稽古を重ねて自己の内に構築すべき「本質的感覚」、いわゆる「心身統一」や「丹田」や「氣」の感覚といったものは、自身の計画通りに、稽古をすればした分だけ養われていく、といったような甘いものでは決してありません。
間違ったやり方(我々の世界では、「力む」「争う」「ぶつかる」というのが三大悪業だと言えます)で百回稽古をすれば、百回分間違った悪い癖がつくだけだというのが現実です。
私たちは細心の注意を払い、緻密に身体を操作しながら(しかしこれに偏り過ぎると肝心な「氣を出す」ということが疎かになります)、同時に、伸び伸びと心を開放して元氣よく稽古しなければなりません。
その中で徐々に、この「本質的感覚」は養われていきます。
この「本質的感覚」こそが所謂「実力」と呼ぶべきもので、今までの自分の経験と照らし合わせてみても、「実力」とは、決して自らの行為で造り上げていけるようなものではなく、人事を尽くした者に対して天が与えてくれるもの、といった方がより正確なものに感じます。
まさに「人事を尽くして天命を待つ」ということでしょうか。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉は、南宋初期の儒学者、胡寅(こいん)の『読史管見(とくしかんけん)』から来たそうですが、元々は「天命を待つ」ではなく「天命に聴(まか)す」だったそうです。
意味としてはさほど変わらないので、より一般的に使われる「天命を待つ」で統一しますが、この「人事を尽くして天命を待つ」という言葉、個人的にも好きな言葉の一つで、仕事をする上でも学問を究める上でも、もちろん諸芸を身に付ける上でも、人生全般に通じる真理ではないかと思います。
それと関連していつも思い出すのが、今から30年近く前、やはり代々木ゼミナールの帆糸満先生が講義で繰り返し仰っていたことです。
英語の主語には六種類がある。
1、行為者(Agentive) 2、受動者(Recipient) 3、道具(Instrumental)
4、時間(Temporal) 5、場所(Locative) 6、出来事(Eventive)
動詞「know」には大きく二つの意味がある。
①意志の有無に関わらず物事が理解記憶されること。
②行為を示すもので、judge,distinguish,と同じ働きをする。
「know」が①のような知覚の動詞として使われる時、主語は行為者(Agentive)ではなく受動者(Recipient)である。
よってその受動態では、行為者(Agentive)を表す「by」ではなく、受動者(Recipient)を示す前置詞「to」が使われる。
(例)Everybody knows it. / It is known ( to ) everybody.
そして帆糸満先生は仰いました。
「人間にとって『know(知る)』とは、行為ではない。むしろ、神が与えることである。」
合氣道の形を繰り返し「行って」稽古することは「行為」かも知れません。
しかし、合氣道を(その本質を)「知る」ことは決して「行為」ではありません。
それはやはり天から与えられることであり、言い換えるならば、後天的なものとは言え、それはまさに「天賦」のものと言えるのではないでしょうか。
そして合氣道のみならず、諸芸全般はもちろん、仕事や勉強の場面でも、「『知る』とは天から与えられることである」ということは、人生万般に通じる真理ではないかと思います。
以前、思想家・哲学者で合氣道家の内田樹先生が、「天賦の才能」ということについてブログで素晴らしい文章を書かれていました。
自分は深く胸を打たれたものなので、以下、一部を引用させて頂きます。
天賦の才能というものがある。
(中略)
「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。
外部からの贈り物である。
私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。
才能は「贈り物」である。
外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。
それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。
どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。
私はそのように考えている。
才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。
私がこれまで見聞きしてきた限りのことを申し上げると、才能は自己利益のために用いると失われる。
「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。
そこまで内面化した才能はもう揺るがない。
でも、逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。
才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく。
他人のために使うと、才能は内在化し、血肉化し、自分のために使うと、才能は外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。
(ブログ『内田樹の研究室』、「才能の枯渇について」 2010.12.26 より)
※参照 http://blog.tatsuru.com/2010/12/26_1356.php
最近改めて思うことがあります。
それは、私たち凡人が持っているようなほんのささやかな能力・才能であっても、それらも全て、天が与えてくれた「天賦」のものだと考えるべきではないか?・・・、ということです。
そして「天才」とは、本当は、凡人と比較して何かしらずば抜けた才能を持った者を指す言葉ではなく、自身のささやかな才能でさえも、それは天が無償で与えて下さったかけがえのないものであると信じ、そのささやかな才能をも、自己利益のためではなく、いかにして世のため人のために活かすか、常に模索しながら人生を生きる者を指す言葉ではないか、と思うのです。
そう考えると、考え方次第で、誰もが「天才」として目覚めることができ、誰もが「天才」として生きることも出来るのではないかと思うのです。
「天才」も心ひとつの置きどころ。
少なくとも自分はそう考えて、「天才」として生きて行けたら素晴らしいな・・・と思っています。
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