11月2日(月)に、元・代々木ゼミナール英語科講師の帆糸満先生が練心館に来られました。 その一週間ほど前に、帆糸先生の息子さんからお電話を頂き、「父が貴方のブログを読んで非常に感激しております」「是非、直接お会いしたい、と申しております」とお話がありました。 https://jp.bloguru.com/renshinkan/242691/2015-06-23 そして、帆糸先生ご本人にも電話を代わって頂きましたが、その時は、本当に久し振りに緊張してしまいました。 当時、「代ゼミ」の人気講師といえば、大教室の教壇の上でエネルギッシュに立ち振る舞う、ステージの上のスターのような存在でした。 我々受講生は、客席から眩しくステージを見上げるような感じで、良い意味で、教師と生徒の間には圧倒的な距離がありました。 約30年振りに帆糸先生のお元気な声を聴くことができ、まるで、若い頃に大ファンだったロックスターと直接会話を交わすことができたような、不思議な気持ちになりました。 今年の1月から、苦手なパソコンと悪戦苦闘しながら、「ブログ」なるものに挑戦してきましたが、この時ほど、「何とか頑張って続けてきて、本当に良かった」、と思えたことはありません。 当日、帆糸先生は和服をお召しになられ、息子さんとその奥様を伴われ、御年86歳とは思えない矍鑠としたお姿で練心館にお見えになられました。 お若い頃からずっと剣道を修行しておられ(予科練時代は「薬丸自顕流剣術」もやられていたそうです)、日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学)で教鞭を執られていた頃は、大学の剣道部の指導もされていた帆糸先生ですが、20年ほど前より、「子連れ狼」の主人公「拝一刀」の流儀として有名な「水鷗流居合剣法」を始められ、今は「水鷗流」一本に専念され、修行を続けられているとのことでした。 その長年に亘る武道歴からも、私なんぞはもう、「師匠」とお呼びする以外にないような圧倒的な存在です。 私が帆糸先生の講義を聴き始めたのは、高3の夏休みの夏期講習からでした。 「大学院を修了して高校教員をしていた」という私の経歴から、私のことを「子どもの頃から良くできた優等生」だったのだろう、と想像される方も居られるようですが、実際は全く違います。 どちらかといえばかなりの劣等生でしたし、出身高校は大学進学実績など殆どない県立の新設校で、自分は、学校創立後3期生でした。 その中でも成績は下の方でしたし(合氣道部の部長として合氣道だけに青春の全てのエネルギーを捧げるような高校生活を送っていました)、そもそも、「大学進学」というものを自分の進路として具体的に考え始めたのは、他校に通う幼馴染の友人に誘われて、この高3の夏期講習を受講し始めてからでした。 初めて聴く大学進学予備校、代々木ゼミナールの講義が帆糸先生の英語の授業だったのですが、自分にとっては本当に衝撃的でした。 始まりから終わりまで、完全にチンプンカンプンで全く理解不能だったのです。 「世の中の本気で大学進学を目指している同世代の受験生たちは、こんなに難しい勉強をやっていたのか!」と、思い知らされただけでも、いい勉強をさせてもらったのかも知れません。 その後、「帆糸先生の講義が理解出来る人間になる!」を目標に、2学期以降と一年間の浪人生活の間、帆糸先生の講義を聴き続けました。 もちろんそれ以外にも、同じ「代ゼミ」で、現代文・小論文の酒井敏行先生、古文の椿本昌夫先生、漢文の田中三夫先生、政治経済の吉田一徳先生といった諸先生方にも本当にお世話になりました。 お陰様で、実質1年半の受験勉強で、40にも満たなかった偏差値を、20以上アップさせることができました。 今時流行りの「ビリギャル」程ではありませんが、今思い返してみても、我ながら良くやった方だと自負しています。 しかし、その中でも、帆糸先生の講義は奥深く、難しかったという印象です。 帆糸先生の英語講義のベースには、それまでの学校の英語の授業とは根本的に方法論や概念の違う、言語学に基づいた、独自の緻密な語法・文法の理論がありました。 さらに、語彙力の増強には英英辞典を使いなさい、と仰られ、最初のうちは英英辞典の解説を理解するために英和辞典を引かざるを得ず、それが大変な労力を要するものでした。 しかし今になって、後に自分が高校教員となってから聞かされた、あるベテランの先生(学校長まで務められ、既に一線を退かれた方でした)のお話と関連して、色々と考えさせられるのです。 それは、「本当に良い授業とは?」という内容のお話でした。 「本当に良い授業とは、果たして簡単に『わかる』授業なのか?・・・。」 「簡単に『わかった!』となってしまった時点で、人間は、自らの頭で考えることを放棄してしまっているのではないか?・・・。」 「それは単に『思考停止』『判断停止』をしているだけ、ともいえるのではないか?・・・。」 「人間の脳味噌が一番活発に活動する時とは、『わからない・・・、でも、もっとわかりたい!』と、白でもなく黒でもない、グレーのもやもやしたものに対して、必死に向き合おうとしている時ではないのか?・・・。」 「本当に良い授業とはむしろ、どこか『わからない・・・、でも、もっとわかりたい!』という、白でもなく黒でもない、グレーのもやもやしたものを、少しだけ生徒一人一人の頭の中に残してやれるような授業ではないのか?・・・。」 帆糸先生のお陰で、英語の偏差値も当時はずいぶん上がりましたが、一方で、やはり愚鈍な自分にとっては、最後まで帆糸先生の講義は奥深く難解で、どこか「わからない・・・、でも、もっとわかりたい!」と、頭の中にもやもやしたものを残してくれるものだったと思います。 ところで、以前、ブログのタイトルにもした帆糸先生の名言、「基礎ほど難解なものはない」という言葉は、先生の書かれた参考書『代々木ゼミ方式 帆糸英語一気シリーズ』(代々木ライブラリー)の「はしがき」にも書かれていました(※実家に帰って探し出しました)。 「丸暗記は空に舞う凧と同じ、一度糸が切れたらもう決して戻って来ない。試験場で『度忘れ』した苦い経験があろう。どんな簡単なものでも、理解し納得して学習せよ。そうすれば、忘れても、理論の糸がたぐれるもので、きっと思い出せる。 学問の苦手な人の唱えるお経は『基礎』。あたかも『基礎』と唱えていれば『怨霊退散』と信じているかのようである。『基礎』ほど難解なものはない。決して『基礎』と『愚書』とを混同してはいけない。基礎はただ暗記せよと言い、なんらの解説もせず、納得させようとしない本ほど腹の立つものはない。基礎はやさしいものと信じ、そのやさしい筈の基礎ができないと自己をなんと愚かな者かと考えていれば、それこそ『愚の骨張』である。くりかえす、基礎ほど難解なものはない。」 (『代々木ゼミ方式 帆糸英語一気シリーズ』帆糸満 著 代々木ライブラリー) 大学院修了後、7年間だけ高校の国語科教員となり、ここ10年以上は合氣道の師範となっている自分は、今や、残念ながら、普段英語と接する機会もほぼなく、受験生時代に比べても、英語の学力は相当落ちていることと思われます。 しかし、帆糸先生からは、合氣道師範としての今の自分の仕事に直結するだけでなく、人生万般にも活かすことのできる大きな教えを授けて頂いたと感謝しています。 その教えを代表するものこそが、「基礎ほど難解なものはない」だといえます。 「予備校講師は受験のインストラクターのようなもので、決して教育者などと呼べるようなものではない」と仰る方もいるようですが、自分にとっては、帆糸満先生は紛れもない「教育者」であり、「師」たる存在です。 日本一有名な合氣道師範で、哲学者・思想家の内田樹先生は、以前、ご自身のブログに次のように書かれていました。 「知識や技術の伝授という外形的な関係を経由して、『それとは違うこと』を学ぶのが教育である。 知識や技術は商品化できる。単位も学位も商品化できる。 けれども、『それとは違うこと』は商品化できない。 それは師弟の対面的な関係の中で一回的に生起し、師弟二人のほかに誰もが経験することのできない唯一無二の『出来事』だからである。 誰にとってもその有用性や価値がわかっているものだけが『商品』になる。 一方、弟子はその師から『私以外の誰にもその有用性や価値が理解されないもの』を学ぶ(そうでなければ、『私』がこの世に存在し、その人の弟子である必要がないからである)。」 (ブログ『内田樹の研究室』、「ビジネスマンに大学は経営できるのか?」2008.1.22より) ※参照 http://blog.tatsuru.com/2008/01/22_1632.php 当日、帆糸先生とは、トータルで2時間近くもお話させて頂きましたが(つい夢中になって長時間引き留めてしまい、大変申し訳ありませんでした)、最後に、長年気になっていて今回どうしてもお訊きしたかった、ご自身の、戦時中の特攻隊でのことをお伺いしました。 「お辛い思い出でしょうが、戦争を知らない我々のような今の日本人に、貴重な証言として伝えて欲しい」と言ってお願いしました。 帆糸先生は、昭和18(1943)年、旧制中学2年生の14歳の時に、海軍飛行予科練習生(予科練)である鹿児島海軍航空隊に入隊されたそうです。 まずは、当時在籍していた旧制中学校の生徒たちに対して、「誰か志願する者はいないか?」と話があったのだそうです。 当時の社会情勢下では、「自分は嫌です」などと言おうものなら、「非国民!」と罵られ決して許されるものではない、と皆が解かっており、身体的に問題のない者は、ほぼ全員が半ば強制的に自ら「志願」させられた、ということでした。 恐らくは、ある者は本当に自らの意志で志願し、またある者にとっては、「空気を読んで」、「嫌々」、「仕方なしに」、「圧力に屈して」志願させられた、ということなのでしょう。 あの時代にあった諸々の出来事について、一律に、それは自らの「志願」なのか、それとも他者からの「強制」なのか、白黒はっきりさせようとする議論が、現代ではしばしば行われているようですが、それがいかに無意味なものかを思い知らされるような気がします。 当の帆糸先生ご自身は、恐らく、自ら進んで志願されたのではないかと思います。 当時の帆糸少年は、まさに「立派な」軍国少年だったそうで、元々は、旧制中学校ではなく陸軍幼年学校への進学を希望されていたそうですが、受験時の体調の問題から身体検査で落とされてしまったのだ、と仰っていました。 自ら志願されて入隊した予科練ですが、一番辛かったのは、とにかく自由な時間がなかったことだと仰っていました。 「一分でもいいから自分の自由な時間が欲しい・・・」という思いは、本当に切実なものだったそうです。 もしも当時の帆糸先生に自由な時間が与えられたら、後に教育者になられるような方ですから、思い切り勉強や学問がしたかったのではないかと思います。 恐らくは、「祖国を守る」の一念で予科練に入隊はしたけれども、「本当に自分がやりたいことは、特攻隊員として爆弾を抱えて敵艦に突っ込むことなどでは決してなく、本当はもっと勉強がしたい、学問がしたいんだ」と、幾度も心が揺れ動いたのではないでしょうか・・・。 そんな予科練時代には、見付からないように便所にこっそりと隠れて、泣いたこともあったそうです。 しかし、そこを運悪く内務班の班長に見つかってしまい、「隠れてメソメソ泣いとるとは何だ~!」と、こっ酷く怒られてしまったと仰っていました。 昭和20(1945)年、8月15日の終戦の時点では、帆糸先生は、同じ鹿児島県内にある、水上特攻艇「震洋」の部隊に配属されていたそうです。 あの、ベニヤ板を張り合わせて作られた貧弱なボートに、爆弾を載せて自ら敵艦に突っ込むという、悪名高き「震洋」ですが、余りにもちゃちな構造ゆえに、洋上の流木に当たっただけで壊れてしまったり、爆発してしまったりと、使い物にならないような代物だったそうです。 飛び立って出撃するにも、乗る飛行機がすでになく、その後、新たに配属された「震洋」の部隊でも、出撃するにも、すでにボートもない、といった状況であったそうです。 しかし、そのお陰で自分は生きているんだ、と帆糸先生はしみじみ仰っていました。 敗戦、武装解除、部隊解散の後は、鹿児島の基地から福岡のご実家まで、ボロボロになりながら歩いて帰られたそうです。 令和4(2022)年12月12日(月)追記。 帆糸満(渡部十二郎)先生は、令和4(2022)年11月17日(木)に満93歳で 御逝去されました。 先生とは実質、高校3年生の夏から一年の浪人生活の間、代々木ゼミナールの講義で生徒としてお世話になっただけの関係なのかも知れません。 しかし、結果として自分の人生に深く影響を与えた運命的な出会いであり、恩師でありました。 翻って、後に自分も人の師たることを生業とする身になりましたが、果たして自分は、誰かの人生に少しでも良い影響を与えられているだろうか?と省みてしまう、そんな歳になってきたことも思い知らされます。 人生での、この帆糸満先生との素敵な出会いに感謝して、心より御冥福をお祈り致します。 合掌。
Posted at 2015-11-13 03:38
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Posted at 2015-11-13 07:43
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Posted at 2024-03-26 06:20
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