日時: 2012年7月11日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:米谷ふみ子(こめたに ふみこ)氏
講演録担当:藤原勝
講師略歴
1930年 大阪に生まれる。
1953年 3 大坂女子大学 国文科卒業 BA
1957年 二科会 油絵入選
1958年 二科会 油絵入選
1959年 関西女流美術会の賞を受ける
1960年 5 米国ニュウハンプシャー州のマックドウエル・コロニーの絵のフェローシップを受け絵描きとして渡米
1960年 9 ジョシュ・グリーンフェルド(作家)と結婚、アメリカに永住。二男をもうけ、その一人(ノア)が脳障害、それで絵が描けなくなりエッセイを書き始める。それから小説に移った。
1985年 5 「遠来の客」で文学界新人賞を受ける
1985年 6 「過越しの祭」で新潮新人賞を受ける
1986年 2 「過越しの祭」で1985年度の芥川賞を受賞
1998年 10 「ファミリー・ビジネス」で女流文学賞を受賞
出版著書
1985年 「過越しの祭」新潮社
1986年 「タンブルウイード(風転草)」 新潮社
1989年 「海の彼方の空遠く」 文芸春秋
1992年 「プロフェッサー・デイア」 文芸春秋
1994年 「ゼロ線に向かって」 新潮社
1998年 「ファミリー・ビジネス」 新潮社
2003年 「サンデー・ドライブ」 集英社
エッセイ
1992年 「マダム・キャタピラーのわめき」文芸春秋
1993年 「ちょっと聴いてください アメリカよ日本よ」朝日新聞社
1996年 「老いるには覚悟がいる」 海竜社
2000年 「けったいなアメリカ人」 集英社
2001年 「なんや、これ?アメリカと日本」岩波書店
2004年 「なんもかもわやですわ、アメリカはん」岩波書店
2006年 「ええ加減にしなはれ!アメリカはん」 岩波書店
2009年 「年寄りはだまっとれ!?」 岩波書店
2011年 「だから、言ったでしょっ!」 かもがわ書店
翻訳
1989年 ジョシュ・グリーンフェルド著「我が子ノア」「ノアの場所」
「依頼人ノア」文芸春秋 三部全部
講演内容
反核、反原発活動を続けておられる米谷氏は常々核や原発の恐怖が一般市民に正しく伝えられていない、あるいは理解されていない事を憂慮されており、その原因は一部の企業家や政治家によって意図的に隠蔽されている事にある事を訴え続けてこられた。今回は核や原発事情を正しく世間一般の人々に伝え、理解して頂く事を目標にした講演内容であった。
以下はその要点の抜粋である。
*米谷氏の反核反原発活動の根源は戦時中の経験である。女学校の時、爆撃された大阪の川西航空の工場跡で多くの死体を見た事や、疎開先の島根県に広島で原爆の被害を受けて逃げて来たケロイドだらけになった同世代の女性の姿を目撃した経験で、その恐ろしさを知った。
*1954年に米軍によるビキニ環礁での水爆実験で近くにいた日本漁船員、久保田愛吉氏が被爆し、その後死亡したが、彼の死によって初めて一般日本人はアメリカ、イギリス、フランスなどが南太平洋で、中国やロシアは大陸で核実験を行っている事を知った。戦争は終わった筈なのにまだ核実験が行われていた事に驚き、強い恐怖を感じた。また、母親が空から降ってくる死の灰から身を守るようにといつも傘を差すようにと言っていた事も核に対する恐怖感を根強いものにした。
*当時は政治家であれ、宗教家であれ、核実験に反対の声を上げる者は皆無であった中、ライナス ポーリン(?)氏とバートランド ラッセル氏の二人はネバダ州での核実験に反対していて、その二人を米谷氏は神様とまで尊敬するようになった。
*ネバダ州での核実験は当時の一般アメリカ人にはあまり知られてなかった。しかし、その核実験の結果、ネバダの北側の州、モンタナ、ユタ、アイダホ、コロラド、サウスダコダ、即ち風下の州の住民に多数の癌患者が出た。その時、風下でなかったカルフルニア住民には被害は無かった。
*バートランド ラッセル氏が唱えた3つの言葉:①核を無くすのは、その怖さを庶民に知らせる事。②正直は親切なり。(隠さないで事実を知らせる)③過去に起きた事を覚えておかないと同じ過ちを繰り返す。
*1950年代は米谷氏の反核活動への出発点であった。
*1960年に結婚して渡米したが、次男が自閉症のため、絵描きから物書きへと転身した。自閉症の子供を育てる苦労の過程で、人を見る目、社会を見る目が育ち、社会の裏が見えるようになった。それは結果的に作家としては良い事に繋がった。
*活動家になった切っ掛けは、2001年の9・11事件後、当時のアメリカ大統領ブッシュがアフガニスタンに派兵した事を受けて、近所の92歳になる老人が自分で$500を出し、ある教会で反戦反核の集会を開いた事にある。元々、サルトルが説いたアンガージュマン(自分の信念を行動に起こす事)に強く影響を受けていたので、直ぐに活動家としての行動を起こした。核の恐怖を人に伝えたい、そして、それを外国語が話せる日本人を通じて世界中の人々に伝えてもらいたいと本を書いた。東北大震災が起きる以前の事であった。しかし、当時の出版社は、一般の人は誰も核には興味を持たないと言う理由でその本を出版しようとしなかった。後日、ようやく角川書店から出版する事になり、そのゲラが手元に届いたのは5月に出版予定日の1ヶ月半前で大地震の直前だった。結局、この大地震で起きた福島原発の事故で核の恐ろしさが一般に知れ渡る事になったが、米谷氏としてはその前に伝えたかったので残念な思いをした。
*世界の指導者となるべき人は理知的で人類愛に満ち、人の命を守る事を政治の一番大切なものとし、それを教育に取り入れようとする人でなければならない。
*現在世界で431基の原始炉がある。一番多いのはアメリカで104基、次がフランスで59基、日本は3番目に多い54基を持っているが、世界で随一の原爆の被爆経験国である日本が54基も原発を造ったのが理解できない。
*1954年半ば頃からアメリカのアイゼンハワー大統領が核の平和利用を唱え、当時の正力松太郎氏や中曽根康弘氏によって、または、学者や企業家、政治家が私腹を肥やそうと国民には何の説明もなく、日本に売り付けられた。
*しかし、実際は原発から出る電力の20%しか使用されていなかった。
*今までに掛かった原発一基あたりの経費は約一兆円とされているが、日本にある原発54基分、54兆円を政府の援助金として使えば他の発電装置が作れた筈である。1960年代の日本の田舎では太陽パネルが付けられていたが、原発の方が優れているとされ、なくなってきた。
*2001年に出版し、その後、絶版になった本があるが、その経験から新聞社協会と政府の間で、原発に関しては批判を書かないと言う約束があった事を知った。
*1988年頃の経緯として、息子が日本の中高生に英語を教えに行く事になり、赴任先が福島県とされた。しかし、その県の観光パンフレットに原発の絵が描かれていた事に驚き、他の県への変更依頼の手紙を出したが長い間返事が来なかった。息子の依頼で代わりに電話連絡すると「ああ、あの原発の人」とのコメントを残して、直ぐに他県に換えてくれた。あの時、大人しくしていて息子がそのまま場所を変えずにいて、今回のような事故に遭ったとしたらと思うとぞっとした。情報を掴み、行動を起こす事の大切さを知った。
*上記の件をアメリカ在住の二人の日本人に話したら、その両方から我儘だと批判されたが、カナダ人の反応は、言下に、誰が何んと言おうと自分の命が一番大切、との返事が返ってきた。その時の日本人の反応にショックを受け、この事をエッセイに書き、知識人向けと言われる朝日ジャーナルに渡したら、編集長から原始炉の周りには放射能が漏れると雄しべの色が変わる紫露草が植えてあるので、そんな心配は要らない、と言われた。日本では人間の命が露草の反応に懸かっているのかと、強い衝撃を受けた。
*メディアの幹部、主にテレビ局の会長とか社長であるが、原子力産業の参与とか理事をしている事が最近分かった。道理で言論の統率が出来た訳である。
*1995年11月末の事である。日本からアメリカに帰る飛行機内で三菱重工から派遣されニューメキシコのロスアラモに行く医師団と乗り合わせたが、その目的が放射能障害の対処方法を学ぶ事だと知り、日本は核の経験をした随一の国であり、そのような事は熟知した上での原始炉の導入ではなかったのかと驚いた。医師の一人にそれでは泥縄ではないかと口を滑らすと、医師から、我々が学ぼうとしているのは、治る見込みのない人のための対処法ではなく、治る見込みのある人の治療法なのだと聞き、死にかけの人は見捨てるのかと更に驚かされた。
*放射能を扱う人には2種類の人がいるようだ。放射能の危険性を知っているが故に、危険だと訴える人と、危険性を知っていても、それを言うと政府のひも付き研究所では金が出ないので無視し、たいした事はないと訴える人である。
*もんじゅ原発の建設時には事故は250年に一度しか起きないと言われていたのに、チェルノーブルの原発事故の10年後の1996年に日本のもんじゅ原発のナトリューム漏れ事故が起きた。その後フランスや米国のアリゾナ州でも原発事故が起きている。偶然にしては事故の数が多い。
*1999年9月30日に起きた東海村JCO臨海事故に関し、LA Timesに南カルフォルニア大学の環境土木工学科准教授ナジメジン メシュカティ氏が記載した記事によると、1996年から1995年の間に起きた日本の原発事故は863回発生し、しかも、人的ミスは199件もあったのにも拘わらず、その事が一般に知らされていない事が問題である。しかし、これはJCOのみの責任とするにはあまりにも短絡過ぎであり、責任はむしろ親会社である住友金属鉱山の安全第一を優先しない無責任な運営を行う企業文化にあるとしている。
*現在も横行する問題点として、原発の責任者達は国民の安全を守ろうとしない。日本政府は面子を重んじ、アメリカ政府との情報の共有化をしない。原発側から高額の広告費を受けているメディアは原発を批判しない、などが挙げられた。また米谷氏は原発側とメディアの関係に関し、自分の経験談として、ネバダ州の核実験で人間モルモットになった人の話をある女性誌に書いたら、編集長から東電の広告を断る事になったとの報告があったが、その直後に東北大地震があり、その編集長は上司に褒められた事を述べられた。
*東北大震災時には原発がメルトダウンした事実をアメリカのメディアは逸早く報道していたのにも拘わらず、日本の場合は全て隠されていた。
*その他、原発に携わる知識人や日本やアメリカ政府の無責任さを数例挙げられたが、その抜粋を以下に記す。
―福島原発事故、アメリカのスリーマイル原発事故など、全てが人的ミスである。
―アメリカが開発した無人戦闘機が核武装した時の懸念。これを後押しする政治家の信じ難い無責任さ。
―福島原発事故の一大危機の時、日本の政治家達は党を超え、一丸となってその対応に向わなければならないのに、政権争いに明け暮れる毎日の無責任さに呆れた。
―メディアは原発側から高額の広告費を得るため、正確な報道をしない。
―日系アメリカ人の理論物理学者、ミチオ カク(加来 道雄)教授が福島原発事故処理の方法として、セメント、砂、硼酸を混合させた物を5000トン原発の上からの撒けばよいと言った事を、ある日本の新聞記者に言うと、そんな事をすると、その原発の再使用が不可能になるのでダメだとの返事が返ってきたのは驚かされた。
―ロシアやアメリカからのアドバイスに関して、ある東工大の物理学者は、他国からのアドバイスは聞かない、自分達で解決しなければ日本の顔にかかわると発言した事も驚きである。
―アメリカ政府の原発事故隠蔽事実もある。1959年にロス近郊のサンタスザーナで原発事故が起きていたが、一般には知らされず、1990年代になって近辺の住民に癌や白血病患者が多発した事で発覚した。しかし、未だ廃棄物処理がされておらず、その量は日本のそれよりも多いので危険である。
以上。