約一か月半振りの投稿です。
昨年の十月に、NHK・Eテレ「100分de名著」という番組で『菜根譚』が採り上げられており、その中で、『菜根譚』後集九四の文について、解説の湯浅邦弘先生(大阪大学教授、中国哲学)が非常に心に残る言葉を仰られていました。
この話はいつかブログにも書いてみようと、ずっと思っていましたが、気が付いたら既に五か月も経ってしまいました・・・。
『菜根譚』は、中国の明朝後期(16世紀末)に洪自誠(洪応明)によって書かれた処世訓集で、東洋の代表的な思想・哲学である、儒家、道家、仏教、の三要素を併せ持ち、「三教合一の思想」とも評されています。
江戸時代後期には日本にも広まり、多くの人に読み継がれて来ました。
また、政財界やスポーツ界の大物と呼ばれるような人達の多くが愛読書にしていたと言われ、合氣道の世界でも、藤平光一先生が愛読されていたと聞き及びます。
では早速、話を本題に進めましょう。
「文は拙を以て進み、道は拙を以て成る。一の拙の字、無限の意味あり。(後略)」(『菜根譚』後集九四)
(現代語訳)「文を作る修業は拙を守ることで進歩し、道を行なう修業は拙を守ることで成就する。この拙の一字に限りない意味が含まれている。(後略)」
「拙」とは、一般的に、「下手である、劣っている、愚かである、不運・不遇である」などの意味に解されることが多いですが、湯浅邦弘先生は、『菜根譚』のこの条項で言うところの「拙」とは、「過剰な装飾・技巧を排したもの」であり、「飾らない素朴さ」であるとしています。
そして、純朴なもの、素朴なもの、つまり「拙」にこそ逆に力があるのだと解説されていました。
また、「拙」の反対は「巧」。
しかし「巧」、すなわち「たくみ」の境地にいる間は、人間は本当の意味で自分自身の心となかなか向き合うことができないものである。
そんな時こそ、むしろ「巧(たくみ)」という自分の鎧を脱ぎ去って、つまり「拙」という原点に回帰することで自身の心と対峙してみる、それによって大切なことに気付かされることもあるはずである、とも仰っていました。
「素朴な『拙』にこそ逆に力があるのだ」と聞き、自分が真っ先に思い出したのは、合氣道のみならず、武術・武道界に伝説となっているような、一昔前の名人・達人の姿でした。
以前、「『造花』と『天然の花』」と題してこのブログにも書かせて頂きましたが、私自身も含めて現代の武術・武道修行者は、やや技術・技巧ばかりに走り過ぎているきらいがあるのではないかと思い至り、自省の念も込めてそれらを「造花」に譬えました。
一方で、一昔前の、今や武術・武道界では伝説的名人・達人とされている先生方の古い映像を視ていつも思うのは、意外と地味だったり、表面的な技巧が粗削りだったりすることでした。
しかし、それらの技は紛れもなく生命の通った、まさに妙技であり、それらを「天然の花」に譬えさせてもらいました。
戦後、現在に至るまで、合氣道の世界では、日頃の稽古の成果を「演武」という形で示すという伝統が作られてしまいましたが、「巧(たくみ)」の境地を去り、「拙」の原点に回帰し、稽古を通してしっかりと自身の心と向き合えるようでいられるためにも、日々の稽古とは、人前で格好良く「演武」を成功させるためにやっている訳ではない、ということを、我々は決して忘れてはならないと思います。
飽くまでも、合氣道の本番は「生まれて死ぬまで」であり(これも以前、ブログのタイトルにしました・・・)、「演武」は単なる「楽しみ」でしか過ぎない、ということを我々は肝に銘じるべきです。
また私自身、三十代の頃は、自分の体得した「技術・技巧」としての武術的な勁力(トンとやるだけで相手をふっ飛ばしてしまったりするものです)や「技術・技巧」としての魄の合気(相手を金縛りに掛けたようにして無力化してしまうものです)こそが奥義であると信じて疑いませんでした。
その頃の自分を湯浅邦弘先生の言葉で言うならば、まさに「『巧(たくみ)』の境地にいて、本当の意味で、未だ自身の心と向き合えていなかった」のだ、と今になって反省しています。
しかし運良く、万生館合氣道の教えに再び触れる機会があり、それまで自分が奥義だと信じていた武術的には非常に有効な「技術・技巧」が、実はそれこそが開祖・植芝盛平先生が「魄は捨て去れ」と仰っていた「魄」そのものであると気付かされました。
そして、合氣道の本当の理想の姿は「氣結び」であり、そのためには、己の纏った鎧を脱ぎ去るように、武術的な「魄」を捨て去る必要があることを知りました。
更には、「氣結び」の技を上手く成立させるためには、自身の心の状態が大きく影響するということを思い知らされ、稽古を通して、自身の心と向き合うことの大切さに今更ながら気付かされもしました。
「素朴なもの、つまり『拙』にこそ逆に力があるのである。」
「道は拙を以て成る。」
「道を行なう修養は拙を守ることで成就する。」
合氣道修行の極意として記憶すべき言葉だと思いました。
以下、「後集九四」以外に、この「道は拙を以て成る」の教えにも通じる条項で、個人的に気に入ったものを二つばかり引用したいと思います。
「真廉は廉名なし。名を立つる者は、正に貪となす所以なり。大巧は巧術なし。術を用うる者は、乃ち拙となす所以なり。」(『菜根譚』前集六二)
(現代語訳)「真に清廉なる者には、清廉という評判は立たない。清廉という評判が立っている人は、実はそれを手段とする欲ばりな人である。また、真に巧妙な術を体得した者は、巧妙な術などは見られない。巧妙な術を用いる人は、実はそれがまだ板につかない全く拙劣な人である。」
「醲肥辛甘は真味にあらず、真味は只だ是れ淡なり。神奇卓異は至人にあらず、至人はただ是れ常なり。」(『菜根譚』前集七)
(現代語訳)「濃い酒や肥えた肉、辛いものや甘いものなど、すべて濃厚な味の類は、ほんものの味ではない。ほんものの味というものは、(水や空気のように)ただ淡白な味のものである。(これと同じく)、神妙不可思議で、奇異な才能を発揮する人は、至人(道に達した人)ではない。至人というものは、ただ世間並みな尋常の人である。」
※今回、『菜根譚』の書下し文、及び現代語訳については、全て「『菜根譚』今井宇三郎 訳注、岩波文庫」より引用させて頂きました。
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