「折れない腕」の可能性―日本語学校での講習
Mar
15
既に2か月以上前の話になってしまいましたが・・・。
前回のブログにも書かせて頂きましたが、1月10日(火)に、新宿にある某日本語学校にて日本文化体験の催しがあり、外国人留学生たちに合氣道の体験講習をして参りました。
生徒数百数十名、1コマたったの30分弱、そして午前中に6コマ、午後にも6コマという若干慌ただしいスケジュールの中で、留学生たちに対し、合氣道の何を伝えることができるか?、色々悩みましたが、まず最初に「これだけは絶対に避けよう」と考えたのは、短時間でチャチャッとやれそうなこととしては一番安易な内容とも言える、単なる「護身術講座」になってしまうことでした。
素人相手に、「相手がこう攻撃してきたらこう反撃する」とか「相手にこう掴まれたらこう反撃する」といったような安易な内容のものをレクチャーして、それを「合氣道」と呼ぶことに、自分は非常に抵抗があります。
合氣道開祖・植芝盛平先生の教えを尊重するならば、「合氣道」とは、己の心身を通して宇宙との調和を学ぶ深奥なる道であり、宇宙の根源としての「愛」を学ぶ修行の道であります。
ましてや、留学生たちは多種多様な国々から、様々な年齢の方々が来られています。
中には、日本とは比較にならない程治安の悪い国から来られている方も居られるでしょうし、兵役を経験されて軍隊で戦闘訓練を受けられた方も居られるかも知れません。
そんな方々に対し、日本人の自分が「護身術」を教えてやるなどと言うのは、笑止千万でしょう。
初心者を対象として、短い時間で、しかも合氣道としての本質やその思想・哲学をも損なわない形で行える、何かよい講習内容はないものか?・・・、そこでふと思いついたのが「藤平先生スタイル」の合氣道では、「氣」の力を示し理解するための、もはや定番のパフォーマンスとなっている「折れない腕」をやることでした。
「折れない腕」とは、一方が相手の手首と上腕二頭筋の辺りを掴んで、両手で力一杯相手の腕を折り曲げようとします。
まずは「悪い例」として、相手にも「折られまい」と力一杯抵抗して、押し返してもらうようにします。
しかし、相手は片腕なのに対して折る方は両手ですから、余程の力持ちでもない限り、腕は簡単に折り曲げられてしまいます。
今度は「正しい例」として、一方は同じように力一杯相手の腕を折り曲げようとしますが、相手には一切抵抗したり、押し返したりしないようにしてもらいます。
その代わりに、腕の先(指先)から「氣」のエネルギーが、遥か宇宙の彼方まで、鋭いレーザー光線のように迸り出ている、といったような強いイメージをしてもらいます。
そして、どんなに強く押されて腕が辛くても、その強いイメージだけは絶対に切らさないようにしてもらいます。
そうすると、相当な力で折り曲げようとしても、不思議と腕はびくともしなくなる、というものです。
日頃、練心館の大人クラスに見学・体験の方が来られると、こちらとしても、何とか少しでも面白い体験をしてもらおうと色々なパフォーマンスを見せたりしていますが、女性や比較的華奢な体格の方にこの「折れない腕」をやってもらうと、自身の中にこんなパワーが眠っていたのか、と非常に感激して頂けます。
それ以外にも、武術の好きそうな方には、丹田の力で木剣をふわっと落とすだけで相手の剣を弾き飛ばしたり、拳や肘を密着させたところから勁力(※武術的な力)で相手を弾き飛ばしたり、最近では、システマのストライクを真似た、見た目はゆるゆるでも異様に重たいパンチなども体験してもらったりしています。
興味のある方は是非、見学・体験にいらして下さい。お待ちして居ります。
(※いつも安全を考慮して、木剣は折れたりしないように、勁力も、内臓などにダメージが残留しないように、ミット越しに身体を貫通して抜けるよう、それも、相当手加減してやっていますのでご安心下さい。)
話を元に戻します。
この、昔から定番のパフォーマンスで、合氣道以外の武術・武道や一部のヨガ、気功などでも頻繁に行われてきた「折れない腕」ですが、正直、自分は、パフォーマンスとしてはやや華やかさに欠け、地味なものだなぁ・・・、などと思っていた節がありました。
しかし、よくよく考えると、合氣道が合氣道たる所以としてのその本質や、またその思想・哲学をもきちんと兼ね備えた、なかなか奥深く、味わい深いものである、ということを、今更ながら気付かされました。
「折れない腕」のよい点は、ほぼ全ての人がすぐにできるようになる、という点ではないかと思います。
そのためにも、相手に腕を折り曲げられなかったら「勝ち」で折り曲げられてしまったら「負け」とか、逆に、相手の腕を折り曲げてやったら「勝ち」で折り曲げられなかったら「負け」、といったような勝ち負けゲームの感覚でやってしまったら大事な本質を見失います。
まずは目に見える現象としての「腕が折れ曲がらない」ということよりも、「質」の違いを感じ分け、味わえるようにすることが肝心です。
よって教える側は、最初は「悪い例」として、相手にわざと力んでもらって、争って押し返すようにしてもらうのがよいでしょう。
まれに力自慢の人で、片腕でも力負けしないような人もいたりしますが、この耐え方で頑張ったところで、かなり体力を消耗してしまい、結局は疲れてしまいます。
片腕の筋力に対して両腕を使った力で押される訳ですから、大概は、あっけなく折り曲げられてしまうのが殆どです。
次に、手の先から「氣」が出ている強いイメージをしながら、一切、争って押し返したりしないようにしてもらいます。
この時、折り曲げる側の人は、最初はそっと、徐々に力を強くしていくようなやり方が望ましいです。
相手が華奢な女性だったりしたら、「どんなに腕が辛くても絶対に心では負けないで!」「信念は絶対に曲げないで!」などと励ましながらやるのも良いでしょう。
そうすると、女性の細腕に対して男性が本気の力を掛けても、本当にびくともしなくなります。
この「折れない腕」を通して、私たちは合氣道の大切な教えである「争わざるの理」を、身を以て学ぶことができます。
「押された」ことに対して「押し返そう」とすれば、そこに争いが生じます。
一旦、「争い」の構図にはまってしまうと、自分が「負けない」ためには相手を「打ち負かし」て相手に「勝つ」必要が生じてしまいます。
そして今度は、常にそれを可能とするためには、「相手よりも強く在らなければならない」という必要性が生じます。
一度この考え方に陥ってしまった者は、「いずれはもっと強い『敵』が出現するかもしれない」という不安に常に苛まれ続け、際限なく、相手を制圧するための「強さ」としての「力」を追い求めなくてはならなくなってしまいます。
延いてはこれが、世界では、疑心暗鬼と恐怖に裏打ちされた軍拡競争へと繋がっているのだと言えます。
一方で、どんなに強い力で押されても、一切争わず、押し返したりもせず、その代わり、しっかりと「氣」の力をイメージし、心の信念では絶対に負けないでいると、相当な力で押されてもびくともしなくなり、争うよりも却って強い状態でいられるのです。
この現象から私たちは大切な真理を学ぶことができます。
それは、「他人を打ち負かして勝ち誇ってやろう」などという邪なことを考えるから、無駄に「強く」ならなきゃいけない必要が生じる訳で、「争わない」「勝とうとしない」「いちいちやり返さない」、その代わり、「絶対に心の信念では負けない」という状態の方が、争うよりも却って強くいられるということです。
これは人生全般に活かすことのできる教えであると同時に、今後、真に世界平和を実現するためにも鍵になるものではないかと思います。
最後にちょっと技術的な解説を致します。
先程、「折れない腕」は誰でもすぐにできるようになると申しましたが、実は、中身の質としては「初心者向けの折れない腕」と「上級者向けの折れない腕」の二種類が存在します。
練心館では、初心者向けのものを「魄(はく)の折れない腕」、上級者向けのものを「魂(こん)の折れない腕」というふうに分類しています。
初心者の人の多くは、純粋に「氣が出ている」ことと、それとは似て非なるものである「氣を漲らせる」ことの感覚の違いがまだ明確に分からない人が多く、その場合自分は、まずは「氣を漲らせる」ことから始めればよい、という考えでやっています。
ここでいう「氣を漲らせた」腕というのは、筋肉にも硬直した張りがある状態ですが、決して単純に筋肉に力を込めて力んだ状態とは違います。
この状態を表す具体例として参考になるのが、空手の「極め」の状態だといえます。
この感覚は、武術において破壊力のある打撃をするためには必須の身体感覚だと言えます。
この「氣を漲らせた」腕さえきちんとできてしまえば、抵抗して押し返したりせずとも、相当な力で折り曲げられてもびくともしなくなります。
よって、目に見える現象としての「折れない腕」は、この段階で既に完成したとも言えるでしょう。
しかし、中身の質を問うならば、これはまだ初心者向けの「魄(はく)の折れない腕」です。
その次の段階として、「極め」を徐々に弛めていって「氣を漲らせる」のではなく「氣が出ている」状態を創っていき、その感覚を覚えます。
そうすると、腕の筋肉は弛んだ状態でふにゃふにゃなのに、相当な力で折り曲げられてもびくともしなくなります。
これが上級者向けの「魂(こん)の折れない腕」です。
まさに、合氣道開祖・植芝盛平先生が、後年、繰り返し何度も仰った「魄(はく)は捨て去れ」ということですね。