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合氣道練心館 館長所感集

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 合氣道 練心館道場
(別窓で練心館道場のサイトが開きます)

感じ取る力

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今年の館長演武は何と中学生が元... 今年の館長演武は何と中学生が元氣一杯に受けを取ってくれました。 大人クラスの演武です。女性の袴... 大人クラスの演武です。女性の袴姿は凛々しくて素敵ですね。 子どもつづきクラス(小3~)の... 子どもつづきクラス(小3~)の演武です。子どもの頃からきちんと「感じ取る力」を養っていって欲しい。 子どもすみれクラス(~小2)の... 子どもすみれクラス(~小2)の演武です。子どもたちの笑顔が溢れる健全な社会に一日も早く戻りますように。
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 令和5(2023)年1月15日(日)。
 練心館道場では演武会も兼ねた大きなイベントである「鏡開き」が無事行われました。
 当日は多くの方々にお越し頂き、誠にありがとうございました。





 さて、「鏡開き」と言えば、毎年、館長年頭挨拶としてその年の練心館道場のテーマを発表しております。

 昨年は「人間のあるべき姿―コロナよりも怖いのは人間だった―」と題して、コロナ禍で社会から大きく失われつつある本来の人間らしさを、もうそろそろ取り戻す方向に皆がマインドチェンジして行かないと、却って取り返しのつかない事態になり兼ねないと、僭越ながら警鐘を鳴らさせて頂きました。

 https://jp.bloguru.com/renshinkan/431033/2022-02-09

 そして、今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。

 ということで、例年通り予め原稿等は無く、当日お話した内容を思い出しながら、以下、書き進めて行こうと思います。
 最後までお読み頂けたら幸いです。
(※鏡開き当日、ご来場下さった方々はご理解頂けると思いますが、本年も文字化に当たり、話の内容を一部割愛させて頂きましたことをご了承下さい。)





 皆様、明けましておめでとうございます。
 今年もこうして多くの方々にお集まり頂き、「鏡開き」のイベントができることを心より感謝申し上げます。

 毎年、「鏡開き」の館長年頭挨拶では、その年の練心館道場のテーマを発表させて頂いております。
 早速ですが、今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」で行こうと思いました。
 このテーマに思い至る切っ掛けとなったのは、昨年11月中旬に目にしたある方のツイートでした。
 そのアカウントは、社会で「発達障害」とか「ギフテッド(特定の分野で突出した才能を持っている)」等とされる子どもの子育てについて提言をしているものでした。
 若干表記表現が違うかも知れませんが、そこにはこんなことが書かれていました。

 「普段から言語より高い次元でものごとを思考・記憶していると『ある日突然できなくなる』という現象が起きやすいのではないか。言語というものは決して万能ではないが、あらゆる分野で常に安定的成果が求められる現代社会では、やはり有効なツールである。」

 この文章を読んで真っ先に浮かんだことは、合氣道開祖、植芝盛平先生に代表されるような武術・武道の世界で天才的な達人・名人と呼ばれる先生方のことでした。

 武術・武道の世界で天才的達人・名人と呼ばれている方の多くが、まさに言語を超越したもっと高い次元で技を繰り出し、それを理屈ではなく身体で記憶しているのだと思われます。
 そして、それらの「神業」と呼ばれるものが心の状態如何によって上手く行ったり行かなかったりすることを経験する中で、常に心を求め、心を整える必要性に氣付くのではないかと思われます。
 それ故、こうした天才的武術・武道家の多くが最終的に神や宇宙、愛などを説く様になり、ある意味、宗教的になるのは必然なのではないかと思われます。
 合氣道開祖・植芝盛平先生は口を開けばいつも日本神話の神様の話をされておられ、弟子が技について技術的な質問をしてもそれに対して延々と神様の話をされるので閉口した、といった類のエピソードは枚挙に暇がありません。

 一方で、何事も言語を通して思考し記憶している所謂「凡人」とも言うべき我々一般人は、「心」の様な実体のない雲を掴むような話はどちらかというと苦手です。
 そんな我々が技術の再現性を保つために必要なのが言語化された理論なのでしょう。
 現在、武術・武道の世界の多くの者が常に追求しているのが「身体操作」や「武術理論」だと言えます。
 言語で思考し言語で記憶している一般的な現代人である我々が、どうすれば達人技を体現出来るのか、そしてそれを体得したとしても、どうすればそれを弟子にきちんと伝えられるのだろうか。結果として言語で説明できる「身体操作」や「武術理論」に頼らざるを得ないのも必然なのだと思われます。





 しかし、ここで思い起こされるのが、令和2(2020)年「鏡開き」の年頭挨拶でお話したその年の練心館道場のテーマ「心の世界を求め、心で目的を達成する」です。

 https://jp.bloguru.com/renshinkan/371819/2020-04-20

 ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは、弓道の伝説的名人、弓聖、阿波研造(あわけんぞう)先生に弟子入りし、技術を追求し鍛練を重ねるスポーツとは根本的に次元の違う、日本古来の弓道の稽古法に数々のカルチャーショックを受け、後に名著『日本の弓術』を著します。

 師である阿波研造先生の教えは、とにかく力を抜き心身の強張りを取り去り、我を捨て去ることでひたすら無心となり、そうすることで、自身の現状と目標とする状態との間に目に見えない橋を架けて繋げ、それらを自然に一体化させていくといったような、高度に精神的な方法でした。

 何事も科学的根拠を優先し合理主義を重んずるような現代人にとっては、それは非常に非効率的でコストパフォーマンスの悪い方法に感じられるのでしょうが、もともと、近代化以前の日本では、あらゆる分野でこういった心を求めて目的を達成するような精神的な方法が行われていたのではないかと思われます。

 近代(西欧)科学の基本的態度は「主観」と「客観」の分離だといいますが、私自身、今までも色々な生徒さんを見るにつけ、高度に知的な教育・訓練を受けて来たような方に限って、稽古でも、技を客観的分析対象として自身から突き離し、主観である自分がつぶさに観測しようとするせいで、いま一つ身体も魂も技に没入できていないという姿を見てきました。
 あらゆる雑念を取り払い、身体も魂も没入させることを仏教では「三昧(ざんまい)」と言いますが、阿波研造先生の説かれた弓道の教えもそれに近いものではないかと思われます。
 そして、ほぼ100%の人々が近代的学校教育を受け、所謂「科学的態度」を身に付けた現代社会において、この非効率的な「心の世界を求め、心で目的を達成する」ようなやり方は、今や絶滅の危機に瀕していると言えるのかも知れません。

 しかし、日本の武道というものの本来の稽古・修行のあり方は、むしろこの「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法なのではないかと思います。
 そして、それは言い換えれば、「言語を超えた次元で思考・記憶し、常に心を整えることでそれを体現する」ということなのではないでしょうか。

 そして「言語を超えた次元」や「心を整える」といったこと、これらを常に忘れずに稽古・修行することで磨かれるのが「感じ取る力」だと言えます。

 武術・武道界に信奉者が多いことでも知られる野口整体の創始者、野口晴哉(のぐちはるちか)先生も、すでに昭和の時代に、現代人が最も失ってしまった人間に本来備わっていた素晴らしい能力が「感じ取る力」だとしきりに仰っていました。

 近代化以降、日本人が脈々と受け継いできた精神的文化の多くが非科学的な迷信だと斥けられ、戦後、合理主義や効率主義が加速する中、科学万能というやや思い上がった考え方が世間を覆い尽した感があります。

 自分自身、科学の発展の恩恵を受けながら日々暮らしている現代人ですから、科学や言語、理論を否定する氣は毛頭ありません。
 しかし、社会の現状を見るにつけ、やはり科学や言語、理論ばかりを重視する風潮が見受けられ、これは明らかに偏っているのではないか、というのが偽らざる自分の本音です。

 「科学や理論」と「人間の感じ取る力、感性」は、本来、車の両輪であって、両方がきちんと働くことで人間社会も正しく真っ直ぐに進むのだと思います。
 そして現代社会は、余りにも科学や理論ばかりを偏重し、おかしなことになってしまっている感は否めないのではないでしょうか。





 今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。

 当道場の合氣道のスタイルはもともと「氣」や「丹田」といった実体がなく未だ科学では解明されていないものを重視するものです。
 したがって、必然的に感覚、感性をフル動員して「感じ取る」ことをしなければ本質的な上達はできず、稽古を通して、現代人が失いつつある「感じ取る力」を磨き、取り戻すことができるものであると確信しています。





 昨今、世界情勢は激動し、政府やマスメディアの流す情報を、もう鵜呑みには出来ないということに段々と多くの人々が氣付いてきました。
 そんな時代を生き抜いて行かなければならない状況で、我々庶民の力強い味方となるのも、この「感じ取る力」だと思います。
 これからの時代は、政府やマスメディアが繰り返し流す情報でも、直感的に「何か変だ」「違和感がある」と感じたならば、自身を疑いながらも自ら調べ、自身の頭で考えてみてから自分なりの結論を出すのがより望ましいと思われます。
 もちろん、結論を急ぐ必要等なく「分からない」という答えのまま、しばらく保留して様子見をするというのも良い方法だと思います。





 そこで最後に、普通の市井の人間が、科学的根拠や理論等とは関係なく、当たり前に直感的に感じることが結構確かで信頼できるものだという自分の実体験を、現在の社会状況にも当てはまる一つの寓話として披露したいと思います。



 亡き父はゴリゴリの理科系の人間でした。
 東京の某有名国立大学の大学院を出て、現在のインターネットの原型とも言える「データ通信」や黎明期の「人工知能」の研究者をしていました。
 そんな父は、とにかく何に付けても理論、理屈、データ、科学的根拠、の信奉者で、人間の直感や人間的な感性等は曖昧で非科学的な物として斥ける傾向がありました。
 そんな父がある日、どこで見付けたのか、毎日飲み続けることで凄く健康に良いお茶、というものを買って来て嬉しそうに毎日それを飲み始めたということがありました。
 すると、時を同じくして父の体中に謎の湿疹が出始めたのです。
 母も自分も「原因はそのお茶意外に考えられないから、もう飲むのはやめた方が良い」とアドバイスしました。
 しかし父は受け入れてくれません。自分が良いと推奨した物を科学的根拠もなく否定されたことが科学者としてのプライドを傷付けたのでしょうか。
 父は、お茶に付属していた成分表と睨めっこし、そこに湿疹の原因となりそうな化学的成分がないか自分なりに色々と調べているようでした。
 もちろん、医学、薬学、生理学といった分野は父も全くの専門外ですが、元来、物事を科学的に調べたりすることが好きなタイプなので、若干楽しそうにしながら自分なりに色々と調べた結果、やはり、このお茶と湿疹の因果関係はないとの結論に至ったようでした。
 しかしその後、湿疹は酷くなる一方で、とうとう病院の皮膚科を受診しましたが、原因不明でただ対処療法としての薬を処方されただけでした。
 その間、家族は「とにかく一旦、あのお茶を飲むのをやめた方が良い」と言い続けていましたが、その頃になるとさすがに父も根負けして「そんなに言うなら一旦飲むのをやめてみよう」とやっとのことで折れてくれました。
 そのお茶を飲むのをやめた途端、父の湿疹はきれいに治ったのは言うまでもありません。
 「だから最初から言わんこっちゃない」「人騒がせな」と家族から顰蹙を買ってしまったちょっと可哀想な父のエピソードでした。



 さて、コロナ騒動が始まって丸3年経ちました。
 強毒株として恐れられていた武漢株やアルファ株、ベータ株が猛威を振るい、社会をパニックに陥れていた令和2(2020)年。
 蓋を開けてみれば、超過死亡数は前年比で約九千人も減少していました。
 しかし、令和3(2021)年の春以降、日本の超過死亡数は異常な上昇を見せ、その年は戦後最大の記録を出してしまいました。
 そして昨年の令和4(2022)年。日本の超過死亡数は更に尋常ではない数を記録し、現在日本の死者数はまるで戦時中と言っても過言ではない状況だそうです(これ程の異常事態になっているにも関わらず、マスメディアが余りにもきちんと報道しないことに違和感を禁じ得ませんが・・・)。
 一体何が日本人をそこまで死に至らしめているのか?
 自分は「あれ」以外に理由は考えられないと思っています。
 もちろん、真相は複雑な要因が絡んでいるのかも知れませんし、専門家でもない一介の町道場の師範が断定できるような問題ではないことは言うまでもありませんが・・・。



 いずれにせよ、我々市井に暮らす庶民がこのような激動の時代を正しく生き抜く智恵として、理屈抜きに直感的にものごとを「感じ取る力」というのは決して無駄にはならないと思われます。



 今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。
 そんな訳で、今年も合氣道練心館道場を宜しくお願い申し上げます。
#コロナ騒動 #ブログ #仏教 #合気道 #弓道 #新型コロナウイルス #武術 #武道

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人間のあるべき姿 ―コロナよりも怖いのは人間だった―

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今年の館長演武は、高校生が元氣... 今年の館長演武は、高校生が元氣一杯な受けを取ってくれました。 大人クラスの演武です。袴姿が凛... 大人クラスの演武です。袴姿が凛々しいですね。 高校生の演武です。一度しかない... 高校生の演武です。一度しかない青春、悔いの無いように思い切り楽しもう! 高校受験直前でも頑張って出場し... 高校受験直前でも頑張って出場してくれました。 小学生の演武です。明るい未来を... 小学生の演武です。明るい未来を信じて頑張れ!





 皆様、お久し振りです。

 昨年(令和3〔2021〕年)は、練心館道場の約40年の歴史の中で、初めて、新年の鏡開き式典が社会状況に鑑み中止となってしまいました。
 その後も、緊急事態宣言発令とまん延防止等重点措置施行が繰り返され、春以降なぜか日本の超過死亡数が激増する(令和2〔2020〕年はコロナ禍でも超過死亡数は前年比で約9千人減少しました)という異常な年となりました。

 そんな異常な社会が今なお続く令和4(2022)年1月16日(日)。
 今年は二年振りに、無事、鏡開きの式典を執り行えたことは誠に感謝の念に堪えません。

 鏡開きでは、毎回「今年の練心館道場のテーマ」という題目で年頭のご挨拶をさせて頂いております。
 昨年は、式典そのものは中止となってしまいましたが、ブログで練心館道場昨年のテーマ「恐怖を超えてゆけ♪」を発表させて頂きました。
 何かと恐怖を煽られる社会状況の中で、私たちは冷静な思考力や判断力を失わないように、延いては恐怖に取り憑かれたまま、差別やいじめ、分断に加担しないように、そのためにも合氣道で培った胆力、和の心を活かすべき時だ、といったようなお話を書かせて頂きました。

https://jp.bloguru.com/renshinkan/392989/2021-01-14

 今年は二年振りに人前でお話させて頂けたのが嬉しく、調子に乗って要らんことをペラペラ喋り過ぎたかも知れません。
 今回も例年通り、あらかじめ原稿等は無く、頭の中にある内容をその場で思い付くままにお話させて頂きました。
 以下、色々と思い出しながら書き記していこうと思います。
(※鏡開き当日、ご来場下さった方々はご理解頂けると思いますが、今回の文字化に当たり、話の内容を一部割愛させて頂きましたことをご了承下さい。)




 皆様、明けましておめでとうございます。

 こうして二年振りに皆様の前でお話しできることが何よりも感慨深く、ご来場下さった皆様には心より感謝申し上げます。

 思い起こせば、二年前の令和2(2020)年1月。
 鏡開きの年頭挨拶では、ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルが日本滞在中、「弓聖」阿波研造に入門した時の弓道修業体験を綴った名著『日本の弓術』をもとに、その年の練心館道場のテーマ「心の世界を求め、心で目的を達成する」というお話をさせて頂きました。
 今思えば、あの頃はまだ日本社会も正常だったなぁ・・・と、もはや隔世の感すらあります。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/371819/2020-04-20

 その約二カ月後、政府から最初の緊急事態宣言が発令され、以降、現在までずっと異常な社会が続いております。



 この二年間、社会の変化や世間の風潮を見るにつけ、自分の率直な思いは「コロナよりも怖いのは人間だった」という言葉に尽きます。
 この「コロナよりも怖いのは人間だった」という言葉。
 実は、公益財団法人仏教伝道協会が主催する「輝け!お寺の掲示板大賞」の令和2(2020)年の大賞作品です。



 コロナ騒動が始まるや否や、転売目的のマスク買い占めに始まり、感染者(※単なる検査陽性者も含め)への差別、自粛警察、他県ナンバー車への嫌がらせ、等々、まるで、社会がそれまで表面化せずに内包していた膿を出したかのように、人間の持つ醜さが露呈しました。
 そしてそんな人々の攻撃の対象は、パチンコ店、水商売、飲食店、若者、マスクをしない者、ワクチン忌避者と、まるでイジメの蔓延る学級のように、次から次へと標的を探しては吊るし上げるという有様・・・。
 本来なら、こうした不安に取り憑かれたまま暴走する民衆を窘め、安心させてやるべきはずのリーダーが、逆に、差別や分断を更に推奨するかのような政策を推し進めようとする救いの無さ・・・。
 経済、社会を破壊し、「ディスタンス」の名の下に人間同士の繋がりを希薄化させ、自殺者も増加しました。

 しかし、そんなコロナ騒動も三年目となり、だんだんとこの騒動自体の違和感に氣付き始めた人も増えてきたように思われます。



 現在流行中の新型コロナウイルス変異株、オミクロン株は、数値データで見る限り、毒性は例年の季節性インフルエンザにも及ばないと言う専門家も多いのが実情です。
 更に、今回のような一本鎖のRNAウイルスはもともと変異のスピードが速く、またウイルスというものは、自らの生存戦略として、毒性は弱くその分感染力は強く変異してゆくものであり、最終的には一般的な「風邪」になるというのが常識だと言われます。

 したがって、意図的に新たな生物兵器としてのウイルスでも撒かれたりしない限り、今後、新たに強毒化した変異株が蔓延する可能性も低く、もうそろそろ、この騒動は終息ということで良いのではないでしょうか?・・・。
 もしも、そうはならないというのならば、寧ろ、私たち民衆一人一人の決意と自覚で「意図的に終わらせる」必要があるのではないかと考えます。



 この二年間で、社会から本来の「人間のあるべき姿」が随分失われてしまったと感じるのは自分だけではないでしょう。

 煽られるまま恐怖に囚われ、心をギスギス尖らせ、平気で人間をまるで病原菌のように扱って遠ざけ、人の行動を監視し「誰が感染させた」「誰に感染させられた」と疑心暗鬼に陥り、「ディスタンス」を叫び人間同士の温かなふれあいを希薄化させ、互いにマスクで素顔を隠し、直接会わずに何事もオンラインで済ませることを奨励し・・・。

 私たち大人が未来を担う子どもたちに遺すべき社会とは、こんな非人間的なディストピアで良いのでしょうか?。
 決して良い筈はないと自分は考えます。



 そんな訳で、今年の合氣道練心館道場のテーマは「人間のあるべき姿」。

 うちのような小さな町道場が、世の中全体の流れを変える程の影響力を持つことなど難しいでしょう。ですが、今や世界中に、同じ問題意識を持って小さなことから行動を始めている同志が沢山いることと思います。
 また、何の影響力もない小さな町道場だからこそ、却って何のしがらみもなく、同調圧力にも屈せず、純粋に真実・真理を見極め、理想の世界を追求することもできるのだとも思っています。
 ですので、今年は「人間のあるべき姿」を大切に、人間らしくやって行きたいと思う所存です。


 繰り返します。
 今年の合氣道練心館道場のテーマは「人間のあるべき姿」。

 本年も皆様からの温かなご理解、ご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
#コロナ騒動 #ブログ #仏教 #合気道 #新型コロナウイルス

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星野源さん、新垣結衣さん、ご結婚おめでとうございます!

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星野源さん、新垣結衣さん、ご結... 星野源さん、新垣結衣さん、ご結... 星野源さん、新垣結衣さん、ご結...





 令和3(2021)年5月19日(水)。
 TBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で共演された、星野源さんと新垣結衣さんのご結婚が発表されました。

 実は、平成28(2016)年12月のブログに書かせて頂きました通り、当道場は、星野源さん新垣結衣さんのお二人が、社会現象にもなった「恋ダンス」の練習をされた世界で唯一の武道道場です。
 更に、星野源さんとは、目に見えない不思議なご縁で結ばれた道場(?)と言っても良いでしょう。

 あれから5年近くも経ったことですし、お二人へのお祝いの氣持も込めて、自分にとっても「懐かしく、同時に少し悲しい思い出ともリンクしながら、それでいて楽しく『不思議』な思い出話」として、当時のことを再び書きたいと思いました。
 平成28(2016)年のブログと重複する内容もあるとは思いますが、読んで頂けたら幸いです。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/286079/2016-12-20



 平成28(2016)年9月19日(月・敬老の日)。
 テレビ番組制作会社から一本の電話があり、「テレビのロケで道場を使用させて欲しい」という依頼がありました。
 その時、まず最初に頭の中を過ったのは、昔、某バラエティー番組の撮影に学校全体で協力したものの、「番組を面白くするため」という口実のもと、校内をメチャクチャにされ、撮影後の原状復帰が大変だったという、知り合いの学校教員から聞かされたボヤキでした。
 それ故、当初自分は、過分に警戒心を持って対応をしていましたが、詳しく話を聞くと「TBS秋の新ドラマ撮影の楽屋/控室として、可能ならば是非道場を使わせて頂きたい」「道場の外観や内装に原状復帰できないような手を加えたりすることは全くありませんので、どうかご心配なく」とのことでしたので、「それなら稽古のない日/時間でしたら全然構いませんよ」とこちらも快く承諾しました。
 巨匠、黒澤明監督は、映画の撮影のためなら邪魔な家一軒丸ごと解体させた、などといった逸話(都市伝説?)がありますが、考えてみれば今の時代にそんな暴挙が許される筈もなく、自分も少々心配し過ぎだったかな、と今となっては恥ずかしい氣持です。

 そして翌日、9月20日(火)の午前中。
 『逃げ恥』の制作主任だったWさんが直接道場に下見に来られました。
 自分はそれとなく「明日は有名な俳優さんが来る予定なんですか?」と訊いたところ、Wさんは「くれぐれも内緒にして欲しい」という前置きで、新垣結衣さん、星野源さん、宇梶剛士さん、富田靖子さん、石田ゆり子さん、といった錚々たるスターの名前をこっそりと教えてくれました。
 自分は驚いて「えぇ~、そんな有名な方々が来られるんですか?何のおもてなしもできませんが、何だか却って恐縮です」と思わず興奮気味な声を出してしまいました。
 そして万一、このことがアッという間に世間に広く知れ渡って、ファンの方々が大挙して押し寄せて来ようものなら、ドラマの撮影に悪影響があるばかりでなく、道場まで揉みくちゃにされてしまいそうだなぁと「これは絶対に秘密にしなきゃな・・・」と心に強く思いました。
 また一方で、「実は自分・・・、星野源さんには個人的にちょっと思い入れがあるんですよ・・・」と白状し、平成24(2012)年に母がくも膜下出血で倒れて後、長い闘病生活中に、星野源さんも同じ病で倒れられて、ずっと母と共に星野源さんの病気平癒を祈っていた旨をチラッとだけ告白しました。
 「ファンだと知られたら変に警戒されてしまうかな?」と思い、「安心して下さい。ご迷惑はお掛けしません。明日は基本的に、自分は二階の住居にいますから」と伝えましたが、「あの星野源さんがうちに来られるのか・・・」と思うと内心では感慨深いものがありました。

 因みに、母は1年以上の闘病の末、平成25(2013)年8月初めに帰らぬ人となってしまいましたが(※星野源さんの二度目の手術がちょうどその頃でしたね)、星野源さんはその後見事に復活されました。
 平成27(2015)年の大晦日。
 元気に回復された星野源さんが『NHK紅白歌合戦』に初出場し、ヒット曲『SUN』を歌っている姿を見た時は、本当に感無量の思いで、不思議と涙が止まりませんでた・・・。



 話を元に戻します。

 9月21日(水)の朝。
 制作主任のWさんを始め、スタッフの方々が続々と集結し始め、道場内に衣装やメイク用の鏡台、休憩用の椅子やテーブル等が設置されました。
 お昼前に撮影が一旦休憩に入り、道場の鍵を開けに行った時、ふと、道場内に、普段は扉に隠された状態の大きな鏡があることを、関係者に伝え忘れていたことに氣付きました。
 「こちらの鏡だと全身がチェックできて便利ですよ、是非有効に使って下さい、何か困ったことがあれば遠慮なく呼んで下さいね」と言って鏡を開けて立ち去ろうとした時、ちょうど午前中の撮影を終えた新垣結衣さんがやって来られました。

 目の前で拝見して驚いたのは、思っていたよりずっと長身だったということでしょうか。
 芸能界に疎かった自分は、「ガッキー」という可愛らしい愛称で呼ばれているくらいだから、てっきり小柄で可愛らしいアイドル的な雰囲気の方だと思っていましたが、実際の新垣結衣さんは、その時はジーンズにスニーカー、黄色い半袖のニット(※『逃げ恥』の「森山みくり」の衣装ですね)に、ベージュのストール(※後に第5話で登場しました)を羽織ったカジュアルな服装でしたが、長身に長い脚と小さなお顔で、ファッションモデルのようなスタイルの良さが際立ち、「可愛い」というよりは、むしろ、本当に「美しい」「綺麗な」方だということを思い知らされました。
 新垣結衣さんを目の前にして、自分は「あっ、どうも~」しか言えなかったのが未だに心残りです。もう少し気の利いた挨拶ができなかったものか、悔やまれるところです。



 新垣結衣さんが休憩に入られてから暫くして、星野源さんがやって来られました。
 自分は二階の窓から見ていたのですが、白いミニバンがスーッとエンジン音もなく道場の前で止まり、後部のスライドドアが開くと、黒いキャップにマスク姿の星野源さんが一人で降りて来られ、そのまま迷わずに道場の中に入って行かれました。
 練心館道場の小・中・高生の若い生徒さんの中には、親御さんに車で送り迎えしてもらっている子も多く、「何だかいつも見慣れた光景に似ているな・・・」なんて思いながら、「星野源さんが道場の生徒さんだったらどうだろう?上達するかな?・・・」などと妄想してしまう自分が可笑しく、一人でニヤニヤしてしまいました。

 因みに、宇梶剛士さん、富田靖子さん、石田ゆり子さんのベテラン勢は隣の「すみれが丘会館(町内会館)」を控室にされていて、新垣結衣さん、星野源さんの若い主演のお二人が、大勢のスタッフと共に道場を控室にされていました。

 お昼休憩の時間、道場では、まだ発売前の星野源さんのニューシングル『恋』のイントロ部分とアウトロ部分が何度も何度も繰り返し大音量で流され、そのうち、リズムに合わせて「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」と掛け声と共に手拍子を打つ音も聞こえてきました。
 その時は「いったい何をやってるんだろう?」と不思議に思っていましたが、この疑問は、後にドラマのエンディングを見て解けました。
 先程自分が開けた道場の大きな鏡の前で、お二人で「恋ダンス」の練習をされていたのでしょう。
 後にこの「恋ダンス」は社会現象と言われる程の大ブームとなりましたが、星野源さんと新垣結衣さん、ご本人たちが「恋ダンス」の練習をされた「武道道場」というのは、間違いなく世界で唯一うちだけだろうと今でも自慢です。



 お昼休憩が終わり、午後の撮影がスタートしました。
 新垣結衣さんはマスタードイエローのロングスカンツに青いストライプのシャツ(※これも『逃げ恥』の「森山みくり」の衣装ですね)、星野源さんは黒縁のメガネを掛け、灰緑色のパンツに白いシャツ、その上に青いカーディガンの姿(※『逃げ恥』の「津崎平匡」の衣装ですが、この「青いカーディガン」は放送では一度も登場しませんでした)に着替えられ、二人仲良く揃って、颯爽と撮影現場へと向かわれました。

 その後、お二人が道場に戻ってくることはありませんでしたが、スタッフの方々が全ての後片付けを終えて撤収するのは、完全に空が暗くなっている頃でした。
 その日は早朝の6時台から準備が始まっていたことを考えると、私たちをいつも楽しませてくれるこの「テレビドラマ」というものの制作現場は、本当に大変な仕事なんだな・・・と思い知らされ、頭の下がる思いでした。




 10月になり、待ちに待った『逃げるは恥だが役に立つ』の放送が始まりました。


 第1話を見て、「不思議な偶然もあるものだな・・・」と驚いたのが、ドラマの中で、新垣結衣さん演じる「森山みくり」と星野源さん演じる「津崎平匡」が契約結婚して同居するマンションの、設定上の架空の住所(※どうやら横浜市にある実在の地名をランダムに組み合わせて創ったようです)が、自分の実家の住所とほぼほぼ同じだったことでした(※番地は違っていましたが、ドラマに登場した番地と現実の実家の番地との距離は、僅か20m程しかありません)。
 またドラマでは、「○○○一丁目」と縦に書かれた住所表示の青いプレートが撮影用小道具として電柱に付けられていましたが、それと同じもの(※本物)は実家の目の前の電柱にも付いています。


 第2話は、「津崎平匡」の職場の同僚が家に遊びに来るという話でした。
 星野源さん演じる「津崎平匡」が、同僚と駅前で待ち合わせるシーンを見て「どこか見覚えのある場所だな?」と思いハッと気付かされました。
 そこは、くも膜下出血で倒れ遷延性意識障害になってしまった母が、平成24(2012)年の夏から亡くなるまでの一年間、人生最期の時を過ごした療養型病院の最寄り駅、相鉄いずみ野線の「南万騎が原駅」でした。
 第1話での偶然もあったばかりなので、「これも不思議なご縁だな・・・」と自分は妙に感心してしまいました。


 そして第3話を見て、これらの一連のシンクロニシティは単なる偶然ではなく、きっと目に見えない世界のお導き、ご縁があるに違いない、と自分は確信するに至りました。


 第3話では、石田ゆり子さん演じる「土屋百合(森山みくりの伯母)」の運転する車で、皆で山梨県へ遊びに行くという話でした。
 そして、ドラマでも重要なシーンのロケ地として、勝沼町の古刹、大善寺が登場した時は、まさに驚愕の思いでした。
 『逃げ恥』ファンにとっては、国宝である大善寺薬師堂の中での「みくり」のセリフ「私は、平匡さんが一番好きですけど、しみじみと、しっくり、落ち着いて・・・」は、印象的な名シーンとして記憶に残っているのではないかと思います。


 実は、平成24(2012)年に母がくも膜下出血で倒れて後、たびたび病気平癒の願掛け(※星野源さんが母と同じ病で倒れられて後は、一緒に星野源さんの回復も祈願していました)に参拝しに行っていたのがこの大善寺でした。
 切っ掛けは、たまたま母が倒れる直前に、自分が大善寺にお参りしていた、ということでした。


 大善寺は奈良時代から続く由緒ある古刹で、ご本尊が国指定の重要文化財である秘仏の薬師三尊像(※薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)だったことからも、もしかしたら病気平癒の御利益もきっとあるのではないか?と、何かしら不思議なご縁も感じられて、当時は藁をもすがる思いで参拝していました。
 その後、結局は母が亡くなった直後にも、お世話になったご挨拶も兼ねて参拝しましたし、お墓への納骨直後のタイミングで、五年に一度の本尊の御開帳もあり、秘仏の薬師三尊像をありがたく拝ませて頂きました。


 因みに現在でも、毎年、大善寺に参拝するという習慣はずっと続いており、星野源さんと新垣結衣さんが当道場に来館された平成28(2016)年9月の、ちょうど一か月前にも参拝したばかりでしたし、五年に一度の本尊の御開帳を拝ませて頂くことも、その後もずっと欠かしていません。




 そんな訳で、図らずも自分にとっては、星野源さん、新垣結衣さん、そしてTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』は、生涯忘れることのできない、目に見えない世界のご縁で結ばれた(?)特別な存在、となってしまいました。

 この度、お二人がおめでたくご結婚されるというニュースを知り、後出しジャンケンのように聞こえるかも知れませんが、自分は、いつかこのような日が来る予感がずっとしていました。
 これも間違いなく目に見えない世界のご縁であり、運命であり、必然なんだろうなぁ・・・、と自分は確信しております。


 星野源さん、新垣結衣さん、これからもずっとお二人を応援しつつ、末永く、健康でお幸せに過ごされることを祈っております。
 またご縁がありましたら、是非、「最強開運スポット(?)」でもある合氣道練心館道場にいらして頂きたく、お待ちしております。
#ブログ #仏教 #合気道 #武道 #芸能

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合氣道は「縁」の学び

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 《三千世界一度に開く梅の花》...  《三千世界一度に開く梅の花》
 2月に母・祖母のお墓参りに行った時、寺の境内に咲いていた蠟梅です。
 この寺の先代御住職は、世界的な仏教学者で、天道流合気道の清水健二先生の高弟でもあり、『禅と合気道』の著者としても有名な故鎌田茂雄先生でした。
 これも自分と合氣道を結ぶ不思議なご縁の一つです。





 以前このブログで、合氣道の稽古は「愛し愛され方の練習」ではないか、といったことを書きました。

 「愛し上手 愛され上手 『愛』に関する考察③」
 http://jp.bloguru.com/renshinkan/236429/2015-04-07

 人間は愛さずにはいられない存在です。
 そしてこの「愛」とは、もちろん「男女の恋愛」といった狭義の意味に限定されるものではありません。
 私たちが誰かに対して、優しく親切にしたりする時はもちろんですが、腹を立てたり、失望したり、嫉妬したりする時も、大概そこには「愛」があります。
 時には「愛」があるからこそ、誰かに対して、敢えて厳しい態度で接したり、突き放したりすることもよくあるものです。

 いずれにせよ人間が、愛さずにはいられない存在ならば、せめて出来るだけ上手に、スマートに愛せないものか、「合氣道の技」はそんな「愛し方」の練習だとも言えます。

 そして、世の中の人間誰もが皆、上手に、スマートに愛せる人ばかりとは限りません。
 中には、不器用にしか愛せないような人もいます。そんな不器用な「愛」に出会った時、いちいち傷付いたりしないようにできないものか、「合氣道の受け身」はそんな「愛され方」の練習だとも言えます。

 毎年、新年度が始まり、新入生や新入社員など、多くの人が新たな環境の中でスタートするこの時期になると、いつもそのことについて考えます。

 そんな中、今年も「愛」についてあれこれ考えていると、合氣道は「愛」の学びであると同時に、仏教的な「縁」の学びでもあるのではないか?・・・、という考えがふと心の中に閃きました。



 「因縁」という仏教用語があります。

 この言葉は「因」と「縁」から成り立っています。

 そしてこの「因」と「縁」がどのようなものであるか説明するために、植物が成長する上での「種」と「それを育む環境」に譬えた話を読んだことがありました。


 植物が芽を出し成長し、いずれは花を咲かせたり実を結んだりする上では、「種」が直接的な「因」となります。
 しかし、「種」だけが単独で存在していても、そこには何の変化も進展も起こりません。
 「種」が花を咲かせたり実を結んだりするためには、また別の間接的な要因が必要で、それらが「土、そこに含まれる水分や養分、日光、二酸化炭素、成長するために適度な気温」などであり、これらが「縁」ということになります。

 そして、この「因」と「縁」は、合氣道の稽古にもぴったり当てはまるものだと今更ながら気付かされました。

 言うなれば、合氣道の技は「縁を結ぶ」稽古であり、考え様によっては、仏教の教えである、「悪縁」も自らの心の持ち方次第で「善縁」に変えてしまう、という稽古ではないかと思えるのです。



 合氣道の形稽古は、基本的に、二人で一対一組となり向き合うところから始まります。
 そして、このままお互いに何もしなければ何も始まらず、この状態では、それぞれは単独で存在する「種」のようなもの、つまり「因」に譬えられます。

 しかし、ひとたび「受け」の者が「胸突き」や「正面打ち」などの所謂「攻撃」を仕掛けた瞬間、そこに「縁」が生じます。
 「投げ」の者は、この「縁」に自らを調和させ一体化させなければなりません。まさに、「縁結び」です。
 したがって、合氣道の「受け」の者が仕掛ける「突き」や「打ち」または「取り」は、敵の「攻撃」というよりは、むしろ、自身に訪れた結ぶべき「縁」であると捉えた方が稽古の質も高まるでしょう。

 もちろん、そのままその場所にまごまご突っ立っていたら短刀で突かれ、刀で斬られてしまうではないか、と考えれば、やはりそれは敵の「攻撃」と捉えることもできます。
 そう考えるならば、「受け」の者の仕掛けてきた「突き」や「打ち」「取り」は、不意に我が身に降り掛かってきた「悪縁」という捉え方もできます。
 しかし、「悪縁」も自らの心次第で「善縁」に変えられるという仏教の教え通り、合氣道ではそんな「縁」に対してもしっかりと調和し「縁結び」します。
 そしてお互いを一体化させたまま協力して、一つの美しい形を創り上げるのです。

 合氣道の稽古とは、一粒の「種」のように「因」にしか過ぎなかった者が、「受け」の仕掛けてくれた「縁」に対して誠実に「縁結び」することで、その瞬間、その場所にだけ生起する、一期一会の美しい花を咲かせる練習だとも言えるのではないでしょうか?。



 ところで、人間社会のあらゆる場所でさまざまな「縁」が生じ、それらが複雑に入り組んで、響き合い、重なり合っている様子は、まるで海上を波が覆い尽すようにうねっている姿に似ています。

 太陽の熱によって地球上の大気は大循環を起こし、そこに地球の自転が加わり貿易風や偏西風といった風が生まれます。
 地球の重力と月や太陽、惑星の重力が引き合うことで、潮の干満、潮流が生まれます。
 海上の波は、そういった風と天体の重力の影響が複雑に絡み合って生じるといいます。

 同じ様に、人間社会にも、絶えずさまざまな要因が複雑に絡み合い、波が海上を覆い尽すように、「縁」もこの世界を覆い尽しているのでしょう。

 そして日々の生活の中でも、私たちには、さまざまな「縁」が次々と訪れ、時には「悪縁」や「腐れ縁」が身に降り掛かって来ることもあります。

 私たちは、「善縁」はしっかりと結んで逃がさず、「悪縁」も自らの心持ち次第で「善縁」に変えていけるよう努力しなければならないのでしょう。
#ブログ #仏教 #合気道 #武術 #武道

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仏教の二重構造 合氣道の二重構造

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 ほぼ3カ月振りの投稿です。

 そして話はやはり3カ月程前のことになってしまいますが、深夜にNHKのEテレで放送していた番組を視て、合氣道のことについて色々と考えさせられました。

 それは、普段は水曜日の夜10時から放送されている「100分de名著」という番組で、その時は『ブッダ最期のことば』というタイトルで、全4回が一挙再放送されていました。
 内容は、お釈迦様の最後の教えと言われている「涅槃経」を、仏教学者で花園大学教授・佐々木閑先生の解説で分かりやすく説くものでした。

 その中で佐々木先生は、「仏教の二重構造」という話をされていました。

 この「二重構造」というものは、合氣道の世界にもぴったり当てはまるものであり、この「二重構造」を、何とか一つにまとめて解消できないものか?というのが、ささやかながらも自分の長年の問題意識でもありました。



 佐々木先生の仰る「仏教の二重構造」とは、一方が「出家修行者(※修行者集団である、サンガ・僧伽)」であり、一方が「在家信者(一般社会)」というものです。

 「出家修行者(サンガ)」の目的は、修行によって、煩悩を吹き消した状態である「涅槃」、いわゆる「悟り」の境地に入ることであり、それは、普通の人間社会では叶わない「特別な生き甲斐」を求めることだとも言えます。

 一方、「在家信者(一般社会)」の目的は、「布施(善行)」を行うことで、いわゆる仏教思想「因縁果報」でいうところの、よき「果報」を得ることだと言います。

 普通ならば、「在家信者(一般社会)」の側だけで人間社会は成り立っているのですが、彼らは敢えて「お布施」をすることで、「出家修行者(サンガ)」の人々の生活を支え、その代わりによき「果報」が得られると信じる。
 一方で、「出家修行者(サンガ)」は「在家信者(一般社会)」が納得するような立派な修行の姿を見せて、満足を与える。

 佐々木先生は、この「二重構造」こそが、この世にある、あらゆる「生き甲斐」を追求する社会・組織のあり方だ、と仰っていました。
 そして、今までに無いような新しい文化を生み出せる人たちは、「出家修行者(サンガ)」のような、一般社会の文化の価値観の外側にいる人たちである、とも仰っていました。



 この世にある、あらゆる「生き甲斐」を追求する社会・組織は、この「二重構造」で成り立っている。

 何となく解かるような気がします。



 数年前、パワースポットブームというものがありました。

 どこそこの神社やお寺にお参りすると、運気が上昇するとか、宝くじが当たるとか、素敵な恋人ができるとか、色々と喧伝され、場所によっては、あまりに大勢の人が押し掛けてしまい、問題にもなっていました。
 テレビでは、経済アナリストと呼ばれる人たちが、パワースポットブームによる経済効果は云々で実に素晴らしい傾向である、などと評価していました。

 しかし、当のパワースポットブームの仕掛け人(?)ともいうべき、そして「パワースポット」なる言葉を世に知らしめた張本人である、かの江原啓之さんは、そんなブームをやや苦々しく語っていたのが印象的でした。

 パワースポットとは、本来、神仏の前で、自分が更に努力・精進します、と決意を固めるために行く場所であって、お金や異性、名誉や出世などの現世利益を求めて行く場所ではない、とのことです。

 しかし、皮肉にも、そうした現世利益を求める人々が大勢押し掛けることによって、多くの寺社仏閣が潤い、組織運営面では支えられた、というのも事実でしょう。
 
 まさに、パワースポットに集う多くの人々=「在家信者(一般社会)」の目的は、お参りしたり御札や御守を買う=「布施(善行)」を行うことによって、現世利益=よき「果報」を得ようとすること。
 
 一方で、江原啓之さんのように「スピリチュアリスト」と呼ばれるような、ある種の「出家修行者(サンガ)」に属するような立場の人にとっては、神仏の御前で己の更なる努力と精進を誓うといった、俗世間では得られない「特別な生き甲斐」こそが魂の喜びであり、そういった意味でもパワースポットを訪れることには深い意味がある、ということなのでしょう。



 合氣道の世界も、まさにこの「二重構造」で成り立っているといえるのではないでしょうか。



 今や合氣道は、日本中、世界中の人々に広まっていますが、そうやってお稽古している人々のその大半は、合氣道とは、相手を投げ飛ばして抑え込んでやっつけるための技だと思っている、という実情があるのではないでしょうか?
 本来、合氣道はそんなものではないのですが、こういった状況は結果として仕方なく生まれてしまったものだと、個人的には思っています。



 世間一般では、武術・武道とは、鍛えて鍛えて「強く」なって、その「強さ」に物言わせて相手をやっつけるものである、という認識が多いようです。
 しかし、己の「強さ」を根拠にして他者を制圧する、ということが成功する場合、それが成功するのは、間違いなく相手の方が「弱い」からである、という図式が成り立ちます。
 スポーツゲームの試合では、それでお互いが正々堂々とぶつかり合い、遊びとして勝敗を競うものなので構いませんが、その方法論を実社会で実践することが、いわゆる「弱いものいじめ」だと個人的には考えます。

 そもそも、古来「武術」に於いては、「強くなる」という発想はなかった筈です。

 ルールも審判も制限時間もない戦闘では、襲撃する時は、武器や人数を最も「強い」安全な状態に、準備万端整えてから行うのが理想であり、逆に襲撃される時は、武器や人数なども含めて、最も「弱い」状態の時が一番狙われました。
 つまり、命を懸けて戦わざるを得ない状況に追い込まれてしまった時とは、基本、相手のほうに分がある状態であり、そういった絶体絶命の状況下、何とか命だけは守れぬものか、という場面で「術」というものが要求され、そこから「武術」というものが発展してきたと言えます。
 
 「強くなる」ではなくて、そもそもの初期設定が、自分のほうが「弱い」から始まります。

 その結果、「武術」では表面的な「強さ」ではなく、全く「質」の違う身体操作や、「心法」としての精神性が発達しました。

 そして時は流れ、開祖・植芝盛平先生は、「武術」の「質」を土台にして(※魄)、その上に、闘争という低次元の世界から脱却した、愛と調和の花を開かせる(※魂)、真の「武道」、合氣道を創始されたのです。



 しかし今、この植芝盛平先生の高尚な合氣道の思想は、合氣道を習う多くの一般の生徒さんたちや各学校のクラブ活動の部員さんたちには、なかなか理解されていないのが現状ではないでしょうか?



 戦後、合氣道は日本中、世界中に広く大きく発展しました。

 しかし、入門者の中には、安易な闘争術・制圧術としての「強さ」を求めている者も多く、組織を大きく維持するため、有体に言えば、顧客満足度を高めるためにも、手っ取り早く相手を痛め付ける技を教えたり、ポンポンと簡単に昇級・昇段させたりせざるを得ない、という現状があることは否めないと思います。

 一方で、合氣道の世界には、依然として、尊敬すべき素晴らしい師範・先生方も数多くいらっしゃいます。こういった先人たちの深みのある言葉から、私自身、いつも多くを学ばせて貰っています。
 そして、これらの先生方に共通する特徴として、心の修行にこそ重点を置かれておられ、安易な闘争術や制圧術などには殆ど興味がないように感じられます。

 高名な師範や先生方は、仏教に譬えるならば、言わば「出家修行者(サンガ)」の側の人々であり、彼らの目的は、修行によって万有愛護の心を持ち、延いては己自身を宇宙そのものと一体化すること。つまり、俗世間では叶えられない「特別な生き甲斐」を求めて、日々精進されていると言えます。

 逆に、一般生徒の多くは「在家信者(一般社会)」の側の人々であり、彼らの目的は月謝という「お布施」によって組織・団体という「サンガ」を支え、その代わりに「強くなる」という「果報」を得ようとする、といった所でしょうか・・・。



 前述した仏教学者、佐々木閑先生は、世の中にある、あらゆる「生き甲斐」を追求する社会・組織はこの「二重構造」で成り立っており、これが正しい在り方なのだとも仰っていました。

 しかし実は、10年前、私が練心館の館長を継いだ時、心に描いた理想が、この「二重構造」を何とか一本にまとめられないものか、というものでした。

 そして最近、手前味噌な言い方で甚だ恐縮ですが、練心館のような小さな道場だからこそ、この「二重構造」は解消できるのではないか、と思えるようになってきました。

 大勢の人が集う巨大組織ならいざ知らず、練心館のような少人数の小さな道場では、師範と生徒の距離が近く、何事も細かく丁寧に教えることができます。
 
 開祖である植芝盛平先生の説かれた教えを尊重するならば、合氣道の道場とは、俗世間では得られない「特別な生き甲斐」を求め、それが得られる、修行者集団「サンガ」のような場所であるべきだと考えます。

 そういった意味では、道場という組織・集団に「二重構造」があるのではなく、先ずはそこに集う人々、一人一人の内面にこそ、二つの世界(「二重構造」)を持ってもらうことが先決です。

 普段は企業戦士として、あるいは受験生、就活生として、熾烈な競争社会の中で必死に戦っているような人でも、一歩道場の中へ足を踏み入れれば、そこでは勝ち負けとか強い弱いとかいった、俗世間の価値観から解放され、「万有愛護」「我即宇宙」といった普通の人間社会では叶わない種類の、「特別な生き甲斐」が得られる。
 
 練心館も、そんな場所として完全に機能することができたとしたら、合氣道の道場としては、まさに理想的ではないかと思います。



最後に、合氣道開祖・植芝盛平先生の言葉を引用します。

 植芝の合気道には敵がないのです。相手があり敵があって、それより強くなりそれを倒すのが武道であると思ったら違います。
 真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることなのです。宇宙の中心に帰一することなのです。合気道においては、強くなろう、相手を倒してやろうと練磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一しようとする心が必要なのです。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり愛の道なのです。(『武産合氣』P192)

#ブログ #仏教 #合気道 #武術 #武道

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