ありのままの自分には努力して「なる」もの
May
26
哲学者の鷲田清一先生は、現在、京都市立芸術大学の学長をされているそうですが、今年の入学式の「学長式辞」をたまたまネット上で知り、その中に、非常に心に残る言葉を見付けました。
鷲田先生は、京都市立芸術大学卒業生で、現代美術家として世界的に活躍されている「やなぎみわ」さんの言葉を引用してお話されていました。
「『経験から学ぶことは大切です。でもそれでは小さすぎるんです。』
みなさんは難関を突破してこの芸大に入ってこられたのですから、すでにある技を身につけ、個性的なセンスやスタイルをいくぶんかは持っておられることでしょう。それをさらに磨くために入学されたわけですが、やなぎさんが言おうとされているのは、自分がこれまで育んできた個性らしきものに閉じこもるな、ということです。」
自分が「個性」という言葉に疑念を持ち始めたのは、今から二十数年前、大学で教職課程の授業を聴き始めた頃からでした。
当時、いわゆる「ゆとり教育」の全盛期で、詳細はもう忘れてしまいましたが、その頃の第〇次中央教育審議会(中教審)答申や第〇次臨時教育審議会(臨教審)答申などの文章を読むと、「個性」を尊重し、「個性」を涵養し、「個性」を育み、「個性」を伸ばし、「個性」を磨き上げ、「個性」を輝かせ、といった具合に「個性」「個性」のオンパレードで、高度経済成長真っ只中に生まれ、たっぷり「個性」を尊重されて育ってきた20代の若者だった自分でも、「これはちょっとおかしいんじゃないのか?」「これは絶対に間違っているんじゃないのか?」という感想を抱きました。
それはまるで、「個性」こそが全てだ!、「個性」の無い奴は人間じゃない!、「個性」の無い奴はゴミだ死ね!、とでも言わんばかりの勢いで、「個性」のために却って人間が生き辛くなってしまうのでは、と真面目に考えさせられました。
いつの頃からか、それが「学力」「学力」にとって代わり、今度は「愛国心」などと騒ぎ立てられ、振り回される教育現場はいつも大変です。
私自身、後に学校教育の現場に立つことになり、多くの素晴らしい生徒達に出会うことが出来ましたが、一方で、残念ながら「個性」を履き違えている子どもたちも、ちらほら見られました。
そういった子どもたちの主張を要約すると、
「自分は努力が苦手という『個性』を持って生れてきたんだ!。なのに先生は、親は、社会は、何で自分に努力を強いるんだ!。『個性』尊重が大切なのに、先生は、親は、社会は、間違っている!。」
あるいは、「自分は我慢が苦手という『個性』を持って生まれてきたのに、先生も親も社会もみな自分に我慢を強いる。我慢が苦手という自分の『個性』はどうしてくれるんだ!。先生も親も社会もみな間違っている!。」
といった具合です。
ところで、昨年、『アナと雪の女王』が大ヒットし主題歌の「Let It Go~ありのままで~」が至る所で流れていました。
しかし、かの美輪明宏さんはその歌詞に対して、大層ご立腹の様子でした。
美輪さん曰く、
「ありのままで」という歌詞が好きじゃない。何て怠け者で図々しいんだろうかと思う。「ありのままの私を受け入れて欲しい」というのは、「泥の付いた畑の大根をそのまま喰え」と言っているのと同じで、図々しいにも程があり、甚だ迷惑なことだ。
人間は、誰かに受け入れてもらいたいと思うならば、まず泥を洗い落として、色々と工夫を凝らして料理する、つまり、努力をして自分を磨かなくてはならないのだ、と。
「 なるほど・・・」と思って改めて「Let It Go~ありのままで~」を聴いてみると、意外や意外、実はこの歌、美輪さんが仰る程そんなに悪い歌でもないのではないか?、いやむしろ、自分のような立場の人間が聴けば、武術・武道修行の神髄が歌われている曲、といっても過言ではない・・・のではないか?、英語の原曲では本当はどういったニュアンスなんだろうか?、とまで思われてきたのですから驚きです。
自分としても、単に、松たか子さんの美しい歌声に惹かれただけでは決してないと思います。
「Let It Go~ありのままで~」では、このままじゃ駄目だ!、自分は変わるんだ!、そして、ありのままの自分に「なる」んだ!、と歌われています。
もしも、自分は今まで通りで構わない、自分は変わる必要はない、何もしなくても、元々ありのままなんだからそれで許される、といったような歌だったら、美輪さんの仰る通りで、まさに「個性」というものを履き違えた甘ったれの戯言だと切り捨てるべきかも知れません。
実は、武術・武道の修行は、人間が真の「ありのまま」の姿になるための修行だと言えます。
我々は、努力して、苦労して、常に自分の殻を破りながら、真の「ありのまま」の自分を求め、真の「ありのまま」の自分に「なろう」と精進するのです。
作家で臨済宗僧侶の玄侑宗久さんは、我々が目指す真の「ありのまま」を「もちまえ」という言葉で解かり易く説明してくれています。
「『わたくし』を解いて『もちまえ』を出そう
生まれたときからもっている命の在り方を『もちまえ』と云う。(後略)
動物の多くは、この『もちまえ』だけで死ぬまで生きる。(後略)
犬やサル、さらにチンパンジーから人間になると、『もちまえ』よりも学習する領域が増えてくる。とりわけチンパンジーや人間は、学習やさまざまな体験によって、『もちまえ』の上に『わたくし』を被せていく。モノゴゴロがつき、チエづいてそれは次第に完成されるようだが、これこそ『もちまえ』を抑圧する諸悪の根源だと見抜いたのが釈尊であり、また老子や荘子ではなかっただろうか。
なぜなら、『わたくし』は常に独自の欲望をもち、思考や判断をするが、それはほとんど常に『もちまえ』の欲求を無視し、ときにはそれを圧迫するからである。
典型的なのは、自殺願望だろう。死にたいと思っているのは『わたくし』だけなのだ。
『もちまえ』は多くの同じ命たちと繋がっており、いつも全体のなかで安らいでいる。
一度できてしまった『わたくし』はなかなか解けないが、それでもなんとかその輪郭を薄くして、『もちまえ』を出そうと発明されたのが、もしかすると東洋における宗教ではないだろうか。
『もちまえ』を使いこなす
『もちまえ』が意外なほど凄い力であることに人々は驚き、神通力と呼んだりもする。おそらく武道でも、『わたくし』が透明なほどに薄まってこそ『もちまえ』の力が発揮できるのではないか。」(『日本的』海竜社 より)
また、日本に中国武術を紹介された第一人者ともいうべき、松田隆智先生は、武術の極意・真理は「自然順応」、つまり「宇宙の法則に従うこと」にあるとされ、次のように仰られました。これなども、まさに、真の「ありのまま」とはどういうことか述べているものだと言えます。
「人間は成長するのにともない、さまざまな学問や体験によって自分なりの観念をつくりあげて行くが、このことは多くの場合、本来知っていたはずの自然から遠ざかっていく。(中略)
しかし、やがて真理を知る師について正しい武術を学ぶようになると、今まで知ることのなかったさまざまな技術を学ぶ。(中略)
だが、師より学んだ技術を完全に理解した時、学び始めた時には特別なものに感じた技術は、実はもっとも自然に順応したものであることを知る。つまり自分は自然の本来の動作を体得したのにすぎず、自己と一体化した技術はすでに特別なものではなく、闘いにおいては、ただ打つべき時に打ち、蹴るべき時に蹴るだけのことである。」(『Meditation Catalogue 精神世界の本』平河出版社 より)
更に、武術研究家として様々なメディアで活躍されている甲野善紀先生は、自身のライフワークである武術研究は、「人間にとっての自然とは何か」を探究することである、と仰られていますが、それも言い換えるならば、玄侑宗久さんの言う、学習や体験によって自己に被せられた「わたくし」や、世間一般で「個性」と呼ばれるような、「自分なりの観念」から脱却し、真の「ありのまま」を探究することを意味しているのではないでしょうか。
私自身は決して「個性」の存在を全否定するような人間ではありません。
どんなに頑張っても人間にはその人なりの「持ち味」というものがあって、それをまさに本当の「個性」と呼ぶのでしょう。
「個性」は確実に存在すると思います。
しかし、我々修行者は、くれぐれも偽りの「個性」に騙されないよう、気を付けなければなりません。
むしろ、世間一般で言われているような「個性」などというものは、自分を小さくつまらない状態のままに押し止めようとする、狭い檻のようなものであり、ちっぽけな自分の殻を破って、真の「ありのまま」の自分を伸び伸び発揮させようとするのを抑圧するものであり、自分の殻に閉じ籠ったまま、努力して、自分を磨こう、自分を変えよう、ともしない弱虫で甘ったれた人間の体の良い言い訳、くらいに考えていた方が良いかも知れません。
武術・武道の修行は、つまらない「個性」の殻を打ち破って、まだ自分も知らない真の「ありのまま」の自分へと目指してゆく道程です。
そのための大切な手段が、心身統一、氣の原理、天地自然の理を学ぶことであり、己自身をを宇宙そのものと一体化させることです。
私たちは、「個性」や「ありのまま」を、決して履き違えないよう注意しなければなりません。
ありのままの自分には、努力して「なる」ものです。
Posted at 2015-05-26 17:04
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Posted at 2015-05-27 21:43
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