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合氣道練心館 館長所感集

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 合氣道 練心館道場
(別窓で練心館道場のサイトが開きます)

辰年 開運!『龍雲』コレクション

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 令和3(2021)年8月10...  令和3(2021)年8月10日午後、山梨県北杜市小淵沢町の身曾岐神社参拝後。
 ギラギラと輝く真夏の太陽と共に咆哮する?力強い姿です。
 平成29(2017)年8月9...  平成29(2017)年8月9日午後、同じく山梨県北杜市小淵沢町の身曾岐神社参拝後。
 後にも先にも、これ程巨大な龍雲は見たことがありません。まさに龍王と呼ぶのに相応しいのでは?
 因みに合氣道開祖、植芝盛平先生の崇拝する神様に『天之叢雲九鬼サムハラ龍王(アメノムラクモクキサムハラリュウオウ)』大神という神様があります。
 令和元(2019)年5月4日...  令和元(2019)年5月4日午後、埼玉県坂戸市の道教神社、聖天宮参拝中、晴れていた空が突然掻き曇り、雷鳴が鳴り響き、上空に無数の龍雲が入り乱れたような姿となりました。
 生涯忘れられない奇跡の様な体験だったと思います。
 ここは「五千頭の龍が昇る聖天宮」と言われ、屋根の上は勿論、壁や柱の石(灰色)にも無数の龍が彫られています。前後左右だけでなく上空までも同じような無数の龍に取り囲まれて壮観でした。
 因みに、こちらが聖天宮境内に...  因みに、こちらが聖天宮境内に彫られた龍(の一部)です。  令和5(2023)年5月3日...  令和5(2023)年5月3日午後、埼玉県日高市の高麗神社と聖天院(しょうでんいん)勝楽寺参拝後。
 雲一つ無いような晴天でしたが、聖天院参拝後、境内の方を振り返るとS字状の龍雲がありました。
 平成30(2018)年8月1...  平成30(2018)年8月11日昼頃、山梨県甲州市勝沼町の大善寺(葡萄薬師)参拝中。
 これは可愛らしい子どもの龍でしょうか?
 右上にはこれもまた可愛らしいネズミの顔もあります。
 平成25(2013)年1月1...  平成25(2013)年1月1日朝、初詣に横浜市戸塚区の舞岡神社参拝直後、見知らぬ不思議な紳士に「あの雲をご覧なさい」と声を掛けられ、急いで写真を撮りました。
 巳年の元旦だったので、これは龍雲ではなく蛇雲かも知れません。
 猛スピードで東の空に飛び去って行ったのが印象的でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 皆様、明けましておめでとうございます。
 
 令和6(2024)年は、元日から北陸地方で大きな地震や津波が発生し波瀾のスタートとなりました。
 被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
 
 
 
 辰年の始めにあたり、自分が今まで撮影した龍雲をいくつかご紹介しようと思います。
 
 先代より合氣道練心館の館長を継いでから趣味が仕事となってしまい、自分に残された唯一の趣味といって良いものが、神社仏閣参拝だと言えます。
 
 そしていつの頃からか、神社仏閣参拝後によく不思議な雲が現れるということに氣付き、チャンスがあれば写真を撮るようになりました。
 元々、子どもの頃から霊的な不思議体験の多いスピリチュアル系人間だったので、こうなることも必然だったのかも知れません。
 
 
 
 ということで、新しい年の初めにあたり、これらの写真をご覧になられた方々が、昇り龍の如く運氣が向上し、皆に龍神様の御加護があります様、お祈り申し上げます。
 
 本年も宜しくお願い申し上げます。
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感じ取る力

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今年の館長演武は何と中学生が元... 今年の館長演武は何と中学生が元氣一杯に受けを取ってくれました。 大人クラスの演武です。女性の袴... 大人クラスの演武です。女性の袴姿は凛々しくて素敵ですね。 子どもつづきクラス(小3~)の... 子どもつづきクラス(小3~)の演武です。子どもの頃からきちんと「感じ取る力」を養っていって欲しい。 子どもすみれクラス(~小2)の... 子どもすみれクラス(~小2)の演武です。子どもたちの笑顔が溢れる健全な社会に一日も早く戻りますように。
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 令和5(2023)年1月15日(日)。
 練心館道場では演武会も兼ねた大きなイベントである「鏡開き」が無事行われました。
 当日は多くの方々にお越し頂き、誠にありがとうございました。





 さて、「鏡開き」と言えば、毎年、館長年頭挨拶としてその年の練心館道場のテーマを発表しております。

 昨年は「人間のあるべき姿―コロナよりも怖いのは人間だった―」と題して、コロナ禍で社会から大きく失われつつある本来の人間らしさを、もうそろそろ取り戻す方向に皆がマインドチェンジして行かないと、却って取り返しのつかない事態になり兼ねないと、僭越ながら警鐘を鳴らさせて頂きました。

 https://jp.bloguru.com/renshinkan/431033/2022-02-09

 そして、今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。

 ということで、例年通り予め原稿等は無く、当日お話した内容を思い出しながら、以下、書き進めて行こうと思います。
 最後までお読み頂けたら幸いです。
(※鏡開き当日、ご来場下さった方々はご理解頂けると思いますが、本年も文字化に当たり、話の内容を一部割愛させて頂きましたことをご了承下さい。)





 皆様、明けましておめでとうございます。
 今年もこうして多くの方々にお集まり頂き、「鏡開き」のイベントができることを心より感謝申し上げます。

 毎年、「鏡開き」の館長年頭挨拶では、その年の練心館道場のテーマを発表させて頂いております。
 早速ですが、今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」で行こうと思いました。
 このテーマに思い至る切っ掛けとなったのは、昨年11月中旬に目にしたある方のツイートでした。
 そのアカウントは、社会で「発達障害」とか「ギフテッド(特定の分野で突出した才能を持っている)」等とされる子どもの子育てについて提言をしているものでした。
 若干表記表現が違うかも知れませんが、そこにはこんなことが書かれていました。

 「普段から言語より高い次元でものごとを思考・記憶していると『ある日突然できなくなる』という現象が起きやすいのではないか。言語というものは決して万能ではないが、あらゆる分野で常に安定的成果が求められる現代社会では、やはり有効なツールである。」

 この文章を読んで真っ先に浮かんだことは、合氣道開祖、植芝盛平先生に代表されるような武術・武道の世界で天才的な達人・名人と呼ばれる先生方のことでした。

 武術・武道の世界で天才的達人・名人と呼ばれている方の多くが、まさに言語を超越したもっと高い次元で技を繰り出し、それを理屈ではなく身体で記憶しているのだと思われます。
 そして、それらの「神業」と呼ばれるものが心の状態如何によって上手く行ったり行かなかったりすることを経験する中で、常に心を求め、心を整える必要性に氣付くのではないかと思われます。
 それ故、こうした天才的武術・武道家の多くが最終的に神や宇宙、愛などを説く様になり、ある意味、宗教的になるのは必然なのではないかと思われます。
 合氣道開祖・植芝盛平先生は口を開けばいつも日本神話の神様の話をされておられ、弟子が技について技術的な質問をしてもそれに対して延々と神様の話をされるので閉口した、といった類のエピソードは枚挙に暇がありません。

 一方で、何事も言語を通して思考し記憶している所謂「凡人」とも言うべき我々一般人は、「心」の様な実体のない雲を掴むような話はどちらかというと苦手です。
 そんな我々が技術の再現性を保つために必要なのが言語化された理論なのでしょう。
 現在、武術・武道の世界の多くの者が常に追求しているのが「身体操作」や「武術理論」だと言えます。
 言語で思考し言語で記憶している一般的な現代人である我々が、どうすれば達人技を体現出来るのか、そしてそれを体得したとしても、どうすればそれを弟子にきちんと伝えられるのだろうか。結果として言語で説明できる「身体操作」や「武術理論」に頼らざるを得ないのも必然なのだと思われます。





 しかし、ここで思い起こされるのが、令和2(2020)年「鏡開き」の年頭挨拶でお話したその年の練心館道場のテーマ「心の世界を求め、心で目的を達成する」です。

 https://jp.bloguru.com/renshinkan/371819/2020-04-20

 ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは、弓道の伝説的名人、弓聖、阿波研造(あわけんぞう)先生に弟子入りし、技術を追求し鍛練を重ねるスポーツとは根本的に次元の違う、日本古来の弓道の稽古法に数々のカルチャーショックを受け、後に名著『日本の弓術』を著します。

 師である阿波研造先生の教えは、とにかく力を抜き心身の強張りを取り去り、我を捨て去ることでひたすら無心となり、そうすることで、自身の現状と目標とする状態との間に目に見えない橋を架けて繋げ、それらを自然に一体化させていくといったような、高度に精神的な方法でした。

 何事も科学的根拠を優先し合理主義を重んずるような現代人にとっては、それは非常に非効率的でコストパフォーマンスの悪い方法に感じられるのでしょうが、もともと、近代化以前の日本では、あらゆる分野でこういった心を求めて目的を達成するような精神的な方法が行われていたのではないかと思われます。

 近代(西欧)科学の基本的態度は「主観」と「客観」の分離だといいますが、私自身、今までも色々な生徒さんを見るにつけ、高度に知的な教育・訓練を受けて来たような方に限って、稽古でも、技を客観的分析対象として自身から突き離し、主観である自分がつぶさに観測しようとするせいで、いま一つ身体も魂も技に没入できていないという姿を見てきました。
 あらゆる雑念を取り払い、身体も魂も没入させることを仏教では「三昧(ざんまい)」と言いますが、阿波研造先生の説かれた弓道の教えもそれに近いものではないかと思われます。
 そして、ほぼ100%の人々が近代的学校教育を受け、所謂「科学的態度」を身に付けた現代社会において、この非効率的な「心の世界を求め、心で目的を達成する」ようなやり方は、今や絶滅の危機に瀕していると言えるのかも知れません。

 しかし、日本の武道というものの本来の稽古・修行のあり方は、むしろこの「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法なのではないかと思います。
 そして、それは言い換えれば、「言語を超えた次元で思考・記憶し、常に心を整えることでそれを体現する」ということなのではないでしょうか。

 そして「言語を超えた次元」や「心を整える」といったこと、これらを常に忘れずに稽古・修行することで磨かれるのが「感じ取る力」だと言えます。

 武術・武道界に信奉者が多いことでも知られる野口整体の創始者、野口晴哉(のぐちはるちか)先生も、すでに昭和の時代に、現代人が最も失ってしまった人間に本来備わっていた素晴らしい能力が「感じ取る力」だとしきりに仰っていました。

 近代化以降、日本人が脈々と受け継いできた精神的文化の多くが非科学的な迷信だと斥けられ、戦後、合理主義や効率主義が加速する中、科学万能というやや思い上がった考え方が世間を覆い尽した感があります。

 自分自身、科学の発展の恩恵を受けながら日々暮らしている現代人ですから、科学や言語、理論を否定する氣は毛頭ありません。
 しかし、社会の現状を見るにつけ、やはり科学や言語、理論ばかりを重視する風潮が見受けられ、これは明らかに偏っているのではないか、というのが偽らざる自分の本音です。

 「科学や理論」と「人間の感じ取る力、感性」は、本来、車の両輪であって、両方がきちんと働くことで人間社会も正しく真っ直ぐに進むのだと思います。
 そして現代社会は、余りにも科学や理論ばかりを偏重し、おかしなことになってしまっている感は否めないのではないでしょうか。





 今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。

 当道場の合氣道のスタイルはもともと「氣」や「丹田」といった実体がなく未だ科学では解明されていないものを重視するものです。
 したがって、必然的に感覚、感性をフル動員して「感じ取る」ことをしなければ本質的な上達はできず、稽古を通して、現代人が失いつつある「感じ取る力」を磨き、取り戻すことができるものであると確信しています。





 昨今、世界情勢は激動し、政府やマスメディアの流す情報を、もう鵜呑みには出来ないということに段々と多くの人々が氣付いてきました。
 そんな時代を生き抜いて行かなければならない状況で、我々庶民の力強い味方となるのも、この「感じ取る力」だと思います。
 これからの時代は、政府やマスメディアが繰り返し流す情報でも、直感的に「何か変だ」「違和感がある」と感じたならば、自身を疑いながらも自ら調べ、自身の頭で考えてみてから自分なりの結論を出すのがより望ましいと思われます。
 もちろん、結論を急ぐ必要等なく「分からない」という答えのまま、しばらく保留して様子見をするというのも良い方法だと思います。





 そこで最後に、普通の市井の人間が、科学的根拠や理論等とは関係なく、当たり前に直感的に感じることが結構確かで信頼できるものだという自分の実体験を、現在の社会状況にも当てはまる一つの寓話として披露したいと思います。



 亡き父はゴリゴリの理科系の人間でした。
 東京の某有名国立大学の大学院を出て、現在のインターネットの原型とも言える「データ通信」や黎明期の「人工知能」の研究者をしていました。
 そんな父は、とにかく何に付けても理論、理屈、データ、科学的根拠、の信奉者で、人間の直感や人間的な感性等は曖昧で非科学的な物として斥ける傾向がありました。
 そんな父がある日、どこで見付けたのか、毎日飲み続けることで凄く健康に良いお茶、というものを買って来て嬉しそうに毎日それを飲み始めたということがありました。
 すると、時を同じくして父の体中に謎の湿疹が出始めたのです。
 母も自分も「原因はそのお茶意外に考えられないから、もう飲むのはやめた方が良い」とアドバイスしました。
 しかし父は受け入れてくれません。自分が良いと推奨した物を科学的根拠もなく否定されたことが科学者としてのプライドを傷付けたのでしょうか。
 父は、お茶に付属していた成分表と睨めっこし、そこに湿疹の原因となりそうな化学的成分がないか自分なりに色々と調べているようでした。
 もちろん、医学、薬学、生理学といった分野は父も全くの専門外ですが、元来、物事を科学的に調べたりすることが好きなタイプなので、若干楽しそうにしながら自分なりに色々と調べた結果、やはり、このお茶と湿疹の因果関係はないとの結論に至ったようでした。
 しかしその後、湿疹は酷くなる一方で、とうとう病院の皮膚科を受診しましたが、原因不明でただ対処療法としての薬を処方されただけでした。
 その間、家族は「とにかく一旦、あのお茶を飲むのをやめた方が良い」と言い続けていましたが、その頃になるとさすがに父も根負けして「そんなに言うなら一旦飲むのをやめてみよう」とやっとのことで折れてくれました。
 そのお茶を飲むのをやめた途端、父の湿疹はきれいに治ったのは言うまでもありません。
 「だから最初から言わんこっちゃない」「人騒がせな」と家族から顰蹙を買ってしまったちょっと可哀想な父のエピソードでした。



 さて、コロナ騒動が始まって丸3年経ちました。
 強毒株として恐れられていた武漢株やアルファ株、ベータ株が猛威を振るい、社会をパニックに陥れていた令和2(2020)年。
 蓋を開けてみれば、超過死亡数は前年比で約九千人も減少していました。
 しかし、令和3(2021)年の春以降、日本の超過死亡数は異常な上昇を見せ、その年は戦後最大の記録を出してしまいました。
 そして昨年の令和4(2022)年。日本の超過死亡数は更に尋常ではない数を記録し、現在日本の死者数はまるで戦時中と言っても過言ではない状況だそうです(これ程の異常事態になっているにも関わらず、マスメディアが余りにもきちんと報道しないことに違和感を禁じ得ませんが・・・)。
 一体何が日本人をそこまで死に至らしめているのか?
 自分は「あれ」以外に理由は考えられないと思っています。
 もちろん、真相は複雑な要因が絡んでいるのかも知れませんし、専門家でもない一介の町道場の師範が断定できるような問題ではないことは言うまでもありませんが・・・。



 いずれにせよ、我々市井に暮らす庶民がこのような激動の時代を正しく生き抜く智恵として、理屈抜きに直感的にものごとを「感じ取る力」というのは決して無駄にはならないと思われます。



 今年の合氣道練心館道場のテーマは「感じ取る力」。
 そんな訳で、今年も合氣道練心館道場を宜しくお願い申し上げます。
#コロナ騒動 #ブログ #仏教 #合気道 #弓道 #新型コロナウイルス #武術 #武道

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人間のあるべき姿 ―コロナよりも怖いのは人間だった―

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今年の館長演武は、高校生が元氣... 今年の館長演武は、高校生が元氣一杯な受けを取ってくれました。 大人クラスの演武です。袴姿が凛... 大人クラスの演武です。袴姿が凛々しいですね。 高校生の演武です。一度しかない... 高校生の演武です。一度しかない青春、悔いの無いように思い切り楽しもう! 高校受験直前でも頑張って出場し... 高校受験直前でも頑張って出場してくれました。 小学生の演武です。明るい未来を... 小学生の演武です。明るい未来を信じて頑張れ!





 皆様、お久し振りです。

 昨年(令和3〔2021〕年)は、練心館道場の約40年の歴史の中で、初めて、新年の鏡開き式典が社会状況に鑑み中止となってしまいました。
 その後も、緊急事態宣言発令とまん延防止等重点措置施行が繰り返され、春以降なぜか日本の超過死亡数が激増する(令和2〔2020〕年はコロナ禍でも超過死亡数は前年比で約9千人減少しました)という異常な年となりました。

 そんな異常な社会が今なお続く令和4(2022)年1月16日(日)。
 今年は二年振りに、無事、鏡開きの式典を執り行えたことは誠に感謝の念に堪えません。

 鏡開きでは、毎回「今年の練心館道場のテーマ」という題目で年頭のご挨拶をさせて頂いております。
 昨年は、式典そのものは中止となってしまいましたが、ブログで練心館道場昨年のテーマ「恐怖を超えてゆけ♪」を発表させて頂きました。
 何かと恐怖を煽られる社会状況の中で、私たちは冷静な思考力や判断力を失わないように、延いては恐怖に取り憑かれたまま、差別やいじめ、分断に加担しないように、そのためにも合氣道で培った胆力、和の心を活かすべき時だ、といったようなお話を書かせて頂きました。

https://jp.bloguru.com/renshinkan/392989/2021-01-14

 今年は二年振りに人前でお話させて頂けたのが嬉しく、調子に乗って要らんことをペラペラ喋り過ぎたかも知れません。
 今回も例年通り、あらかじめ原稿等は無く、頭の中にある内容をその場で思い付くままにお話させて頂きました。
 以下、色々と思い出しながら書き記していこうと思います。
(※鏡開き当日、ご来場下さった方々はご理解頂けると思いますが、今回の文字化に当たり、話の内容を一部割愛させて頂きましたことをご了承下さい。)




 皆様、明けましておめでとうございます。

 こうして二年振りに皆様の前でお話しできることが何よりも感慨深く、ご来場下さった皆様には心より感謝申し上げます。

 思い起こせば、二年前の令和2(2020)年1月。
 鏡開きの年頭挨拶では、ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルが日本滞在中、「弓聖」阿波研造に入門した時の弓道修業体験を綴った名著『日本の弓術』をもとに、その年の練心館道場のテーマ「心の世界を求め、心で目的を達成する」というお話をさせて頂きました。
 今思えば、あの頃はまだ日本社会も正常だったなぁ・・・と、もはや隔世の感すらあります。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/371819/2020-04-20

 その約二カ月後、政府から最初の緊急事態宣言が発令され、以降、現在までずっと異常な社会が続いております。



 この二年間、社会の変化や世間の風潮を見るにつけ、自分の率直な思いは「コロナよりも怖いのは人間だった」という言葉に尽きます。
 この「コロナよりも怖いのは人間だった」という言葉。
 実は、公益財団法人仏教伝道協会が主催する「輝け!お寺の掲示板大賞」の令和2(2020)年の大賞作品です。



 コロナ騒動が始まるや否や、転売目的のマスク買い占めに始まり、感染者(※単なる検査陽性者も含め)への差別、自粛警察、他県ナンバー車への嫌がらせ、等々、まるで、社会がそれまで表面化せずに内包していた膿を出したかのように、人間の持つ醜さが露呈しました。
 そしてそんな人々の攻撃の対象は、パチンコ店、水商売、飲食店、若者、マスクをしない者、ワクチン忌避者と、まるでイジメの蔓延る学級のように、次から次へと標的を探しては吊るし上げるという有様・・・。
 本来なら、こうした不安に取り憑かれたまま暴走する民衆を窘め、安心させてやるべきはずのリーダーが、逆に、差別や分断を更に推奨するかのような政策を推し進めようとする救いの無さ・・・。
 経済、社会を破壊し、「ディスタンス」の名の下に人間同士の繋がりを希薄化させ、自殺者も増加しました。

 しかし、そんなコロナ騒動も三年目となり、だんだんとこの騒動自体の違和感に氣付き始めた人も増えてきたように思われます。



 現在流行中の新型コロナウイルス変異株、オミクロン株は、数値データで見る限り、毒性は例年の季節性インフルエンザにも及ばないと言う専門家も多いのが実情です。
 更に、今回のような一本鎖のRNAウイルスはもともと変異のスピードが速く、またウイルスというものは、自らの生存戦略として、毒性は弱くその分感染力は強く変異してゆくものであり、最終的には一般的な「風邪」になるというのが常識だと言われます。

 したがって、意図的に新たな生物兵器としてのウイルスでも撒かれたりしない限り、今後、新たに強毒化した変異株が蔓延する可能性も低く、もうそろそろ、この騒動は終息ということで良いのではないでしょうか?・・・。
 もしも、そうはならないというのならば、寧ろ、私たち民衆一人一人の決意と自覚で「意図的に終わらせる」必要があるのではないかと考えます。



 この二年間で、社会から本来の「人間のあるべき姿」が随分失われてしまったと感じるのは自分だけではないでしょう。

 煽られるまま恐怖に囚われ、心をギスギス尖らせ、平気で人間をまるで病原菌のように扱って遠ざけ、人の行動を監視し「誰が感染させた」「誰に感染させられた」と疑心暗鬼に陥り、「ディスタンス」を叫び人間同士の温かなふれあいを希薄化させ、互いにマスクで素顔を隠し、直接会わずに何事もオンラインで済ませることを奨励し・・・。

 私たち大人が未来を担う子どもたちに遺すべき社会とは、こんな非人間的なディストピアで良いのでしょうか?。
 決して良い筈はないと自分は考えます。



 そんな訳で、今年の合氣道練心館道場のテーマは「人間のあるべき姿」。

 うちのような小さな町道場が、世の中全体の流れを変える程の影響力を持つことなど難しいでしょう。ですが、今や世界中に、同じ問題意識を持って小さなことから行動を始めている同志が沢山いることと思います。
 また、何の影響力もない小さな町道場だからこそ、却って何のしがらみもなく、同調圧力にも屈せず、純粋に真実・真理を見極め、理想の世界を追求することもできるのだとも思っています。
 ですので、今年は「人間のあるべき姿」を大切に、人間らしくやって行きたいと思う所存です。


 繰り返します。
 今年の合氣道練心館道場のテーマは「人間のあるべき姿」。

 本年も皆様からの温かなご理解、ご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
#コロナ騒動 #ブログ #仏教 #合気道 #新型コロナウイルス

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星野源さん、新垣結衣さん、ご結婚おめでとうございます!

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星野源さん、新垣結衣さん、ご結... 星野源さん、新垣結衣さん、ご結... 星野源さん、新垣結衣さん、ご結...





 令和3(2021)年5月19日(水)。
 TBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で共演された、星野源さんと新垣結衣さんのご結婚が発表されました。

 実は、平成28(2016)年12月のブログに書かせて頂きました通り、当道場は、星野源さん新垣結衣さんのお二人が、社会現象にもなった「恋ダンス」の練習をされた世界で唯一の武道道場です。
 更に、星野源さんとは、目に見えない不思議なご縁で結ばれた道場(?)と言っても良いでしょう。

 あれから5年近くも経ったことですし、お二人へのお祝いの氣持も込めて、自分にとっても「懐かしく、同時に少し悲しい思い出ともリンクしながら、それでいて楽しく『不思議』な思い出話」として、当時のことを再び書きたいと思いました。
 平成28(2016)年のブログと重複する内容もあるとは思いますが、読んで頂けたら幸いです。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/286079/2016-12-20



 平成28(2016)年9月19日(月・敬老の日)。
 テレビ番組制作会社から一本の電話があり、「テレビのロケで道場を使用させて欲しい」という依頼がありました。
 その時、まず最初に頭の中を過ったのは、昔、某バラエティー番組の撮影に学校全体で協力したものの、「番組を面白くするため」という口実のもと、校内をメチャクチャにされ、撮影後の原状復帰が大変だったという、知り合いの学校教員から聞かされたボヤキでした。
 それ故、当初自分は、過分に警戒心を持って対応をしていましたが、詳しく話を聞くと「TBS秋の新ドラマ撮影の楽屋/控室として、可能ならば是非道場を使わせて頂きたい」「道場の外観や内装に原状復帰できないような手を加えたりすることは全くありませんので、どうかご心配なく」とのことでしたので、「それなら稽古のない日/時間でしたら全然構いませんよ」とこちらも快く承諾しました。
 巨匠、黒澤明監督は、映画の撮影のためなら邪魔な家一軒丸ごと解体させた、などといった逸話(都市伝説?)がありますが、考えてみれば今の時代にそんな暴挙が許される筈もなく、自分も少々心配し過ぎだったかな、と今となっては恥ずかしい氣持です。

 そして翌日、9月20日(火)の午前中。
 『逃げ恥』の制作主任だったWさんが直接道場に下見に来られました。
 自分はそれとなく「明日は有名な俳優さんが来る予定なんですか?」と訊いたところ、Wさんは「くれぐれも内緒にして欲しい」という前置きで、新垣結衣さん、星野源さん、宇梶剛士さん、富田靖子さん、石田ゆり子さん、といった錚々たるスターの名前をこっそりと教えてくれました。
 自分は驚いて「えぇ~、そんな有名な方々が来られるんですか?何のおもてなしもできませんが、何だか却って恐縮です」と思わず興奮気味な声を出してしまいました。
 そして万一、このことがアッという間に世間に広く知れ渡って、ファンの方々が大挙して押し寄せて来ようものなら、ドラマの撮影に悪影響があるばかりでなく、道場まで揉みくちゃにされてしまいそうだなぁと「これは絶対に秘密にしなきゃな・・・」と心に強く思いました。
 また一方で、「実は自分・・・、星野源さんには個人的にちょっと思い入れがあるんですよ・・・」と白状し、平成24(2012)年に母がくも膜下出血で倒れて後、長い闘病生活中に、星野源さんも同じ病で倒れられて、ずっと母と共に星野源さんの病気平癒を祈っていた旨をチラッとだけ告白しました。
 「ファンだと知られたら変に警戒されてしまうかな?」と思い、「安心して下さい。ご迷惑はお掛けしません。明日は基本的に、自分は二階の住居にいますから」と伝えましたが、「あの星野源さんがうちに来られるのか・・・」と思うと内心では感慨深いものがありました。

 因みに、母は1年以上の闘病の末、平成25(2013)年8月初めに帰らぬ人となってしまいましたが(※星野源さんの二度目の手術がちょうどその頃でしたね)、星野源さんはその後見事に復活されました。
 平成27(2015)年の大晦日。
 元気に回復された星野源さんが『NHK紅白歌合戦』に初出場し、ヒット曲『SUN』を歌っている姿を見た時は、本当に感無量の思いで、不思議と涙が止まりませんでた・・・。



 話を元に戻します。

 9月21日(水)の朝。
 制作主任のWさんを始め、スタッフの方々が続々と集結し始め、道場内に衣装やメイク用の鏡台、休憩用の椅子やテーブル等が設置されました。
 お昼前に撮影が一旦休憩に入り、道場の鍵を開けに行った時、ふと、道場内に、普段は扉に隠された状態の大きな鏡があることを、関係者に伝え忘れていたことに氣付きました。
 「こちらの鏡だと全身がチェックできて便利ですよ、是非有効に使って下さい、何か困ったことがあれば遠慮なく呼んで下さいね」と言って鏡を開けて立ち去ろうとした時、ちょうど午前中の撮影を終えた新垣結衣さんがやって来られました。

 目の前で拝見して驚いたのは、思っていたよりずっと長身だったということでしょうか。
 芸能界に疎かった自分は、「ガッキー」という可愛らしい愛称で呼ばれているくらいだから、てっきり小柄で可愛らしいアイドル的な雰囲気の方だと思っていましたが、実際の新垣結衣さんは、その時はジーンズにスニーカー、黄色い半袖のニット(※『逃げ恥』の「森山みくり」の衣装ですね)に、ベージュのストール(※後に第5話で登場しました)を羽織ったカジュアルな服装でしたが、長身に長い脚と小さなお顔で、ファッションモデルのようなスタイルの良さが際立ち、「可愛い」というよりは、むしろ、本当に「美しい」「綺麗な」方だということを思い知らされました。
 新垣結衣さんを目の前にして、自分は「あっ、どうも~」しか言えなかったのが未だに心残りです。もう少し気の利いた挨拶ができなかったものか、悔やまれるところです。



 新垣結衣さんが休憩に入られてから暫くして、星野源さんがやって来られました。
 自分は二階の窓から見ていたのですが、白いミニバンがスーッとエンジン音もなく道場の前で止まり、後部のスライドドアが開くと、黒いキャップにマスク姿の星野源さんが一人で降りて来られ、そのまま迷わずに道場の中に入って行かれました。
 練心館道場の小・中・高生の若い生徒さんの中には、親御さんに車で送り迎えしてもらっている子も多く、「何だかいつも見慣れた光景に似ているな・・・」なんて思いながら、「星野源さんが道場の生徒さんだったらどうだろう?上達するかな?・・・」などと妄想してしまう自分が可笑しく、一人でニヤニヤしてしまいました。

 因みに、宇梶剛士さん、富田靖子さん、石田ゆり子さんのベテラン勢は隣の「すみれが丘会館(町内会館)」を控室にされていて、新垣結衣さん、星野源さんの若い主演のお二人が、大勢のスタッフと共に道場を控室にされていました。

 お昼休憩の時間、道場では、まだ発売前の星野源さんのニューシングル『恋』のイントロ部分とアウトロ部分が何度も何度も繰り返し大音量で流され、そのうち、リズムに合わせて「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」と掛け声と共に手拍子を打つ音も聞こえてきました。
 その時は「いったい何をやってるんだろう?」と不思議に思っていましたが、この疑問は、後にドラマのエンディングを見て解けました。
 先程自分が開けた道場の大きな鏡の前で、お二人で「恋ダンス」の練習をされていたのでしょう。
 後にこの「恋ダンス」は社会現象と言われる程の大ブームとなりましたが、星野源さんと新垣結衣さん、ご本人たちが「恋ダンス」の練習をされた「武道道場」というのは、間違いなく世界で唯一うちだけだろうと今でも自慢です。



 お昼休憩が終わり、午後の撮影がスタートしました。
 新垣結衣さんはマスタードイエローのロングスカンツに青いストライプのシャツ(※これも『逃げ恥』の「森山みくり」の衣装ですね)、星野源さんは黒縁のメガネを掛け、灰緑色のパンツに白いシャツ、その上に青いカーディガンの姿(※『逃げ恥』の「津崎平匡」の衣装ですが、この「青いカーディガン」は放送では一度も登場しませんでした)に着替えられ、二人仲良く揃って、颯爽と撮影現場へと向かわれました。

 その後、お二人が道場に戻ってくることはありませんでしたが、スタッフの方々が全ての後片付けを終えて撤収するのは、完全に空が暗くなっている頃でした。
 その日は早朝の6時台から準備が始まっていたことを考えると、私たちをいつも楽しませてくれるこの「テレビドラマ」というものの制作現場は、本当に大変な仕事なんだな・・・と思い知らされ、頭の下がる思いでした。




 10月になり、待ちに待った『逃げるは恥だが役に立つ』の放送が始まりました。


 第1話を見て、「不思議な偶然もあるものだな・・・」と驚いたのが、ドラマの中で、新垣結衣さん演じる「森山みくり」と星野源さん演じる「津崎平匡」が契約結婚して同居するマンションの、設定上の架空の住所(※どうやら横浜市にある実在の地名をランダムに組み合わせて創ったようです)が、自分の実家の住所とほぼほぼ同じだったことでした(※番地は違っていましたが、ドラマに登場した番地と現実の実家の番地との距離は、僅か20m程しかありません)。
 またドラマでは、「○○○一丁目」と縦に書かれた住所表示の青いプレートが撮影用小道具として電柱に付けられていましたが、それと同じもの(※本物)は実家の目の前の電柱にも付いています。


 第2話は、「津崎平匡」の職場の同僚が家に遊びに来るという話でした。
 星野源さん演じる「津崎平匡」が、同僚と駅前で待ち合わせるシーンを見て「どこか見覚えのある場所だな?」と思いハッと気付かされました。
 そこは、くも膜下出血で倒れ遷延性意識障害になってしまった母が、平成24(2012)年の夏から亡くなるまでの一年間、人生最期の時を過ごした療養型病院の最寄り駅、相鉄いずみ野線の「南万騎が原駅」でした。
 第1話での偶然もあったばかりなので、「これも不思議なご縁だな・・・」と自分は妙に感心してしまいました。


 そして第3話を見て、これらの一連のシンクロニシティは単なる偶然ではなく、きっと目に見えない世界のお導き、ご縁があるに違いない、と自分は確信するに至りました。


 第3話では、石田ゆり子さん演じる「土屋百合(森山みくりの伯母)」の運転する車で、皆で山梨県へ遊びに行くという話でした。
 そして、ドラマでも重要なシーンのロケ地として、勝沼町の古刹、大善寺が登場した時は、まさに驚愕の思いでした。
 『逃げ恥』ファンにとっては、国宝である大善寺薬師堂の中での「みくり」のセリフ「私は、平匡さんが一番好きですけど、しみじみと、しっくり、落ち着いて・・・」は、印象的な名シーンとして記憶に残っているのではないかと思います。


 実は、平成24(2012)年に母がくも膜下出血で倒れて後、たびたび病気平癒の願掛け(※星野源さんが母と同じ病で倒れられて後は、一緒に星野源さんの回復も祈願していました)に参拝しに行っていたのがこの大善寺でした。
 切っ掛けは、たまたま母が倒れる直前に、自分が大善寺にお参りしていた、ということでした。


 大善寺は奈良時代から続く由緒ある古刹で、ご本尊が国指定の重要文化財である秘仏の薬師三尊像(※薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)だったことからも、もしかしたら病気平癒の御利益もきっとあるのではないか?と、何かしら不思議なご縁も感じられて、当時は藁をもすがる思いで参拝していました。
 その後、結局は母が亡くなった直後にも、お世話になったご挨拶も兼ねて参拝しましたし、お墓への納骨直後のタイミングで、五年に一度の本尊の御開帳もあり、秘仏の薬師三尊像をありがたく拝ませて頂きました。


 因みに現在でも、毎年、大善寺に参拝するという習慣はずっと続いており、星野源さんと新垣結衣さんが当道場に来館された平成28(2016)年9月の、ちょうど一か月前にも参拝したばかりでしたし、五年に一度の本尊の御開帳を拝ませて頂くことも、その後もずっと欠かしていません。




 そんな訳で、図らずも自分にとっては、星野源さん、新垣結衣さん、そしてTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』は、生涯忘れることのできない、目に見えない世界のご縁で結ばれた(?)特別な存在、となってしまいました。

 この度、お二人がおめでたくご結婚されるというニュースを知り、後出しジャンケンのように聞こえるかも知れませんが、自分は、いつかこのような日が来る予感がずっとしていました。
 これも間違いなく目に見えない世界のご縁であり、運命であり、必然なんだろうなぁ・・・、と自分は確信しております。


 星野源さん、新垣結衣さん、これからもずっとお二人を応援しつつ、末永く、健康でお幸せに過ごされることを祈っております。
 またご縁がありましたら、是非、「最強開運スポット(?)」でもある合氣道練心館道場にいらして頂きたく、お待ちしております。
#ブログ #仏教 #合気道 #武道 #芸能

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恐怖を超えてゆけ♪

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 趣味である神社仏閣参拝後に不...  趣味である神社仏閣参拝後に不思議な雲が現れるのはいつものことですが、令和2(2020)年8月。千葉県君津市の三石山観音寺、加名盛観音堂、安房郡の保田神社、市原市の養老山立國寺(出世観音)に参拝した帰りには、空に翼を広げた巨大鳳凰が現れました。
 その直後に、かつての練心館道場の生徒さんで、鳥好きで有名なフリーアナウンサー、新井恵理那さんから素敵な残暑お見舞いの品を頂いたので、今思えば、この鳳凰はその予兆だったのかも(?)知れません。
恐怖を超えてゆけ♪
 




 皆様、明けましておめでとうございます。


 今年は残念ながら、合氣道練心館最大のイベントである「鏡開き・新年祝賀会」が、社会状況に鑑みて中止となってしまいました。
 鏡開きでは例年、館長年頭挨拶として「今年の練心館のテーマ」を発表するのが恒例です。

 今回は、生徒さんや保護者の方々を前にした口頭での大演説(?)は無しとして、先ずはこのブログにて新年のご挨拶と「今年の練心館のテーマ」を発表させて頂きたいと思います。


 令和3(2021)年の合氣道練心館道場のテーマは、「恐怖を超えてゆけ」。


 これで行くことに決めました。


 お気付きの方も多いでしょう。ハッキリ言って便乗させてもらいました。ですので、どうぞ星野源さんのヒット曲『恋』のメロディーに乗せて脳内再生して頂ければと思います。
 正月2日にTBSテレビで放送された「『逃げるは恥だが役に立つ』ガンバレ人類!新春スペシャル!!」をご覧になられた方も多いと思いますが、ご存知の通り当道場は、新垣結衣さん星野源さんご本人たちが「恋ダンス」を練習した、世界で唯一の武道道場ですので、これも「ご縁」と言うか「必然」ということでお許し頂ければと思います。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/286079/2016-12-20

 現在、世界は恐怖に包まれていると言えます。そして、この恐怖はいつ収束するのか、まだ先の見えない状況です。
 もちろん、こんな異常な世界がいつまでも続いて良いはずもなく、いずれ必ず光は見えて来ることでしょう。
 しかしこの、世界に蔓延する「恐怖」こそが、医療や保健・衛生の専門家が対峙する問題とは別に、合氣道家としての、自分が対峙すべき大切な問題なのではないかと考えるのです。




 合氣道の「合」は「愛」に通じ、合氣道とはまさに「愛の武道」なのだと言われます。
 開祖、植芝盛平先生は仰います。

「合気道の極意は、己れの邪気をはらい、己れを宇宙の動きと調和させ、己れを宇宙そのものと一致させることにある。
          (  中  略  )
 では、いかにしたら、己れの邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるであろうか。
 それには、まず宇宙の心を、己れの心とすることだ。宇宙の心とは何か? これは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』である。」
          (『合気神髄』P34)


 世界が恐怖に包まれている今、私たちが気を付けるべきこととは、むしろ、心を恐怖に乗っ取られ、心を恐怖に支配されないようにすることではないかと思います。

 人間は恐怖に支配された時、正しくものを見ることや冷静に物事を判断すること、延いては自分の頭で根本的に物事を考えるということが出来なくなり、思考停止、判断停止に陥りやすいと言われます。
 そしてそれ以上に危険なのは、人間は恐怖に支配された時、平時では考えられないような残忍さや冷酷さを発揮してしまいがちだということです。
 まさに「愛」を失ってしまうということです。


 悲しいかな人類は、歴史上、数多くの戦争、虐殺、粛清を繰り返してきました。
 特に世界の近現代史を俯瞰すると、まるで虐殺史の様相を呈している、というのはちょっと言い過ぎでしょうか・・・?。
 人類学者でカリフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授は、伝統的部族社会の頃と近現代社会を比べれば、虐殺によって殺された人数は圧倒的に近現代社会の方が多いが、総人口の内、虐殺によって殺された人数の割合を調査すれば、その割合は伝統的部族社会の方が逆に多いということが判り、人類社会は曲がりなりにもちゃんと進歩しているのだと主張されていました。
 これを聞いた時は「なるほど!」と頭では理解出来たものの、心の中ではモヤモヤが消えませんでした。

 戦争による大都市への無差別攻撃に始まり、スターリンによる大粛清、南京事件(※日本では見解が分かれる所ですが、元日本兵の証言全てが嘘だとも思えず、戦争という時代状況の中、規模の如何に拘わらず何らかの残虐行為はあったのだろうと考えます)、ホロコースト、原爆投下、文化大革命、ポル・ポトによる大虐殺、記憶に新しいものとしては1990年代中頃にルワンダ大虐殺というものもありました。
 それでも人類社会は進歩していると言えるのか?、未だにモヤモヤは消えない所です。

 なぜ、人間はこれ程にまで残虐で冷酷になってしまえるのか?

 自分は、この根本的原因こそ人間の心に巣食う「恐怖の心」だと思っています。

 そして、チンピラが喧嘩の強さに憧れるのも、海外で人々が護身のために銃を買い求めるのも、国家間の際限なき軍拡競争も、根本は皆同じ、全て人間の「恐怖の心」だと考えます。



 武術とは、そのルーツをたどれば戦争における殺人術でした。
 そこには敵を恐れる「恐怖心」は切っても切り離せないものがあります。しかし、合氣道開祖、植芝盛平先生は、厳しい修行の末に、この「恐怖の心」を真に克服する術を知ったのだと思います。それは自らが最強になること等では決してなく、「愛」を以て全てを包み込む以外にあり得ないということでした。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/326709/2018-06-14

 人間という存在は、予め危険を察知するために、意識を「恐怖」の対象へと強く向ける性質を、生存本能として持ち合わせています。
 現代社会では、この人間の本能を利用して、人々を恐怖で支配しコントロールしようとする「恐怖マーケティング」があらゆる分野で常套手段となっています。
 私たちは生活する上で、この手法に余りにも慣れ過ぎてしまっている嫌いがありますが、やはり恐怖に支配された人間は、特にそれが群集心理と結びついた場合など、時として普段では考えられないような残忍さや冷酷さを発揮してしまう、という事実を私たちは決して忘れてはいけないと思います。
 このまま行って近い将来、現実に戦争や虐殺・粛清が起こるとは、さすがに自分も思ってはいませんし、思いたくもないですが、普段は優しく思いやりに溢れていたような人が恐怖に囚われた結果、人が変わったように差別やいじめに加担してしまう、というのは現実にあるような気がしてとても心配です。




 ところで、話はガラッと変わりますが、こんな状況でも漫画・アニメ『鬼滅の刃』が大ブームになっていますね。
 練心館でも「子どもクラス」や若い生徒さんの間でファンが結構居り、合氣道界でも、武術描写の中に合氣道の極意に通じるものが多く描かれていると話題になっていて、自分もずっと気になっていました。
 今回、年末年始に録り溜めていたアニメの総集編を見て、『鬼滅の刃』に関して、個人的にとても評価すべき点がありましたので是非ともここで語らせて下さい(それ程詳しい訳でもないのにすみません)。

 アニメ『鬼滅の刃』は、子どもが見るには残酷な描写も多く、決して合氣道の心を余す所なく表現したアニメと言えるものではありません。
 しかし、「これは合氣道の説く『愛』にも通じるのではないか?」と個人的に強く心に残ったのは、主人公、竃門炭治郎(かまどたんじろう)が、鬼殺隊の任務として討伐する対象である「鬼」に対しても、常に憐みや慈悲の心を持ち続けているという点でした。
 その心は、鬼に家族を惨殺され、妹、禰豆子(ねずこ)だけが唯一生き残ったものの、彼女は鬼の返り血を浴び感染することで鬼に変貌してしまい、炭治郎は最愛の妹を人間に戻す手掛かりを得るために鬼殺隊に入ったものの、鬼である禰豆子は、すでに幾度か鬼殺隊に殺されそうになっている、という苦い経験から来るものでした。
 炭治郎は鬼を憎みながらも鬼を愛するという、アンビバレントな感情を抱いたまま熾烈な戦いへと進むのですが、この点こそが、この作品世界を大変味わい深いものにしているのではないかと個人的には思いました。

 もしも『鬼滅の刃』が、「兄であり鬼殺隊員である炭治郎が、同じ人間である最愛の妹、禰豆子を邪悪な鬼から守る」という話だったら、自分にとっては面白くも何ともなかったと思います。



 先程、合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉を引用しましたが、合氣道の説く「愛」とは、「宇宙の愛」であって「人間の愛」とは違います。
 この「宇宙の愛」とは如何なるものか、説明するのは非常に難しいのですが、近いものとしてはイエス・キリストの説く「神の愛」、若しくは仏教における「仏の慈悲」といった、極めて宗教的な情操に根差したものであると言えると思います。

http://jp.bloguru.com/renshinkan/233975/2015-03-10

 イエス・キリストは言います。

「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。天の父はその日を悪しき者のうへにも、善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給ふなり。なんぢら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや。兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。然らば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ。」
          (マタイ5:44~48)

「なんぢらの仇を愛し汝らを憎む者を善くし、汝らを辱しむる者のために祈れ。(中略)なんぢら己を愛する者を愛せばとて、何の嘉すべき事あらん、罪人にても己を愛する者を愛するなり。汝等おのれに善をなす者に善を為すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても然するなり。(中略)至高者は恩を知らぬもの、悪しき者にも仁慈あるなり、汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。」
          (ルカ6:27~36)

 自分はひねくれ者(?)なので、『鬼滅の刃』を世間一般で言われるような「美しい兄妹愛、家族愛の物語」としての評価はしません。
 多少意地悪な言い方になってしまいますが、新約聖書の言葉にあるように、誰だって自分を愛してくれる者を愛するのは当たり前であって、自分の大切な家族を愛すること等どんな犯罪者でもやっていることです。
 『鬼滅の刃』の最大のポイントは、鬼殺隊員として鬼を討伐する任務を負った主人公、炭治郎の、最愛の妹、禰豆子が鬼である、という点に尽きると思います。
 この作品において、もしも禰豆子が普通の人間という設定だったら、炭治郎にとって鬼とは単なる恐怖と憎悪の対象に過ぎず、炭治郎はむしろ、鬼に対してどこまでも残忍で冷酷になれていただろうと思うのです。
 そして皮肉なことに、「禰豆子を守る」という強い気持、つまり妹を大切に思う兄妹愛、家族愛といった「人間の愛」が強ければ強い程、それを脅かす存在である鬼への恐怖と憎悪は際限なく増大してしまうはずです。




 話を元に戻しましょう。
 人間は恐怖に支配されてしまった時、普段では考えられないような残忍さや冷酷さをを発揮して、「愛」を失いがちだと言いました。
 もちろんこの「愛」とは決して「人間の愛」ではなく、むしろ「宇宙の愛」「神の愛」に近いものです。
 自分は「人間の愛」を決して否定する訳ではありません。この「人間の愛」は、人間であれば誰でも当たり前に持ち合わせているものです。
 しかし一方で、この「人間の愛」は歴史上、時として恐怖や憎悪を煽るために悪用されがちであるということも、私たちは心の片隅に置いておくべきではないかと思います。

 国家などの巨大な権力が人々を支配・コントロールして戦争に駆り出そうとする時、「愛する家族、友人、恋人の命を守れ!」と煽り立てることによって人々の恐怖や憎悪を煽り、戦意を高揚させて戦場に駆り立てていくというのは、今も昔も変わらぬ常套手段ではないでしょうか・・・。




 今年の練心館道場のテーマは「恐怖を超えてゆけ」。

 これはもちろん、恐怖を誤魔化して怖くない振りをしろとか、蛮勇を発揮して無茶をしろ、などという意味では決してありません。
 怖いものは怖いままで良いのです。恐怖は小さくまとめて常に心の片隅に置いておくことで、正しく怖がれば良いのです。
 しかし、心が恐怖に乗っ取られて恐怖に支配されてしまっては、私たちは正しいものの見方を失い、正しい判断力を失い、延いては自分の頭で根本的に物事を考えることを止め、思考停止、判断停止に陥ってしまいます。また、恐怖に支配されてしまった人間は、時として平時では考えられないような残忍さや冷酷さを発揮してしまうことがあり、まさに「愛(※『宇宙の愛』『神の愛』)」を失ってしまうのです。

 そんなことに陥らないためにも、私たちは今こそ、合氣道で培った「落ち着き」「前向きな心」「宇宙の愛」を活かすべき時です。


 まだ暫らくは、この辛い時代、異常な社会は続くかも知れませんが、本年も皆様からの温かなご理解、ご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
 みんなで「恐怖を超えて」行きましょう!その先に明るい未来があることを信じて・・・。
#アニメ #キリスト教 #ブログ #合気道 #武道 #芸能

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新井恵理那さん、ありがとう。

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新井恵理那さん、ありがとう。 新井恵理那さん、ありがとう。 新井恵理那さん、ありがとう。 新井恵理那さん、ありがとう。 新井恵理那さん、ありがとう。





 令和2(2020)年3月18日(水)。
 テレビ朝日「あいつ今何してる?」にて、フリーアナウンサーとして活躍する新井恵理那さんが通っていた合氣道道場として当道場が紹介されました。
 放送をご覧になった方々から大きな反響を頂きまして、誠にありがとうございました。



 あれから5カ月も経ってしまいましたが、せっかくなので、放送では触れられなかった裏話を書こうと思います。



 番組は、中学時代の新井恵理那さんが密かに憧れていた道場の年上のお兄さん「K君」を捜す、という内容でした。
 実は色々と事情があって、平成17(2005)年に自分とK君とは何となく気まずい別れ方をしたまま、ずっと音信不通になっていました。
 彼とは、かつて先代館長、藤野進先生の下で共に稽古に汗を流し、「子どもクラス」の夏合宿では自分とK君で藤野先生を補佐するのが毎年の恒例でした。
 藤野先生亡き後、先生と個人的に親しかった方からも、弟子の中でも毎年合宿の補佐をしていた自分とK君の二人に、先生は特に期待を懸けていたのだと聞かされていました。
 今回、番組の企画にかこつけて、自分は、K君との14年振りの再会に、今まで心の中にモヤモヤとずっと消えずに残っていた忸怩たる思いを、お陰様で少なからず晴らすことができました。


 新井恵理那さんにとっては、憧れのお兄さんを捜し出し再会させることに貢献した自分は、ある意味キューピッドなのかも知れませんが、自分にとっては新井恵理那さんこそが、気まずい別れ方をしたまま10数年間ずっと音信不通になっていた同門の友と再会させてくれた、素敵なキューピッドです。
 (※新井恵理那さんをビーナスではなくキューピッドに譬えてしまうこの贅沢、お許し下さい。)




 恵理那さんが受験勉強に専念するために道場を休会した平成16(2004)年の秋冬頃、先代館長、藤野進先生は著しく体調を崩され、年末に緊急入院、そして年明けの1月4日に呆気なく帰らぬ人となってしまいました。
 病床の藤野先生より、まるで映画やドラマのワンシーンのように、「もしもの時は君に後継者になって欲しい」と指名され、自分はその約束を果たし現在に至っています。


 しかし何処の世界でも、トップが亡くなると燻るのが後継者問題です。


 お恥ずかしい話ですが、正直、自分が2代目を継ぐ時もすんなりと満場一致でという訳には行きませんでした。
 以前のブログにも書きましたが、自分が先代館長の下で稽古した期間はたったの5年。それ以前は別の道場で別の先生の門下でした。

 参照 http://jp.bloguru.com/renshinkan/256471/2015-12-24

 今思えば、当時の練心館道場の一部の先輩達にとっては、他所の道場から来た年下の者が、たった5年間師事しただけで後継者に指名されるというのは、合氣道家としての実力云々とは別の、どうしても納得出来ない問題だったのだと思います。

 平安時代初期、無名の留学僧に過ぎなかった弘法大師空海が、遣唐使として渡った長安の青龍寺で、たった2年の修行で恵果和尚より密教の後継者に指名されたという逸話がありますが、空海はその後、即刻日本に帰国してつくづく正解だったと思います。
 そのままいつまでも長安に留まっていたらきっと面倒なことになっていただろうな、と烏滸がましくも自分の経験と照らし合わせてそう思います・・・。
 (※「何様のつもりだ!」と突っ込みをどうぞ。)



 当時、練心館道場は自分を後継者として支持してくれる齋藤派と、それは認めないという反齋藤派に分裂し、まだ学生だったK君もその板挟みの間で葛藤し、随分悩んだのではないかと思います。
 先代館長、藤野進先生は、自分に対しては「齋藤君をただの弟子とは思っていない、同じ道を極めんとする同志であり、寧ろライバルだと思っている」と言ってくれていました。
 一方で、小学生の頃からずっと道場に通い続けているK君のことは、お子さんのいらっしゃらない先生にとっては、まるで本当の息子のように特別に可愛がっているように見受けられました。
 同様に、K君にとっても藤野先生は単なる習い事の先生を超えた、決して替えの効かない特別な存在だったのだと思います。
 結局、自分に藤野進先生の代わりなど務まる筈もなく、K君はこの騒動の中、道場を離れて行ってしまいました。


 この頃は色々ありましたが、最終的な責任は全て館長たる自分にある訳で、お恥ずかしい話、全て自分の不徳の致す所です。




 今回、新井恵理那さんが中学時代に憧れた合氣道道場のお兄さんを捜索し再会するという番組企画において、道場のシーンのロケは令和元(2019)年の8月末でした。
 撮影中、14年振りにK君と楽しく話したり、合氣道の稽古も出来て、本当に感無量でした。
 そしてそれを誰よりも喜んでくれていたのは、天国の藤野進先生だったと思います。
 藤野進先生門下、道場の後継者となった自分、道場は離れてしまったけれど今はゲームプランナーとして好きなことを仕事にして頑張っているK君、そして、何よりも今回の再会の切っ掛けを作ってくれた、今やフリーアナウンサーとして大活躍する新井恵理那さん。
 人の縁というものは、途切れてしまっている様でも何処かで繋がっていて、時として運命は、その繋がりを再確認させてくれるような粋なことをするものです・・・。





 さて、当初、新井恵理那さんと自分は全く接点が無かったものと思っていましたが、それは自分がすっかり忘れていただけで、たった一度だけ、それも結構強烈な出会いがあったことを後に鮮烈に思い出しました。
 その切っ掛けは、昨年、ちょうど番組の撮影があった頃に出版された新井恵理那さんのフォトエッセイ集『八方美人(宝島社)』(※該当部分は第2章、P24~26「ミスチルが頭の中で鳴り響き……」)を読んだことでした。




 平成16(2004)年の秋冬頃、体調を崩されていた先代館長、藤野進先生に代わって稽古を担当していた最中、当時中学校3年生だった新井恵理那さんと弟さんがお父様に連れられてやって来られました。
 訊けば、恵理那さんは高校の推薦入試に失敗し酷く落ち込んでいる様子でした。
 嘘みたいな話に聞こえるとは思いますが、彼女を一目見た瞬間、全身にビビビッと電気が走ったような衝撃を受け、その時自分は何かしら使命を課されたような感覚がありました。
 自分は何者かに突き動かされるように「いつまでもクヨクヨしてたってしょうがないだろ!」の言葉を皮切りに、随分厳しい態度で叱咤激励しました。
 またその時は、持ち前のスピリチュアル的能力も不思議と全開になり、恵理那さんの将来について予言めいたことも言ったと思います。
 帰り際には、北野武監督「キッズ・リターン」の名台詞を引用して、「君の高校入試はこれからで、まだ何も始まっちゃいないよ!」といった言葉で送り出した筈です。


 当時の恵理那さんには、自分は相当嫌われてしまったと思いますが(恵理那さん、あの時は本当にごめんなさい・・・)、お父様は自分のこの厳しい叱咤激励を凄く感謝して下さり、その後、本人が頑張って一般入試で希望の高校に無事合格した時はもちろん、大学(因みに自分も青学出身でNHKの藤井彩子アナウンサーとは同期で同じゼミでした)に合格した時、セント・フォースさんに所属が決まった時も報告の電話を下さいました。
 しかし自分は、直後の高校合格時点まではまだその時のことを覚えていましたが、大学合格以降は、自分が恵理那さんにガミガミ叱咤激励したこと自体を完全に忘れてしまっていて、お父様をがっかりさせてしまいました。
 新井恵理那さんには是非、お父様に「以前は大変失礼致しました。今は全て思い出しました。」と宜しく伝えて頂きたいです・・・。




 今回の、テレビ朝日「あいつ今何してる?」や、新井恵理那さんのフォトエッセイ集『八方美人』を通して、会えなくなっていた人と再会できたり、忘れていた記憶が蘇ったり、これらも皆、天から頂いた不思議な「ご縁」だと思っております。
 頂いた素敵な「ご縁」を大切にし、これからもずっと道場挙げて新井恵理那さんを応援していくつもりです。
 恵理那さん、お体に氣を付けて、末永くご活躍することを期待しております。
#アナウンサー #ブログ #合気道 #武道 #芸能

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心の世界を求め、心で目的を達成する

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中学生が揃って杖術の型を披露し... 中学生が揃って杖術の型を披露しました。 女子高校生の演武。袴姿が凛々し... 女子高校生の演武。袴姿が凛々しいですね。 70代でも現役で稽古を続けられ... 70代でも現役で稽古を続けられ、日々向上し続けることができる。これも合氣道の素晴らしさです。 今年の館長演武は「胸突き自由技... 今年の館長演武は「胸突き自由技」「正面打ち自由技」「杖取り」「太刀取り」をやりました。 道場でキッズダンスチームを編成... 道場でキッズダンスチームを編成して、Foorinの「パプリカ」を踊りました。練心館道場37年の歴史の中で初の試みです。



 お久し振りです。
 3月18日(水)放送のテレビ朝日『あいつ今何してる?』にて、フリーアナウンサーとして活躍する新井恵理那さんが通っていた合氣道道場として当道場が紹介されました。
 ご覧になって下さった方々から、たくさんの反響を頂き、誠にありがとうございました。
 この件に関しましては、また次回のブログにでも書こうかと思っております。



 思い起こせば、3か月前の1月19日(日)に道場の「鏡開き」のイベントが無事終わり、ホッとしたのも束の間、突然親族の不幸があり、そんな状況下で何とか確定申告を済ませ、今度は全国放送のテレビ番組で道場を紹介してもらうという栄誉にあずかり(私も出演致しました)、そうこうしているうちに世界は新型コロナウィルスの感染拡大で大変なことに・・・。
 全く、人生は流転し、世の中は激しく移り変わって行くものです・・・。



 ところで、例年通り今年も「鏡開き」の館長挨拶では、「練心館の今年のテーマ」を発表させて頂きました。
 あれから3か月経ってしまいましたが、例によって今回も予めの原稿などはありません。
 取り敢えずは、3か月前のことを色々と思い出しながらここに書き記して置こうと思います。



 皆様、明けましておめでとうございます。

 昨年の練心館道場のテーマは「型(形)を信頼する」でした。
 劇作家で批評家の福田恆存氏の論考などを引用して、「型(形)」があるからこそ人間は救われるのだ、といったお話をしたと思います。

(※参照)https://jp.bloguru.com/renshinkan/342729/2019-02-13

 それは確か、曹洞宗の大本山である總持寺の僧侶のお話から着想を得たものでした。



 早速ですが、今年の練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」で行こうと思います。



 今回のテーマに思い至った経緯は、漢方医として活躍され、一般向けの著書も多数書かれている桜井竜生(さくらいりゅうせい)さんのエッセイを読んだことが切っ掛けです。
 そのエッセイの内容は、桜井氏が、『日本の弓術』(ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルが日本滞在中に弓道の伝説的名人、阿波研造(あわけんぞう)に入門し、数多のカルチャーショックを乗り越えながら修業に没頭してゆく様が書かれた名著)を読んで衝撃を受け、ご自身の漢方医としての仕事にも照らし合わせて深く考えさせられた、というものでした。


 ドイツ人であるオイゲン・ヘリゲルは、当初、日本の弓術もヨーロッパのアーチェリーや射撃と同じ、所謂「スポーツ」であろうと考えていましたが、その予想は阿波先生によって真っ向から打ち砕かれます。

*「弓術はスポーツではない」

*「弓は筋肉を弛めて力を抜いて、心で引く」

*「無心になれ」

*「的を狙ってはいけない」

*「弓を引いたら矢がひとりでに離れるまで待つ」

 等々。

 的に矢を当てるためのテクニックやコツを習得するよりも、力を抜き、無心になり、自然に矢が的と一体となる感覚を掴め、という阿波先生の教えは、漢方医としても、無理に治すことだけに執着せず、無心を追求してただ診察治療することで患者さんが快方への良い流れに乗る、という、診療現場でもしばしば起こる現象に何か通じるものを感じる、とのことでした。

 そして、物事を成し遂げる時には、二種類の達成方法があるのではないか、と桜井氏は言われます。

 一つはスポーツや現代医学のように、徹底的にテクニックを磨きコツを掴み、鍛錬を通して達成するという方法であり、もう一つは、阿波先生が説かれたような、力を抜き、我を捨て去ることで、現状を、目標となる状態に自然と一体化させていく、という精神的な方法だと言います。
 いずれにせよ、後者のような「心の世界を求め、心で目的を達成する」という精神的な方法を我々日本人は過去に持っていたということを忘れてはいけない、と『日本の弓術』は思い出させてくれた、とのことでした。



 ここではいつも言っていることですが、合氣道はスポーツ化を免れた現代では稀有な武道です。

 完全にスポーツ化し、「いかに相手より先に多くのポイントを取るか」「いかに相手をK.O.するか」の観点ならば、科学的かつ合理的にフィジカルを鍛錬し、徹底的にテクニックを追求する方が確かな結果を得られることは確実でしょう。
 それらはオリンピックや国際大会で活躍するアスリートの姿を見れば自明のことです。
 しかし、これもいつも言うことですが、そうなってしまった時点で、我々の世界では、それらはやはり厳密には「武道」と呼ぶに相応しくないのではないか?というのが自分の本音です。



 先程いくつか簡単にまとめた、弓聖、阿波研造先生が『日本の弓術』の中で説かれている教えは、合氣道風にアレンジすれば、そのまま合氣道にもぴったり当てはまります。

*「合氣道はスポーツではない」
 オイゲン・ヘリゲル風(柴田治三郎訳)に言うのならば、合氣の「術」とは、主として肉体的な修練によって誰でも多少は会得することのできるスポーツの能力、すなわち「相手を倒す」がその標準と考えられるような能力、ではなく、日本弓術と同様に、それとは別の精神的な鍛練に起源が求められるものだ、と言えます。

*「合氣道の技は筋肉を弛め力を抜いて、心を積極的に駆使することでより理想的に成立する」
 リラックスして心と身体を完全に一体化させた「心身統一体」になることで、身体の重心や臍下丹田(腹圧)の力といった、むしろ強大な力が自在に扱えるようになるものです。

*「我を捨て去り、いかに無心になれるかどうかも技の完成度を大きく左右する」
 心の中での「我」、すなわち拘りや思い込みが強過ぎると、それはすぐさま身体の力みや強張りに直結します。それでは「心身統一体」は成立しません。

*「相手に技を掛けてやろう、倒してやろう、と狙ってはいけない」
 これらがまさに克服すべき「我」そのものであり、この「我」は、事に臨んでの臨機応変が求められる武道では、却って心身の自由を制限しパフォーマンスを下げてしまう要因となります。

*「相手の意思を尊重してやれば相手を正しく導くことができ、結果相手は喜んで倒れる」
 相手の攻撃の軌道は、相手の意思そのものの方向性であり、相手の氣の流れそのものです。それらを邪魔することなく尊重してやれば相手を正しく導くことができ、結果として相手は喜んで倒れてくれます。



 科学万能の時代とも言える昨今では、「心の世界を求め、心で目的を達成する」ような方法は、非効率的で費用対効果の悪い、時代遅れのものだと言われてしまうかもしれません。
 明治の近代化・西洋化以降、日本人は具体的に可視化されたテクニック(技術)や数値化して比較考量できる成果を追い求め、それなりに大きな成果を出してきたという歴史があります。
 最近ではそこに「情報」という要素も追加され、情報収集の能力こそが物事の結果を左右するとまで喧伝されるようになってきました。

 しかし、今の時代に、逆に「心の世界を求め、心で目的を達成する」方法だからこそ得られる、大切なものもあるのではないかと思うのです。



 合氣道家としても名高い哲学者・思想家の内田樹先生は、我々が真に「ものを学ぶ」とは、自身の「価値観そのものが変容し進化する」ことだと以前から頻りに説かれています。
 それは譬えるならば、「便利で有用そうなアプリを手っ取り早く自身にダウンロードする」という作業では決してなく、「自身を根本から突き動かしている基本OS(Operating System)そのものを書き換える」ことだと言えます。

(※参照)https://jp.bloguru.com/renshinkan/278405/2016-10-05


 目に見える上達のスピードは確かに遅いのかもしれませんが、「心の世界を求め、心で目的を達成する」方法で何らかの技芸を身に付けた者は、稽古・修行を通して、「価値観そのものが変容し進化」している、ということが言えるのだと思います。
 そしてそれこそが、昔から武道や芸事などで重視されてきた、稽古・修行を通して技だけではなく、心・魂を磨き、人間を磨くということの真相なのではないでしょうか。


 「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法は、確かに明確な具体性に欠けた、曖昧で、雲を掴むような話に聞こえるかもしれません。
 しかし、画一的な近代学校教育や西洋式軍隊、近代スポーツなどが導入される前の江戸時代以前の日本では、意外と誰もが普通にやっていたことなのではないか?とも思うのです。
 そして本来、そういったやり方こそが、あるべき日本の伝統に則った武道や芸事の稽古・修行のあり方なのではないかと思います。
 これもいつも言うことかもしれませんが、「稽古」とは、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という意味ですから・・・。


 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」。


 もちろん、そればかりでは習う側の生徒さん達は大変でしょうから、要所要所ポイントを押さえて、きちんとテクニックやコツもお伝えします。
 しかし一方で、「心の世界を求め、心で目的を達成する」という方法で身に付けた技芸は、血肉化し、魂にまでも深く浸透すると言えます。
 そして、それらは年齢をいくら重ねても決して衰えることはない筈です。
 心も、魂も、そして生き様までもが合氣道家になれてこそ「~道」と呼ぶに相応しいものであり、そういったものこそがテクニック(技術)の巧拙を超えた「本物」であると言えるのだと思います。


 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「心の世界を求め、心で目的を達成する」。

 本年も皆様からの温かなご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
 ご清聴ありがとうございました。
#ブログ #合気道 #弓道 #武術 #武道

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実戦は当身が七分(ななぶ)

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        (※写真①)「...         (※写真①)「密着した状態(0距離)からの打撃」
 ミット代わりのタウンページにピタリと拳を当てた状態から、瞬間的に拳の先の一点に「氣」と「重心」を集中させます。
 昔、ブルース・リーが公開し世界に衝撃を与えた中国武術の技法「寸勁(ワンインチパンチ)」ならぬ「ゼロインチパンチ」ですね。
 生命に係わる危険な技法なので、練習では絶対に身体に直接当てないことです。
        (※写真②)「...         (※写真②)「松濤會空手(江上茂先生)の突き」
 先代館長、藤野進先生直伝の松濤會空手独特の「スー突き」です。
 伝説の空手家、江上茂先生により打撃力よりも貫通力を目指して考案されました。
 全身をリラックスさせ、拳の先端から伸びやかに「すぅー」っと突きます。
 本来は「中高一本拳」で行うものですが、ここでは「平拳」になっていることはご容赦下さい。
        (※写真③)「...         (※写真③)「システマのストライクに似た打撃」
 松濤會空手の「スー突き」をコンパクトにアレンジすると、システマに似た打撃になります。
 「スー突き」同様に全身の脱力が大事ですが、特に、肘、肩のリラックスが要となります。
 システマのストライクは、破壊を否定した「非破壊の打撃術」なのだそうです。合氣道の崇高な理念にも通じる、ある意味、究極の打撃、当身なのではないかと思います。
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 お久し振りです。

 いきなり「らしくない」タイトルで始まりました。なので皆様には先に謝っておきます。

 日頃、「戦争やテロの惨禍を知らず、平和な日本で暮らしてきた者が、気軽に『実戦』などという言葉を使うべきではない」と主張してきた自分ですが、
 https://jp.bloguru.com/renshinkan/242691/2015-06-23
今回のブログのタイトルを決める上で、やはり一番キャッチーでインパクトのあるフレーズが、もともとは合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉であり、養神館合気道創始者、塩田剛三先生も著書の中で力説されていた「実戦における合気道は、当身が七分(ななぶ)」というものでした。

 なので、今回ばかりは柄にもないタイトルで恐縮ですが、ご勘弁頂きたいと存じます。



 さて、巷でよく言われる「合氣道の技は実戦では使えない」という言葉、全くその通りであると同時に全く見当違いな意見でもあります。

 空手の型や中国武術の套路(※とうろ、型の意)は基本、独りでやるものですが、日本武道の伝統では「受け(打太刀)」と「捕り(仕太刀)」が二者一対でやるため、どうしても「形」そのものを実戦での敵の制圧方法だと勘違いされがちなのでしょう。

 古流剣術や古流柔術でも、現代武道の合氣道でも、「形」は、その流儀の本質的な身体や心の使い方を学び、それらを繰り返すことでその理合、術理を心身に染み付かせていくための「教材」に過ぎません。
 まさに「型(形)は実戦の雛型ではない」ということですね。
 https://jp.bloguru.com/renshinkan/306291/2017-09-13

 柔道家やレスラーにがっちり組み付かれた状態を呼吸投げで投げようとしたり、ボクサーのパンチを取って小手返しを決めようなどというのは、ナンセンス以外の何物でもありません。
 いざ命の懸かった実戦になれば、感覚・感性を研ぎ澄まし、身体能力や周囲の環境をフル動員させて、その瞬間瞬間の閃きで動く以外に方法はありません。

 結果として、開祖や塩田剛三先生の仰る通り、「実戦における合気道は、当身が七分」ということになるのだと思います。



「死ぬか生きるかというような状況に身をさらした場合や、多勢を相手にした場合などは、一瞬の勝負になりますので、当身や瞬間の投げじゃないと身を守り切れません。逆に言えば合気道の本質は、そういうギリギリの闘いにおいて発揮されると言ってもいいでしょう。
 さて、当身といっても、合気道の場合は拳や蹴りなどにこだわりません。体中いたるところが当身の武器になります。(中略)触れたところがそのまま当身となるわけです。
 これは、相手の攻撃をよけてから反撃するのではなく、逆にその攻撃の中に入っていくことによって可能となる技です。といっても、ただやみくもに体を相手にぶつければいいのではなく、そこに体全体から発する力を集中させなければなりません。」
 (塩田剛三『合気道 修行』竹内書店新社 P33~34 より)



 合氣道の稽古では、「受け」が「取ろうとする」「打とうとする」「突こうとする」瞬間に「投げ」は相手と氣を結び、心を合わせ身体を合わせるという高度な技法が要求されます。

 初心者の方にはまだその実感が得られず、一体何のことやら?と思われるかも知れませんが、これを「空間の合氣」と呼ぶ方も居られるようで、それぞれレベルの差はあれど、合氣道の稽古では誰もが意識するしないに関わらず、自然にやっていることです。

 その、相手と氣を結び心を合わせる瞬間は、決して「争い」ではなく、目には見えない氣を媒介とした互いの心身の「調和」が生まれます。
 そして実は、我々がいつも稽古でやっているこの相手と氣を結び、心を合わせる瞬間こそが、実戦では捨身で入身して当身を入れる瞬間です。

 合気会師範として長年活躍され、柔道、空手道、居合道、杖道、などの他武道の経験も豊富だった西尾昭二先生は、「当身の呼吸」という言葉を使ってこれを説明されています。



「我々の体技の投げ、押さえに必要な、つくり、崩しは、ほとんど当身なんです。私の場合、当身の手法と呼吸を、つくりや崩しに使っています。
 私が入った頃は合気道には投げ技なんてほとんどなかったんです。入身投げ、四方投げ、小手返ししかないんです。
 ( 中 略 )
 投げというのは、つくり、崩し、掛け、が三位一体になっているもの。(中略)それを私の場合は、当身の呼吸でもって、つくり、崩しをやっているのです。
 よく相手を倒して押さえてから、『やぁーっ』なんてやっていますが、あれは合気道ではありません。本来はやる前に、一緒に当身が入るべきなのです。
 それを我々はやるわけにはいかないから、その呼吸で相手を崩して、投げ、押さえの形で、合気道らしい表現でやるんですね。実際は当身なのです。」
 (『決定版 開祖を語る直弟子たち 植芝盛平と合気道Ⅱ』合気ニュース P144~146 より)



 また、塩田剛三先生はもっと平易な「タイミング」という言葉を使ってこの「当身の呼吸」を説明されています。



「何が大切かというと、タイミングです。
 ボクシングなんかを見ていても、何げなく出したパンチで相手がKOされてしまうことがよくあります。これなどは、相手の動きの変化と、こちらの出したパンチが、ちょうどいいタイミングでぶつかった例です。
 相手の動きの一瞬の状態を察知して、ここぞというときに突きを出すことが大切なのです。
 それは相手の出鼻を叩く場合もありますし、逆に、相手が空振りして体が伸び切ったところを叩く場合もあります。
 面白いもので、タイミングさえちゃんと合えば、こちらはさほど力を使わずとも突きが効くのです。拳が痛いだのなんだのということはありませんし、衝撃が反発力となって自分に返ってくるようなこともありません。
 ちょうど野球のバッティングで、ジャストミートしたときにほとんどボールの勢いを感じないのと同じです。」
 (塩田剛三『合気道 修行』竹内書店新社 P42~43 より)



「相手の出鼻を叩く」というのは剣術で言うところの「先の先(せんのん)」であり、「相手が空振りして体が伸び切ったところを叩く」というのは「後の先(ごのせん)」ですね。

 因みに、自分も稽古中に技の説明をする時はこの「先の先」「対の先(ついのせん)」「後の先」という剣術用語を度々使用してしまうことがありますが、開祖、植芝盛平先生はこれらの用語があまりお好きでなかったと聞きます。
 確かに、これらの用語は合氣道の理想である「宇宙と完全に一体化した敵味方もない絶対的境地」から見れば、空間的な分断と時間的な対立を感じさせます。
 結局は、相対的な勝ち負けの域を出ない次元の低いものと言わざるを得ないのかも知れません・・・。



 話を元に戻します。

 当身をするタイミング(呼吸)は、確かに剣術における「先(せん)の理」であり、我々がいつも稽古でやっている「相手と氣を結び、心、身体を一致させる」瞬間ですが、それと並行して、ボクシングの「パンチ」や空手の「突き」とは根本的に性質の違う、合氣道(※柔術)の「当身」の技法を我々はマスターしなければなりません。

 合氣道(※柔術)における「当身」とは、一言でいえば「重心移動」そして延いては「重心操作」です。

 そのために何よりも一番大切な事は「リラックス・脱力」と「一点への集中」です。
 更に付け加えるならば、「股関節、膝関節、肩甲骨の柔らかさと動きの滑らかさ」「体軸の確立」「呼吸法と腹圧の感覚の養成」「心身統一体」等々、書き連ねていくときりがないのでやめて置きますが、この感覚をどうやって身に付けていくかといえば、要は、普段やっているいつもの合氣道の稽古を、いかに緻密に丁寧に行うかということです。

 塩田剛三先生も次のように仰っています。



「首を傾げる人もいるでしょう。突きで勝負を決めるなら、よほどその一発に威力が無ければダメだ。しかし、合気道の道場で空手やボクシングのようにパンチ力を鍛える稽古をしているなんて、聞いたことがないぞ、と。
 確かにそのとおりです。合気道では普通、巻藁を叩いたり、レンガを割ったりというようなことはやらないわけですから。
 ところが、じつは突きの稽古をちゃんとやっているのです。何も特別なことではありません。道場生の皆さんがいつも繰り返している基本動作や基本技、あれがそのまま突きの稽古になっているのです。
 突きが威力を発揮するために必要なことといったら何でしょうか。それは、右足なら右足から踏みこんだときに、体全体の重心がそれに乗るかどうかということです。
 乗ったら効くのです。
 ( 中 略 )
 踏みこんだときに膝がなめらかに前にせり出し、重心をそのまま前へ伝えることができるかどうかなのです。これができると、体全体の力が拳に乗って、大きな威力を生み出すことができます。これが集中力です。そのとき当然、前の膝のせり出しと腰の前進にともなって、後足が引きつけられる形となります。
(中略)合気道の最も基本的な体の前進動作は、そのまま突きの動きとして応用できるというわけです。
 ( 中 略 )
 要は、重心の移動、それを前に伝えること、そして拳にその力を乗せること、この三つをすべて一致させた動作ができればいいのです。」
 (塩田剛三『合気道 修行』竹内書店新社 P35~39 )



 リラックスと心身統一を忘れず、感覚を研ぎ澄ませて丁寧に基本技や基本動作を繰り返し稽古していると、自ずと「重心移動」の感覚が分かってきます。それが更に進んでいくと、自身の体内で自在に「重心操作」が行えるようになってきます。

 そしてこの修練には中国武術、特に太極拳、形意拳、八卦掌(拳)などの内家拳の技法が非常に参考になります。

 中国武術では「重心移動(操作)」と「氣の集中」で生み出す力を「勁力(けいりょく)」として、「沈墜勁(ちんついけい)」「撞勁(とうけい)」「靠勁(こうけい)」「纏糸勁(てんしけい)」「十字勁(じゅうじけい)」等々、様々に分類され綿密に体系付けられています。これらを参考にすると体得するための大きなヒントとなるかも知れません。



(※写真①)をご覧下さい。

 胸に当てたミット代わりのタウンページに拳をぴったり当てた状態で脱力します。瞬間的な重心操作で拳の先端に重心を集中させると重い衝撃波が相手に伝わります。
 ただ、ここで重要なことは、この練習をする場合は安全を考慮して、絶対に直接人体には当てず、必ずミットや座布団、分厚い辞書や電話帳などを間に入れること。これが鉄則です。

 実はこの打撃法は、昔の武術における、一撃で相手の内臓を破壊する暗殺術でした。

 約20年前、自分がまだ高校の教員だった頃、当時世間では格闘技が大ブームでした。そんな男子生徒の中に、是非ともこの「勁力」を体験したいという者がいたので、胸に分厚い教科書や資料集などを数冊当てさせ、この打撃をやったことがありました。
 その生徒は口から霧のようなものを吹きながら、教壇の前から教室の後ろのロッカーまで吹っ飛び、ロッカーに背中を強打してそのまま尻もちを着いて倒れてしまいました。
 幸い、何とか大事には至らないで済んだのですが、あの時は、可愛い生徒を自らの手で殺してしまったのではないかと心底焦りました。この一件以来、自分はもう大幅に手加減した打ち方でしかこの打撃はやったことがありません・・・。

 しかしその後、更に研究を進めて判ったことがありました。

 派手に後ろに吹っ飛ばす打ち方は、ダメージも体内を通り抜け後ろに突き抜けていくむしろ安全なやり方で、「勁力」が体内に留まるような打ち方こそが、ダメージも体内に残留させ相手を殺傷してしまう本当に危険な打ち方だということでした。
 そして、重心操作さえできれば身体のどの部位でもこの打撃はできますが、中国の伝説的武術家、李書文の「二の打ち要らず」の逸話通り、有名な八極拳の「頂肘(ちょうちゅう)」が中国武術の中でも最強の威力だと言われるように、「肘」での打撃が一番威力があるということでした。



 続いて(※写真②)をご覧下さい。

 打撃を受けるモデル(実験台?)になって下さったのは、武道・格闘技好きで自身も武道家でいらっしゃる某情報誌編集者のKさんです。

 Kさんの個人ブログでは「合気道で吹っ飛ばされた!」とありますが、実は正直に白状すると、(※写真②)のこの突きは合氣道の当身ではなく、練心館先代館長、藤野進先生直伝の、日本空手道松濤會、江上茂先生が考案し伝授された、全身をリラックスさせて先端から伸びやかに「すぅー」っと突く、所謂「スー突き」というやつです。
 https://lineblog.me/youngdellneng/archives/1549861.html

 先代館長の藤野進先生は、合氣道に転向する以前、この江上茂先生門下で松濤會空手を最高段位まで修行されていました。
 因みに、新体道・剣武天真流創始者の青木宏之先生は兄弟子になります。

 江上茂先生は、沖縄から本土に初めて空手を伝えた松濤館流空手創始者、船越義珍先生の高弟でしたが、自身の空手修行に限界を感じ、その時運命的に出会った「親英体道」の井上鑑昭(※いのうえのりあき、植芝盛平の甥で元々は合氣道の指導者だった)先生に師事し、柔らかく伸びやかな、全く新しい異次元の空手を創始されました。

 この松濤會空手独特の「スー突き」ですが、「鍛え上げられた空手家のボディには空手の突きが一番効かなかった」という衝撃の事実から研究を重ね、鋼のようなボディにも確実に効かせるため、「衝撃力」ではなく「貫通力」を求めて創始されたものだそうです。
 やはり、人間の身体は瓦やレンガとは違うということでしょう。



 更に(※写真③)をご覧下さい。

 ここ数年の自分の主要な研究テーマだったのが、臍下丹田の力や「勁力」のような破壊的な力ではなく、合氣道で高度な「氣結び」の技を行う時のような、体軸も丹田も消し去って相手と共に宇宙そのものに溶け込むような、そんな高次元の合氣の当身はできないものか、というものでした。

 そんな自分にヒントをもたらしてくれたのが、ロシア武術「システマ」独特の打撃である「ストライク」でした。

 そして、全身をリラックスさせて先端から伸びやかに突く松濤會空手の「スー突き」を、動きをコンパクトにして、自然に立った状態から肩、肘をリラックスして先端から伸びやかに出すと、システマの「ストライク」のようなものになることを発見しました。

 システマの「ストライク」の理念は、打撃技でありながら「破壊の否定」であり、まさに「非破壊の打撃術」なのだそうです。

 これはある意味、合氣道の目指す理想である、愛と調和、そして平和への道にも通じるもので、これこそが究極の打撃、究極の当身だと言えるのかも知れません。

 システマは、もともとは旧ソ連の特殊部隊兵士のために開発されたものだそうですが、なぜか合氣道にも通じる高度な精神性を持ち合わせています。
 合氣道も、戦時中は旧日本軍で採用されていましたが、戦後、愛と調和、平和への道として新たにスタートしたという点では、システマと何か共通するものがあるのかも知れません。

 今後、我々合氣道家が「システマ」から学ぶべきことは多そうです・・・。
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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型(形)を信頼する―合氣道はなぜ人を救うのか―

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子どもたちが6人揃って杖術の型... 子どもたちが6人揃って杖術の型を披露しました。 中学生も大人に交じって頑張って... 中学生も大人に交じって頑張っています。 夫婦円満の秘訣は合氣道。息もぴ... 夫婦円満の秘訣は合氣道。息もぴったりです。 70代でも現役で日々向上し続け... 70代でも現役で日々向上し続けられる。これも合氣道の素晴らしさです。 今年の館長演武は、後ろ手首取り... 今年の館長演武は、後ろ手首取り、後ろ両肩取り、をやりました。





 大変遅くなってしまいましたが、平成31年「鏡開き」での年頭挨拶を記して置こうと思います。

 例年通り、今年の「練心館のテーマ」を発表させて頂きました。
 今年の合氣道練心館道場のテーマは、「型(形)を信頼する」です。
 これもまた例年通りですが、あらかじめ原稿などは特に用意せず、頭の中にある内容を、その場の勢いだけでお話したので、当日の話の内容とは一字一句同じではありません。
 以下、あれこれと思い出しながら書き記していこうと思います。




 皆様、明けましておめでとうございます。
 本日はこうして大勢の方々にお集まり頂き、心より感謝申し上げます。

 さて、毎年、鏡開きの年頭挨拶では、「練心館の今年のテーマ」を発表しております。
 昨年は「人類の進化」でした。そして一昨年は確か「世界平和」でしたね。

 今、改めて思い返すと、住宅街の片隅にある小さな町道場が、人類がどうとか、世界がどうとか、何たる誇大妄想を・・・、と失笑を禁じ得ませんが、まあ、この合氣道という道を通して、本当にごくわずかな微力でも「世界平和」や「人類の進化」に貢献できるよう、自分なりに頑張ってきたつもりです。

 今年はもう「世界」とか「人類」といった壮大なテーマは掲げず、もっと地に足着いた具体的なテーマにします。
 とは言っても、やっていることが「己を宇宙と一体化させる修行の道(氣に合するの道)」である「合氣道」ですから、その意味する所はどうしても「世界の生成発展」とか「宇宙の真理」とかになってしまうのは避けられません・・・。




 話を本題に戻しますが、ズバリ、今年の合氣道練心館道場のテーマは、「型(形)を信頼する」でいこうと思います。

 実は、今回のこのテーマを思い付いた切っ掛けは、昨年秋に放送していたあるテレビ番組でした。

 そこでは、横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山、總持寺での禅の修行が紹介されていました。
 そして修行僧の指導役である単頭(※たんとう)を務められる、柴田康裕(しばたこうゆう)さんという方がお話されていた内容に深い感銘を受けました。


 柴田康裕さん曰く、
「今、『型』が無いわけではないが崩れている時代です。それでいて自由だとか個性だとか、あるいは創造なんて言います。でも元々の『型』が崩れているから不安定なんです。だから皆、不安なんですよ。でも、ここには釈迦より2500年続いてきた信頼できる『型』がある。そこが何か安心するのではないでしょうか・・・。」




 合氣道はスポーツ競技化を免れた数少ない現代武道です。
 私たち合氣道家は、ごく一部の例外を除いて、乱取り稽古や試合はしません。
 ひたすら繰り返すのは「型(形)稽古」です。
 それも、独りで行う「空手の型」や「中国武術の套路」と違い、「打太刀」と「仕太刀」が二者一対となって行う、日本伝統の「型(形)稽古」です。

 手前味噌な話で恐縮ですが、ここ練心館道場にも、日本の侍が数百年守り通してきた伝統に基づいた、信頼できる「型(形)」がある、と言えるのではないかと思います。
 そして、合氣道の「型(形)稽古」は、力まず、ぶつからず、争わず、相手と調和し、相手を正しく導き、延いては宇宙そのものと調和する心で行うことが肝要だと言われます。

 この日本剣術由来の「二者一対となって型(形)を成す」という「型(形)稽古」の方法は、ある意味、宇宙の真理の体現でもあると言えるのです。




 私たちが暮らすこの宇宙には陰陽(マイナスとプラス)異なるエネルギーが存在します。
 例えば、男と女、天と地、太陽と月、昼と夜、夏と冬、生と死、動と静、N極とS極、陽子と電子、遠心力と求心力、斥力と引力、等々、言い出したら切りがありません。

 合氣道開祖、植芝盛平先生の説かれた古神道由来の教えの中に「一霊四魂三元八力(いちれいしこんさんげんはちりき)」というものがあります。
 「一霊」とは「直霊(なおひ)」、「四魂」とは「荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)」、「三元」とは「剛、柔、流」、そして「八力」とは「解と凝、動と静、引と弛、合と分」ですが、この「八力」こそが宇宙に存在する陰陽異なるエネルギーそのものだと言えます。

 そしてこの、陰陽異なるエネルギーが存在するおかげで、世界に「エネルギーの循環」が発生します。
 この陰陽異なるエネルギーが織りなす「エネルギーの循環」こそが、実はこの世界の生成発展の原動力になっているのです。
 難しいことを説明しなくても、「男(オス)と女(メス)が織りなす様々なドラマ」=「エネルギーの循環」こそが、全ての生物の繁栄の基本だと言えば簡単ですね・・・。

 そしてこの世界の生成発展の原動力である「エネルギーの循環」が、つつがなく、滞りなく、行われるためには、まずは陰陽異なるエネルギーが美しく調和するということが求められます。
 要するに、男(オス)と女(メス)が敵対して、いがみ合ってばかりいたら、全ての生物は絶滅してしまう、という例を考えれば簡単です・・・。


 そしてここで一番大切なのは、伝統的日本剣術や合氣道の、二者一対で行う「型(形)稽古」は、単に「敵を倒す」などといった狭義の解釈で理解するものではなく、この宇宙に存在する陰陽の調和とエネルギーの循環、更にはそれによる世界の生成発展をも含んだ、宇宙の真理の体現なのだ、と理解することです。

 打太刀(受け)は打太刀(受け)として自身がやるべきことを全うし、仕太刀(投げ)は仕太刀(投げ)として己のすべきことを全うする。そして両者が美しく調和した時、私たちは、ちっぽけな自我から脱却し、「型(形)」そのものに完全に同化したかのような感覚を覚えます。それは延いては、宇宙そのものとの同化であり、天から与えられたかけがえのない命としての、純粋な生の充実、まさに本当の「安心」を得ることができるのです。




 以前から自分は、「合氣道にはなぜ人を救う力があるのか?」という問題について考えていました。

 そして、学生時代に読んだ、劇作家で評論家の福田恆存氏の論考が、30年近く経った今頃になって、改めて、武道の「型(形)稽古」というものの持つ深い意味を理解するために、大きなヒントを与えてくれていることに気付かされました。
 今回、自分の言葉で上手くまとめようと試みたのですが、どうも上手くいかなかったので、ここで直接、引用させて頂きます。



「私たちが個人の全体性を恢復する唯一の道は、自分が部分にすぎぬことを覚悟し、意識的に部分としての自己を味わいつくすこと、その味わいの過程において、全体性が象徴的に甦る。
 よくいわれる自我の確立というのは、そういうことだ。」
               (『人間・この劇的なるもの』より)

「私たちが型に頼らなければ生の充実をはかりえぬのは、すでに私たち以前に、自然が型によって動いていたからにほかならぬ。生命が周期をもった型であるという概念を、私たちは、ほかならぬ自然から学び知ったのだ。自然の生成に必然の型があればこそ、私たちはそれにくりかえし慣れ、習熟することができる。そして偶然に支配されがちの無意味で不必要な行動から解放される。なぜなら、型にしたがった行動は、その一区切り一区切りが必然であり、それぞれが他に従属しながら、しかもそれぞれがみずから目的となる。一つの行動が他の行動にとって、たんなる前提となり、手段となるような日常的因果関係のなかでは、そのときどきの判断によって採用された行動は、たいてい無意味で不必要な結果に終る。個人の判断が、その必然性の一貫にどれほど緻密な計算をはたらかせようとも、それはほとんどつねに偶然の手にゆだねられる。
 必然とは部分が全体につながっているということであり、偶然とは部分が全体から脱落したことである。
     ( 中 略 )
 型にしたがった行動は、(中略)行動をそれ自体として純粋に味わいうるようにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱卻し、それ自身において完全な、生命そのものの根源につながることができるのだ。」
               (『人間・この劇的なるもの』より)



 私たちがいつも当たり前のように行っている「型(形)稽古」の「型(形)」は、「世界の生成発展の原動力の象徴」であり、「宇宙の真理の体現」そのものでもあります。

 また同時に、福田恆存風に言うならば、断片としての部分に過ぎず、何事も単なる偶然性に支配されがちな「個人」が、「必然性」や「全体性」を回復するための「型(形)稽古」であり、真に生の充実を図るための、生命そのものの根源につながるための大切な「型(形)稽古」なのです。

 様々な分野で型が崩れ、それでいて自由や個性、創造などと要求され、あらゆるものが不安定であるが故に、不安を抱えた現代社会。
 やはり合氣道には信頼できる「型(形)」があり、大きな「安心」があるのだと言えます。
 合氣道にはなぜ人を救う力があるのか?、その辺に答えがあるのでしょう。




 ところで、古来より日本の芸事の修業では「型(形)」が重視されてきたというのは言うまでもありませんが、そこでは「守→破→離」という段階をきちんと順を追って進むことが肝要とされてきました。
 この「守破離」とは元々は千利休の言葉だそうですが、これは簡単に言えば、「初心者→上手→名人」という過程です。

 「守」は、基本の型(技)を確実に身につける段階。
 「破」は、それら基本を更に発展させる段階。
 そして「離」は、独自のスタイルや新しいものを確立する段階だと言われ、この「離」こそがまさに時流の「自由・個性・創造」そのものだと言えるでしょう。

 そして、これと関連して、昔から大切な戒めとして言われてきたのが「型破り」と「形なし」です。

 「型(形)」を確実に身に付けている者だけが、大胆な「型破り」にもなれるのだが、一方で、基本的な「型(形)」すら体得していない者がそれを真似た所で、所詮は「形なし」に終わってしまう、というやつです。

 私たちはそんな「形なし」にならない様、くれぐれも注意しなければなりません。
 そしてできることならば、昨今の時代の要請でもある「自由・個性・創造」にもきちんと応えられるような人間になることが望ましいのかも知れません。
 言わばそんな「型破り」な人間になるためにも、まずはきちんと「型(形)」を身に付けるということを忘れてはいけないのでしょう。

 そのためにも、まず、私たちが最初にやらなければならないのは、目の前にある合氣道の「型(形)を信頼する」ということ以外にないのではないかと思います。



 そんな訳で、本年も、皆様からの温かなご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
 ご清聴、ありがとうございました。      
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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合氣道開祖 植芝盛平 翁 降臨???

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       (※写真1)  ...        (※写真1)
 平成25(2013)年、1月1日12時23分、横浜市都筑区牛久保西一丁目の天照皇大神に隣接する公園にて撮影。
 どことなく、合氣道開祖、植芝盛平 先生に似ていないだろうか?。
       (※写真2)  ...        (※写真2)
 平成25年(2013)年、1月1日12時21分、横浜市都筑区牛久保西一丁目の天照皇大神に隣接する公園にて撮影。
 是非、逆さにしてご覧下さい。やはり、額に円型の飾りを付け、立派な顎鬚を生やした御顔が確認できます。
       (※写真3)  ...        (※写真3)
 平成25(2013)年、1月1日8時00分、横浜市戸塚区舞岡町の舞岡八幡宮にて撮影。
 まるで龍神のように、東の空へ猛スピードで飛び去って行きました。
               ...                 (※写真4)
               合氣道開祖、植芝盛平 先生です。
               ...                  (※写真5)
 合氣道開祖 植芝盛平 先生が師と仰いだ宗教家、「大本」の出口王仁三郎 聖師です。日本神話の神、素戔嗚尊に扮装された御姿です。
 額に円型の飾りを付けておられます。
 




 合氣道練心館館長を継いでからの自分は、かつての趣味がそのまま仕事になってしまった感があり、合氣道やその他武術研究以外に何か他に趣味はないか、と問われると、恥ずかしながらすぐには思い浮かびません。
 しかし、そんな自分の数少ない趣味として挙げられるのが、神社仏閣や聖地(サンクチュアリ)に参拝することだと言えるかも知れません。



 自分の家は臨済宗円覚寺派の檀家です。それはそれで大切に思っていますが、自分には、自らが何かしら特定の宗教の信者であるという自覚は、正直、余りありません。
 そういった意味では、自分はごく一般的、典型的な「日本人」だと言えます。
 それでも、自分の思想・信条を強いて言えというのならば、合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉「合氣道は武道であって宗教なのじゃ」に倣って、植芝盛平先生の説かれた合氣道の愛と調和、そして平和の教え、言うなれば「合氣道教!?」の信者ということになるのかも知れません・・・(※そんな団体・組織を作る気は毛頭ないのでご安心下さい)。



 そんな自分ですが、実は、子どもの頃から不思議な体験や不思議なシンクロニシティを数多く体験してきました。たぶん少しだけ、俗にいう「霊感体質」というやつなのかも(?)知れません。
 また、父方の祖父がキリスト教神学校出身で、母方の祖父が寺の住職の息子、更には大学、大学院時代にお世話になった指導教授がもともとは宗教学者(ご自身は神道の神主の資格を持ちながら、キリスト教や仏教も幅広く研究されていました)だったこともあり、自然と人智を超えたものや神聖なるものへの畏怖や憧憬が培われていった、というのはかなりあると思います。


 したがって傍から見たら、自分は立派な(?)「スピリチュアル系男子」だと思います。


 そんな「スピ系男子(?)」の自分は、ここ数年は神社仏閣に参拝した時はいつも空の雲を気にしています。
 理由は、なぜか不思議な雲が現れることが多いからです。
 その切っ掛けは、平成25(2013)年の元日の初詣でした。



 平成25(2013)年の元日の朝、当時入院中の母の病気平癒の祈願も兼ねて、以前は家族で初詣に行っていた横浜市戸塚区の舞岡八幡宮に一人でお詣りに行きました。
 ちょうど朝の8時頃でした。
 神社の石段を登ろうとした時、突然「あの雲をご覧なさい!」と50代後半くらいの、どことなく知的で落ち着いた雰囲気のある、見知らぬ紳士に声を掛けられました。
 その男性の指さす方向を見ると、一匹の龍か大蛇のような一筋の雲が、猛スピードで東の空へ飛び去って行く様子が見えました。
 自分は急いで携帯電話のカメラで写真を撮影し(※写真3)、巳年の初詣に空に大蛇を見たのか、あるいは飛び去っていく辰年の龍を見たのか、何れにせよ、新年の始まりである元旦から非常に縁起の良いものが見られたことを喜びました。
 そしてその日はずっと、空の雲が気になって仕方ありませんでした。



 お昼頃、練心館に戻り、地元の氏神様である横浜市都筑区にある天照皇大神(てんしょうこうたいじん)に参拝して空を眺めると、朝に舞岡八幡宮で目撃した龍のような雲が、何本も風に乗って上空を猛スピードで飛んでいました。

 「何だ・・・、今日は偶々こういう雲がたくさん飛ぶ気象条件だったというだけで、別に珍しくも何ともなかったのか・・・」

 とやや落胆しましたが、そんな時、猛スピードで飛ぶ二匹の龍雲が真上で激しく衝突し、上空に「X」の姿を作りました。
 それはそれでとても珍しい出来事のような気がして、思わず携帯電話のカメラで写真を撮りました。


 帰宅してから「X」状の龍雲の写真を見て驚きました。


 「X」の交差する部分に、額に円型の飾りを付け、立派な顎鬚を生やした、老人の顔のようなものが写っており、全体を見ると、褌を一つだけまとった仙人の様な老人が脚を広げ両腕を思い切り伸ばしてバンザイしている姿に見えるではありませんか・・・。
 しかも、最初に撮った写真は脚が上で頭が下ですが(※写真2)、その2分後に撮ったより判りやすい方の写真は頭が上、脚が下で(※写真1)、どちらも御顔には、額に円型の飾りを付け、立派な顎鬚を生やしている姿が確認できます。


 この立派な顎鬚を生やした御顔は、何処となく、合氣道開祖、植芝盛平先生の御姿に似ているとは言えないでしょうか?(※写真4)・・・。


 実際、合氣道の稽古では相手の側面にバンザイをして飛び込む動作が多々あり、そう考えると、遥か上空で、植芝盛平先生が伸び伸びと合氣道の稽古をされている御姿にも見えなくもありません。
 まあ、身に付けられている物が褌一丁だけというのが少々解せない様にも思われますが・・・。



 額に付けた円型の飾りに関しては、植芝盛平先生が心の師として仰がれた「大本」の出口王仁三郎聖師が日本神話に登場する神々等に扮装された時に、よくこの様な円形の飾りを額に付けられていた様です(※写真5)。これは「太陽」または「月」あるいは「後光」を表しているのでしょうか?・・・。
 正直、自分にはよく解かりません・・・。



 これらの写真が、果たして、スピリチュアルや霊能の「本職」の人たちからはどう解釈されるのかも自分にはよく判りません。
 そんなものは信じないという方から見れば、ただの偶然、無理矢理なこじつけだと一笑に付されてしまうでしょう。


 しかし、元日の神社に初詣に行って現れた不思議な雲ですから、きっと神様が御降臨して御姿を現して下さったか?・・・、あるいは、本当に神界にいらっしゃる合氣道開祖、植芝盛平先生が御降臨下さり、御姿を現して下さったのか?・・・、何れにせよありがたく、おめでたく、縁起の良い写真としてこれからも大切にしていきたいと思っています。


 これをご覧になった皆様にも何かしらの御利益があったら?・・・嬉しいです。
 信じるか信じないかはあなた次第です・・・。
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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