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合氣道練心館 館長所感集

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 合氣道 練心館道場
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合氣道は「護身術」なのか?

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戦後日本の殺人事件被害者数の推... 戦後日本の殺人事件被害者数の推移です(※年次統計より)
ピークだった1955年では「10万人中/2.4人」
2012年には「10万人中/0.3人」
60年で8分の1にまで減少しています
世界的に見ても驚異的な少なさだといいます





 合氣道はなんの目的で、この世に出てきたのか。その目的を知らずに、合氣道の稽古をしているのが、ほとんどの人であろう。
 合氣道は護身術に良いらしい。健康法としていいらしい。精神修養に良いと思う。などと、様々な考えで入ってきたのではなかろうか。それぞれの考えは、それぞれの人々の目的であって、合氣道の目的ではないように思うのである。合氣道は、それ等の考えを満たすものがあるかもしれないが、それは一部分に過ぎない。
     ( 中 略 )
 合氣道の稽古も、それぞれの目的で始めても、合氣道そのものの、真の目的を知らずにやっていると、大きな過ちを犯すようなことになるのである。
     (砂泊諴秀『合氣道で悟る』たま出版 P64より)





 合氣道をはじめとした、特に伝統的な日本の武術・武道の形が、現代に通じる護身術としての合理性と有効性を追求したものとはちょっと違う、と改めて気付かされたのはもう20年以上前のことです。
 元傭兵で対テロ訓練等の軍事教官経験があり、現在は危機管理コンサルタント、軍事アドバイザーとして活躍されている毛利元貞さんの著書を読んで、妙に腑に落ちる所がありました。





 戦闘護身術は武道なのか。答えは否だ。武道とは明らかな違いがある。それは戦闘護身術が敵を即座に殺傷することを目的としているからである。
 武道の道場ではつねに、師範がこう教えるはずである。武道は決してケンカの道具ではなく、心身を鍛え、道を極めるためのものだから悪用してはならぬ、と。
 だが軍隊では、生き残ったものが勝ちである。だからつねに、汚く戦って生き残れ、と叩き込まれる。相手を倒しさえすればそれでよい、殺される前に殺せ、というのが最大原則なのだ。ここが武道との根本的な違いだ。
     ( 中 略 )
 全身の動きと力を必要とする空手の攻撃技は、10キロ以上の装備を背中や腰に吊した状態では十分に威力を発揮できない。柔道技は相手をつかまなければ話にならないし、狭い室内や機内では投げ技を駆使するスペースがないことも多い。少林寺拳法や合気道の、型通りの関節技も実戦ではあまり効果的でない。興奮から大量のアドレナリンが分泌され、神経が鈍感になった相手に、関節技をキメるのは難しいからだ。こういう相手には当て身もあまり効かない。
     (毛利元貞『軍隊流護身術』並木書房 より)

 これ(※武道の意)は現地の兵隊に教えても時間がかかりすぎるという最大の欠点があるからだ。
 空手では「握り三年」とよく言われる。つまり、拳の握りだけに三年間の修行が必要、ということである。同様に柔道でも、受け身を完全にマスターして投げられ上手になるまで、半年から一年間は必要である。そして、何度も投げられながら、技を覚えていく。
 これでは戦場では役に立たない。修得するのにこんなに時間がかかるようでは、新兵を訓練して前線へ投入するのは不可能である。その前に紛争自体が終結してしまうだろう。
     (毛利元貞『新・傭兵マニュアル完全版』並木書房 より)





 あれから20年以上経ち、最近ではイスラエル軍格闘術「クラヴ・マガ」に代表されるような、純粋に護身術・制圧術としての合理性・有効性のみを追求した様々な新しい武術が、一般でも習えるようになってきました。それら「実戦護身術」として優れた物とはどういうものか、私なりに定義すれば、それは「素人でも手っ取り早く身に付いてそれなりに使えるようになるもの」ということになります。

 幕末に、討幕派と佐幕派が真剣での壮絶な斬り合いを演じていた時もそうであったように、実戦では高度な技法の数々や深淵な奥義などというものは無用の長物です。生きるか死ぬかの一瞬の駆け引きでは、シンプルな技法のみが信頼性の高い有効な技法だと言われます。毛利元貞さんの仰る通り、修得するのに膨大な年月が掛かり、古臭く、高度で繊細な技法の数々や深淵なる奥義を擁する伝統的武術や武道は、実戦ではあまり効果的でないと言わざるを得ないでしょう。

 一方で、そんな合理的で有効な「実戦護身術」を、逆に軍事教官でもない一般の人々が生涯を賭けて究める価値があるのか?と問われれば、私の答えは否です。
 伝統的武術や武道は、修得するためには多くの年月を要し、高度で繊細な数々の技法と道を究めるための奥深い精神性を併せ持つものですが、こういったものこそが真に、己の心を豊かにし、人生をより豊かなものにするためにも、生涯を賭けて稽古し探究するに値するものだと思います。

 それ故、自分で言うのも何ですが、練心館道場で教えていることはある意味、「実戦護身術」とは対極のものだと言えるかも知れません。
 うちでは全ての伝統的武術・武道に通じる普遍的な「本質」を何よりも重視します。それは丹田・体軸・脱力といった武術的身体感覚、そして心身統一、氣の原理、といったもので、これらは武技の質を高める効果もありますが、人生全般をより良く、心豊かに生きるためにも活かすことのできる優れた智恵の宝物となります。




 実はこんな自分でも、「実戦護身術」的なものも、教えようと思えばある程度は教えられるという自負を持っています。

 以前、ある公務員の女性から「職場の防犯訓練で犯人に襲われる役を押し付けられた、癪に障るので護身術を教えて欲しい。」という依頼を受けたことがありました。
 自分は合氣道の体捌きをベースに軍隊式格闘術を参考にして、それこそ普段道場で教えている深遠なる合氣道とは対極の、「素人でも手っ取り早く身に付いてそれなりに使えるようになる物」を1~2時間程レクチャーしました。
 訓練当日、怒声と共に迫真の演技で模擬包丁を突き付け迫り来る犯人役の警察官を、彼女は咄嗟に体捌きでかわし、模擬包丁を奪って壊してしまったそうです。そのせいで防犯訓練が一時中断になってしまったと聞き、間接的にとはいえ警察の方にもご迷惑を掛けてしまったかな?・・・と少し反省しました。
 小柄な一般女性が屈強な警察官の攻撃を退けてしまったと言えば、多少痛快な話にも聞こえるかも知れませんが、しかしここで絶対に勘違いしてはいけないのは「実戦で有効だった」などと早計に判断することです。訓練は飽くまでも訓練で実戦とは違います。
 犯人役の警察官の方も訓練で女性に怪我をさせる訳にはいかず、細心の注意を払っていたであろうし、まさか小柄な女性がいきなり護身技を仕掛けてくるとも思わず、虚を衝かれてしまっただけでしょう。
 昔から「生兵法は大怪我の基」と言われているように、「護身術を身に付けたから」「自分は強いから」などと言って己を過信することは、実戦では却って自らを窮地に追い込む結果となり、「百害あって一利なし」です。



 
 正直に白状すると、練心館で「女性クラス」をスタートさせた時、希望があれば「護身術」もレクチャーします、という触れ込みでした。
 しかし、合氣道の深い精神性とその技法の奥深さや面白さに比べて、「護身術」つまり「素人でも手っ取り早く身に付いてそれなりに使えるようになるもの」は、自分にとっては余りに薄っぺらく即物的で、どうしても魅力を感じませんでした。その結果、いつしか「女性クラス」でも本物の「合氣道」以外は余りやらなくなりました。




 現在、合氣道は様々な流派に分かれ、色々な価値観を持った指導者が教え広めています。
 中には「護身術」というキャッチフレーズを前面に押し出しているような所もあるかも知れませんが、個人的には、それは間違っていると思います。

 先程申しました通り、今の時代は、純粋に「護身術」としての合理性・有効性のみを追求した様々な新しい武術が、広く一般でも習えるようになってきました。
 冷静になって客観的に見れば、合氣道や伝統的武術・武道に比べて、それら「実戦護身術」の方が遥かに護身のためには合理的に出来ています。また、それら新興武術は、時代と共に変化する犯罪やテロの手口に合わせて常に刻一刻と進化し続けています。

 一方で合氣道や伝統武術・武道は、時代の変化や流行などを超越した普遍的な「本質・真理」を探究するものです。
 日本では古来、あらゆる芸事の練習を「稽古」する、と表現しましたが、「稽古」とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という意味であり、合氣道や伝統武術・武道の形を、より純粋にその「本質」を学べるように変更するならまだしも、犯罪や武器の変化に合わせたり、表面的な実戦性・有効性に合わせたりして徒に変えてしまったならば、それはもう「稽古」とは呼べません。

 ましてや合氣道の場合、「護身術」を前面に押し出すことが果たして開祖、植芝盛平先生の遺志に適うのか、という合氣道のアイデンティティに関わる重大な問題もあり、極端なことを言えば、自分などは、「護身術」を前面に押し出すというのならば、代わりに「合氣道」の看板を降ろすべきではないのか?とまで思ってしまいます。
 実戦合氣道の達人として、もはや伝説的人物となっている養神館合気道創始者、塩田剛三先生ですら、晩年、「もう合気道が実戦で使われる必要はない。私が最後で良い。これからは和合の道として世の中の役に立てば良い。」と仰っていたと聞きます。
 私たち合氣道修行者は、この伝説的先人の言葉を、今後、合氣道が間違った道に進まずきちんと正しい発展をするよう願う、塩田先生の本心から出た嘘偽りのない言葉として、もっと重く受け止めるべきでしょう。




 世の中で、武道を習い始める人の動機の多くが「強くなりたい」というのは今でもあるのかも知れません。しかし、「強さ」とは一体何でしょうか?
 殴る、蹴る、投げ飛ばす、締め上げる、といった暴力を駆使して人を傷付け、制圧するスキルの高い人間を「強い」人間というのでしょうか?
 中にはそういった粗暴な者を「強い」人間だと思っている人もいるのかも知れませんが、本来、人間修行の道である「武道」が目指す「強さ」とは、決してそういったものではない筈です。

 元格闘家で、今は様々なジャンルで活躍されている須藤元気さんが、嘗て格闘技選手を引退する時、「現役選手として格闘技を闘っているうちは、いつまで経っても、自分の考える本当の意味での強い人間にはなれない、ということに気付いた」という興味深いことを仰っていました。
 プロの格闘家として闘っている以上は、常に自分より強い対戦相手を恐れ、自分がそれ以上強くなるよう追い込み続けなくてはなりません。それは青少年に人気の格闘漫画と一緒で、強い敵を倒しても次はもっと強い敵が現れ、それよりも強くなってその敵を倒しても、次には更にもっと強い敵が現れる、といった形で止まることがありません。それを「男のロマン」と呼ぶ人もいるのかも知れませんが、古く仏教ではそれを「修羅道地獄」「等活地獄」などと言ったのでしょう。

 人間修行の道である「武道」が目指す真の人間としての「強さ」とは、「心の強さ」「魂の強さ」です。
 イエスキリストは言います。
 「なんぢらの仇を愛し汝らを憎む者を善くし、汝らを詛ふ者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ。なんぢの頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。なんぢの上衣を取る者には下衣をも拒むな。」(ルカ6:27~29)
 どんなに敬虔なクリスチャンでも、日常生活でこの聖句をそのまま実践することは至難の技でしょう。しかし新約聖書のこの言葉に、自分は究極の「強さ」を見る思いがします。そして「武道」が求めるべき人間としての真の「強さ」も、こういったものではないかと思うのです。
 相手を倒すような「強さ」に憧れ、それを追い求めているうちは、それは、いつも何かに怯えて震えている人間が、「やられる前にやってやる!」と向きになって息巻いているのと同じで、結局は心が弱い証拠、つまり弱い人間ということです。
 むしろ、そういった「強さ」に一切憧れる気持ちなどなくなったとしたら、私たちは人間として真に「強く」なったと言えるのではないでしょうか?。




 「護身術」を前面に押し出している流派や道場では、生徒募集をする上では、必然的に暴力や犯罪に対する危機感・恐怖心を煽るような方法を採らざるを得ません。
 「世の中は暴力に溢れている、あなたは身を護れますか?」「街中の犯罪者はあなたを狙っている、あなたは生き残れますか?」「弱いといじめの標的になる、そうなったら君の人生お先真っ暗かもよ?」等々。
 しかしこの構図は、世の中に暴力や犯罪が蔓延すればするほど人々はその恐怖と危機感に囚われ、疑心暗鬼に陥り、護身のために銃を買い求め、結果として商売は大繁盛するという、俗に言う「死の商人(武器商人)」と何ら変わりはありません。
 「国難だ!」などと必要以上に煽り立てていると、いつの間にか心底「国難」を待ち望むような人間になりかねないのと一緒で、我々のような武術・武道を教える立場の人間が、たとえ人助けのつもりでも、「護身術」を前面に押し出すことが、必然的にいじめや暴力、犯罪の増加を心の奥底では期待するような(その結果商売は繁盛する)、そんな社会に呪いを掛ける行為に繋がりかねないというジレンマに、我々はもっと自覚的であるべきです。




 マスメディアでは連日のように凄惨な暴力・殺人事件が報道されています。
 最近も、身勝手な動機からの、世間を騒がす傷害・殺人事件が大きく報道されました。
 (※亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りすると共に、怪我をされた方々、事件に遭遇して心に深い傷を負った方々にも心よりお見舞い申し上げます。)

 こんな時は自分も正直、不幸にも事件の被害者になられた方が、もしも多少なりとも何らかの武術・武道の心得があったならば、せめて殺されずに重傷で済んだのではないか?、重傷ではなく軽傷で済んだのではないか?、上手く逃げることもできたのではないか?、などと色々と考えてしまいます。考えた所で失われてしまった尊い命は二度と戻っては来ませんが・・・。




 しかし、ここで敢えて、私たちにとって一番大切なのは、感情に流されず飽くまでも冷静で客観的な判断を失わないことではないか、と思うのです。

 今、日本では凄惨な殺人事件、傷害事件が著しく増加しているのか?と問われれば、決してそんなことはありません。

 戦後の「※年次統計」によれば、日本での殺人事件の被害者数は、ピークだった1955年の「10万人中/2.4人」から、2012年には「10万人中/0.3人」と、60年で8分の1にまで減少しています。
 この数値はここ数年もほぼ横這いを維持しており、日本での殺人事件の件数は世界的に見ても驚異的な少なさだといいます。
 日本が世界に向けて最も誇れるもの、それが比較的「平和で安全な社会」であって、殊更に我々のような立場の人間が「護身術」を標榜して人々に危機感を煽るようなことをするのは、まさに本末転倒だと言えるでしょう。

 子どもの頃よく視ていたテレビアニメ「ヤッターマン」の敵「ドロンボー一味」は、毎回インチキ商売でメカ作りの資金集めをしていました。
 いつの回でどんな話だったかはよく覚えていませんが、敵のキャラクター「ボヤッキー」が「人々の危機感を煽るのがインチキ商売の鉄則よ!」と嘯いていたのが今でも忘れられません。やはり、人々に徒に危機感を煽るようなやり方は「ドロンボー一味」のインチキ商売と本質的に変わらないのだと思います・・・。




 冒頭で、万生館合氣道創始者、砂泊諴秀先生の著書から引用をさせて頂きましたが、やはり、「合氣道には合氣道そのものの目的がある」ということを私たち合氣道修行者は忘れてはいけないと思います。
 以下、合氣道開祖、植芝盛平先生の言葉を引用して終わりたいと思います。





 ただ強ければよい、負けなければよい、と力と力とで争い、弱いもの小さいものをあなどり、それを乗り取ろうとする侵略主義になろうとしている、その魔を切り払い、地上天国建設精神にご奉公をするのが、合気の根本の目的なのであります。
     (『武産合氣』P111)

 一国を侵略して一人を殺すことではなく、みなそれぞれに処を得させて生かし、世界大家族としての集いとなって、一元の営みの分身分業として働けるようにするのが、合気道の目標であり、宇宙建国の大精神であります。
     (『武産合氣』P128)

 争いもない、戦争もない、美しいよろこびの世界を作るのが合気道である。
 合気は宇宙の生ける活動の姿であり、万有の使命の上に、息吹きするのである。空気となり、光となり塩となり、皆の前にご奉仕するのが合気道の合気たる由縁で、決して争いの道ではない。万有愛護の使命の達成をのぞいて、合気の使命は他にありません。
     (『武産合氣』P140)

 植芝の合気道には敵がないのです。相手があり敵があって、それより強くなりそれを倒すのが武道であると思ったら違います。
 真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることなのです。宇宙の中心に帰一することなのです。合気道においては、強くなろう、相手を倒してやろうと錬磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一しようとする心が必要なのです。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり愛の道なのです。
     (『武産合氣』P192) 
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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