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合氣道練心館 館長所感集

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 合氣道 練心館道場
(別窓で練心館道場のサイトが開きます)

「正を以て合い、正を以て勝つ」ことは可能か?

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 お稽古の中でふと考えたことです。

 合氣道の基本の立ち方として、左足を前にする「左半身」、右足を前にする「右半身」というのがありますが、練心館ではつま先を「ソ」の字に開いて、お臍を中心に「正中線」を真っ直ぐ前に向けるように指導しています。

 実はこの立ち方、古流武術に照らし合わせると、「半身」ではありません。

 日本の伝統的な古流武術では、「正中線」を真っ直ぐ前に向ける姿勢を「向身(むこうみ、むかいみ)」といい、正式な「半身」とは、足を「丁」字、若しくは「L」字に開いて、「正中線」を45度から90度程相手から逸らす姿勢をいいます。

 ですので、練心館でやっている「左半身」「右半身」は、正式には「左向身」「右向身」というべきなのかも知れません。
 しかし、合氣道の世界では、大半の流派が「正中線」をしっかり前に向けた姿勢で、「左半身」「右半身」といっているので、合氣道用語として、今後もこのままでやっていくつもりです。

 一方で、合氣道の動きの中にも、古流武術でいう所の正式な「半身」もあって、練心館ではそれを「撞木足(しゅもくあし)」と呼んで、合氣道の「半身」とは区別しています。



 最近、お稽古をしていてふと思ったのが、日本の武道において、「まごころ」「誠心」というものをしっかりと目に見える形に現したものが、この「『正中線』を真っ直ぐ相手に向けた姿勢」といえるのではないか・・・?、ということです。
 合氣道開祖・植芝盛平先生の言葉にも、「愛のかまえこそ正眼の構えであります。」(『合気神髄』P129)というのがありました。
 そう考えると、古流武術に於ける「半身」いわゆる「撞木足」は、やはり「斜に構える」ということなのか・・・?と、思われてきました。



 「斜に構える」という言葉は、元々は剣術の「脇構え」から来た言葉だといいます。
 現在でも、古流剣術のいくつかの流派では、「脇構え」を「斜(車)の構え」として伝承しています。
 それが、「身構えて改まった態度をする」という意味になり、更に「物事に正面から対処せず、皮肉やからかいを込めた態度、ひねくれた態度で臨む」という意味にも転じてきました。


 
 そこで更にふと思ったのが、この「正中線を真っ直ぐ向ける」姿勢と、「斜に構える」姿勢は、そのままぴったり古代中国の兵法書『孫子』における「正法」と「奇法」に通じるのではないか・・・?、ということです。

 「凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ。故に善く奇を出だす者は、窮まり無きこと天地の如く、尽きざること江河の如し。」(『孫子』勢篇第五)
 (現代語訳)「およそ戦闘というものは、先ずは定石通りの正法で会戦し、変化に適応した奇法でこれに打ち勝つのである。云々~。」

 考えてみると、「実戦武術」といわれるような流派・門派の戦闘法は、先ずは「正中線を真っ直ぐ向けた」姿勢で正対し、「斜に構えた」姿勢で相手の懐に入身して制する、といった技法が多いようです。

 個人的には、所詮は戦争などという人間の最も深い罪業の場面で、「いかに相手を打ち負かすか」という観点で書かれた兵法書である『孫子』の教えと、もっと壮大で、人類全ての平和と幸福を理想とした「愛と調和の道」である合氣道とは、相容れないものがある、と考えていますが、実は合氣道の技も、先ずはお互いが「正中線を真っ直ぐ向け合って」正対した所から、「奇」に転じて相手を制するものが多いように思われます。

 言い訳がましく聞こえるかも知れませんが、合氣道において、最初は「正を以て」合いながらも、「奇」に転じるように見えるのは、飽くまでも「相手の氣を尊び」、「相手の立場に立ち」、「相手と一体になる」結果であって、決して「奇」策・「奇」襲を弄して相手を制圧するということではない、とだけは言いたいです。



 何となく心の中がモヤモヤしたままなので、「正を以て合い、正(正中線、まごころ、誠心)を以て勝つ」ということが可能なものは何かないのか・・・?、とあれこれ考えてみた所、お付き合いさせて頂いている剣道家の先生(都内私立大学の教授で哲学者をされています)から以前伺った話を思い出しました。
 
 「長い剣道歴の中で数える程しかないが、お互いが渾身の「面」を打ち合った瞬間、お互いが正対したまま一方の竹刀が一方の竹刀の上に乗り、鎬で相手の軌道を逸らし、鮮やかな「面」が決まる瞬間がある」、と。
 「そしてこの瞬間は、一本を決めた方も決められた方も、言葉では表現できない程の爽快感があるのだ」、と。

 この技法は新陰流では「合撃(がっし)」といい、現代剣道のルーツである一刀流では「切り落とし」といって、奥義とされています。

 古来、日本剣術の奥義とされてきた「合撃」「切り落とし」、そして剣道における理想の「面の一本」こそが、「正を以て合い、正(まごころ、誠心)を以て勝つ」ものであった・・・?、というのは感慨深いものがあります。
 我々の合氣道も、体捌きのベースになっているのは剣術であり、練心館では剣技の型も稽古しています。



 元警視庁剣道主席師範で剣道界の重鎮でいらっしゃる、森島健男先生は、次のように述べられています。

 「かつて剣道には三百もの流派があったといわれるが、その主だった流派は相打ちの勝ちを極意として伝えている。
    いづれかを勝と定めむいづれかを
     負けとも申さむあひのあひうち
 どちらを勝ちと定めどちらを負けと申そうかと迷う程のきわどい相打ちであるが、そこに紙一重の厳しい勝負もあるものだということを歌ったものである。
 山岡鉄舟は、『剣法邪正弁』で『我が体を敵に任せ』と述べている。任せれば恐懼疑惑の迷いはなくなる。相手の出方によって臨機応変。自分を任せるということは自分が死ぬということ、つまり捨て身。心の問題であって技ではない。極限状況において死を決意すればそこに生きる道が開けるということであろうが、容易なことではない。だからこそ各流派が極意としたのであろう。竹刀剣道も極意は相打ちの勝ちである。」
(『日本の伝統 魂をみがく武道 明治神宮 至誠館』 明治神宮社務所編 卓球王国)



 また、陸上自衛隊特殊作戦群初代群長で、現在は鹿島神流師範として明治神宮武道場「至誠館」館長をされている、荒谷卓先生も次のように述べられています。

 「剣では、自分の身を餌に相手の間合いに入って、切らせに行きます。そのきっかけを自分で作れるかどうかが分かれ目で、相手が切ってくるのを待っているようではダメです。相手が動いてからではなく、自ら入身して、相手に切らせる場所とタイミングを自分で作り出すのです。それで相手の攻撃オプションを一つに限定させ、そこに攻撃を加える。相手が‟やった、これでコイツを切れる”と思うまで自分を追い詰める、それが‟入り身”という技と‟捨て身”という精神で、日本の武道で一番大切なところです。」
(『Strike And Tactical』 2010年7月号 カマド)



 森島健男先生が「相打ちの勝ち」と仰り、荒谷卓先生が「捨て身の精神と入り身の技」と仰っていることは、古来、日本剣術の奥義であり、恐らくは、「正を以て合い、正(まごころ、誠心)を以て勝つ」ということに通じるものだと思います。

 しかし、命を懸けた真剣勝負でこれらを実践することは、文字通り「容易なことではない」でしょう。
 
 そう考えると、日本の伝統的武術・武道が打太刀(受け)と支太刀(取り)の一対になって形稽古をすることの意味や、剣道で防具を付けることの効用は、命の危険なく誰もが安全に「捨て身で入り身する」稽古ができる、ということ。
 つまり、誰もが「相打ちの勝ち」を目指し、誰もが「正を以て合い、正(まごころ、誠心)を以て勝ち」にいく稽古ができる、ということではないかと思います。



 純粋に試合に勝つための、スポーツゲームとしてやっておられる方はどうか知りませんが、本来、日本の武道では、自分が100%の力を発揮するだけではなく、相手にも100%の力を発揮してもらうことこそが大事でした。
 
 例えば現在でも、剣道の試合中に、突然相手がよそ見をしてボケーっと考え事を始めたからといって(常識的に考えてそんなことは普通あり得ませんが)、これ見よがしにそこを狙って、渾身の力で相手を打ちのめしたとしても、そんなものが、相手の隙を衝いた理想の「一本」であるなどとは、誰も認めてはくれないでしょう。
 
 相手にも100%の力を発揮してもらうということは、捉えようによっては、それは敢えて自らを危険に晒すことです。
 これはまさに「捨て身」になることにも通じ、武士道精神としては、潔く、美しいものだと言えます。

 しかし、これを実戦で応用できるのは特殊部隊の突入作戦や、圧倒的戦力差がありながらも、護身のため起死回生を狙うギリギリの状況下であって、飽くまでもこれは、国家レベルでのリアルな戦争の常套手段とすべき方法ではないでしょう。



 これは飽くまでも個人的な見解ですが、70年前の先の大戦では、「武士道精神の潔さ、美しさ」と「戦争のリアリズム」との間に、大きな齟齬があったのではないかと感じています。
 日本人に馴染んだ「武士道精神」に則って、実戦の場でも、どこまでも人間の崇高な精神を重視し、信頼しようと試みた結果、却って非人間的な悲劇を生んでしまったということに、歴史の皮肉を感じざるを得ません。



 「戦争のリアリズム」に則した実戦の戦闘法は、やはり、海外の実戦武術や勝利至上主義のスポーツなどでは常套手段となっている、「相手の力を1%も発揮させずに、こちらだけが一方的に100%の力を発揮して相手を打ち負かす」ということだろうと思います。
 現在、その究極の姿が、アメリカ軍などによるドローンを使用した一方的な攻撃だといえるでしょう。
 しかし、日本人の「武士道精神」から見ると、それは「卑怯」極まりなく、決して受け入れ難いものです。



 結局、やはり日本の「武」は、実戦で相手を打ち負かし勝利するための、合理的な戦闘術・制圧術としての「武術」などでは決してなく、人間を磨き、心を磨き、魂を磨く「武道」である、ということだと思います。
 
 そしてやはり、日本の「武道」の神髄は、平和の中でこそ活きるもの、だと思います。

 平和な世の中で、一人一人の人間が、潔く、美しく、生きるためのヒントになるもの。
 それこそが、日本だけが生み出すことのできた、世界に誇るべき精神文化である、「武道」ということだと思います。



 自分も、せめて「人生」の中においては、時には事に臨んで、「正を以て合い、正(まごころ、誠心)を以て、捨て身で入り身」できる人間になりたいものだと思っています。



 何だか今回は、『孫子』を引用したせいなのか、話が終始「実戦」とか「戦争」とかいった殺伐としたものになってしまってすみません。
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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