日時: 2012年6月13日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:松山夕貴子(まつやま ゆきこ)氏
講演録担当:内藤喬夫
講師略歴
9歳のとき生田流筑紫歌都子筝曲入門、1986年師範取得。1993年渡米。ロサンジェルスで演奏、作曲を開始。 琴のイメージを超えて新しい世界を開拓する音楽家として活動中。2011年にソプラノサックス奏者ポール・ウィンターによるアルバム“ミホ・ジャーニー・トウ ザ・マウンテン” (滋賀県甲賀市信楽町にある私立美術館・MIHO MUSEUMにてレコーディングされたまさにメイド・イン・ジャパンのアルバム)に参加し、第53回グラミー賞の最優秀ニュー・エイジ・アルバム賞を受賞。 松山夕貴子オフィシャルサイト
http://www.yukikomatsuyama.com/
講演内容
松山さんが琴演奏家として夢を追いかけるようになったのは、30代からである。昨年グラミー賞を受賞したが、才能ある音楽家と接するようになった。その人たちのほとんどは子供の頃から音楽一筋で、彼女のように30代から音楽を志すような人は皆無である。彼女の琴とのめぐり合いは、9歳の時であった。 松山さんの家の近くに琴の先生がいて、そこから美しい琴の音が聞こえてきた。感動したのは母親で、娘夕貴子に習うように薦めた。9歳の松山さんは日本文化とか伝統文化などわかるはずもないし興味もなかった。あまり練習もせず、週に一度のレッスンをなんとか続けた。彼女にとって、琴の音楽より、4歳年上のお兄さんのミュージックの方が好きであった。お兄さんはビートルズの音楽に夢中で、彼が弾くロックやポップのギターの音色に心が動いた。 19歳まで何とか練習して、師範の一つ手前の師範補でやめてしまった。師範とは、教師ができる資格である。師範までなりたいというパッションがでてこなかった。それから琴とは縁を切ったつもりでいた。
その後、結婚し、信州の松本に嫁入りした。松本のような田舎では手に何か職を持っていた方がよいと思い、琴の師範を目指した。師範にはそう簡単になれないので、この時は猛練習した。師範はとれたが、琴を続けるパッションがまたなくなった。
そのうち出産し、主人の仕事の関係でロスにやってきた。駐在の奥さんであった。しかし、性格の不一致から離婚した。両親は日本に帰ってくると考えていたが、彼女は離婚した女性が日本で生きていくのは大変だろうと考え、2歳の娘とともにアメリカで生活することにした。
ベビーシッターや色々な仕事をした。生きるために金が必要であった。
通訳の学校に行った。通訳とは自分のフィーリングを入れずに相手の言葉をそのまま伝えなければならない。先生は彼女が通訳にあまり向いていないようなことを臭わせた。そこで、今度は翻訳家になろうと思った。日本では映画の翻訳はとても金になるという。しかし宿題も遅れがちで、これも向いていないと悟った。
何をしても達成出来ない自分に傷つき、「離婚した女性には未来がないのか」と落ち込んでいた。そのようなとき出会った友人が、「まだまだ大丈夫。納得できる人生が必ず見つかるはずだ」と言ってくれた。彼女の暖かい言葉に励まされた。
ところが、彼女は癌で死んでしまった。とても悲しかった。そのときどういうわけか彼女に聴いてもらう音楽をつくりたいと思った。彼女はアメリカ人であったので、英語で詩をつくった。
その時タイミングよくお兄さんからテープが送られてきた。作曲されているが作詞されていない、ララと、メロディーが吹きこまれていた。このメロディーになんともいえない優しさを感じ、これに死んでいった友達への言葉をそえてみた。彼女はあの世にいってしまったが、彼女の魂がお兄さんと松山さんの合作の音楽を聴いてくれるように思った。
できあがったものをお兄さんに送ると、「うまいことできたな」と褒めてくれた。
松山さんは、こうだと思うと突っ走るところがある。「この道しかない」と、お兄さんの作った曲にどんどん作詞をしていった。ソングライター・コンテストにも応募した。そして、ディズニーの会社はこの曲のテープをとってくれた。希望をもって6年7年待ったが何も起こらなかった。
お兄さんの曲に作詞をしていたが、自分の回りにはギターもないしピアノもない。ここでようやく彼女には琴というものがあることに気づいた。「そうなんだ。長い間練習していないけど、私は琴が弾けたんや」。
琴は13弦あり、琴柱(ことじ)というものが胴の上に立てて弦を支え、その位置によって音の高低を調節する。松山さんはその琴柱を好きなところに置き 、好きな音をつくり、好きな音楽をつくりだした。
ようやく自分の好きな世界を見つけのである。
そしてある琴の世界に入門した。先生はある時「松山さんは師範の免状もあるし、ひとつ弾いてみない」と、演奏するチャンスを与えてくれた。そして、お小遣いまでくれた。それもベビーシッターをしたときより多い額であった。
思い込みの激しい彼女は、「これしかない」と思い、それからどんどん作曲して、自分の世界をつくっていった。
琴演奏家のデビューであった。30代、遅まきのスタートであった。
仕事をもらえるように自分で歩いて客を探した。当時今のようにCDはなかったので、アメリカ人社会では琴とはどのような楽器か、どのような音を出すかも知られていなかった。ことごとく断られた。
店やレストランを訪れ、「ただでよいので、一度だけ演奏させてください。よくなければ、その後カットしてもらって結構です」と宣伝活動をした。ようやく「もう一度来てくれ」と言われるようになり、仕事が一つ、二つともらえるようになった。講演会場にも以前仕事をくれた人もいたようで、彼女は仕事をくれた人々に今でも感謝している。彼女が今のようになれたのは人と人との繋がりがあったからだと、感謝している。
昨年、松山さんの言葉を使えば、ラッキーにもグラミー賞をもらえた。2月12日のポール。ウインターと一緒に演奏したアルバムに対してである。グラミー賞は二つに分かれていて一般的に言われているグラミー賞に加えてラテンミュージックグラミー賞がある。その賞を同じく昨年11月にshakira というコロンビア生まれのシンガーがもらった。その受賞演奏会(?)で松山さんも出演している。
shakiraは世界的な歌手で、色々な曲を1千枚、2千枚と売っているるほどの、超スターである。2つのグラミー賞に関係した昨年(2011年)は、松山さんにとって最高の年であった。彼女はそのことを素直に喜んでいる。しかし逆に観客が高い音楽を要求をしてくることを意識して、より強いプレッシャーを感じるようになった。演奏前には震えがとまらず、押しつぶされそうになることがあるという。そのことを同僚のミュージーシャンに聞くと、「だれもがそうだ」という。
音楽はビジネスと同じで、浮き沈みがある。来年が見えない。それに練習が大変である。ステージに立つときはメークしてエレガントに振る舞うが、なりふり構わず汗をいっぱい流して練習をする。 松山さんは音楽を通して人々が少しでも幸せになったり、癒しを感じてもらえればと願っている。しかし、己のことになるとハッピーになったり落ち込んだりする。 彼女は講演の最初に、「私は話しだすと、ストップがかけられなくなり、どんどん前に進んでしまいます。途中で質問がありましたらしてください」と言った。それに呼応して一人が質問した。
「グラミー賞をとられてから、どのように生活が変わりましたか。ギャラも変わりましたか。ところで、貴女は以前に比べて明るくなられましたね」 「以前はキリキリしたところがありました。だからつくった音楽もどこか暗い感じがしていました。グラミーをもらったとき、『よっしゃー、これで家が買える。好きな物が買える』と、夢がいっぱい膨らんだのですが、そうでもないのです。現に家はまだ買えていません。アパート暮らしです。
昨年は地震があり、チャリティーに出演してお金などいただける状態ではなかったのです。それに私は大きなチャンスを逃しました。 グラミー賞をもらってから、電話やメールの数がものすごかったのです。ところが賞をもらった翌日、日本からきた娘とディズニーランドに行ってしまったのです。娘との約束があったものですから。帰宅すると、多くのメッセージが残っていました。「これは大変」と電話すると、『もう番組は終わりました』なんです。絶好のチャンスを逃してしまったのです。
賞を貰う前は、『これだけいただけないでしょうか』と私の方から言っていましたが、受賞後は客の方から、「これしかないのですが、やってもらえませんか」と言われるようになりました。 また両親や親戚も受賞をとても喜んでくれました。以前は両親は「日本に帰ってこい」と、いつも言っていましたがが「もっと頑張っておいで」と変わりました。 元夫とは嫌いで別れたわけでなかったのですが、離婚後、彼の家族や彼との間に深い溝がありました。しかし、受賞によって、この溝が一気になくなりました。日本でのコンサートには、元主人や家族がやってきて、励ましてくれました。
娘は元主人と性格が似ていて、私のように感情で動くタイプではないのです。娘は子供の時ベビーシッターを頼んだりして寂しい思いをさせました。娘が10代の頃、女の子は母親に強く当たるのもなのだそうですが、とても大変な時期がありました。今では父親との関係もよく、私も彼との関係がよくなり、嬉しいです。娘はよく私に言っていました.『お母さん、音楽は趣味でやるものやで』って。その娘が賞をとったことを喜んでくれ、授賞式に日本からやってきてくれました。会場は関係者以外は絶対入れなくて、チケットは600ドルもしたのです。ポール・ウイインターさんは授賞式にこなかったので、彼のチケットを娘にくれました。
2011年12月1日にノミネートが発表され、その後はどうなるか全く分かりませんでした。ポールさんは出席しないので、彼から言わていました。『もし、受賞したら、仲間とハッグなどせず、舞台に一直線にあがりなさい。紙に書いたものを読んでもよいです』。練習もしていたのですが、受賞したらどうしょうという気持ちの方が先立ち、ドキドキのしていました。グラミー賞といっても110部門もあり、ある部門では、アルバムの表紙に対してのものがあるのです。私達の部門は16番目だったのですが、本当のところ会場から逃げ出したい気持ちでした。
受賞が発表され、ポールさんの言われたように、舞台に一直線に行き読んだのですが、受賞対象になった同僚のミュージシャンのラストネームの発音が難しかったのです。それに書かれた紙は待っている間の緊張感から汗がびっしょりついて、読みずらかったのです。・・・・
授賞式のあと、ある部屋に誘導されて行ったのですが、ドアが開いたとたん、カメラのフラッシュの嵐でした。スターの人って、こういう思いをしているんだと、思いました。 その時の興奮から頭が真っ白になりチケットをいつの間にかなくしてしまいました。その時はあまり深く考えず、お腹がすいたのでお菓子を買いに外に出たのです。そして中に入ろうとすると、チケットをもっていない私を係の人は入れてくれないのです。『さきほど、賞をもらった者です。観ていたでしょう』と言っても、Noの一点張りでした。賞をもらったこと、それに着物を着ての受賞者は、私しかいないのに、係の人の話では『切りがないから』なのそうです。
ステープルセンターの外で一人取り残されました。このあたりはそんなに安全な地域ではない所です。寒空のなか、不安な気持ちでいました。そうすると娘から携帯の電話がかかってきました。
『お母さん、何してるの?』
『チケットなくしたんや』
『また、お母さん・・・』
ポールの奥さんは会場に来ていました。彼女はとてもよい人で、 『私と探しましょう』と、一時間半一緒に探してくれました。しかし、見つからなかったのです。
『もういいです。中に入ってください。私一人外でいます』と言ったとき、そこにインタビューをした人が通りがかりました。そして、「どうしているのですか、そんなところで」と声をかけてくれました。事情を説明すると、会場内をくまなく探すように係の人に言ってくれました。そして、一時間後に見つかったのです。 そこで私は係の人に言ったのです。 『入場者は2、3万人でしょう。きっと私以外にチケットをなくした人がいるのでしょう』と。 それに対して、 「貴女だけです」と返事が返ってきました」 この事件で松山さんは、娘さんからの信用がまた落ちたのだが、完全に挽回したのは昨年の11月10日のShakira との共演の実現であった。娘さんはShakira の大フアンであったからだ。
Shakira の音楽は民族系の楽器を取り入れることがある。琴も以前に使ったことがあった。アメリカ人のギター奏者が琴を弾いていたことがあったが、彼(?)が去って、松山さんへShakiraのマネージャーから声がかかった。水色の着物を着るように言われ演奏した。松山さんにとって、彼女の音楽生活の中で最高に緊張した晴舞台であった。その時の演奏風景がビデオに流れていた。実に美しい歌声であった。松山さんはメークを丹念にしてイントロと最後のところを演奏した。せっかくメークも、彼女は「右端で暗く映っていた」と、謙遜していた。
ポール、ウインターとの演奏は滋賀県の信楽でおこなわれた。世界中からきた演奏家によって、即興的に演じられた。この曲に対して、グラミー賞が与えられた。アルバムは2枚で分厚いものであったが、ポール氏がアメリカ版(1枚)に作りなおして、それがグラミー賞受賞になった。
これは質疑応答の中ででたのだが、グラミー賞にノミネートされるには、グラミーアソシエーションのメンバーになる必要がある。メンバーになれば、審査員になる資格を得る。年会費を払って、アプライすることができる。アプライすると、過去の演奏活動とかCDを何枚だしているかなどを見る書類検査が行われる。8月が締め切りで、12月1日がノミネートの発表。そのあとは受賞日の日まで、だれが選ばれるかは一切分からない。
松山さんの音楽は洋曲コンテンポラリーの傾向がある。リズムはアップテンポのものが多い。しかし、彼女は日本で生まれ、育っているので、いつしか、日本の匂い、風が自然に彼女の音楽に染み込んでいるのではないかと、彼女自身分析している。しかし、琴そのものが出す音には限界がある。 彼女は自身のバンドをもっているが、そこにはドラムやベースのようなリズミ楽器に加えてキーボード、バイオリン、チョロ、ギターなども取り入れるようにしている。 お兄さんと一緒にアルバムもつくっている。お兄さんは東京、松山さんはロスと、両親から離れて暮らしていることに対して親不孝を感じている。お兄さんは「両親のもとに帰ろう」というような内容の音楽を作った。この音楽を松山さんはとても好きであるという。
戦時中日系人が強制収容所に送られた。マンザナはその一つである。2002年マンザナについてのドキュメンタリー映画がつくられた。そのとき、松山さんはテーマ音楽を書いてくれと頼まれた。そこで彼女はマンザナを訪れた。厳しい環境で、砂ぼこりが舞い上がる収容所跡に立ち、当時の日系人の苦労に思いをはした。彼たちの苦労があったればこそ、戦後来た日本人が平和に楽しくアメリカで生活ができると松山さんは思った。 昨年であったと思うが、日本のテレビ・ドラマ『99年の愛』が放映され、松山さんはそのドラマに深く感動した。このドラマによって、日本に住む日本人もマンザナのことや収容所のことを知るようになった。日本でのコンサートではマンザナのことを語りながら、この歌を演奏するという。
グラミー賞や演奏活動から離れて、松山さんの、興味深い生き方の紹介があった。
一時日本の雑誌、テレビなどのマスメディアで話題になったポディティブシンキングへの実践報告であった。
希望や夢を願うと叶う。
例えば、家が欲しいと思ったとき、「家を与えてください」というのではなく、実際に家が与えられたことを想像し、家の大きさ、間取り、どのようなものを置くかまで想像する。家を持つことはまだ叶えっれていないが、グラミー賞にノミネートされたときは、とれますようにというより、とれた時のことを想像した。そして本当にとれた。 渋滞に巻き込まれて遅刻しそうになったときも、「絶対に12時に着きます」と言うと、急にスーッと車がすくことがあった。コンサートに行って、「こんな後ろの席か」と思って、「良い席が与えられました」と思うと、前の席があいた。このようなことが毎日のように起きている。ここで大事なことは、実現した時、「ありがとうございました」と感謝の気持ちをユニバースに送ることである。
松山さんは毎日日記をつけている。その日記に自分の願いというよりが、願いが実現したことを具体的に書いている。 これは別に宗教ではない。ユニバースは膨大で、人間の一人ひとりのちっぽけな願いぐらいは叶えてくれる。3年前に『シークレット』という本を読んでから、その思いが確信に変わったという。 離婚したとき、苦しくて寂しかった。そのときに、「次の人はこんな人がいいな」と想像した。願いの項目は、同じぐらいの年齢で、音楽やアートの好きな人、優しい人であった。2週間後にユニバースはアメリカ人のソングライター(?)を送ってくれた。デートを2回したが、そのあと別れてしまった。 そこで、この方面に詳しい人に尋ねてみると、「ユニバースは願いを届けてくれるが、届いた後どう取り組むかは本人次第です」と教えてもらった。使い方が悪かったのだと反省した。 そこで今度は事細かく箇条書きで書いてみた。
①松山さんは食べることが好きで、トレーダー・ジョーズ(Trader Joe's)の食べ物が好きである。だから、相手もトレーダー・ジョーズに行くような人。
②自然、木や花が好きな人。
③夕貴子が好きで好きでたまらない人、夕貴子を大事にしてくれる人。
と書いた。そうすると一ヶ月後、ユニバースは一人の男性を送ってくれた。仕事の関係で出会った人で、いきなりディナーに誘われた。そこでチェックした。
「自然が好きですか」
彼はパークレンジャーであり、グランドキャニオンで働いていたという。自然そのものである。
「 トレーダー・ジョーズは好きですか」
いつも トレーダー・ジョーズで買い物をしているという。
質問を続けた。
「エッチビデオは好きですか」
そのようなものに興味がないという。
「よっしゃ、本当にユニバースは私の好みの人を送ってくれた」と彼女は舞い上がった。
その人は、松山さんが願ったことを完全に備えていて、松山さんが好きで好きでしかたがない男性であった。しかし、毎日、7回も8回も電話をしてくるのには閉口した。我儘だとは松山さんは認めているが、自由が欲しかったのである。愛に飢えていたので、彼女だけを愛してくれる人を望んだのだが、彼女の自由を束縛されるのも困ったことであった。
一つ書き忘れたと思い、書き足したが、もう手遅れであった。一度送ったものを書き換えることはできない。
しかし、松山さんは確信している、書いたもの、望んだものは間違いなくユニバースは送ってくれることを。
松山さんのことに関しての動画を観ることができる。そのアドレスは以下の通りである。
yukikomatsuyama.com
今年の8月にロスでのコンサートが予定されている。お兄さんと一緒のコンサートである。ただ5日間の滞在であり、今のところ13日にサンターナーにあるミュージアムでの一本は決定しているが、もう1本できるかどうか計画中である。
もし松山さんの情報を知りたい人は係の人に言えば、Eメールで情報を流してくれるという。
この講演会の3日前に彼女のコンサートがあり、それを聴いた人から、「リズム楽器の音色が変わっていたが、その楽器は何か」という質問であった。実はその楽器はこのコンサートでは演奏されなかった。バッキングトラックという技法によって流れてきた音色であった。
バッキングトラックとはカラオケのようなものである。他の楽器奏者と演奏したのを録音したあと、琴の音だけを消し、ステージでは琴の部分を演奏するものである。コンサートで聴いていた人には、リズム楽器の音が流れていたが、その演奏者がいなかったので不思議に思ったのである。
この質問者は松山さんの演奏の様子を観て、次の質問もした。
「普通琴の演奏では左手のストロークがもっと長いようですが、松山さんの場合短いと思いました。それは新しい演奏法なのですか。それに立って演奏されていたが、特別注文の台を使っておられるのですか」
この質問に対して、次にような応答があった。
「左側にある琴柱は半音や一音(?)を上げたり下げたりするためのものと、ビューンという音を鳴らすときに使います。お正月によく演奏される『六段』という音楽の場合、低くチューイングしているので、左の動きが激しいのです。私の場合チューイングを高く設定していますので、それほど、左を動かすこともないのです。3日前のコンサートは一曲を除いて、私のオリジナルなものでしたから、私の弾きやすいようにしているので、左がそれほど動いていなかったのです。立って演奏する方がやりやすいです。洋楽の演奏ですので、周囲との調和という意味でも、立ったほうがよいようです。座ってやると、身体を曲げなければいけないので、立ってやるとより自由に演奏できます。そうです、特別注文のものです」
松山さんが嘗て通訳や語学学校に通っていた校長先生からの質問があった。
「大変な時期に月謝を払っていただきありがとうございました。思いが叶えられる、しかもその思いが強ければ強いほど良いというのは理解できます。ところでこれからの松山さんはどのような思いをもち続けたいのですか」
「私自身、音楽によって苦しい時に救われたことが多くありました。それで、これからは、私の音楽を聴いて、楽しんでもらったり癒される人がでることを望んでいます。年齢とは関係なく、癒される気分やハッピーになってもらえるようなミュージッシャンになりたいです。ところで、私は花火が好きなのですが、コンサートで花火を上げてもらいたいのです。そうハリウッドボールで演奏して、花火を上げてもらうのが夢です。そうなんです、前はよくこのことを書いていたのですが叶えられなくて、これからもっと書いてみることにします」
次の質問はコーラスの会員で、ロスのディズニーコンサートホールで第九を歌ったこともある、自称歌手の男性からの質問であった。 「いつか松山さんと一緒の舞台に立ちたいのが私の夢です。ところで、洋楽の楽譜と琴の楽譜と違うのですが、洋楽の人との演奏のとき、どのようになされているのですか」
「洋楽の人から音をもらうとき琴用の楽譜に書き直します。そして、琴用の音楽を洋楽の人に渡すときは五線用にします」
記録者による講演に対する感想
離婚して、娘さんを育てながら、琴の音楽を作り上げられた松山さんに、拍手喝采を送りたい。ポジティブシンキングで、夢を本当に叶えられた人である。願いが本当に叶えられるというのは、本当のことである。思いである。ただ思うだけでなく、その思いを実現するために日々努力する。その努力したことによって、より素晴らしい運命を引き寄せていく。
成功するような人は、分野が違っても松山さんのような心の持ち方をしている人が多い。
「思いは天まで届く」とよく言われるが、このことは理にかなったことなのである。仏教の教えだと思うのだが、これは松山さんの解釈と少し違うが、宇宙は自分の心の現れである。これは確か唯識論であると思う。
バークレーの考えも唯識的である。「目を閉じれば宇宙がなくなり、目をあけた時宇宙が現れる」。
心の思いを馬鹿にできない。人を幸せにしたいという思いがあれば、本当に自分の接する人が幸せになる。また人を憎いという思いがあれが、周囲も自分のことを憎いと思う。
よく人の悪いことばかり言う人がいるが、そのような人はその人自身が人から嫌われるものをもっている。
禅の話で「十牛図」というのがある。悟りをもとめて、段階をおって修行が進むのを牛を例えで述べている。牛とは修行途中に見出す一つの目標であるが、修行が進むにつれて目標である牛が消え、自然と一体化する自分を発見する。これでも最高ではない。最高の境地とは布袋さんの心境である。布袋さんは悟ったような顔ではなく、ただニコニコとして、街中を徘徊する。別に難しい仏教の話を説教するするわけではない。布袋さんの姿を見ただけで、人々は布袋さんの心が伝わり、いつのまにか幸せになる。
松山さんは音楽を通して、人々が癒されるようなミュージシャンになりたいと言われていた。まさに彼女は音楽における布袋さんを目指しておられることである。音楽は言葉のメッセージを伝えるところもあるが、音という聴覚に訴えて、また演奏家のパーフォーマンスによる視覚によって、人々を楽しませる芸術である。
松山さんはとても正直な方であるので、その正直さからにじみでる内からなる笑顔がとても魅力的である。グラミー賞という褒美に満足することなく、より飛躍した、布袋さん的ミュージッシャンを目指してもらいたい。
以上。