Search Bloguru posts

合氣道練心館 館長所感集

https://en.bloguru.com/renshinkan

freespace


 合氣道 練心館道場
(別窓で練心館道場のサイトが開きます)

Blog Thread

  • 「愛」に関する考察 ①

「愛」に関する考察 ①

thread
合氣道の聖地。茨城県笠間市にあ... 合氣道の聖地。茨城県笠間市にある合氣神社です。 青山学院大学相模原キャンパスの... 青山学院大学相模原キャンパスのシンボル。ウェスレー・チャペルです。





 『ありのままで生きる 天と人をつなぐ法則』(矢作直樹/保江邦夫 著 マキノ出版)
という本を読んで色々と考えさせられました。

 著者の一人、保江邦夫先生は、ノートルダム清心女子大学教授で理論物理学者ですが、我々の世界では、大東流合気武術の伝説的名人、佐川幸義先生の門下で修行され、現在は「冠光寺眞法」なる独自の合気系武道を指導されていることで有名です。

 もう一人の著者である矢作直樹先生は、東京大学教授で同附属病院救急部・集中治療部部長をされているそうですが、現職のお医者様でありながら、霊魂の存在や死後の世界の存在を肯定され、啓蒙する活動をされています。

 お二人の対談内容は、臨死体験やあの世、霊魂、スピリチュアルヒーリング、挙句の果てにはUFOにまで及び、世間一般からは「トンデモ本」にジャンル分けされるのではないだろうか?!、と思いました。

 個人的には、私は、そういった話は決して否定派ではないので、興味深く読ませて頂きました。

 この本の中で保江邦夫先生は、ご自身の冠光寺眞法の技の原理を簡潔に述べられていましたが、これは、今現在、私が探究しているものと変わらないのではないか?と感じました。

 保江邦夫先生曰く、「技の原理を簡単にいえば、『愛とともに相手の魂を自分の魂で包む』というものです。」



 合氣道を修行する上で、「愛」の問題は避けては通れない重要なテーマです。

 合氣道開祖・植芝盛平先生は大正14年の春、黄金の光に包まれるという宗教的神秘体験をされ、武道の真理に開眼されたといいます。
 「その瞬間、私は、『武道の根源は、神の愛―万有愛護の精神―である』と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。」(『合気神髄』P54)

 また、合氣道の極意は己を宇宙と一致させ、我即宇宙となることだとし、そのためにも、まずは己の心を宇宙の心と一致させなくてはならないと説かれています。そして宇宙の心とは「愛」であると断言されました。
 「宇宙の心とは何か? これは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』である。」(『合気神髄』P34)

 また、合氣道という名前も愛を連想させるからなのだと仰っています。
 「『合』は『愛』に通じるので、私は、私の会得した独自の道を「合気道」と呼ぶことにしたのである。」(『合気神髄』P41)



 私自身、30代の後半までは所謂武術的な技を行っていました。より具体的に言い換えるならば、中国武術でいう所の「勁力」を使っていました。

 一言で「勁力」と言っても専門的に言えば、明勁・暗勁・化勁の中での、一番の初歩である明勁の要素が強かったと思います。まあ、これが一番派手に相手を吹っ飛ばしたりできるもので、素人目に見ても比較的判り易いものですから・・・。

 「勁力」を使いこなす上でも、小手先の筋力等は一切不要なので、未熟な私は、「これこそが合氣道の奥義に違いない?!」と思っていました。

 しかし、万生館合氣道の先生方と運命的に一緒にお稽古する機会を得て、「質の違い」に気付かされました。(※このことはいずれまた詳しく書こうと思っています。)

 武術として相手により大きなダメージを与える方法としてなら「勁力」は有効です。
 しかし、万生館合氣道の先生方の行う「呼吸力」の技は、もっと柔らかく、「心」に直接働き掛けるような技でした。

 今まで自分が合氣道の奥義だと信じていたものは、単なる実戦武術の技法であって、それこそが開祖がいずれは捨て去らなくてはならないとした「魄」の土台であって、その上に、柔らかく「心」に直接働き掛けるような「氣結び」の「魂」の技を創り上げていかなくてはならないのだ、と気付かされました。

 以来、自分なりに色々と試行錯誤して、「魂」の技、「氣結び」の技も少しは体現できるようになりました(まだまだ完成には程遠く、一生のテーマになりそうですが)。

 その中で見えてきたものは、「氣結び」の技をなそうとする時は、こちらの心の状態が技そのものに強く影響する、ということでした。

 経験上言えることは、こちらが「明るく朗らかで積極的な心」の状態の時、「氣結び」の技は上手くいく、というものです。



 保江邦夫先生が「愛とともに相手の魂を自分の魂で包む」と仰った冠光寺眞法の基本原理と、私が自分なりに行き着いた「明るく朗らかで積極的な心で氣結びする」という極意は、言わんとしている内容は全く同じことではないか、と思います。

 つまり保江邦夫先生が仰る「愛」とは、更に言うならば植芝盛平先生が説かれたような「宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』」や、武道の根源としての神の「愛」といったような「愛」とは、極めて人間的な「好き」という感情等では決してなく、宇宙全体に広がる「明るく朗らかで常に積極的に前に進もうとする大きな意思のようなもの」と言えるのではないかと思うのです。
 そしてこの「愛」を少しでも多く自分の心に宿すことができると、相手の心に柔らかく直接働き掛けるような、「氣結び」の「魂」の技も比較的上手くいく、ということではないかと思うのです。



 この「愛」についてより深く考えるヒントとして、スウェーデンのキリスト教神学者ニーグレンの著書『アガペーとエロース』で主張した論が大きな示唆を与えてくれます。

 ニーグレンは、
 「エロース」とは、真・善・美をどこまでも追求するギリシャ哲学的愛であり、上昇を志向する愛であり、対象に何らかの価値を認めるが故の愛、自己追求の愛であるとしています。
 一方、「アガペー」とは、自分をどこまでも捨て去る愛であり、下降する愛であり、対象に愛する価値があるかどうか全く顧みない愛、自己放下の愛であるとしています。

 原始キリスト教における「愛」は「アガペーモチーフ」だったが、教会の世俗化とギリシャ哲学の影響により、いつの間にか人間的な「エロースモチーフ」に変換されてしまった。
 16世紀のルターの宗教改革はキリスト教における「愛」をもう一度本来の「アガペーモチーフ」に戻そうとする運動だった、ということです。

 そもそも「アガペー」とは、本来人間には不可能な「愛」なんだそうです。

 しかし、自分をどこまでも捨て去ることができた時、人間は、天から一方的に無限に降り注ぐ、神の偉大なる「愛」に気付くことができるのだそうです。
 そして自分が無限の神の「愛」に包まれていることを知った後は、鏡が太陽の光を反射するように、自分自身もただの鏡のようになって、周囲を神の「愛」で照らしてやればよいだけなのだそうです。



 保江邦夫先生が技の基本原理として仰った「愛とともに相手の魂を自分の魂で包む」場合の「愛」とは、人間的な「好き」という感情などでは決してないでしょう。人間の「好き」という感情は、ややもすれば簡単に「嫌い」へと揺れ動きます。

 キリスト教における神の「愛(アガペー)」や、合氣道開祖・植芝盛平先生が古神道的世界観と信仰によって感得した宇宙の本質としての「愛」、武道の根源としての「愛」。
 これらは本来、簡単に言葉で言い表すことのできないものなのかも知れません。
 しかし敢えて、無理にでも言葉に表現するならば、やはり「明るく朗らかで常に積極的に前に進もうとする大きな意思のようなもの」だと言えるのではないでしょうか。



 稽古・修行を通して己を宇宙そのものと完全に一致させることができた時、自身のちっぽけな「我」は完全に捨て去られ、己には宇宙の心、即ち偉大なる「愛」が無限に降り注ぎ包まれているということに気付くのでしょう。

 その時、人間はきっと意識して「愛そう」等としなくても、光の当たっている鏡が常にその光を反射して輝いているように、「愛している」のが自然で当たり前の状態になっているのかも知れません。

 そうなって初めて、理想の合氣道は完成するのでしょうか?・・・。

 生きているうちにそこまでの境地に辿り着きたいものです。
#キリスト教 #ブログ #合気道 #武術 #武道

People Who Wowed This Post

  • If you are a bloguru member, please login.
    Login
  • If you are not a bloguru member, you may request a free account here:
    Request Account
Happy
Sad
Surprise