前回の続きです。
たしか前回、
「合氣道の修行も、主体性を持って、自分のどこをどう直して、どこをどう伸ばして行くべきか、きちんと目標を定めて、真にやる気を出して精進して行けば、いずれは、最初に習った地味な『基礎・基本』の中にこそ、究極の『奥義』が隠されている、という事実を思い知らされる。」
そんな意味のことを書きました。
練心館では今、年に二度(6月末と11月末)行われる昇級審査に向けての稽古の真最中です。
そしてこの時期になると、毎回、しみじみと感慨深く思い知らされるのが、「やっぱり『基礎・基本』=『極意・奥義』なのだなぁ・・・」、ということです。
そして必ず、そのことを最初に「熱く」教えてくれた、ある先生のことを思い出します。
その先生というのは、今から30年近く前に代々木ゼミナールの‟個性派”名物英語講師だった、帆糸満(ほいとまん)先生です。
帆糸満というのは本名ではなく、アメリカの詩人Whitmanから取ったペンネームで、本名は渡部十二郎先生と仰られました。
この文章を読んで下さっている方の中に、帆糸先生の教え子は居られるでしょうか?
私も「オクスフォード現代英英辞典(OALD)」片手に悪戦苦闘しました。今となっては本当に懐かしい思い出です。
帆糸先生の名言として、「基礎ほど難解なものはない!」というのがありました。
凡そ学問において(それが受験勉強であっても)、「基礎」とか「基本」と呼ばれるものこそが最も奥深く、難解なのである、と。
しかし、世間では「基礎」や「基本」は簡単なものであるという誤った認識がまかり通っており、そうやって根本的な勘違いをしたまま、簡単であるはずの「基礎」や「基本」で躓いてしまう自分を嘆いたり、失望したり。
それこそまさに、愚の骨頂である、と。
今になって考えてみると、自分は、帆糸先生から、自分が思っている以上に大きな影響を受けているのではないか?、と思います。
受験が終わってから、なぜだか自分でも解らないけれど、唯一、お礼の挨拶に伺ったのも確か帆糸先生だけだったと思います。
代ゼミの大教室で、向こうはこちらのことなど覚えているわけはないのに・・・、です。
帆糸先生は剣道家で、戦時中は少年飛行兵として特攻隊の訓練を受けていた、と聞きました。
そんな先生は、戦争というものを心の底から憎んでおられました。
一度は「祖国のために命を捧げる」と腹を括った人間が、その後、戦争というものがいかに愚かな行為か、切々と訴えているのを見て、18歳だった自分は、「理由は何だかよく判らないけれど、この人の言葉は真に信用に値する」と感じていました。
そして、自分のような、戦争の惨禍を身をもって経験せず、戦後の豊かで平和な日本に生まれ育った人間が、口先だけで勇ましいことを言うのは絶対に許されない、それこそが真の「平和ボケ」である、と自分を戒めたのを今でもはっきり覚えています。
戦後70年経ちました。
時代の変化とともに国の形も変わって行くのは、致し方ないことなのかも知れません。
しかし、いつの頃からか、口先だけで勇ましいことを言う、真の「平和ボケ」が、日本中であまりにも増えてきたように感じます。
今、帆糸先生ならどうお感じになられるか?、とても気になるところです。
同じように、この日本において、武術・武道の世界でも、徒に、勇ましく「実戦」などという言葉は使用すべきではない、というのが私の個人的な考えです。
勿論、私は未だかつて、武道の技を「実戦」で使ったことはないし、今後も使いたくもありません。
思い返せば、過去に、電車の車内暴力を止めたことはありますし、高校教員時代に、生徒指導上必要に迫られて、反抗・抵抗する男子生徒を合氣道技で制して(※飽くまでも無傷で、です!)連行する、といったことはありましたが、そんなものは絶対に「実戦」などと呼べるものではありません。
「実戦」とは、殺意を持って襲撃してくる「敵」を、こちらも殺意をもって制圧し、止めを刺すことです。あるいは、逆に、こちらが止めを刺される可能性も大きいでしょう。
アクション映画のように格好のいいものなどでは決してなく、スポーツ格闘技のように痛快なものでもなく、「命の重さ」という大切な「人間の尊厳」を最も踏み躙る、極限まで汚く、恐ろしく、悲しいものです。
治安の悪い国で活躍されている海外の武術家の中には、本当に「実戦」経験の豊富な方も数多くいらっしゃるようですが、せっかく平和に過ごしている日本人が、そんなものに憧れたりするのも、ある意味、「平和ボケ」だと個人的には思っています。
「実戦武術」のような、場合によっては、人間性までもを歪め兼ねない殺伐としたものは、できることなら海外の武術家たちに任せておいて、「和」の国で暮らしている我々日本人は、崇高な精神性を重んじる、人間修行の道である「武道」こそを、我が国の誇りとして世界にアピールしていくべきではないでしょうか・・・。
何だか話がどんどん脱線してしまったようなので、元に戻します。
帆糸先生は、学問において、「基礎ほど難解なものはない」と仰いましたが、これは武術・武道の修行においてもぴったり当てはまることです。
さまざまな流派・門派の多くの師範・先生方が、その道の「基礎・基本」と呼ばれる形や鍛練法の中にこそ、究極の「奥義」が隠されている、と仰っています。
空手では「ナイファンチ」や「サンチン」、あるいは「ピンアン」。八卦掌では「走圏」。意拳では「站椿功」。鹿島神傳直心影流では「法定」。天真正伝香取神道流では「表之太刀」。新陰流の「合撃」や一刀流の「切落し」、薬丸自顕流(野太刀自顕流)の「抜き」と「蜻蛉の構えからの続け打ち」、等々、言い出したら限がありません。
練心館では、大人の場合、最初の昇級は伍級の審査からです。
なので、伍級の独習技(一人型)と組技(形)の中にこそ、合氣道の奥義が隠されている、と言えます。
しかし、より厳密に言えば、合氣道開祖・植芝盛平先生が「合氣道に形はない」と仰っているように、形のない「心身統一と氣の原理」にこそ合氣道の本質があるわけで、具体的な形を持った技の数々は、その本質を宿すための、ある種の「依代」のようなもの、というのが正確なのかも知れません。
ともあれ、我々合氣道修行者にとって、最初の山であり、最初の壁でもある「基礎・基本」。これがこの先ずっと目の前に立ち塞がる一生のテーマになるであろうことは間違いありません。
だから、合氣道の昇級を、今時流行りの「ゲームのステージ〇〇をクリアする」というような感覚で捉えては絶対にいけません。
伍級を取ったら次は肆級、そしてその次は参級、弐級と昇級を目指して行くことになりますが、たとえその後、段位を取ったとしても、それは「級」のステージを完全にクリアした証だ、などという意味では決してありません。
修行の過程で、伸び悩むというようなことがあったとしたら、それは理由は簡単です。
「基礎・基本」ができていないからです。
もしも長い修行の果てに、合氣道の奥義を体得する、というようなことがあるとしたら、それは、「基礎・基本」を揺るぎない完璧なものに仕上げることに成功した、ということだと言えると思います。
ある意味で、最近は良い時代になりました。
最近、「Youtube」で色々な合氣道の動画を視ていたら、その中の一つで、藤平光一先生が素晴らしいことを仰っていました。
曰く、「たくさんの技を覚えるよりも、一つでも二つでも良いですから、本当に心身の理に適った、正しい技を学んでもらいたい。」、と。
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Posted at 2015-08-31 18:41
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Posted at 2015-09-07 09:14
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