今から30年以上前の話です。
当時、実心館道場の子どもクラスで村山實先生から、合氣道にはどうして試合が無いのか、二つの理由を教わりました。
その時は、小学生でも解かる易しい言葉でお話されていましたが、内容はざっと以下のようなものでした。
一つは、命を懸けた真剣勝負にはルールも審判も制限時間もないということでした。
スポーツ化してしまい、限定されたルールの中でいかに相手に勝つか、という練習ばかりすることが、逆に、想定外の事態に直面した時に臨機応変な対応を妨げてしまうこともあり得るのだ、と。
本来、想定外の事態に対して冷静に臨機応変に対処することができるか、ということが武術としての「護身」の神髄であり、それ故、合氣道には実戦のシミュレーションとしてのゲーム(試合)は存在しない、ということでした。
もう一つは、試合に勝つことばかりを追い求めるようになると、武道修行の根本の部分が見失われがちになる、ということでした。
人間は勝ち負けに執着するようになると、勝った者はついつい天狗になり、己を過信し、敗者を侮り、見下すようになりがちであり、一方で、負けた者は卑屈になったり、勝者を素直に祝福してやるどころか、却って妬むようになったりしがちである、と。
己を過信し、他人を侮り見下したり、他人の成功を妬んだり、本来、武道とはそういった人間の浅ましい心、醜い心を戒めるためのものである。
武道の修行を通して、己を過信し人を侮ったり妬んだりすることを学習してしまうようでは本末転倒である。
それ故、合氣道に試合はないのだ、と。
前者が極めて「武術」的な理由だとするならば、後者はまさに「武道」としての理由だと言えるでしょう。
長じて後に、本来、伝統的な武術・武道はひたすら形稽古を通して技と心を磨いていくものであり、試合の導入、及びその普及は、明治維新の西洋を手本とした近代国家化と、戦後のGHQによる武道禁止令解除のための働きかけの結果、やむなくその内容を変質(スポーツ化)せざるを得なかった事情から来ているのだと知りました。
そして更に、そもそも伝統的な日本剣術の形稽古における「打ち太刀(受け)」と「仕太刀(取り)」では、師範や上位者がより積極的に「打ち太刀」を務めることで、後進の者を育てていくものなのだと知りました。
つまり、実力者(強者)が未熟な者(弱者)に繰り返し何度も負けてあげることで、人間を育てていくというシステムです。
古流剣術の世界では、これを「打ち太刀の心」といい、この「打ち太刀の心」こそが日本武道の神髄であると仰る先生も居られます。
以前このブログで紹介した、鹿島神傳直心影流のマイケル・ハドソン先生の名言、「日本武道の神髄は思いやりの心である」にも深く通じるものがあると思います。
さて、ここまでの話は実は前置きで、これから改めて、本題である、「今の時代に合氣道を修行することの意味」について書きたいと思います。
最近、少し嬉しかったことがありました。
「大人クラス」の稽古後に数人でのんびりと談笑している中で、幼稚園の頃から十年コツコツと通い続けていて、今年から高校生になった男の子が、普段感じていることや思っていることを何気なく話してくれたのですが、いつの間にやら、こちらが考えている以上に人間としても立派に成長していたんだなぁ・・・と気付かされ、大変喜ばしく、何やら少し誇らしいような思いがしました。
その場に居合わせた別の生徒さん(四十代後半のサラリーマンの男性)も、「いつもマイペースな感じの〇〇君だけど、あんなにしっかりとした考えを持っていたんですね」と、頻りに感心されているようでした。
結局は手前味噌な話になって恐縮ですが、彼は、練心館の「子どもクラス」で最も大切にしている「教育方針」を、きちんと自身の人間形成に活かしてくれていたのだと思っています。
その「教育方針」とは、ズバリ「真の自信を持つ」「真の自信を持たせる」というものです。
しかし今の時代、本当の意味での「自信」を子どもたちに持ってもらうことが、いかに困難なことか、日々痛感しています。
これは飽くまでも私が個人的に思っていることですが、「子どもに自信を付けさせる」の名の下に、様々な塾や習い事、教育機関があれこれと手の込んだ教育プログラムを提唱していますが、その多くが、本当の「自信」ではなく、何かしらの安易な「優越感」を味わせることで子どものモチベーションを維持させる、といった方法論をとっているように見受けられるのです。
そして今や、子どもたちを取り巻く環境も、あらゆるものが高度にシステム化されて、子どもたち自身もいつの間にやらその中に組み込まれ、序列化され、数値化され、常に「競争原理」に煽られながら、心に余裕のないまま「目標達成」を強いられている、といった傾向が強まっているように感じられます。
更に多くの大人たちが、子どもに「他人に勝つ」経験をさせ、「他人より良い点を取る」経験をさせることで、子どもに自己肯定感を味わせ「自信」を付けさせてやるのだ、と仰いますが、他人を打ち負かし勝利することで得られるある種の「快感」は、本当の「自信」ではなく、ただの「優越感」と言うべきです。
私自身、過去の学校教育現場での経験も踏まえて学ばせてもらった人間の真実の一つとして、「他人と較べての『優越感』を『自信』だと履き違えて育ってしまった子は却って弱い」ということがありました。
他人と較べての「優越感」を「自信」だと勘違いしている人間は、必ず壁にぶつかります。理由は簡単です。
広い世界には自分よりも優秀な人間など、あらゆる分野で、掃いて捨てる程存在するからです。
そんな優れた人間を目の当たりにする度に、さもしい「優越感」は卑屈な「劣等感」に瞬時に早変わりする訳です。
近頃、由々しき社会問題となっているヘイトスピーチなども、むしろ日本の文化や伝統の美しさや奥深さを知らずに、日本人としての揺るぎない「自信」が持てず、一方で、日々やり場のない「劣等感」に苛まれているような人たちが、「日本はアジアの先進国の筆頭である!」という安直な「優越感」を心の拠り所とすることで、その結果、「劣等感」と「優越感」という対極の間を絶え間なく行き来する無限のメビウスの輪の中に陥り、苦しんでいる姿なのかも知れません。
私は、「競争原理」というものは本質的に人間教育にはそぐわないものであると認識しています。
もちろん、短期的に見て、人間集団が、限定された時間内に最大の効果を発揮して最高の成果を出すためには、全員を熾烈に競わせて、勝った者にだけ称賛と褒美を与え、負けた者には恥辱と罰を与えるといった方法も非常に有効である、ということには異存はありません。
しかし、「競争原理」によって鼓舞されるモチベーションとは、詰まる所、人間の「我」と「欲」に準拠しているという点が問題であり、人間教育という分野には本質的に馴染まないものであると思うのです。
練心館の子どもクラスでは、上達した者に対しては、「更に自分が上達することも大事だけれど、他の子を上達させてあげることに全力を注ぎなさい」と教えられます。
まれに、「もっと自分が上達するための練習がしたいのに、運悪く、物覚えの悪い子に教えなきゃいけない羽目になってしまった・・・」と不本意さを丸出しにする子もいますが、そういった時はいつも「自分が上達することよりも、他人を上達させてあげられる人間の方が遥かに立派で偉いことなんだよ!」とお説教が始まります。
これは自分としては、「人の上に立つ者(リーダー)の正しい振舞い方」を教育する、という信念のもとに行っています。
教育現場における競争原理の最大の弊害は、努力も勝利も効果も成果も、最終的には本人の自己利益に帰結する、という点でしょう。
そのようにして自己利益のために熾烈な競争を勝ち抜いた人間が、結果としてエリートとなり、国を動かす官僚となり、政治家となり、財界人となった時、果たして国民は幸福になれるのかどうか・・・?、そんなことは火を見るより明らかであるといえます。
「自信」とは、読んで字の如く「自分を信じる」と書きます。
自分で自分を信じられるようになるためには、先ずは他人と競争して、他人を打ち負かし、他人に対して自己を勝ち誇る、といったプロセスを経過しなければいけないのでしょうか?
私は、そういった人間を「精神上の他人の奴隷」というのだと思います。
自分で自分を信じるために、何故に「他人様の認証」が必要なのでしょうか?
世間ではよく「根拠のない自信」が云々~などという言い方がされることがありますが、この「根拠のない自信」という言葉は、個人的になかなか味わい深いものがあると思っています。
本来、「自信」とは、須く「根拠のないもの」であって、それでも根拠を求めてしつこく食い下がり、「何故自分を信じることが出来るのか?」と訊かれれば、それは強いて言えば、「神仏や天がきっと自分を見守っていて下さるから」といった、極めて宗教的な情操に根差したものであると思うのです。
合氣道に、勝負、優劣を競う試合はありません。
かつて藤平光一先生は、合氣道修行の目的の一つとして、「相対的観念から脱却し、絶対的境地に至る」ことであると仰っていました。
この言葉は、言い換えるならば、「『優越感』と『劣等感』の迷執から脱却し、『自信』の境地に至る」ことであると言えると思います。
現代において、古武道の様式を守り、試合を行わない合氣道を修行することの意味とは何か。
もちろん一言で簡単に片付けられる問題ではありませんが、その一つとして、「優越感」でも「劣等感」でもない、本当の「自信」を身に付けること、というのが言えるのではないかと思います。
そんな訳で最後にまた繰り返します。
自分で自分を信じるために、他人と較べる必要はありません。
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