・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 令和5(2023)年1月15日(日)。 練心館道場では演武会も兼ねた大きなイベントである「鏡開き」が無事行われました。 当日は多くの方々にお越し頂き、誠にありがとうございました。 さて、「鏡開き」と言えば、毎年、館長年頭挨拶としてその年の練心館道場のテーマを発表しております。 昨年は「人間のあるべき姿―コロナよりも怖いのは人間だった―」と題して、コロナ禍で社会から大きく失われつつある本来の人間らしさを、もうそろそろ取り戻す方向に皆がマインドチェンジして行かないと、却って取り返しのつかない事態になり兼ねないと、僭越ながら警鐘を鳴らさせて頂きました。 https://jp.bloguru.com/renshinkan/431033/2022-02-09 そして、今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。 ということで、例年通り予め原稿等は無く、当日お話した内容を思い出しながら、以下、書き進めて行こうと思います。 最後までお読み頂けたら幸いです。 (※鏡開き当日、ご来場下さった方々はご理解頂けると思いますが、本年も文字化に当たり、話の内容を一部割愛させて頂きましたことをご了承下さい。) 皆様、明けましておめでとうございます。 今年もこうして多くの方々にお集まり頂き、「鏡開き」のイベントができることを心より感謝申し上げます。 毎年、「鏡開き」の館長年頭挨拶では、その年の練心館道場のテーマを発表させて頂いております。 早速ですが、今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」で行こうと思いました。 このテーマに思い至る切っ掛けとなったのは、昨年11月中旬に目にしたある方のツイートでした。 そのアカウントは、社会で「発達障害」とか「ギフテッド(特定の分野で突出した才能を持っている)」等とされる子どもの子育てについて提言をしているものでした。 若干表記表現が違うかも知れませんが、そこにはこんなことが書かれていました。 「普段から言語より高い次元でものごとを思考・記憶していると『ある日突然できなくなる』という現象が起きやすいのではないか。言語というものは決して万能ではないが、あらゆる分野で常に安定的成果が求められる現代社会では、やはり有効なツールである。」 この文章を読んで真っ先に浮かんだことは、合氣道開祖、植芝盛平先生に代表されるような武術・武道の世界で天才的な達人・名人と呼ばれる先生方のことでした。 武術・武道の世界で天才的達人・名人と呼ばれている方の多くが、まさに言語を超越したもっと高い次元で技を繰り出し、それを理屈ではなく身体で記憶しているのだと思われます。 そして、それらの「神業」と呼ばれるものが心の状態如何によって上手く行ったり行かなかったりすることを経験する中で、常に心を求め、心を整える必要性に氣付くのではないかと思われます。 それ故、こうした天才的武術・武道家の多くが最終的に神や宇宙、愛などを説く様になり、ある意味、宗教的になるのは必然なのではないかと思われます。 合氣道開祖・植芝盛平先生は口を開けばいつも日本神話の神様の話をされておられ、弟子が技について技術的な質問をしてもそれに対して延々と神様の話をされるので閉口した、といった類のエピソードは枚挙に暇がありません。 一方で、何事も言語を通して思考し記憶している所謂「凡人」とも言うべき我々一般人は、「心」の様な実体のない雲を掴むような話はどちらかというと苦手です。 そんな我々が技術の再現性を保つために必要なのが言語化された理論なのでしょう。 現在、武術・武道の世界の多くの者が常に追求しているのが「身体操作」や「武術理論」だと言えます。 言語で思考し言語で記憶している一般的な現代人である我々が、どうすれば達人技を体現出来るのか、そしてそれを体得したとしても、どうすればそれを弟子にきちんと伝えられるのだろうか。結果として言語で説明できる「身体操作」や「武術理論」に頼らざるを得ないのも必然なのだと思われます。 しかし、ここで思い起こされるのが、令和2(2020)年「鏡開き」の年頭挨拶でお話したその年の練心館道場のテーマ「心の世界を求め、心で目的を達成する」です。 https://jp.bloguru.com/renshinkan/371819/2020-04-20 ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは、弓道の伝説的名人、弓聖、阿波研造(あわけんぞう)先生に弟子入りし、技術を追求し鍛練を重ねるスポーツとは根本的に次元の違う、日本古来の弓道の稽古法に数々のカルチャーショックを受け、後に名著『日本の弓術』を著します。 師である阿波研造先生の教えは、とにかく力を抜き心身の強張りを取り去り、我を捨て去ることでひたすら無心となり、そうすることで、自身の現状と目標とする状態との間に目に見えない橋を架けて繋げ、それらを自然に一体化させていくといったような、高度に精神的な方法でした。 何事も科学的根拠を優先し合理主義を重んずるような現代人にとっては、それは非常に非効率的でコストパフォーマンスの悪い方法に感じられるのでしょうが、もともと、近代化以前の日本では、あらゆる分野でこういった心を求めて目的を達成するような精神的な方法が行われていたのではないかと思われます。 近代(西欧)科学の基本的態度は「主観」と「客観」の分離だといいますが、私自身、今までも色々な生徒さんを見るにつけ、高度に知的な教育・訓練を受けて来たような方に限って、稽古でも、技を客観的分析対象として自身から突き離し、主観である自分がつぶさに観測しようとするせいで、いま一つ身体も魂も技に没入できていないという姿を見てきました。 あらゆる雑念を取り払い、身体も魂も没入させることを仏教では「三昧(ざんまい)」と言いますが、阿波研造先生の説かれた弓道の教えもそれに近いものではないかと思われます。 そして、ほぼ100%の人々が近代的学校教育を受け、所謂「科学的態度」を身に付けた現代社会において、この非効率的な「心の世界を求め、心で目的を達成する」ようなやり方は、今や絶滅の危機に瀕していると言えるのかも知れません。 しかし、日本の武道というものの本来の稽古・修行のあり方は、むしろこの「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法なのではないかと思います。 そして、それは言い換えれば、「言語を超えた次元で思考・記憶し、常に心を整えることでそれを体現する」ということなのではないでしょうか。 そして「言語を超えた次元」や「心を整える」といったこと、これらを常に忘れずに稽古・修行することで磨かれるのが「感じ取る力」だと言えます。 武術・武道界に信奉者が多いことでも知られる野口整体の創始者、野口晴哉(のぐちはるちか)先生も、すでに昭和の時代に、現代人が最も失ってしまった人間に本来備わっていた素晴らしい能力が「感じ取る力」だとしきりに仰っていました。 近代化以降、日本人が脈々と受け継いできた精神的文化の多くが非科学的な迷信だと斥けられ、戦後、合理主義や効率主義が加速する中、科学万能というやや思い上がった考え方が世間を覆い尽した感があります。 自分自身、科学の発展の恩恵を受けながら日々暮らしている現代人ですから、科学や言語、理論を否定する氣は毛頭ありません。 しかし、社会の現状を見るにつけ、やはり科学や言語、理論ばかりを重視する風潮が見受けられ、これは明らかに偏っているのではないか、というのが偽らざる自分の本音です。 「科学や理論」と「人間の感じ取る力、感性」は、本来、車の両輪であって、両方がきちんと働くことで人間社会も正しく真っ直ぐに進むのだと思います。 そして現代社会は、余りにも科学や理論ばかりを偏重し、おかしなことになってしまっている感は否めないのではないでしょうか。 今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。 当道場の合氣道のスタイルはもともと「氣」や「丹田」といった実体がなく未だ科学では解明されていないものを重視するものです。 したがって、必然的に感覚、感性をフル動員して「感じ取る」ことをしなければ本質的な上達はできず、稽古を通して、現代人が失いつつある「感じ取る力」を磨き、取り戻すことができるものであると確信しています。 昨今、世界情勢は激動し、政府やマスメディアの流す情報を、もう鵜呑みには出来ないということに段々と多くの人々が氣付いてきました。 そんな時代を生き抜いて行かなければならない状況で、我々庶民の力強い味方となるのも、この「感じ取る力」だと思います。 これからの時代は、政府やマスメディアが繰り返し流す情報でも、直感的に「何か変だ」「違和感がある」と感じたならば、自身を疑いながらも自ら調べ、自身の頭で考えてみてから自分なりの結論を出すのがより望ましいと思われます。 もちろん、結論を急ぐ必要等なく「分からない」という答えのまま、しばらく保留して様子見をするというのも良い方法だと思います。 そこで最後に、普通の市井の人間が、科学的根拠や理論等とは関係なく、当たり前に直感的に感じることが結構確かで信頼できるものだという自分の実体験を、現在の社会状況にも当てはまる一つの寓話として披露したいと思います。 亡き父はゴリゴリの理科系の人間でした。 東京の某有名国立大学の大学院を出て、現在のインターネットの原型とも言える「データ通信」や黎明期の「人工知能」の研究者をしていました。 そんな父は、とにかく何に付けても理論、理屈、データ、科学的根拠、の信奉者で、人間の直感や人間的な感性等は曖昧で非科学的な物として斥ける傾向がありました。 そんな父がある日、どこで見付けたのか、毎日飲み続けることで凄く健康に良いお茶、というものを買って来て嬉しそうに毎日それを飲み始めたということがありました。 すると、時を同じくして父の体中に謎の湿疹が出始めたのです。 母も自分も「原因はそのお茶意外に考えられないから、もう飲むのはやめた方が良い」とアドバイスしました。 しかし父は受け入れてくれません。自分が良いと推奨した物を科学的根拠もなく否定されたことが科学者としてのプライドを傷付けたのでしょうか。 父は、お茶に付属していた成分表と睨めっこし、そこに湿疹の原因となりそうな化学的成分がないか自分なりに色々と調べているようでした。 もちろん、医学、薬学、生理学といった分野は父も全くの専門外ですが、元来、物事を科学的に調べたりすることが好きなタイプなので、若干楽しそうにしながら自分なりに色々と調べた結果、やはり、このお茶と湿疹の因果関係はないとの結論に至ったようでした。 しかしその後、湿疹は酷くなる一方で、とうとう病院の皮膚科を受診しましたが、原因不明でただ対処療法としての薬を処方されただけでした。 その間、家族は「とにかく一旦、あのお茶を飲むのをやめた方が良い」と言い続けていましたが、その頃になるとさすがに父も根負けして「そんなに言うなら一旦飲むのをやめてみよう」とやっとのことで折れてくれました。 そのお茶を飲むのをやめた途端、父の湿疹はきれいに治ったのは言うまでもありません。 「だから最初から言わんこっちゃない」「人騒がせな」と家族から顰蹙を買ってしまったちょっと可哀想な父のエピソードでした。 さて、コロナ騒動が始まって丸3年経ちました。 強毒株として恐れられていた武漢株やアルファ株、ベータ株が猛威を振るい、社会をパニックに陥れていた令和2(2020)年。 蓋を開けてみれば、超過死亡数は前年比で約九千人も減少していました。 しかし、令和3(2021)年の春以降、日本の超過死亡数は異常な上昇を見せ、その年は戦後最大の記録を出してしまいました。 そして昨年の令和4(2022)年。日本の超過死亡数は更に尋常ではない数を記録し、現在日本の死者数はまるで戦時中と言っても過言ではない状況だそうです(これ程の異常事態になっているにも関わらず、マスメディアが余りにもきちんと報道しないことに違和感を禁じ得ませんが・・・)。 一体何が日本人をそこまで死に至らしめているのか? 自分は「あれ」以外に理由は考えられないと思っています。 もちろん、真相は複雑な要因が絡んでいるのかも知れませんし、専門家でもない一介の町道場の師範が断定できるような問題ではないことは言うまでもありませんが・・・。 いずれにせよ、我々市井に暮らす庶民がこのような激動の時代を正しく生き抜く智恵として、理屈抜きに直感的にものごとを「感じ取る力」というのは決して無駄にはならないと思われます。 今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。 そんな訳で、今年も合氣道練心館道場を宜しくお願い申し上げます。