押さえて、きちんとテクニックやコツもお伝えします。
 しかし一方で、「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法で身に付けた技芸は、血肉化し、魂にまでも深く浸透すると言えます。
 そして、それらは年齢をいくら重ねても決して衰えることはない筈です。
 心も、魂も、そして生き様までもが合氣道家になれてこそ「~道」と呼ぶに相応しいものであり、そういったものこそがテクニック(技術)の巧拙を超えた「本物」であると言えるのだと思います。


 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」。

 本年も皆様からの温かなご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
 ご清聴ありがとうございました。
#ブログ #合気道 #弓道 #武術 #武道

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実戦は当身が七分(ななぶ)

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        (※写真①)「...         (※写真①)「密着した状態(0距離)からの打撃」
 ミット代わりのタウンページにピタリと拳を当てた状態から、瞬間的に拳の先の一点に「氣」と「重心」を集中させます。
 昔、ブルース・リーが公開し世界に衝撃を与えた中国武術の技法「寸勁(ワンインチパンチ)」ならぬ「ゼロインチパンチ」ですね。
 生命に係わる危険な技法なので、練習では絶対に身体に直接当てないことです。
        (※写真②)「...         (※写真②)「松濤會空手(江上茂先生)の突き」
 先代館長、藤野進先生直伝の松濤會空手独特の「スー突き」です。
 伝説の空手家、江上茂先生により打撃力よりも貫通力を目指して考案されました。
 全身をリラックスさせ、拳の先端から伸びやかに「すぅー」っと突きます。
 本来は「中高一本拳」で行うものですが、ここでは「平拳」になっていることはご容赦下さい。
        (※写真③)「...         (※写真③)「システマのストライクに似た打撃」
 松濤會空手の「スー突き」をコンパクトにアレンジすると、システマに似た打撃になります。
 「スー突き」同様に全身の脱力が大事ですが、特に、肘、肩のリラックスが要となります。
 システマのストライクは、破壊を否定した「非破壊の打撃術」なのだそうです。合氣道の崇高な理念にも通じる、ある意味、究極の打撃、当身なのではないかと思います。
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 お久し振りです。

 いきなり「らしくない」タイトルで始まりました。なので皆様には先に謝っておきます。

 日頃、「戦争やテロの惨禍を知らず、平和な日本で暮らしてきた者が、気軽に『実戦』などという言葉を使うべきではない」と主張してきた自分ですが、
 https://jp.bloguru.com/renshinkan/242691/2015-06-23
今回のブログのタイトルを決める上で、やはり一番キャッチーでインパクトのあるフレーズが、もともとは合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉であり、養神館合気道創始者、塩田剛三先生も著書の中で力説されていた「実戦における合気道は、当身が七分(ななぶ)」というものでした。

 なので、今回ばかりは柄にもないタイトルで恐縮ですが、ご勘弁頂きたいと存じます。



 さて、巷でよく言われる「合氣道の技は実戦では使えない」という言葉、全くその通りであると同時に全く見当違いな意見でもあります。

 空手の型や中国武術の套路(※とうろ、型の意)は基本、独りでやるものですが、日本武道の伝統では「受け(打太刀)」と「捕り(仕太刀)」が二者一対でやるため、どうしても「形」そのものを実戦での敵の制圧方法だと勘違いされがちなのでしょう。

 古流剣術や古流柔術でも、現代武道の合氣道でも、「形」は、その流儀の本質的な身体や心の使い方を学び、それらを繰り返すことでその理合、術理を心身に染み付かせていくための「教材」に過ぎません。
 まさに「型(形)は実戦の雛型ではない」ということですね。
 https://jp.bloguru.com/renshinkan/306291/2017-09-13

 柔道家やレスラーにがっちり組み付かれた状態を呼吸投げで投げようとしたり、ボクサーのパンチを取って小手返しを決めようなどというのは、ナンセンス以外の何物でもありません。
 いざ命の懸かった実戦になれば、感覚・感性を研ぎ澄まし、身体能力や周囲の環境をフル動員させて、その瞬間瞬間の閃きで動く以外に方法はありません。

 結果として、開祖や塩田剛三先生の仰る通り、「実戦における合気道は、当身が七分」ということになるのだと思います。



「死ぬか生きるかというような状況に身をさらした場合や、多勢を相手にした場合などは、一瞬の勝負になりますので、当身や瞬間の投げじゃないと身を守り切れません。逆に言えば合気道の本質は、そういうギリギリの闘いにおいて発揮されると言ってもいいでしょう。
 さて、当身といっても、合気道の場合は拳や蹴りなどにこだわりません。体中いたるところが当身の武器になります。(中略)触れたところがそのまま当身となるわけです。
 これは、相手の攻撃をよけてから反撃するのではなく、逆にその攻撃の中に入っていくことによって可能となる技です。といっても、ただやみくもに体を相手にぶつければいいのではなく、そこに体全体から発する力を集中させなければなりません。」
 (塩田剛三『合気道 修行』竹内書店新社 P33~34 より)



 合氣道の稽古では、「受け」が「取ろうとする」「打とうとする」「突こうとする」瞬間に「投げ」は相手と氣を結び、心を合わせ身体を合わせるという高度な技法が要求されます。

 初心者の方にはまだその実感が得られず、一体何のことやら?と思われるかも知れませんが、これを「空間の合氣」と呼ぶ方も居られるようで、それぞれレベルの差はあれど、合氣道の稽古では誰もが意識するしないに関わらず、自然にやっていることです。

 その、相手と氣を結び心を合わせる瞬間は、決して「争い」ではなく、目には見えない氣を媒介とした互いの心身の「調和」が生まれます。
 そして実は、我々がいつも稽古でやっているこの相手と氣を結び、心を合わせる瞬間こそが、実戦では捨身で入身して当身を入れる瞬間です。

 合気会師範として長年活躍され、柔道、空手道、居合道、杖道、などの他武道の経験も豊富だった西尾昭二先生は、「当身の呼吸」という言葉を使ってこれを説明されています。



「我々の体技の投げ、押さえに必要な、つくり、崩しは、ほとんど当身なんです。私の場合、当身の手法と呼吸を、つくりや崩しに使っています。
 私が入った頃は合気道には投げ技なんてほとんどなかったんです。入身投げ、四方投げ、小手返ししかないんです。
 ( 中 略 )
 投げというのは、つくり、崩し、掛け、が三位一体になっているもの。(中略)それを私の場合は、当身の呼吸でもって、つくり、崩しをやっているのです。
 よく相手を倒して押さえてから、『やぁーっ』なんてやっていますが、あれは合気道ではありません。本来はやる前に、一緒に当身が入るべきなのです。
 それを我々はやるわけにはいかないから、その呼吸で相手を崩して、投げ、押さえの形で、合気道らしい表現でやるんですね。実際は当身なのです。」
 (『決定版 開祖を語る直弟子たち 植芝盛平と合気道Ⅱ』合気ニュース P144~146 より)



 また、塩田剛三先生はもっと平易な「タイミング」という言葉を使ってこの「当身の呼吸」を説明されています。



「何が大切かというと、タイミングです。
 ボクシングなんかを見ていても、何げなく出したパンチで相手がKOされてしまうことがよくあります。これなどは、相手の動きの変化と、こちらの出したパンチが、ちょうどいいタイミングでぶつかった例です。
 相手の動きの一瞬の状態を察知して、ここぞというときに突きを出すことが大切なのです。
 それは相手の出鼻を叩く場合もありますし、逆に、相手が空振りして体が伸び切ったところを叩く場合もあります。
 面白いもので、タイミングさえちゃんと合えば、こちらはさほど力を使わずとも突きが効くのです。拳が痛いだのなんだのということはありませんし、衝撃が反発力となって自分に返ってくるようなこともありません。
 ちょうど野球のバッティングで、ジャストミートしたときにほとんどボールの勢いを感じないのと同じです。」
 (塩田剛三『合気道 修行』竹内書店新社 P42~43 より)



「相手の出鼻を叩く」というのは剣術で言うところの「先の先(せんのん)」であり、「相手が空振りして体が伸び切ったところを叩く」というのは「後の先(ごのせん)」ですね。

 因みに、自分も稽古中に技の説明をする時はこの「先の先」「対の先(ついのせん)」「後の先」という剣術用語を度々使用してしまうことがありますが、開祖、植芝盛平先生はこれらの用語があまりお好きでなかったと聞きます。
 確かに、これらの用語は合氣道の理想である「宇宙と完全に一体化した敵味方もない絶対的境地」から見れば、空間的な分断と時間的な対立を感じさせます。
 結局は、相対的な勝ち負けの域を出ない次元の低いものと言わざるを得ないのかも知れません・・・。



 話を元に戻します。

 当身をするタイミング(呼吸)は、確かに剣術における「先(せん)の理」であり、我々がいつも稽古でやっている「相手と氣を結び、心、身体を一致させる」瞬間ですが、それと並行して、ボクシングの「パンチ」や空手の「突き」とは根本的に性質の違う、合氣道(※柔術)の「当身」の技法を我々はマスターしなければなりません。

 合氣道(※柔術)における「当身」とは、一言でいえば「重心移動」そして延いては「重心操作」です。

 そのために何よりも一番大切な事は「リラックス・脱力」と「一点への集中」です。
 更に付け加えるならば、「股関節、膝関節、肩甲骨の柔らかさと動きの滑らかさ」「体軸の確立」「呼吸法と腹圧の感覚の養成」「心身統一体」等々、書き連ねていくときりがないのでやめて置きますが、この感覚をどうやって身に付けていくかといえば、要は、普段やっているいつもの合氣道の稽古を、いかに緻密に丁寧に行うかということです。

 塩田剛三先生も次のように仰っています。



「首を傾げる人もいるでしょう。突きで勝負を決めるなら、よほどその一発に威力が無ければダメだ。しかし、合気道の道場で空手やボクシングのようにパンチ力を鍛える稽古をしているなんて、聞いたことがないぞ、と。
 確かにそのとおりです。合気道では普通、巻藁を叩いたり、レンガを割ったりというようなことはやらないわけですから。
 ところが、じつは突きの稽古をちゃんとやっているのです。何も特別なことではありません。道場生の皆さんがいつも繰り返している基本動作や基本技、あれがそのまま突きの稽古になっているのです。
 突きが威力を発揮するために必要なことといったら何でしょうか。それは、右足なら右足から踏みこんだときに、体全体の重心がそれに乗るかどうかということです。
 乗ったら効くのです。
 ( 中 略 )
 踏みこんだときに膝がなめらかに前にせり出し、重心をそのまま前へ伝えることができるかどうかなのです。これができると、体全体の力が拳に乗って、大きな威力を生み出すことができます。これが集中力です。そのとき当然、前の膝のせり出しと腰の前進にともなって、後足が引きつけられる形となります。
(中略)合気道の最も基本的な体の前進動作は、そのまま突きの動きとして応用できるというわけです。
 ( 中 略 )
 要は、重心の移動、それを前に伝えること、そして拳にその力を乗せること、この三つをすべて一致させた動作ができればいいのです。」
 (塩田剛三『合気道 修行』竹内書店新社 P35~39 )



 リラックスと心身統一を忘れず、感覚を研ぎ澄ませて丁寧に基本技や基本動作を繰り返し稽古していると、自ずと「重心移動」の感覚が分かってきます。それが更に進んでいくと、自身の体内で自在に「重心操作」が行えるようになってきます。

 そしてこの修練には中国武術、特に太極拳、形意拳、八卦掌(拳)などの内家拳の技法が非常に参考になります。

 中国武術では「重心移動(操作)」と「氣の集中」で生み出す力を「勁力(けいりょく)」として、「沈墜勁(ちんついけい)」「撞勁(とうけい)」「靠勁(こうけい)」「纏糸勁(てんしけい)」「十字勁(じゅうじけい)」等々、様々に分類され綿密に体系付けられています。これらを参考にすると体得するための大きなヒントとなるかも知れません。



(※写真①)をご覧下さい。

 胸に当てたミット代わりのタウンページに拳をぴったり当てた状態で脱力します。瞬間的な重心操作で拳の先端に重心を集中させると重い衝撃波が相手に伝わります。
 ただ、ここで重要なことは、この練習をする場合は安全を考慮して、絶対に直接人体には当てず、必ずミットや座布団、分厚い辞書や電話帳などを間に入れること。これが鉄則です。

 実はこの打撃法は、昔の武術における、一撃で相手の内臓を破壊する暗殺術でした。

 約20年前、自分がまだ高校の教員だった頃、当時世間では格闘技が大ブームでした。そんな男子生徒の中に、是非ともこの「勁力」を体験したいという者がいたので、胸に分厚い教科書や資料集などを数冊当てさせ、この打撃をやったことがありました。
 その生徒は口から霧のようなものを吹きながら、教壇の前から教室の後ろのロッカーまで吹っ飛び、ロッカーに背中を強打してそのまま尻もちを着いて倒れてしまいました。
 幸い、何とか大事には至らないで済んだのですが、あの時は、可愛い生徒を自らの手で殺してしまったのではないかと心底焦りました。この一件以来、自分はもう大幅に手加減した打ち方でしかこの打撃はやったことがありません・・・。

 しかしその後、更に研究を進めて判ったことがありました。

 派手に後ろに吹っ飛ばす打ち方は、ダメージも体内を通り抜け後ろに突き抜けていくむしろ安全なやり方で、「勁力」が体内に留まるような打ち方こそが、ダメージも体内に残留させ相手を殺傷してしまう本当に危険な打ち方だということでした。
 そして、重心操作さえできれば身体のどの部位でもこの打撃はできますが、中国の伝説的武術家、李書文の「二の打ち要らず」の逸話通り、有名な八極拳の「頂肘(ちょうちゅう)」が中国武術の中でも最強の威力だと言われるように、「肘」での打撃が一番威力があるということでした。



 続いて(※写真②)をご覧下さい。

 打撃を受けるモデル(実験台?)になって下さったのは、武道・格闘技好きで自身も武道家でいらっしゃる某情報誌編集者のKさんです。

 Kさんの個人ブログでは「合気道で吹っ飛ばされた!」とありますが、実は正直に白状すると、(※写真②)のこの突きは合氣道の当身ではなく、練心館先代館長、藤野進先生直伝の、日本空手道松濤會、江上茂先生が考案し伝授された、全身をリラックスさせて先端から伸びやかに「すぅー」っと突く、所謂「スー突き」というやつです。
 https://lineblog.me/youngdellneng/archives/1549861.html

 先代館長の藤野進先生は、合氣道に転向する以前、この江上茂先生門下で松濤會空手を最高段位まで修行されていました。
 因みに、新体道・剣武天真流創始者の青木宏之先生は兄弟子になります。

 江上茂先生は、沖縄から本土に初めて空手を伝えた松濤館流空手創始者、船越義珍先生の高弟でしたが、自身の空手修行に限界を感じ、その時運命的に出会った「親英体道」の井上鑑昭(※いのうえのりあき、植芝盛平の甥で元々は合氣道の指導者だった)先生に師事し、柔らかく伸びやかな、全く新しい異次元の空手を創始されました。

 この松濤會空手独特の「スー突き」ですが、「鍛え上げられた空手家のボディには空手の突きが一番効かなかった」という衝撃の事実から研究を重ね、鋼のようなボディにも確実に効かせるため、「衝撃力」ではなく「貫通力」を求めて創始されたものだそうです。
 やはり、人間の身体は瓦やレンガとは違うということでしょう。



 更に(※写真③)をご覧下さい。

 ここ数年の自分の主要な研究テーマだったのが、臍下丹田の力や「勁力」のような破壊的な力ではなく、合氣道で高度な「氣結び」の技を行う時のような、体軸も丹田も消し去って相手と共に宇宙そのものに溶け込むような、そんな高次元の合氣の当身はできないものか、というものでした。

 そんな自分にヒントをもたらしてくれたのが、ロシア武術「システマ」独特の打撃である「ストライク」でした。

 そして、全身をリラックスさせて先端から伸びやかに突く松濤會空手の「スー突き」を、動きをコンパクトにして、自然に立った状態から肩、肘をリラックスして先端から伸びやかに出すと、システマの「ストライク」のようなものになることを発見しました。

 システマの「ストライク」の理念は、打撃技でありながら「破壊の否定」であり、まさに「非破壊の打撃術」なのだそうです。

 これはある意味、合氣道の目指す理想である、愛と調和、そして平和への道にも通じるもので、これこそが究極の打撃、究極の当身だと言えるのかも知れません。

 システマは、もともとは旧ソ連の特殊部隊兵士のために開発されたものだそうですが、なぜか合氣道にも通じる高度な精神性を持ち合わせています。
 合氣道も、戦時中は旧日本軍で採用されていましたが、戦後、愛と調和、平和への道として新たにスタートしたという点では、システマと何か共通するものがあるのかも知れません。

 今後、我々合氣道家が「システマ」から学ぶべきことは多そうです・・・。
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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合氣道と心理療法―合氣道セラピーの可能性―

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合氣道と心理療法―合氣道セラピ...



 練心館で十数年合氣道を稽古されている、臨床心理士で公認心理師の田多井正彦さんが、横浜市青葉区の東急田園都市線「たまプラーザ」駅近くに心理相談室を開業されました。


 思い起こせば十数年前、この方は入会前の一カ月間、毎週曜日を替えて見学・体験に来られ(その間、道場の雰囲気はどうか、先生の実力はどうか、と色々吟味していたそうです。全く失礼な奴です。〈笑〉)、翌月から正式に入門されたという慎重な方でした。

 その後はコツコツと熱心に稽古を続けられ、途中、仕事の都合で引っ越されていた時も、わざわざ遠くから休まずに通ってくれていました(当初は引っ越し先の某有名合気道道場に移られましたが〔その時は私も快く送り出しました〕、やはり練心館の方が良いと戻って来てくれました)。

 田多井さんは大学で心理学を学び、卒業後は大手進学塾に六年勤務しましたが、その間に色々と思う所があり、人間のこころの悩みや苦しみ等の、諸問題の解決を手助けする「心理カウンセラー」になろうと決意されたのだそうです。
 入門当時はまだ臨床心理学を研究する大学院生でした。その後、スクールカウンセラーや精神科・心療内科クリニックと連携した心理相談室等に勤務し、同時に臨床心理学の学会でも精力的に活動されています。



 この、田多井正彦さんと合氣道との出会いも、ある意味運命的だったのだと思います。
 当初から合氣道に関するある程度の知識や情報は持っておられたのかも知れませんが、稽古を始められてからは、毎回、合氣道とカウンセリングとの親和性や、ユング派心理学との共通点の発見の連続だったようで、いつしか、心理療法に合氣道を応用した「合氣道セラピー」を開発することを志すようになられたそうです。



 合氣道に限らず、あらゆる芸事や修行の「道」を志し、追究していく中で、誰もが最終的に行き着くテーマは「いかに人を救うか」であると自分は最近つくづく思います。
 しかしこれは、「慰めを与えてやる」とか「欲求を満たしてやる」「居場所を与えてやる」等々といった安易なものでは決してなく、人間の「魂」の根本からの変革を要求するような、ある種、宗教的な悟りの境地にも通じるような、もっと厳しいものであると言えます。

 過去練心館にも、合氣道に「こころの救い」を求めて入会されるような方が何人か居られましたが、正直、そういった方々の期待に自分は十分応えてあげられていたか、と問われれば、内心忸怩たるものがあります。
 合氣道は突き詰めれば「人を救う道」である、ということには自分は揺るぎない信念があります。しかし、実際に「救い」を求めてすがる人々に対し、自分は十分に応えてあげられているのだろうか、と随分悩みました。
 しかし、ある時ふと、問題の構図は極めてシンプルなものではないか、と気付かされました。

 合氣道家を医者に譬えるならば、医者の仕事とは、基本、病気や怪我で苦しむ人々を治療し救ってやることかも知れませんが、一方で、大学の医学部などで行われているのは、医学の発展に貢献し、立派な後進の医者を育てるという大切な任務です。
 合氣道の道場も、「救いを求めてすがる人々に救いを与える場所」というよりは、むしろ「人を救える力を持った人間を育成し、その能力を磨き上げる場所」といった傾向の方が強いのだと思います。
 病気や怪我で苦しんでいる人が、治療を求めて大学の医学部に入学してもそれはお門違いというものでしょう。

 そんな中、田多井さんはいわゆる「医学部」ではなく「診療所」としての合氣道の可能性を広げようと実践されている訳ですから、自分が練心館で上手くやれなかったことをやろうとしてくれている、という点で本当に頼もしい限りです。
 少し早過ぎるかも知れませんが、「弟子が師匠を超える」というのはきっとこういうことなのではないか?・・・とも考えてしまいます。



 武道の世界に限らず、あらゆる芸事などの徒弟制の世界で、師匠と全く同じことをしている限りは弟子は絶対に師匠を超えられません。
 「A」先生の真似をしている限り、その弟子はどんなに頑張っても「A´」、つまり「A先生の劣化コピー」にしかなれないのです。
 武術・武道の世界はもちろん、芸人の世界でも学問の世界でも、師匠を超えたと評されるような人たちは、師匠とは全く違う芸風だったり、師匠とは全く違う研究スタイルだったりするものです。
 師弟の間で受け継がなくてはならないのは揺るぐことのないその道の「心・本質」であり、それをどう表現するかは各人の個性に依らなければならないということなのでしょう。
 そういった意味でも、田多井さんは正しく理想的なあるべき「弟子」の姿を体現してくれているのかも知れません(ちょっと褒め過ぎですね・・・)。



 そんな訳で、改めて、臨床心理士・公認心理師の田多井正彦さんが開業された心理相談室をご紹介します。

   しらかば心理相談室(東急田園都市線「たまプラーザ」駅北口 徒歩3分)
   〒225-0002
   神奈川県横浜市青葉区美しが丘1-5-3 美しが丘ビル303
   TEL/FAX 045-482-6499
   E-mail shirakaba-counseling@dream.jp
   Website https://shirakaba-counseling.com



 因みに、合氣道練心館館長師範である私が、自分なりに「救いを求めてすがる人々」に出来ることがあるとすれば、それは「氣」のエネルギーを使ったヒーリングです。
 お陰様で、練心館の生徒さん達からはかなりの好評を頂いております。
 「気療」の神沢瑞至(かんざわただし)先生という、海外のドキュメンタリー専門放送「ヒストリーチャンネル」で特集が組まれる程の、世界的に有名なヒーラーの先生がいらっしゃいますが、実は、先代館長の最期を看取って頂いてからのご縁があり、自分も色々と教えて頂いております。
 練心館でのヒーリングをご希望の方がおられましたら、お気軽に道場にお問い合わせ下さい。お待ちして居ります。
#カウンセリング #セラピー #ヒーリング #合気道 #心理療法 #武道

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型(形)を信頼する―合氣道はなぜ人を救うのか―

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子どもたちが6人揃って杖術の型... 子どもたちが6人揃って杖術の型を披露しました。 中学生も大人に交じって頑張って... 中学生も大人に交じって頑張っています。 夫婦円満の秘訣は合氣道。息もぴ... 夫婦円満の秘訣は合氣道。息もぴったりです。 70代でも現役で日々向上し続け... 70代でも現役で日々向上し続けられる。これも合氣道の素晴らしさです。 今年の館長演武は、後ろ手首取り... 今年の館長演武は、後ろ手首取り、後ろ両肩取り、をやりました。





 大変遅くなってしまいましたが、平成31年「鏡開き」での年頭挨拶を記して置こうと思います。

 例年通り、今年の「練心館のテーマ」を発表させて頂きました。
 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「型(形)を信頼する」です。
 これもまた例年通りですが、あらかじめ原稿などは特に用意せず、頭の中にある内容を、その場の勢いだけでお話したので、当日の話の内容とは一字一句同じではありません。
 以下、あれこれと思い出しながら書き記していこうと思います。




 皆様、明けましておめでとうございます。
 本日はこうして大勢の方々にお集まり頂き、心より感謝申し上げます。

 さて、毎年、鏡開きの年頭挨拶では、「練心館の今年のテーマ」を発表しております。
 昨年は「人類の進化」でした。そして一昨年は確か「世界平和」でしたね。

 今、改めて思い返すと、住宅街の片隅にある小さな町道場が、人類がどうとか、世界がどうとか、何たる誇大妄想を・・・、と失笑を禁じ得ませんが、まあ、この合氣道という道を通して、本当にごくわずかな微力でも「世界平和」や「人類の進化」に貢献できるよう、自分なりに頑張ってきたつもりです。

 今年はもう「世界」とか「人類」といった壮大なテーマは掲げず、もっと地に足着いた具体的なテーマにします。
 とは言っても、やっていることが「己を宇宙と一体化させる修行の道(氣に合するの道)」である「合氣道」ですから、その意味する所はどうしても「世界の生成発展」とか「宇宙の真理」とかになってしまうのは避けられません・・・。




 話を本題に戻しますが、ズバリ、今年の合氣道練心館道場のテーマは、「型(形)を信頼する」でいこうと思います。

 実は、今回のこのテーマを思い付いた切っ掛けは、昨年秋に放送していたあるテレビ番組でした。

 そこでは、横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山、總持寺での禅の修行が紹介されていました。
 そして修行僧の指導役である単頭(※たんとう)を務められる、柴田康裕(しばたこうゆう)さんという方がお話されていた内容に深い感銘を受けました。


 柴田康裕さん曰く、
「今、『型』が無いわけではないが崩れている時代です。それでいて自由だとか個性だとか、あるいは創造なんて言います。でも元々の『型』が崩れているから不安定なんです。だから皆、不安なんですよ。でも、ここには釈迦より2500年続いてきた信頼できる『型』がある。そこが何か安心するのではないでしょうか・・・。」




 合氣道はスポーツ競技化を免れた数少ない現代武道です。
 私たち合氣道家は、ごく一部の例外を除いて、乱取り稽古や試合はしません。
 ひたすら繰り返すのは「型(形)稽古」です。
 それも、独りで行う「空手の型」や「中国武術の套路」と違い、「打太刀」と「仕太刀」が二者一対となって行う、日本伝統の「型(形)稽古」です。

 手前味噌な話で恐縮ですが、ここ練心館道場にも、日本の侍が数百年守り通してきた伝統に基づいた、信頼できる「型(形)」がある、と言えるのではないかと思います。
 そして、合氣道の「型(形)稽古」は、力まず、ぶつからず、争わず、相手と調和し、相手を正しく導き、延いては宇宙そのものと調和する心で行うことが肝要だと言われます。

 この日本剣術由来の「二者一対となって型(形)を成す」という「型(形)稽古」の方法は、ある意味、宇宙の真理の体現でもあると言えるのです。




 私たちが暮らすこの宇宙には陰陽(マイナスとプラス)異なるエネルギーが存在します。
 例えば、男と女、天と地、太陽と月、昼と夜、夏と冬、生と死、動と静、N極とS極、陽子と電子、遠心力と求心力、斥力と引力、等々、言い出したら切りがありません。

 合氣道開祖、植芝盛平先生の説かれた古神道由来の教えの中に「一霊四魂三元八力(いちれいしこんさんげんはちりき)」というものがあります。
 「一霊」とは「直霊(なおひ)」、「四魂」とは「荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)」、「三元」とは「剛、柔、流」、そして「八力」とは「解と凝、動と静、引と弛、合と分」ですが、この「八力」こそが宇宙に存在する陰陽異なるエネルギーそのものだと言えます。

 そしてこの、陰陽異なるエネルギーが存在するおかげで、世界に「エネルギーの循環」が発生します。
 この陰陽異なるエネルギーが織りなす「エネルギーの循環」こそが、実はこの世界の生成発展の原動力になっているのです。
 難しいことを説明しなくても、「男(オス)と女(メス)が織りなす様々なドラマ」=「エネルギーの循環」こそが、全ての生物の繁栄の基本だと言えば簡単ですね・・・。

 そしてこの世界の生成発展の原動力である「エネルギーの循環」が、つつがなく、滞りなく、行われるためには、まずは陰陽異なるエネルギーが美しく調和するということが求められます。
 要するに、男(オス)と女(メス)が敵対して、いがみ合ってばかりいたら、全ての生物は絶滅してしまう、という例を考えれば簡単です・・・。


 そしてここで一番大切なのは、伝統的日本剣術や合氣道の、二者一対で行う「型(形)稽古」は、単に「敵を倒す」などといった狭義の解釈で理解するものではなく、この宇宙に存在する陰陽の調和とエネルギーの循環、更にはそれによる世界の生成発展をも含んだ、宇宙の真理の体現なのだ、と理解することです。

 打太刀(受け)は打太刀(受け)として自身がやるべきことを全うし、仕太刀(投げ)は仕太刀(投げ)として己のすべきことを全うする。そして両者が美しく調和した時、私たちは、ちっぽけな自我から脱却し、「型(形)」そのものに完全に同化したかのような感覚を覚えます。それは延いては、宇宙そのものとの同化であり、天から与えられたかけがえのない命としての、純粋な生の充実、まさに本当の「安心」を得ることができるのです。




 以前から自分は、「合氣道にはなぜ人を救う力があるのか?」という問題について考えていました。

 そして、学生時代に読んだ、劇作家で評論家の福田恆存氏の論考が、30年近く経った今頃になって、改めて、武道の「型(形)稽古」というものの持つ深い意味を理解するために、大きなヒントを与えてくれていることに気付かされました。
 今回、自分の言葉で上手くまとめようと試みたのですが、どうも上手くいかなかったので、ここで直接、引用させて頂きます。



「私たちが個人の全体性を恢復する唯一の道は、自分が部分にすぎぬことを覚悟し、意識的に部分としての自己を味わいつくすこと、その味わいの過程において、全体性が象徴的に甦る。
 よくいわれる自我の確立というのは、そういうことだ。」
               (『人間・この劇的なるもの』より)

「私たちが型に頼らなければ生の充実をはかりえぬのは、すでに私たち以前に、自然が型によって動いていたからにほかならぬ。生命が周期をもった型であるという概念を、私たちは、ほかならぬ自然から学び知ったのだ。自然の生成に必然の型があればこそ、私たちはそれにくりかえし慣れ、習熟することができる。そして偶然に支配されがちの無意味で不必要な行動から解放される。なぜなら、型にしたがった行動は、その一区切り一区切りが必然であり、それぞれが他に従属しながら、しかもそれぞれがみずから目的となる。一つの行動が他の行動にとって、たんなる前提となり、手段となるような日常的因果関係のなかでは、そのときどきの判断によって採用された行動は、たいてい無意味で不必要な結果に終る。個人の判断が、その必然性の一貫にどれほど緻密な計算をはたらかせようとも、それはほとんどつねに偶然の手にゆだねられる。
 必然とは部分が全体につながっているということであり、偶然とは部分が全体から脱落したことである。
     ( 中 略 )
 型にしたがった行動は、(中略)行動をそれ自体として純粋に味わいうるようにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱卻し、それ自身において完全な、生命そのものの根源につながることができるのだ。」
               (『人間・この劇的なるもの』より)



 私たちがいつも当たり前のように行っている「型(形)稽古」の「型(形)」は、「世界の生成発展の原動力の象徴」であり、「宇宙の真理の体現」そのものでもあります。

 また同時に、福田恆存風に言うならば、断片としての部分に過ぎず、何事も単なる偶然性に支配されがちな「個人」が、「必然性」や「全体性」を回復するための「型(形)稽古」であり、真に生の充実を図るための、生命そのものの根源につながるための大切な「型(形)稽古」なのです。

 様々な分野で型が崩れ、それでいて自由や個性、創造などと要求され、あらゆるものが不安定であるが故に、不安を抱えた現代社会。
 やはり合氣道には信頼できる「型(形)」があり、大きな「安心」があるのだと言えます。
 合氣道にはなぜ人を救う力があるのか?、その辺に答えがあるのでしょう。




 ところで、古来より日本の芸事の修業では「型(形)」が重視されてきたというのは言うまでもありませんが、そこでは「守→破→離」という段階をきちんと順を追って進むことが肝要とされてきました。
 この「守破離」とは元々は千利休の言葉だそうですが、これは簡単に言えば、「初心者→上手→名人」という過程です。

 「守」は、基本の型(技)を確実に身につける段階。
 「破」は、それら基本を更に発展させる段階。
 そして「離」は、独自のスタイルや新しいものを確立する段階だと言われ、この「離」こそがまさに時流の「自由・個性・創造」そのものだと言えるでしょう。

 そして、これと関連して、昔から大切な戒めとして言われてきたのが「型破り」と「形なし」です。

 「型(形)」を確実に身に付けている者だけが、大胆な「型破り」にもなれるのだが、一方で、基本的な「型(形)」すら体得していない者がそれを真似た所で、所詮は「形なし」に終わってしまう、というやつです。

 私たちはそんな「形なし」にならない様、くれぐれも注意しなければなりません。
 そしてできることならば、昨今の時代の要請でもある「自由・個性・創造」にもきちんと応えられるような人間になることが望ましいのかも知れません。
 言わばそんな「型破り」な人間になるためにも、まずはきちんと「型(形)」を身に付けるということを忘れてはいけないのでしょう。

 そのためにも、まず、私たちが最初にやらなければならないのは、目の前にある合氣道の「型(形)を信頼する」ということ以外にないのではないかと思います。



 そんな訳で、本年も、皆様からの温かなご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
 ご清聴、ありがとうございました。      
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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合氣道開祖 植芝盛平 翁 降臨???

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       (※写真1)  ...        (※写真1)
 平成25(2013)年、1月1日12時23分、横浜市都筑区牛久保西一丁目の天照皇大神に隣接する公園にて撮影。
 どことなく、合氣道開祖、植芝盛平 先生に似ていないだろうか?。
       (※写真2)  ...        (※写真2)
 平成25年(2013)年、1月1日12時21分、横浜市都筑区牛久保西一丁目の天照皇大神に隣接する公園にて撮影。
 是非、逆さにしてご覧下さい。やはり、額に円型の飾りを付け、立派な顎鬚を生やした御顔が確認できます。
       (※写真3)  ...        (※写真3)
 平成25(2013)年、1月1日8時00分、横浜市戸塚区舞岡町の舞岡八幡宮にて撮影。
 まるで龍神のように、東の空へ猛スピードで飛び去って行きました。
               ...                 (※写真4)
               合氣道開祖、植芝盛平 先生です。
               ...                  (※写真5)
 合氣道開祖 植芝盛平 先生が師と仰いだ宗教家、「大本」の出口王仁三郎 聖師です。日本神話の神、素戔嗚尊に扮装された御姿です。
 額に円型の飾りを付けておられます。
 




 合氣道練心館館長を継いでからの自分は、かつての趣味がそのまま仕事になってしまった感があり、合氣道やその他武術研究以外に何か他に趣味はないか、と問われると、恥ずかしながらすぐには思い浮かびません。
 しかし、そんな自分の数少ない趣味として挙げられるのが、神社仏閣や聖地(サンクチュアリ)に参拝することだと言えるかも知れません。



 自分の家は臨済宗円覚寺派の檀家です。それはそれで大切に思っていますが、自分には、自らが何かしら特定の宗教の信者であるという自覚は、正直、余りありません。
 そういった意味では、自分はごく一般的、典型的な「日本人」だと言えます。
 それでも、自分の思想・信条を強いて言えというのならば、合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉「合氣道は武道であって宗教なのじゃ」に倣って、植芝盛平先生の説かれた合氣道の愛と調和、そして平和の教え、言うなれば「合氣道教!?」の信者ということになるのかも知れません・・・(※そんな団体・組織を作る気は毛頭ないのでご安心下さい)。



 そんな自分ですが、実は、子どもの頃から不思議な体験や不思議なシンクロニシティを数多く体験してきました。たぶん少しだけ、俗にいう「霊感体質」というやつなのかも(?)知れません。
 また、父方の祖父がキリスト教神学校出身で、母方の祖父が寺の住職の息子、更には大学、大学院時代にお世話になった指導教授がもともとは宗教学者(ご自身は神道の神主の資格を持ちながら、キリスト教や仏教も幅広く研究されていました)だったこともあり、自然と人智を超えたものや神聖なるものへの畏怖や憧憬が培われていった、というのはかなりあると思います。


 したがって傍から見たら、自分は立派な(?)「スピリチュアル系男子」だと思います。


 そんな「スピ系男子(?)」の自分は、ここ数年は神社仏閣に参拝した時はいつも空の雲を気にしています。
 理由は、なぜか不思議な雲が現れることが多いからです。
 その切っ掛けは、平成25(2013)年の元日の初詣でした。



 平成25(2013)年の元日の朝、当時入院中の母の病気平癒の祈願も兼ねて、以前は家族で初詣に行っていた横浜市戸塚区の舞岡八幡宮に一人でお詣りに行きました。
 ちょうど朝の8時頃でした。
 神社の石段を登ろうとした時、突然「あの雲をご覧なさい!」と50代後半くらいの、どことなく知的で落ち着いた雰囲気のある、見知らぬ紳士に声を掛けられました。
 その男性の指さす方向を見ると、一匹の龍か大蛇のような一筋の雲が、猛スピードで東の空へ飛び去って行く様子が見えました。
 自分は急いで携帯電話のカメラで写真を撮影し(※写真3)、巳年の初詣に空に大蛇を見たのか、あるいは飛び去っていく辰年の龍を見たのか、何れにせよ、新年の始まりである元旦から非常に縁起の良いものが見られたことを喜びました。
 そしてその日はずっと、空の雲が気になって仕方ありませんでした。



 お昼頃、練心館に戻り、地元の氏神様である横浜市都筑区にある天照皇大神(てんしょうこうたいじん)に参拝して空を眺めると、朝に舞岡八幡宮で目撃した龍のような雲が、何本も風に乗って上空を猛スピードで飛んでいました。

 「何だ・・・、今日は偶々こういう雲がたくさん飛ぶ気象条件だったというだけで、別に珍しくも何ともなかったのか・・・」

 とやや落胆しましたが、そんな時、猛スピードで飛ぶ二匹の龍雲が真上で激しく衝突し、上空に「X」の姿を作りました。
 それはそれでとても珍しい出来事のような気がして、思わず携帯電話のカメラで写真を撮りました。


 帰宅してから「X」状の龍雲の写真を見て驚きました。


 「X」の交差する部分に、額に円型の飾りを付け、立派な顎鬚を生やした、老人の顔のようなものが写っており、全体を見ると、褌を一つだけまとった仙人の様な老人が脚を広げ両腕を思い切り伸ばしてバンザイしている姿に見えるではありませんか・・・。
 しかも、最初に撮った写真は脚が上で頭が下ですが(※写真2)、その2分後に撮ったより判りやすい方の写真は頭が上、脚が下で(※写真1)、どちらも御顔には、額に円型の飾りを付け、立派な顎鬚を生やしている姿が確認できます。


 この立派な顎鬚を生やした御顔は、何処となく、合氣道開祖、植芝盛平先生の御姿に似ているとは言えないでしょうか?(※写真4)・・・。


 実際、合氣道の稽古では相手の側面にバンザイをして飛び込む動作が多々あり、そう考えると、遥か上空で、植芝盛平先生が伸び伸びと合氣道の稽古をされている御姿にも見えなくもありません。
 まあ、身に付けられている物が褌一丁だけというのが少々解せない様にも思われますが・・・。



 額に付けた円型の飾りに関しては、植芝盛平先生が心の師として仰がれた「大本」の出口王仁三郎聖師が日本神話に登場する神々等に扮装された時に、よくこの様な円形の飾りを額に付けられていた様です(※写真5)。これは「太陽」または「月」あるいは「後光」を表しているのでしょうか?・・・。
 正直、自分にはよく解かりません・・・。



 これらの写真が、果たして、スピリチュアルや霊能の「本職」の人たちからはどう解釈されるのかも自分にはよく判りません。
 そんなものは信じないという方から見れば、ただの偶然、無理矢理なこじつけだと一笑に付されてしまうでしょう。


 しかし、元日の神社に初詣に行って現れた不思議な雲ですから、きっと神様が御降臨して御姿を現して下さったか?・・・、あるいは、本当に神界にいらっしゃる合氣道開祖、植芝盛平先生が御降臨下さり、御姿を現して下さったのか?・・・、何れにせよありがたく、おめでたく、縁起の良い写真としてこれからも大切にしていきたいと思っています。


 これをご覧になった皆様にも何かしらの御利益があったら?・・・嬉しいです。
 信じるか信じないかはあなた次第です・・・。
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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合氣道は「護身術」なのか?

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戦後日本の殺人事件被害者数の推... 戦後日本の殺人事件被害者数の推移です(※年次統計より)
ピークだった1955年では「10万人中/2.4人」
2012年には「10万人中/0.3人」
60年で8分の1にまで減少しています
世界的に見ても驚異的な少なさだといいます





 合氣道はなんの目的で、この世に出てきたのか。その目的を知らずに、合氣道の稽古をしているのが、ほとんどの人であろう。
 合氣道は護身術に良いらしい。健康法としていいらしい。精神修養に良いと思う。などと、様々な考えで入ってきたのではなかろうか。それぞれの考えは、それぞれの人々の目的であって、合氣道の目的ではないように思うのである。合氣道は、それ等の考えを満たすものがあるかもしれないが、それは一部分に過ぎない。
     ( 中 略 )
 合氣道の稽古も、それぞれの目的で始めても、合氣道そのものの、真の目的を知らずにやっていると、大きな過ちを犯すようなことになるのである。
     (砂泊諴秀『合氣道で悟る』たま出版 P64より)





 合氣道をはじめとした、特に伝統的な日本の武術・武道の形が、現代に通じる護身術としての合理性と有効性を追求したものとはちょっと違う、と改めて気付かされたのはもう20年以上前のことです。
 元傭兵で対テロ訓練等の軍事教官経験があり、現在は危機管理コンサルタント、軍事アドバイザーとして活躍されている毛利元貞さんの著書を読んで、妙に腑に落ちる所がありました。





 戦闘護身術は武道なのか。答えは否だ。武道とは明らかな違いがある。それは戦闘護身術が敵を即座に殺傷することを目的としているからである。
 武道の道場ではつねに、師範がこう教えるはずである。武道は決してケンカの道具ではなく、心身を鍛え、道を極めるためのものだから悪用してはならぬ、と。
 だが軍隊では、生き残ったものが勝ちである。だからつねに、汚く戦って生き残れ、と叩き込まれる。相手を倒しさえすればそれでよい、殺される前に殺せ、というのが最大原則なのだ。ここが武道との根本的な違いだ。
     ( 中 略 )
 全身の動きと力を必要とする空手の攻撃技は、10キロ以上の装備を背中や腰に吊した状態では十分に威力を発揮できない。柔道技は相手をつかまなければ話にならないし、狭い室内や機内では投げ技を駆使するスペースがないことも多い。少林寺拳法や合気道の、型通りの関節技も実戦ではあまり効果的でない。興奮から大量のアドレナリンが分泌され、神経が鈍感になった相手に、関節技をキメるのは難しいからだ。こういう相手には当て身もあまり効かない。
     (毛利元貞『軍隊流護身術』並木書房 より)

 これ(※武道の意)は現地の兵隊に教えても時間がかかりすぎるという最大の欠点があるからだ。
 空手では「握り三年」とよく言われる。つまり、拳の握りだけに三年間の修行が必要、ということである。同様に柔道でも、受け身を完全にマスターして投げられ上手になるまで、半年から一年間は必要である。そして、何度も投げられながら、技を覚えていく。
 これでは戦場では役に立たない。修得するのにこんなに時間がかかるようでは、新兵を訓練して前線へ投入するのは不可能である。その前に紛争自体が終結してしまうだろう。
     (毛利元貞『新・傭兵マニュアル完全版』並木書房 より)





 あれから20年以上経ち、最近ではイスラエル軍格闘術「クラヴ・マガ」に代表されるような、純粋に護身術・制圧術としての合理性・有効性のみを追求した様々な新しい武術が、一般でも習えるようになってきました。それら「実戦護身術」として優れた物とはどういうものか、私なりに定義すれば、それは「素人でも手っ取り早く身に付いてそれなりに使えるようになるもの」ということになります。

 幕末に、討幕派と佐幕派が真剣での壮絶な斬り合いを演じていた時もそうであったように、実戦では高度な技法の数々や深淵な奥義などというものは無用の長物です。生きるか死ぬかの一瞬の駆け引きでは、シンプルな技法のみが信頼性の高い有効な技法だと言われます。毛利元貞さんの仰る通り、修得するのに膨大な年月が掛かり、古臭く、高度で繊細な技法の数々や深淵なる奥義を擁する伝統的武術や武道は、実戦ではあまり効果的でないと言わざるを得ないでしょう。

 一方で、そんな合理的で有効な「実戦護身術」を、逆に軍事教官でもない一般の人々が生涯を賭けて究める価値があるのか?と問われれば、私の答えは否です。
 伝統的武術や武道は、修得するためには多くの年月を要し、高度で繊細な数々の技法と道を究めるための奥深い精神性を併せ持つものですが、こういったものこそが真に、己の心を豊かにし、人生をより豊かなものにするためにも、生涯を賭けて稽古し探究するに値するものだと思います。

 それ故、自分で言うのも何ですが、練心館道場で教えていることはある意味、「実戦護身術」とは対極のものだと言えるかも知れません。
 うちでは全ての伝統的武術・武道に通じる普遍的な「本質」を何よりも重視します。それは丹田・体軸・脱力といった武術的身体感覚、そして心身統一、氣の原理、といったもので、これらは武技の質を高める効果もありますが、人生全般をより良く、心豊かに生きるためにも活かすことのできる優れた智恵の宝物となります。




 実はこんな自分でも、「実戦護身術」的なものも、教えようと思えばある程度は教えられるという自負を持っています。

 以前、ある公務員の女性から「職場の防犯訓練で犯人に襲われる役を押し付けられた、癪に障るので護身術を教えて欲しい。」という依頼を受けたことがありました。
 自分は合氣道の体捌きをベースに軍隊式格闘術を参考にして、それこそ普段道場で教えている深遠なる合氣道とは対極の、「素人でも手っ取り早く身に付いてそれなりに使えるようになる物」を1~2時間程レクチャーしました。
 訓練当日、迫真の演技で模擬包丁を突き付け迫り来る犯人役の警察官を、彼女は咄嗟に体捌きでかわし、模擬包丁を奪って壊してしまったそうです。そのせいで防犯訓練が一時中断になってしまったと聞き、間接的にとはいえ警察の方にもご迷惑を掛けてしまったかな?・・・と少し反省しました。
 小柄な一般女性が屈強な警察官の攻撃を退けてしまったと言えば、多少痛快な話にも聞こえるかも知れませんが、しかしここで絶対に勘違いしてはいけないのは「実戦で有効だった」などと早計に判断することです。訓練は飽くまでも訓練で実戦とは違います。
 犯人役の警察官の方も訓練で女性に怪我をさせる訳にはいかず、細心の注意を払っていたであろうし、まさか小柄な女性がいきなり護身技を仕掛けてくるとも思わず、虚を衝かれてしまっただけでしょう。
 昔から「生兵法は大怪我の基」と言われているように、「護身術を身に付けたから」「自分は強いから」などと言って己を過信することは、実戦では却って自らを窮地に追い込む結果となり、「百害あって一利なし」です。



 
 正直に白状すると、練心館で「女性クラス」をスタートさせた時、希望があれば「護身術」もレクチャーします、という触れ込みでした。
 しかし、合氣道の深い精神性とその技法の奥深さや面白さに比べて、「護身術」つまり「素人でも手っ取り早く身に付いてそれなりに使えるようになるもの」は、自分にとっては余りに薄っぺらく即物的で、どうしても魅力を感じませんでした。その結果、いつしか「女性クラス」でも本物の「合氣道」以外は余りやらなくなりました。




 現在、合氣道は様々な流派に分かれ、色々な価値観を持った指導者が教え広めています。
 中には「護身術」というキャッチフレーズを前面に押し出しているような所もあるかも知れませんが、個人的には、それは間違っていると思います。

 先程申しました通り、今の時代は、純粋に「護身術」としての合理性・有効性のみを追求した様々な新しい武術が、広く一般でも習えるようになってきました。
 冷静になって客観的に見れば、合氣道や伝統的武術・武道に比べて、それら「実戦護身術」の方が遥かに護身のためには合理的に出来ています。また、それら新興武術は、時代と共に変化する犯罪やテロの手口に合わせて常に刻一刻と進化し続けています。

 一方で合氣道や伝統武術・武道は、時代の変化や流行などを超越した普遍的な「本質・真理」を探究するものです。
 日本では古来、あらゆる芸事の練習を「稽古」する、と表現しましたが、「稽古」とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という意味であり、合氣道や伝統武術・武道の形を、より純粋にその「本質」を学べるように変更するならまだしも、犯罪や武器の変化に合わせたり、表面的な実戦性・有効性に合わせたりして徒に変えてしまったならば、それはもう「稽古」とは呼べません。

 ましてや合氣道の場合、「護身術」を前面に押し出すことが果たして開祖、植芝盛平先生の遺志に適うのか、という合氣道のアイデンティティに関わる重大な問題もあり、極端なことを言えば、自分などは、「護身術」を前面に押し出すというのならば、代わりに「合氣道」の看板を降ろすべきではないのか?とまで思ってしまいます。
 実戦合氣道の達人として、もはや伝説的人物となっている養神館合気道創始者、塩田剛三先生ですら、晩年、「もう合気道が実戦で使われる必要はない。私が最後で良い。これからは和合の道として世の中の役に立てば良い。」と仰っていたと聞きます。
 私たち合氣道修行者は、この伝説的先人の言葉を、今後、合氣道が間違った道に進まずきちんと正しい発展をするよう願う、塩田先生の本心から出た嘘偽りのない言葉として、もっと重く受け止めるべきでしょう。




 世の中で、武道を習い始める人の動機の多くが「強くなりたい」というのは今でもあるのかも知れません。しかし、「強さ」とは一体何でしょうか?
 殴る、蹴る、投げ飛ばす、締め上げる、といった暴力を駆使して人を傷付け、制圧するスキルの高い人間を「強い」人間というのでしょうか?
 中にはそういった粗暴な者を「強い」人間だと思っている人もいるのかも知れませんが、本来、人間修行の道である「武道」が目指す「強さ」とは、決してそういったものではない筈です。

 元格闘家で、今は様々なジャンルで活躍されている須藤元気さんが、嘗て格闘技選手を引退する時、「現役選手として格闘技を闘っているうちは、いつまで経っても、自分の考える本当の意味での強い人間にはなれない、ということに気付いた」という興味深いことを仰っていました。
 プロの格闘家として闘っている以上は、常に自分より強い対戦相手を恐れ、自分がそれ以上強くなるよう追い込み続けなくてはなりません。それは青少年に人気の格闘漫画と一緒で、強い敵を倒しても次はもっと強い敵が現れ、それよりも強くなってその敵を倒しても、次には更にもっと強い敵が現れる、といった形で止まることがありません。それを「男のロマン」と呼ぶ人もいるのかも知れませんが、古く仏教ではそれを「修羅道地獄」「等活地獄」などと言ったのでしょう。

 人間修行の道である「武道」が目指す真の人間としての「強さ」とは、「心の強さ」「魂の強さ」です。
 イエスキリストは言います。
 「なんぢらの仇を愛し汝らを憎む者を善くし、汝らを詛ふ者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ。なんぢの頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。なんぢの上衣を取る者には下衣をも拒むな。」(ルカ6:27~29)
 どんなに敬虔なクリスチャンでも、日常生活でこの聖句をそのまま実践することは至難の技でしょう。しかし新約聖書のこの言葉に、自分は究極の「強さ」を見る思いがします。そして「武道」が求めるべき人間としての真の「強さ」も、こういったものではないかと思うのです。
 相手を倒すような「強さ」に憧れ、それを追い求めているうちは、それは、いつも何かに怯えて震えている人間が、「やられる前にやってやる!」と向きになって息巻いているのと同じで、結局は心が弱い証拠、つまり弱い人間ということです。
 むしろ、そういった「強さ」に一切憧れる気持ちなどなくなったとしたら、私たちは人間として真に「強く」なったと言えるのではないでしょうか?。




 「護身術」を前面に押し出している流派や道場では、生徒募集をする上では、必然的に暴力や犯罪に対する危機感・恐怖心を煽るような方法を採らざるを得ません。
 「世の中は暴力に溢れている、あなたは身を護れますか?」「街中の犯罪者はあなたを狙っている、あなたは生き残れますか?」「弱いといじめの標的になる、そうなったら君の人生お先真っ暗かもよ?」等々。
 しかしこの構図は、世の中に暴力や犯罪が蔓延すればするほど人々はその恐怖と危機感に囚われ、疑心暗鬼に陥り、護身のために銃を買い求め、結果として商売は大繁盛するという、俗に言う「死の商人(武器商人)」と何ら変わりはありません。
 「国難だ!」などと必要以上に煽り立てていると、いつの間にか心底「国難」を待ち望むような人間になりかねないのと一緒で、我々のような武術・武道を教える立場の人間が、たとえ人助けのつもりでも、「護身術」を前面に押し出すことが、必然的にいじめや暴力、犯罪の増加を心の奥底では期待するような(その結果商売は繁盛する)、そんな社会に呪いを掛ける行為に繋がりかねないというジレンマに、我々はもっと自覚的であるべきです。




 マスメディアでは連日のように凄惨な暴力・殺人事件が報道されています。
 最近も、身勝手な動機からの、世間を騒がす傷害・殺人事件が大きく報道されました。
 (※亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りすると共に、怪我をされた方々、事件に遭遇して心に深い傷を負った方々にも心よりお見舞い申し上げます。)

 こんな時は自分も正直、不幸にも事件の被害者になられた方が、もしも多少なりとも何らかの武術・武道の心得があったならば、せめて殺されずに重傷で済んだのではないか?、重傷ではなく軽傷で済んだのではないか?、上手く逃げることもできたのではないか?、などと色々と考えてしまいます。考えた所で失われてしまった尊い命は二度と戻っては来ませんが・・・。




 しかし、ここで敢えて、私たちにとって一番大切なのは、感情に流されず飽くまでも冷静で客観的な判断を失わないことではないか、と思うのです。

 今、日本では凄惨な殺人事件、傷害事件が著しく増加しているのか?と問われれば、決してそんなことはありません。

 戦後の「※年次統計」によれば、日本での殺人事件の被害者数は、ピークだった1955年の「10万人中/2.4人」から、2012年には「10万人中/0.3人」と、60年で8分の1にまで減少しています。
 この数値はここ数年もほぼ横這いを維持しており、日本での殺人事件の件数は世界的に見ても驚異的な少なさだといいます。
 日本が世界に向けて最も誇れるもの、それが比較的「平和で安全な社会」であって、殊更に我々のような立場の人間が「護身術」を標榜して人々に危機感を煽るようなことをするのは、まさに本末転倒だと言えるでしょう。

 子どもの頃よく視ていたテレビアニメ「ヤッターマン」の敵「ドロンボー一味」は、毎回インチキ商売でメカ作りの資金集めをしていました。
 いつの回でどんな話だったかはよく覚えていませんが、敵のキャラクター「ボヤッキー」が「人々の危機感を煽るのがインチキ商売の鉄則よ!」と嘯いていたのが今でも忘れられません。やはり、人々に徒に危機感を煽るようなやり方は「ドロンボー一味」のインチキ商売と本質的に変わらないのだと思います・・・。




 冒頭で、万生館合氣道創始者、砂泊諴秀先生の著書から引用をさせて頂きましたが、やはり、「合氣道には合氣道そのものの目的がある」ということを私たち合氣道修行者は忘れてはいけないと思います。
 以下、合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉を引用して終わりたいと思います。





 ただ強ければよい、負けなければよい、と力と力とで争い、弱いもの小さいものをあなどり、それを乗り取ろうとする侵略主義になろうとしている、その魔を切り払い、地上天国建設精神にご奉公をするのが、合気の根本の目的なのであります。
     (『武産合氣』P111)

 一国を侵略して一人を殺すことではなく、みなそれぞれに処を得させて生かし、世界大家族としての集いとなって、一元の営みの分身分業として働けるようにするのが、合気道の目標であり、宇宙建国の大精神であります。
     (『武産合氣』P128)

 争いもない、戦争もない、美しいよろこびの世界を作るのが合気道である。
 合気は宇宙の生ける活動の姿であり、万有の使命の上に、息吹きするのである。空気となり、光となり塩となり、皆の前にご奉仕するのが合気道の合気たる由縁で、決して争いの道ではない。万有愛護の使命の達成をのぞいて、合気の使命は他にありません。
     (『武産合氣』P140)

 植芝の合気道には敵がないのです。相手があり敵があって、それより強くなりそれを倒すのが武道であると思ったら違います。
 真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることなのです。宇宙の中心に帰一することなのです。合気道においては、強くなろう、相手を倒してやろうと錬磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一しようとする心が必要なのです。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり愛の道なのです。
     (『武産合氣』P192) 
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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合氣道で人類の進化!ー平成30年鏡開き年頭挨拶ー

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今年の館長演武は座技をやりまし... 今年の館長演武は座技をやりました。地味ですが「動きの質」を高めるためには必須です。 女子中高生による演武です。この... 女子中高生による演武です。この子は居合道もやっているだけあって、なかなか姿勢が定まっています。 小学1年生と(幼)年長さんの演... 小学1年生と(幼)年長さんの演武です。堂々としっかりやってくれました。君たちこそ「進化した人類」です。がんばれ!





 いつの頃からか、鏡開きの年頭挨拶では「練心館道場の今年のテーマ」を発表するのが恒例行事となってしまいました。
 例年通り、今年も原稿などは全く用意せず、頭の中に大雑把にある内容を思い付くままにお話させて頂きました。

 以下、今年の鏡開きでの年頭挨拶を思い出しながら書き留めて置こうと思います。話の内容としては、鏡開き当日と、まあ、大体ほぼ同じ(?)になるのではないか・・・と思います。



 皆様、新年おめでとうございます。
 今年もこうして大勢の方々にお越し頂き、心より御礼申し上げます。


 さて、鏡開きに毎年来られている方は既に御存知でいらっしゃると思いますが、今回も例年通り「練心館道場の今年のテーマ」を発表させて頂きます。
 昨年のテーマは、確か「世界平和」でした。
 住宅街の片隅にある小さな町道場が、また随分誇大なことを・・・、と呆れてしまわれた方も居られるかも知れません。
 しかし性懲りもなく、今年も大風呂敷を広げさせて頂きたいと思います。


 ずばり、今年の合氣道練心館道場のテーマは、「人類の進化!」で行こうと思います。


 昔から(※特に子どもたちにとって)合氣道の稽古を通して得られる大切な素養として、「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する力」が身に付く、というのがありました。
 合氣道の技は全て、「力まない」「ぶつからない」「争わない」、そして「相手と調和し」「相手を導く」、つまり「争わざるの理」によって成り立っています。そんな合氣道の技を繰り返し稽古することによって、理屈ではなく、心と身体を通して自然に「争わざるの理」が身に付いていくと言われていました。
 この「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する能力」とは、真に社会のリーダーに求められる必須の素養であり、帝王学の神髄とも言うべきものであります。
(※参照 http://jp.bloguru.com/renshinkan/230219/2015-01-28 )
 
 昨今、子どもたちに競争ばかりさせ、他人を打ち負かし自分が勝ち誇る練習ばかりさせている傾向は相変わらず否めませんが、やはりそんなことでは真のリーダーとしての器は育ちません。

 いつも申し上げていることですが、世の中で、争って白黒はっきりと勝ち負けを付けることで物事が処理できるのはスポーツの試合だけです。それはやはり、スポーツというものが本質的にただの「遊び」に過ぎないからだと言えます。
 現実社会での国際間の様々な対立や紛争で、争って白黒はっきり勝ち負けを付けた所で、根本的に何ら問題は解決せず、却って未来に根深い遺恨を遺したり、憎しみや復讐心を増長させたりするだけなのは自明のことでしょう。
 もしも現実に、争って白黒はっきり勝ち負けを付けることで、何の遺恨もなく問題を完全に解決させようとするならば、突き詰めれば、対立する異なる立場の者を皆殺しにして根絶やしにする以外に方法はないのではないか?と思います。
 もちろん、そんなことは人間のすることではなく悪魔の所業です。
 それ故、争って白黒はっきり勝ち負けを付けることでしか物事を処理し問題を解決できないような人間が社会のリーダーになったり、一国のリーダーになったりすることは、人類全てにとっての悲劇だと言えるのではないでしょうか・・・。



 合氣道の世界では昔から言われている「争わざるの理」、「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する力」ですが、この能力は、これから先人類が、どういった方向に進化すべきなのか、その「進化の方向性」を示唆する大きな指針となるのではないか?。昨年のある日、自分にふとそんなインスピレーションが降りて来ました。
 その直感は、まさに遠い宇宙、M78星雲の彼方からやって来たのかも知れません・・・、などと申しますと、皆さんの中にはぎょっとされて「とうとう館長はおかしくなってしまったのか・・・?」と心配される方も居られるかも知れません。
 まあ、安心して聞いて下さい。



 昨年は「ウルトラセブン」放送50周年ということで、地上波の「東京MX2」と「TVK」で懐かしの「ウルトラセブン」を放送していました。
 たまたま偶然、第1話を視たことから、何となく最終の第49話まで、とうとう毎週楽しみに視る羽目になってしまいました。
 この歳になって改めて視てみると、「ウルトラセブン」は一見、勧善懲悪の子ども向け特撮ヒーロー番組の様でいて、実は、色々と考えさせられる深いテーマを持った作品だったのだなぁ・・・と今更ながらに気付かされました。
 現在も第一線で活躍する多くのクリエイター達が、「ウルトラセブン」から多大なる影響を受けていると言われているのも、本当に頷けます。

 その中でも、自分が特に印象に残った忘れられない回は、第26話「超兵器R1号」と第42話「ノンマルトの使者」です。


 「超兵器R1号」はこんな話でした。
 地球防衛軍が一発で惑星を消滅させてしまう程の超破壊兵器「R1号」を完成させます。
 ウルトラ警備隊の隊員たちも皆、それが侵略者を威嚇し、地球の平和のための強力な抑止力になると手放しで喜ぶ中、ただ一人、人類よりも遥かに進化した宇宙人であるダン隊員(ウルトラセブン)だけは悩んでいました。
 超破壊兵器の開発は、結局は地球人類が、宇宙規模での恐怖と疑心暗鬼に囚われた軍拡競争のいたちごっこに陥ることであり、それはまさに「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」である、と。
 そんなダン隊員(ウルトラセブン)の思いとは裏腹に、「R1号」の爆破実証実験には、地球から遠く生物の住んでいないとされるギエロン星が選ばれ、ギエロン星は人類の手によって一瞬で破壊され消滅してしまいます。
 しかし、ギエロン星には本当は生物が住んでいたのでした。
 「R1号」の爆発のショックと放射能の影響で、その生物は巨大怪獣「ギエロン星獣」へと変異し地球へ復讐しにやって来ます。
 ウルトラセブンは地球人類を守るために仕方なく、大量の返り血を浴びながらアイスラッガーでギエロン星獣を惨殺します。
 右腕を引き千切られ断末魔の叫び声を上げながら、最期は喉を切られ力尽きるギエロン星獣の姿が本当に哀れで仕方ありませんでした。


 また「ノンマルトの使者」は、地球の先住民は「ノンマルト」で、人類こそが侵略者だったという衝撃的な話でした。
 攻撃的で好戦的な我々人類によって住む場所を追われたノンマルトは、海底を住処とし、そこで静かに暮らしていました。ところが、人類による海底開発が激化し危機感を覚えたノンマルトは、とうとう自衛のための戦いに打って出たのでした。
 しかしノンマルトは人類に比べて戦闘には余り長けた種ではなく、ウルトラセブンと地球防衛軍の敵ではありませんでした。
 ノンマルトの海底都市を見付けたウルトラ警備隊は、「もしもこれが宇宙人の侵略基地だったら放って置けない」と総攻撃を仕掛け、街を徹底的に破壊し、ノンマルトを絶滅させてしまうのです。

 この、海の底で正義と悪の逆転する結末は、後にガンダムの富野由悠季監督が手掛けたアニメ版「海のトリトン」の原点なのでしょう。
 まさに、世の中に「正義」程あてにならないものはない、「正義」などというものは、立場の違いや時代の変化、時の為政者の都合でコロコロ変わるということでしょう。「正義」の反対は「悪」ではなく「また別の正義」であり、我々に必要なのは「正義」ではなく「寛容」である、とはよく言ったものです。



 今回、改めて「ウルトラセブン」を視て思ったのは、セブンは心の奥底では地球人のことを「何とも未開で野蛮な種族」だと感じ、本当はそんな人類の浅ましさや粗暴さを見るにつけ、心底悲しんでいたのではないか?ということでした。
 現在の使命は「地球を守ること」かも知れないけれど、何百年かの後、また別の星を守る任務に就いた時、今度は侵略者としての地球人類と戦わなければならない時も来るのではないか・・・?、そんな一抹の不安も、心のどこかで抱えていたのではないかと思われて仕方ありませんでした。
 しかしウルトラセブンは、そんな「粗暴で野蛮な地球人類」を決して見捨てたりはしませんでした。最後は自らの命を削りボロボロになりながらも地球を守り続けたのです。
 地球人類には、果たして愛するだけの価値があるのかどうか?、そんなことはお構いなしにただひたすら愛し、守り続ける。
 これこそまさに「無償の愛」であり、これは「神の愛」ではないか?、とも考えさせられました。


 話が完全に「ウルトラセブン評論」になってしまったので元に戻します。


 真に人類が進化するとはどういうことか?

 それはAI技術が進歩することでも、誰もが体内にマイクロチップを埋め込むことでも、火星有人宇宙飛行を実現させることでも、ましてや軍事技術が進歩することでもないと思います。

 我々人類が「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する」ことが出来るようになった時、私たちは初めて、胸を張って堂々と、本当に「進化した」と言えるのではないかと思います。
 それが果たして何百年後になるのか?、はたまた何千年後になるのか?は判りませんが、遠い未来、いずれ人類は皆「争わずに物事を処理し、争わずに問題を解決する」ことが当たり前になる日が来ると、自分は信じています。


 未だ人類が野蛮さから抜け切れていない21世紀のこの時代に、合氣道を通して「争わざるの理」を学ぶ私たちは、言わば「人類の進化」の先駆けだと言えます。
 このことを自らの自信と誇りにして、今年も稽古・修行を頑張って参りましょう!。


 合氣道練心館道場の今年のテーマは、「人類の進化!」。


 本年も、皆様からの温かなご支援を賜りたく、何卒、宜しくお願い申し上げます。
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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