約一カ月振りの投稿です。
先ずは、熊本の大地震で亡くなられた方の御冥福をお祈りすると共に、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
さて、先月3月28日(月)に都内某私立高等学校にて、久し振りに出張体験講習会を行なって参りました。
当初、お問い合わせ下さった先生のお話では、C君というベルギーから来た留学生が、高校では剣道部と弓道部に在籍しながら、趣味で尺八も習っているという程の日本文化フリークだそうで、そんなC君に、是非とも日本武道の集大成とも言われている合氣道を体験させてあげたい、ということでした。
当日のメンバーは、ベルギー人留学生のC君、クラスメイトのA君、国語科のK先生、F先生、英語科のI先生、理科で剣道部顧問のT先生、と少人数で、むしろ教職員の方々の方が多いといった状況だったので、先生方の了解を頂き、私の個人的な趣味も兼ねて、思い切って内容を、「武術・武道の極意としての本質的(身体)感覚」とさせてもらいました。
以前、某高等学校のカナダ人留学生に体験講習を行った時は、若い男の子が少しでも興味を持って楽しんでくれるようにと、「受身」の練習から始め、「一教」、「小手返し」、「短刀取り」、といった合氣道の具体的な技(形)を練習しましたが、今回は内容的にはやや高度でマニアックなものとなりそうなので、果たして皆ついて来てくれるか、一抹の不安を抱きながらも、何とか、半ば強引に最後までやり通しました。
具体的には、「体軸の養成法」、「脱力と臍下丹田による腹式呼吸法」、「腹直筋を弛緩させることにより腹(臍下丹田)で全てを吸収する」、「腹圧を利用して臍下丹田の強大な力を使う(※発勁)」、「『気』を漲らせることと『氣』を出すことの違い」、「体結び(※練心館独自の用語で武術的『魄(はく)』の合気)で一体化して相手を制する」、「氣結び(※合氣道としては理想的な『魂(こん)』の合氣)で一体化して相手を導く」、といった感じで、恐らくは、かなり専門的に何かしらの武術・武道をやっている人でなければ、言っている意味すらよく解からないのではないかと思います。
自分としても、「ちょっとマニアックに走り過ぎてしまったか・・・?」と、終了後頻りと反省したのですが、参加された先生方から、「特に留学生のC君は終始目を輝かせて本当に楽しそうにしていました!」と言って頂き、「それぞれ皆、多少は何かしら感じ取って、掴み取ってくれたのかな・・・?」とこちらも胸を撫で下ろしました。
体験講習会終了後、参加された先生のうちの一人の方が、率直な感想を仰られたのですが、それが非常に的確に本質を衝かれたものだったので、思わず「良く解かっていらっしゃる、素晴らしい!」と妙に感心してしまいました。
その先生は、「こんな言い方をしたら、もしかしたら失礼なのかも知れませんが・・・」と前置きをされながら、「『氣結び』で相手を導くという方法、つまり『氣』で相手に働きかけ、『氣』で相手に技を掛けるといったものは、催眠術にすごく似ているのでは?と感じました」と仰られたのですが、こちらとしてはもう「素晴らしい!正解です。全く以てその通りです!」としか言い様がありませんでした。
「氣」は、科学では解明されていない存在なので、中には頭ごなしに否定する人もいます。
驚いたことに、「合気道」という名前で人に技を教えたりしている人の中にも、「氣」の存在を否定する人もいたりするので、本当に可笑しな話です。
本当は、そういった人は、せめて「合気道」という名前でやるのは止めるべきではないかと、個人的には思います。
一方で、世間では様々な「氣」のパフォーマンスを見せて人々を驚かせたり、楽しませたり、時には「氣」で病気や怪我で苦しむ人を癒してあげたり、中には悪質なインチキを行なう輩も居たりと、まさに玉石混交な感があります。
しかし、一つだけ確実に言えるのは、「『氣』とは、決して物理的な力ではない」ということです。
今から二十年以上前でしょうか?
師匠が「氣」でお弟子さんを豪快に吹っ飛ばしてしまう、純粋に武術・武道ともいえない、ある独特の流派が、世間で大きく話題になったことがありました。
それに対して、当時から超常現象バスターとしてメディアで活躍していた早稲田大学の大槻義彦先生は、「氣」の力が実在するかどうかは簡単な実験で証明できる、と主張されていました。
それは、お弟子さんを台車の上に載せて、先生の気合と共に、お弟子さんが台車ごと後方に吹っ飛ばされて行けば「氣」の力の実在が証明できる、というのです。
これを聞いた時、当時既に合氣道経験者だった自分は、「やはり大槻先生は何にも解かってないんだなぁ・・・」と呆れ果ててしまいました。
「台車ごと動けば『氣』の力が証明される」という考え方は、譬えて言うならば、「電波の力は、どこまで重たい物を押して動かせるのか実験して証明する」と言ってラジコンカーに重りを載せていくようなものです。
どこまで重たい物を動かせるのかどうかは、コントローラーから発する電波の力の強弱の問題などでは決してなく、むしろ車体に搭載されたモーターがどこまで耐えられるかの問題です。
「氣」によって豪快に吹っ飛ばされているお弟子さんの、全身の筋肉に電極を付けて実験すればすぐに判ることですが、あれは自分の足腰の筋肉の収縮を使って、自分でジャンプして跳んでいます。
ということは、「氣」で吹っ飛ばされるようなパフォーマンスは、全て「やらせ」の「演技」なのである、と逆に決め付けてしまうのも、実は早計です。
「物理的には、本人の足腰の筋肉の収縮でジャンプして跳んでいるのに、心理的には、自ら意図的にジャンプしようなどとは微塵も考えていない」
これこそが「氣」の技の真相です。
これは、催眠術などによって、本人の意図とは正反対に体が反応する様子などに、本当によく似ていると言えます。
催眠術などでよく見掛ける「床に付いた手が離れなくなってしまう」というパフォーマンスは、必死になって床から手を引き剥がそうとしているように見えても、実際の本人の筋肉の働き方、作用としては、渾身の力で床に手を押し付けているのだそうです(飽くまでも本人にその自覚はありませんが・・・)。
「氣」の技とは、人間の脳神経系統に直接働き掛けて、相手を導いたり、場合によってはそこにエラーを生じさせて、相手をコントロールしてしまうようなものです。
この事象を、ある武術の先生は「脳波を同調させる」と言って説明されていました。
果たしてその説明が、科学的に妥当なものなのかはよく判りませんが、私自身の実感としても、「脳波の同調」というのは感覚として言い得て妙だと思います。
或いは、横断歩道の信号はまだ赤なのに、隣の人が歩き出すとつい「釣られて」身体が前に出てしまう、といった経験が誰でもあるかと思いますが、難しい言葉で説明などしなくても、この「思わず釣られてしまう」というケースなどは、原理は紛れもなく「氣」の技そのものであると言えます。
古来、武術でもそれを究極の奥義としてきたようですが、非常に高度な技法であるが故に、それ自体にはむしろ、制圧力や殺傷力はありません。
ましてや、「氣」の修行を積んだ感覚の鋭敏な者に対しては面白いように掛かることもしばしばですが、「掛かるまい」と意地になって心を閉じた者に対しては、それ程の効果は見出せません。
恐らくはそれでも、「何となく重心が浮く」とか、「何となく誘われる」といったような感覚が、命を賭した真剣勝負では生死を分けてしまうということもあったのでしょう。
飽くまでも、純粋な「武術」ではなく、「武術」を土台としてその上に人間修行の道として創始された、「武道」である私たちの合氣道に於いては、この「氣結び」こそが、争いを否定し、お互いが愛と調和の心を以て、相手と一体化するという、理想の姿だと言えます。
ところで、話が急に変な方向へ行くかもしれませんが、こういったことを踏まえて考えると、幽霊を見るのも、幻覚を見るのも、人間の視聴覚神経という脳神経系に何かしらの作用やエラーが生じた結果であると考えられないでしょうか?。
そういった意味では、幽霊を見るのも、幻覚を見るのも、「氣結び」による「合氣」の技が掛かる時と、原理的にはあまり変わらないのではないかと個人的には考えます。
そこに存在しないものが見えてしまったり、そこに存在しない音が聞こえてしまったり、といった時、多くの場合、精神的な疾患が原因だったり、薬物の使用が原因だったりするのでしょうが、最近では電磁波が人間の脳神経系統にエラーを生じさせるということも判ってきたそうです。
よって、所謂本物の「幽霊」というものが出現したとしても、それは少なくとも外界における物理現象ではない、とだけは言えるのではないかと思います。
以前にもお話した通り、自分は「霊魂」などの存在に関しては決して頭ごなしの否定派ではありません。しかし、もしも実際に「幽霊」を見ている人の脳内の働きをリアルタイムで科学的に分析することができたとしたら、「幻覚」を見ている状態と何ら変わりはないのではないか、と思います。
ですから、「幽霊」の本質とは、「人間の視聴覚神経系統に何らかのエラーを生じさせて、物理的には存在しないものを見たかのように錯覚させてしまう働き」であり、あるいは、「そういった働きを誘発させる何かしらの作用、エネルギー」ということではないかと思います。
現在、それは科学的には、ある種の電磁波の一種ではないか、と考えられているみたいですが、果たしてそれで正しいのかどうかは判りません。
ただ、人によってはそれを「地縛霊」と呼んだり、「未浄化霊」と呼んだり、または「残留思念」などと言ったりしているのでしょう。
話が急にオカルト的な方向に行ってしまいすみません。
4月上旬、子どもの頃から練心館に通っていて、現在は地方の大学に進学したため休会中ですが、大学では合気道部に所属しているという青年が帰省中で、久し振りにお稽古に参加してくれました。
彼は高校時代、他団体の合気道部部長をしながら、練心館にも通い続けていました。
彼にはよく冗談で、部活の合気道は学校の授業、練心館での稽古は大学受験予備校の特進クラスの授業だと思ってやればいい、などと言っていました。
彼には本当に久し振りに、「力任せの素人にはむしろ低次元な体結びによる魄(はく)の合氣が有効である」、「心身統一体のできた実力者にはむしろ氣結びによる魂(こん)の合氣を優しく掛けた方が良い」等々、手を取って色々と実演を交ぜながらレクチャーしました。
「やっぱり練心館はレベルが相当高い!」と言って楽しそうに稽古してくれました(※すみません、はっきり言ってこれは自慢です)。
稽古後に彼から「先生はどうしてもっと実力をアピールして宣伝しないのですか?」と訊かれましたが、理由としては思う所が色々ありました。
一つは、今の自分の実力が自分のピークなどではないと常に思えるからです。五十代になった時に四十代の自分の未熟さが恥ずかしくなるだろうし、六十代になった時には五十代の自分の未熟さがきっと恥ずかしいものになることが明らかだろうと思われます。
三十代の頃、自身の体得した武術的には大きな殺傷力・制圧力を持った「勁力」こそが奥義であると信じていましたが、後に、殺傷力・制圧力といったものが前面に出てしまうことこそが、そもそも合氣道家としては未熟さの表れなのだと気付かされ、心底反省させられました。
あの経験は「天の神様から受けた啓示」のように衝撃的で、未だに自分への大きな戒めとなっています。
合氣道の実力は、安易な武術としての殺傷力や戦闘力で量れるものでは決してありません。
そしてもう一つは、武術・武道の世界では、やたらと派手にアピールして宣伝し、商売として成功している者もいる一方で、相当な実力者でありながら派手にアピールしたり宣伝したり一切せず、地道に修行を続けておられる方もいらっしゃる、という現実です。
どちらが武道家として本当に格好良い生き様かと訊かれたら、断然後者だと思うのです。
しかし私も、今回は別の意味で少し反省しました。
「恥ずかしい」とか「格好良い」とか、結局自分は、ただ格好付けているだけなのかも知れません。
だから今日は、恥じらいを捨ててこうして少しアピールさせて頂くことにしました。
合氣道だけに限定しません。
広く、古典芸能、伝統武術・武道に通じる、「氣」や「丹田」といったその道の極意と呼ばれているような、本質的な(身体)感覚を解かり易く出張指導致します。
過去には、全国制覇もした、空手界では名門の、強豪空手道部にも指導させて頂きました。
少しでも興味を持たれた方は、お気軽に「合氣道練心館」にお問い合わせ下さい。
お待ちして居ります。
- If you are a bloguru member, please login.
Login
- If you are not a bloguru member, you may request a free account here:
Request Account