合氣道に限らず、武術・武道や芸事の道を修行する上で、まず目指さなくてはならない境地とは何か。
それはちょっと妙な譬えになりますが・・・、「自身の中に埋もれていた、今までは自分でも気付いていなかった、いずれ自分が克服し、乗り越えなくてはならない『壁』の存在に気付く」ということではないかと思いました。
これは言い換えるならば、「過去の経験を通して、知らず知らずのうちに自らの心身に染み付いてしまった『癖』に気付く」とも言えるのでしょうが、稽古・修行が進み、実力が上がるに連れて、単なる「癖」が、立ちはだかる大きな「壁」になってくるようです。
ロシア武術「システマ」では上達の秘訣として、「汝自身を知れ」という教えを大切にしているそうですが、同じようなことではないか?・・・と思います。
そしてこの「自身の中に埋もれていた克服すべき『壁』」の代表的なものが、「力み癖」「姿勢の歪み」「殻に閉じ籠ろうとする心」の3つだと言えます。
練心館の大人クラスに入門して稽古を続ける中で、自らの心身にこういった「癖」が染み付いてしまっていたことを痛感させられた人も多いのではないかと思います。
そう考えると、また手前味噌な言い方になりますが、練心館での稽古が、「汝自身を知る」ための大切な気付きの場になっているのだと思います。
「力み癖」は、特に大人の男性に多いようです。
競争社会の中で、生真面目に「強くなければならない」「勝たねばならない」と肩肘張って生きて行かざるを得なかったせいでしょうか・・・。
そもそも、我々男性は女性に較べたら、本来、総じて繊細で傷付きやすく、弱虫であると言えます。そして弱虫であればある程、その反動で、「舐められたくない」「喧嘩が強いと思われたい」等とくだらないことを考え、無駄に粋がりたくなるものです。
その結果、更に悪循環に陥り、肩に力が入り、身体を強張らせ、無駄な力みを助長させてしまうこともあるようです。
また世間一般では、「武道」というものは、「激しくぶつかり合って争い、強い者が相手を捻じ伏せて倒し勝つものだ」という完全に誤った認識が浸透してしまっているのも、この傾向を助長しているのではないかと思います。
こういった人は、「武道」とは本来、「心を穏やかにして、リラックスと脱力を学ぶものなのである」と発想の転換をして、ひたすら力を抜いて動く練習を心掛けなくてはいけません。
「姿勢の歪み」は、ある意味、文明にどっぷり浸かった現代人の典型的な姿というべきで、若い頃からあまり運動をしていなかったり、体を鍛えていなかった人に多いと言えます。
具体的には、骨盤が後方に傾き、猫背になり、両肩が前に出て、首が前方に突き出ているような姿勢になっている場合がほとんどです。
子どもの頃から受験競争に晒され、勉強疲れを癒すための気分転換には、今度はゲーム機で遊び、大人になったらデスクワークで一日中パソコンと向かい合う、といった生活をしている人は、武道の上達以前に、自身の健康のためにも要注意です。
普段から、骨盤を起こし背筋を真っ直ぐに伸ばすことを心掛けなくてはいけないのはもちろんですが、正しい姿勢を保つための必要最低限の筋力を付けることと、深い呼吸を心掛けること、そして後は、股関節と肩甲骨の「動きの中での柔軟性」が上達の鍵となります。
稀に、初めから良い具合に力が抜けていて、武術・武道に必要な、微妙で繊細な身体操作を難なくこなしてしまう人もいます。
生まれつき感性・感覚の鋭い、ある意味、天才的なタイプの人だと言えるのでしょうが、こういったタイプの人に限って、今度は「心を自分の殻に閉じ籠らせがち」な傾向があると言えます。
このタイプの人は、稽古中も常に、自身の身体の状態をつぶさに観察しています。そして少しでも身体操作に乱れが生じると、誰よりも真っ先にその異変に気付くことができます。
それは決して悪い事ではなく、むしろ上達するためには本当に恵まれた、類稀なる才能を持っているといえますが、どうしても意識や感覚が自身の内部、内部へと籠りがちになる傾向は否めません。
「身体操作」というものを何よりも重視されている武術家の中には、研ぎ澄まされた感覚を以て、閉じられた自己の内的世界をいかに充実させるか、ということをテーマに日々ひたすら研鑽されている方も、結構いらっしゃるように見受けられます。
しかし、合氣道は、根本的な部分でそういったものとはちょっと違っています。
合氣道において一番大切なことは「氣を出す」ということであり、殻を破り、心を開き、明るく積極的な氣を出すことが何よりも肝要なのです。
このタイプの人は、もともと才能には恵まれているので、後は心の持ち方の問題です。
常に明るく積極的な愛の心を持って、心を開き、エネルギーを外に向け、氣を出すことさえ心掛ければ良いでしょう。
これらの「自身の中に埋もれていた克服しなければならない『壁』」を打破して、乗り越えることができた時、人間は真に「変わる」ことができるのだと思います。
つまりそれは、それまでの自分とは「価値観」や「世界観」そのものが大きく変化してしまう、ということであり、仏教で言うところの「回心(えしん/※俗世に塗れた心を改めて仏道に帰依すること)」や、キリスト教での「回心(かいしん/不信や迷信を悔い改めて真の信仰に生きること)」にも通じる、「生きながらにして生まれ変わる」ということだと言えます。
ところで、合氣道師範としても有名な哲学者・思想家の内田樹先生は、教育論を語る中でことある毎に、「学び」とは、自身の「価値観」そのものが揺らぎ、変容し、拡張することであると仰られています。
そういった意味では、真に物事を「学ぶ」ということも、すなわち「生きながらにして生まれ変わる」ことであると言えるのではないかと思います。
「学びとは、学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考量される、そのようなダイナミックなプロセスのことです。学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命なのです。」
(『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』内田樹 著 より)
やはり、武術・武道や、芸事などの修行の道は、「生きながらにして生まれ変わる」ための道だと言えるのではないでしょうか。
それは譬えるならば、パソコンやスマートフォンに、役に立ちそうなソフトウェアや、面白そうなアプリケーションをダウンロードする作業などでは決してなく、基本OS(Operating System)そのものを書き換える作業であると言えます。
「MS-DOS」で日々何不自由なく物事を感じ、考え、行動している者にとっては、様々な「ゲームソフト」や「ワープロソフト」、「表計算ソフト」等が何の役に立つか、その有用性は理解できると思います。
しかし、基本OSを「Windows」に書き換えることの意味や有用性にまでは、今一つピンと来ないことでしょう。
それでも、ひとたび基本OSが「Windows」に書き換わってしまったならば、それまでとは根本的に「価値観」や「世界観」が変容してしまっていることを知るはずです。
内田樹先生は、以前、ブログでこうも述べられていました。
「不思議なもので、確率的に言うと、はっきりしたモチベーションを持って入門した人と、『何となく』入門した人では、『何となく』の方が長続きするのである。」
(ブログ『内田樹の研究室』 「なんとなく」の効用 2010.4.4 より)
※参照 http://blog.tatsuru.com/2010/04/04_1155.php
これは、合氣道を「明確な有用性」を伴った面白そうなアプリだと捉え、それをダウンロードするつもりで入門してみたものの、実際は基本OSそのものを未知のものに書き換える作業なので面食らってしまった、ということと、何となく興味を惹かれて入門しコツコツ続けていく中で、自身の「価値観」や「世界観」が徐々に変わって行くことに新鮮な感動を覚え、どんどん夢中になって行く、ということの違いだろうと思われます。
私たち合氣道修行者は、常に進化し、進歩し続けるためにも「生きながらにして生まれ変わる」ことを止めてはいけないのだと思います。
それは、以前このブログにも書いた「※ありのままの自分には努力して『なる』もの」であることにも通じるのではないかと思います。
※参照 http://jp.bloguru.com/renshinkan/240642/2015-05-27
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