合氣道で世界平和!
Jan
24
去る1月15日(日)、年に一度の「演武会」も兼ねた練心館の「鏡開き」の式典が、無事執り行われました。
当日、お手伝いをして下さった方々、模範演武に出場して下さった方々、そしてご来場下さった皆様に心より御礼申し上げます。
さて、毎年、鏡開きの年頭挨拶では、「練心館の今年のテーマ」と題してお話をさせて頂いております。
いつも「今年のテーマ」だけを決めると、原稿も何も作らず、その場の勢いだけでお話しております。なので、当日のお話とは一言一句同じという訳にはいきませんが、以下、よく思い出しながらここに書き留めて置こうと思います。
皆様、新年明けましておめでとうございます。
毎年、鏡開きの年頭挨拶では「練心館の今年のテーマ」を発表させて頂いておりますが、今年は何にしようか、正直ギリギリまで迷っておりました。
年末にブログにも書かせて頂きましたが、昨年はTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』のロケで、新垣結衣さんと星野源さんが道場に来てくれたのが最大のニュースでしたが、個人的には、星野源さんとの不思議な「ご縁」が最も忘れられない出来事でした。
(※参照 http://jp.bloguru.com/renshinkan/286079/2016-12-20 )
実は、私の今までの半生を顧みると、到底ただの偶然とは思えない不思議な「ご縁」の連続で、練心館の館長を継ぐ時や、殊に合氣道に関係したことでは、「合氣道の方が自分を離してくれない」というのが正直な実感であるくらい、「偶然」でなく「必然」としか言い様のない不思議な「ご縁」の連続でした。
それを今ここで一つ一つ紹介していったら、冗談でなく本当に日が暮れてしまいますので割愛しますが、例えば、ちょっとした他愛もない例を挙げるならば・・・、4年前の正月の元日には、植芝盛平先生(?)と思しき姿が空に現われたりもしましたし(※その時の不思議な写真があるので今度公開致します)、うちは生徒数も少ない住宅街の片隅の小さな道場ですが、そんな環境の中で、皇武館時代からの開祖の高弟であった白田林二郎先生の縁者や、養神館合気道設立者で伝説の達人、塩田剛三先生の縁者が生徒さんとして在籍していたりもします。
そんな風に考えると、練心館に何らかの形で関わってくれている全ての人との間に、ただの「偶然」ではない「必然」としての「ご縁」があるようにも思えてきます。
そんな訳で、当初は今年のテーマとして、「ご縁を大切にする」というのを考えていましたが、何となく自ら主体的に働きかけていくような積極性に乏しい感じがして、それで本当に良いものか、正直、迷っていました。
そんな折、「鏡開き」の式典の5日前、1月10日(火)に、新宿にある某日本語学校で外国人留学生たちに日本文化を体験してもらうというイベントに参加し、留学生たちに合氣道の本質的感覚をレクチャーするという機会に恵まれました。
1講座がたったの2~30分で、午前中に6講座、午後にも6講座、生徒さんの総数は百数十名、という慌ただしいものでしたが、そんな状況でも、絶対にこれだけは避けたいと考えていたのが、一つは単なる「護身術講座」みたいになってしまうことと、もう一つは「武道の威力を振りかざし、その前に外国人たちをひれ伏させる」みたいな、最近流行りの下品な風潮でもある「ニッポンってスゴイだろ」アピールになることでした。
何とか、自分なりに、出来る限り「合氣道」というものの本質や、延いては「武道」というものの本質を正しく伝えるべく理想を掲げ、奮闘させて頂きました。
これはことある毎に、自分は持論として申し上げていることですが、「武術」と「武道」と「スポーツ」は全くの別物であります。
(※参照 http://jp.bloguru.com/renshinkan/230834/2015-02-04 )
もともと「武術」は、ルールも審判も制限時間もない戦闘状況で、如何に自分の命を守り、如何に敵に止めを刺すかという観点で生まれました。
ゆえに「武術」にはゲームとしての「試合」は決して存在せず、自分が殺されないためには「強くなること」よりも「如何なる状況でも絶対に慢心したり油断したりしない」などの「メンタルな部分での駆け引き」が重要でした。
「スポーツ」とは、ルールや審判、制限時間のもとで、選手(Player)となって試合(Game)をし、ゆくゆくは「優勝」や「金メダル」を目指すものです。
双方をフェアに同じ条件にしてその力量を競うものなので、勝つためには「相手より強くなる」必要があります。
「武道」は、世界でも日本だけが発明した独自の文化で、やっていることは「武術」とさほど変わらないかも知れませんが、その目的とするものは決して「戦い」や「人殺し」ではなく、「心を磨き、魂を磨く、人間修行の道」ということだと言えます。
戦国時代が終わり、日本史上最も平和な江戸時代となり、侍たちの仕事は戦うことではなく社会のリーダーとして模範を示すことになりました。
実は、そんな平和な江戸時代こそが、最も侍たちが熱心に剣の稽古に励んだ時代でした。
しかしその目的は、かつてのような「戦い」や「人殺し」のためではなく、「心を磨き、魂を磨く、人間修行の道」に変化し、ここに歴史上、実質的に「武道」が誕生したのだと言えます。
そしてそもそも、この日本において、剣の稽古といえば「形稽古」でした。
それは、師範が「打太刀(うちだち)」、弟子が「仕太刀(しだち)」の一対になって「形稽古」を行うもので、師範が「打太刀」を務めるということは、それはつまり、「力量が上である先生の方が繰り返し負けてやることで、未熟な生徒を立派に育てていく」ということでした。
言うなれば、侍たちが剣の稽古を通して養っていった本当の「武道の心」とは、「強い者が敢えて負けてやることで、弱い者をいたわり、立派に育てていく」この「打太刀の心」であると言えます。
しかし、残念ながら今、多くの日本人が本当の「武道」というものを見失っているのが現状です。
明治維新によって欧米から「科学」と「合理主義」が一挙に流入し、そして、それによって得られた強大な「力」と圧倒的な「支配」という思想が日本中に蔓延しました。
そしてただひたすら「力」を志向し、「力」を追い求め、その結果「軍国主義」に陥り、日本人が本来持っていた筈の、繊細で優しく、美しい伝統文化とその精神を自ら破壊してしまいました。
結局は、より強大な「力」によって日本は完膚なきまでに叩きのめされ、戦後のアメリカ文化の流入によって、今度は「わかりやすいもの」「派手なもの」「カネになるもの」ばかりにしか価値を認めない風潮が蔓延しています。
そんな、文化的には危機的状況とも言えるような中で、この「合氣道」というものが、時代に流され「スポーツ」化せず、徒に「実戦武術」としての合理性のみを追求せず、相手を傷付けずにいたわりながら行う「形稽古」を大切に守りながら、深い精神性を保ち続けているというのは、一種の奇跡のようなものではないかと思いました。
私たち合氣道家は、「スポーツ」でもなく「武術」でもなく、日本独自の文化と言うべき本来の「武道」としての、その集大成ともいうべきこの「合氣道」の姿をこれからも大切に継承して行かなくてはならないでしょう。
そしてこの本来の姿の「武道」というものを、そのままの形で正しく世界に発信し、少しでも広めることができたとしたら・・・。
世界中で多くの人々が、「力」と「争い」と「支配」の論理では真の平和は訪れることはない、ということに気付き、多少なりとも「世界平和」に貢献できるのではないかと思います。
「スポーツ」には「スポーツ」の素晴らしさがあることは認めます。
ですが、「相手より強くなってその相手に勝つ」ということは、「相手を相対的に弱い立場に引き下げることで、その弱い相手をより強い自分が打ち負かす」という構図になり、それは本質的に「弱い者いじめ」と同じであると考えます。
そして悲しいかな、この構図は、正々堂々とフェアに戦って勝ったのだから「勝った者こそが正義だ」という独善的な思想に陥りがちで、その考え方が人類の歴史上、様々な根の深い軋轢、そして抑圧と悲劇を生んできたと言えるのではないでしょうか?。
かつて欧米列強が、圧倒的な「力」で弱い者を屈服させ、その「力」に物言わせて弱い者を支配した「植民地主義」というものがありました。
それも支配する側にとっては、「未開と迷信に囚われた哀れな人々を、先進の科学と制度を兼ね備えた社会へ開放してあげた『正義の行い』」なのかも知れません(GHQによる日本の占領政策も、現代のテロリストの掃討作戦も、本質的にはきっとそんな「正義の行い」なのでしょう)。
そして日本も御多分に漏れずその考えに毒され、一周後れてアジアの近隣諸国でその猿真似をしようとして、逆に手酷い仕打ちに遭いましたが、そういった「正義と言う名の『力』による支配(=支配される側にとってはただの暴力)」という考え方と「スポーツ」は非常に親和性が高いものであると個人的には思っています。
その証拠に、純粋な気持ちで頑張っている個々のアスリートとは別に、「スポーツ」の組織や利権を支えている人たちの中には、口では「平和の祭典」「国際協調」と言いながらも、「スポーツ」を単なる「国威発揚の道具」としてしか見ていない人も散見されるからです。
ましてや、「武術」は戦争の兵器そのものであり、時には相手を油断させて裏をかいたり、場合によっては、相手を陥れるためにどんな卑怯な手段も辞さないものです。
したがって、「武術で世界平和」、などと言うのは、誰の耳にもただの詭弁に聞えるだけでしょう。
(実際に「実戦武術」を標榜されている指導者で「世界平和」を唱えたりする方は、ほぼ皆無でしょうが・・・。)
真の「武道」の啓蒙によって、我々人間は、長年人類に様々な悲劇をもたらしてきた「力」と「争い」と「支配」の構図から脱却し、真の「力」とは、決して何者かを「支配」するためのものではなく、「自己のつまらぬ我と欲を抑え、他者を立派に育成する」ためのものである、と気付く切っ掛けを与えられるのではないかと思います。
そんな訳で、多少大袈裟ですが、今年の合氣道練心館のテーマは、「世界平和」で行こうと思います。
今月、いよいよあのドナルド・トランプ氏がアメリカの第45代大統領に就任します。
世界中が彼の一挙手一投足を固唾を呑んで見守っています。
しかし、誰がアメリカ大統領になろうと、どんな世の中になろうと、私たちのやることは変わりません。
「武道」は、「心を磨き、魂を磨く、人間修行の道」。
「武道の心」は、強い者が負けてやることで弱い者をいたわり、立派に育てていこうとする「打太刀の心」。
「合氣道」はそんな日本武道の集大成であり、一つの理想的完成形ともいえる。
「合氣道」の修行によって「宇宙の愛と調和」を学び、それを磨き上げ、それぞれが、微力なりとも「世界平和」に貢献することで自己の使命を果たす。
本年も、皆様からの温かなご理解とご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。