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サウスベイ マネジメント セミナー( Southbay management seminar )は月一回のセミナーを中心に勉強し、時々に親睦をする、乃ち「よく学び、よく交友する」そのような会です。

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  • 2014年度 8月 「日本を救った日系二世たち」

2014年度 8月 「日本を救った日系二世たち」

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日時: 2014年8月13日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:スティーブ 鮫島(スティーブ・さめしま)氏
  
講演録担当:佐伯和代

講師略歴:
1970年代に渡米。日本のテレビ業界に従事していた経緯から、日系TV局で番組制作を手掛ける。 その後独立し、ダイナミック・スポーツ社を設立。大相撲ダイジェスト等を放送。また、野茂英雄投手が、ドジャー球場で登板する全試合を、邦人・日系人向けに日本語でラジオ中継。 執筆分野では、江戸中期に藩政改革を行った上杉鷹山と、鷹山を唯一尊敬したケネディ大統領を上梓した「The Great Tycoon YOZAN」を英字出版。更に、 米国陸軍省情報部時代に、日本軍部の暗号解読や皇室典範を分析した、帰米二世「伊丹明」を描いた「天皇を救った男」を上梓する。
講演内容:                       講演の写真資料はこちらのリンクでご覧頂けます。Media:Samejima.pdf

「天皇を救った男」2013年8月15日に出版 書き始めてから出版するまでに、10年を要した。

動機:ロスアンジェルスの日系テレビ局に在局していた時、山崎豊子氏の「二つの祖国」を大河ドラマで放送することになっていた。しかし、地元のJACLから日系2世に関する内容で、歪曲して書かれた部分が随所に見られ、放送しないで欲しいという要望があったことから、全米での放送が中止となった。 その頃、ドラマの内容を詳しく知らなかった私は、早速本を購入して読んでみた。  すると、主人公のモデルとなった伊丹明(ドラマでは天羽賢二)が、自分の先輩であることがわかった。それから資料を集めて読んでみたところ、いろいろなことが判明した。山崎さんはハワイ大学の聴講生として在籍した頃、伊丹明のことを知り、これを題材に本を書くことを考えた、と言及されていた。 そして、何年かが経過し、山崎さんは4、5人の秘書と共に渡米し、日系人の歴史を調べた。しかし、短期間のリサーチとインタビューでは、日系人と歴史を知り得るには限界があった。かなりの部分で事実と異なる部分が多かったようで、JACLが放送を反対した理由はここにあった。また、山崎氏は肝心の伊丹明夫人である「君子さん」とは一度も会っていないことが判明した。 君子さんは、山崎豊子さんが上梓した「二つの祖国」が出版された後、多くの取材陣や報道陣から取材の要望を受けたが、この本に出てくる彼女の姿が事実と異なり、中傷に近い内容だったため取材は一切拒否した。娘の「ミチさん」が頑固に反対した。

私が原稿を書き始めた時が、ちょうど鹿児島移民100周年にあたり、鹿児島からも報道陣が来羅し特集を組んだ。その中の記者が君子さんの電話番号を持っていたので、それを拝借しアプローチを試みた。当然、電話では断られたが、兎に角バークレーに飛び直接交渉をした。初めは頑な態度を取られたが、私が伊丹明の後輩であった事と、伊丹明が使っていた愛用の弓が放置されていたので、手入れをしてあげると、それを見た君子さんは心を開くようになった。このままだと弓が駄目になると判断し、鹿児島の加治木の郷土館に寄贈するように勧めた。しかし、娘のミチさんが、唯一の父親の形見であると、郷土館への寄贈を反対した。それでも説得し続け、2年かけてようやく承諾を得た。同級生を通じて加治木町の郷土館に寄贈し、テレビや新聞が取り上げてくれ、地元では暫く話題となった。伊丹明と君子さんの結婚式の写真も郷土館に掲示されている。
直接会ったことが幸いし、その後バークレーには何度も通った。君子さんとはEmailのやり取りもし、伊丹明の所持品を全部預けてくれた。それは何れも貴重なものだった。 戦前の日系社会を知る手立ての資料集めは大変な思いをした。戦前は、毎年人物年間を発行しており、それを入手するため奔走した。当時は加州毎日と羅府新報が2大新聞社で、そこに投稿した人の家族を探した。2世や3世になると日本語も読めないので年鑑は不要物となっていた。寸でのところで入手したのは大きかった。
歳月を書けた原稿が脱稿されると、最初は日本の文芸春秋社に話を持って行った。原稿を読まないうちに、400部買い上げを要求された。今は本が売れない時代になり、大学教授が本を書いても売れなく、今はタレントが出すくだらない本で食いつないでいると言われた。昔は、学術書類は赤字覚悟の採算度外視で、世に残さなければいけないという使命感で作ったと言われた。だが、私の原稿を読む前にこの話をされたので、こちらから出版を断った。 すると知人から、原稿の中に出て来る人物は鹿児島出身の人が多く、鹿児島で出版したらどうか、とアドバイスを受けた。だが、地方で出版すると地方でしか売れないと思い躊躇した。しかし、南方新社がこの原稿を読み、これは世に残さなければいけない作品だと立ち上がってくれて、出版に至った。 最初のタイトルは「失われし祖国」だったが、出版社と何度もやり取りしながら、「天皇を救った男」に決定した。本の装丁も、御影石をモチーフに、と出版社が勧めた。 当初、原稿は通常の本の8冊分ぐらいになってしまった。本当はどこも削除したくなかったのだが、8冊分の本は誰も読んでくれないので、当然削除しなければならなかった。自分の足で書いた文章だけに、断腸の思いで削除した。だが、日本の編集者にはそれなりの思惑があり、編集の面でかなりのやり取りをした。1年かけて削除し、ようやく3冊分まで仕上げた。出版された「天皇を救った男」は、通常の本の3冊分ぐらいとなり、これを上・下段の配列にし、更に文字を小さくし、ようやく1冊の本で収まった。

本当は、この本の中でどうしても残したかった場面もあった。それは、戦争終結工作を進めながらも、日本政府・日本軍部の上層部の誤った判断でチャンスを逃した箇所であった。その確実だったルートは、中立国であるスイスのバーゼルにあった国際決済銀行に出向していた北村・吉村・ヤコブソンーダラスー加瀬・岡本工作で、米国政府からも日本の意向を聞くように伝えられていた。しかし、日本はソ連に講和を依頼しており、米国の確かなルートを渋っていた。もたもたしている間に、米国との直接の工作は時間切れとなった。このルートが成功しておれば、原爆投下もその後の日本本土への空爆も、更に東京裁判も違ったものになっていたことだとう。状況を分析できない者たちが統治する日本の悲劇であった。
最初ルースヴェルトはスターリンに、ヤルタ会談で日本に早期に参戦するよう持ち掛けていたが、スターリンはドイツを降参させたら2~3ヶ月で参戦すると約束した。日本を嫌っていたルーズヴェルトは、一刻も早く日本を「無条件降伏」に持ち込みたかった。ところが、5月12日に急死してしまい、日本の降伏を見ることは無かった。
その後を継いだのが、副大統領のトルーマンだった。トルーマンは大統領になった時、原爆の存在を知らなかった。それを知ったトルーマンは是非とも原爆を成功させ、自分の名声を高めることを目論んだ。7月16日に原爆実験が成功すると、ポツダム会談では途中からソ連の参戦を阻止しようとした。8月1日に原爆を落とす体制が出来上がるという情報を得たトルーマンは、ロシアに対し態度を急変させ、ロシアが参戦する前に原爆を落とすよう、国務長官のバーンズと画策した。更に、日本が降伏する前に原爆を投下し、ソ連に対して威嚇した。 伊丹明  北カリフォルニアサンフランシスコ近くのバークレーで生まれ、1歳半で日本の鹿児島県加治木町の、離婚して帰っていた伯母の元で育つ。幼少の頃から頭が良く、加治木中へ飛び級するなど、神童ぶりが目立つ子供だった。 しかし、陸軍士官学校と海軍兵学校を受けるが、両方とも落ちた。その理由は、痔に依り落とされたが、本人は痔が悪いとは思っていなかった。当時は痔の悪い者は入学出来ないのがその拒否の理由だった。出生地に「米国」と記入したことがその理由かと思った。進学を諦めていたが、大東文化学院(現:大東文化大学)に入学。当時は国策学校として開校し、入学すれば無料の学費に加えて、20円の給付金を貰えた。 そして、2年で大学を辞め米国に帰国。サンフランシスコの日系新聞に懸賞に応募し、注目を集めた。その後ロサンゼルスに移った明は、パサデナのコミュニティーカレッジに入学。しかし、大学を卒業しても日系人はどこにも就職出来ない現状がそこにはあった。UCLAを中退し、加州毎日新聞社に入社し奔走する。すると、記事がワシントンの日本大使館の斉藤大使の目に止まり、ワシントン働くことを勧められる。大使館の中では日系人ということから様々な障害にぶつかり、ロサンゼルスに戻り、加州毎日で再び働くようになった。 そして、戦争に突入。

マンザナの収容所の中では、日本人・帰米二世と日系二世との間で確執があった。そして、アメリカ側についた伊丹明は、同じ収容所の中でも双方の狭間に置かされ、立場が悪かった。しかし、ミネソタにあるキャンプ・サベッジのある陸軍日本語学校(MIS)のジョン・相磯から、日本語の教官にならないかと誘われた。南方戦線に於いて、日系の通訳兵士として育てることが目的であった。 当時、米国陸軍情報局は、日本からの通信を全て盗聴していた。それは日系兵士の手によって殆ど解読されていた。しかし、情報局が1つだけどうしてもわからない言語があった。東南アジア人を集め皆に聴かせたところ、どの国の言葉でもなかった。情報局が解析につとめたが解読できなかったものを伊丹明に聞かせたところ、何と使われていた言語は鹿児島弁で、東京の外務省とベルリンの日本大使館を繋ぐものだった。機密として使われた言葉は、伊丹明によって全て解読されることになった。 だが、その難解な言葉である鹿児島弁をしゃべっていたのは伊丹明の先輩で、アメリカへ帰国する時にもお世話になった先輩であった。その後、この解読行為が気になって仕方なかった。それはドイツから日本へ秘密兵器を送る件とノルマンディー上陸作戦に関するものであった。しかし、伊丹は米軍に所属していたので、内容を米軍に通告した。
君子さんが持っていた資料の中に、アメリカ陸軍が日系人の3人にしか与えていない、リージョン・メリット賞(米国人外でも米国のために貢献した人に贈られることがある)を伊丹は授与された。その記録と授与式の写真が残されており、伊丹の貢献が判明した。尚、太平洋戦場に赴いた日系兵士の活躍は1972年まで緘口令が敷かれ、表に出て来ることは無かったが、その点、ヨーロッパ戦線に赴いた第100大隊や442部隊の活躍はアメリカ全土に響き渡った。トルーマン大統領の前で、日系兵士による閲兵式も行った。
現在も生きている日系戦争体験兵士は、戦後に進駐軍として日本に行った人が殆どで、ヨーロッパ戦線や太平洋戦線の前線で従軍した兵士は、殆どが100歳以上になっており、鬼籍に入った人が多くなった。真実を語る人たちが居なくなった。 伊丹明の妻、君子さんは2011年に他界したが、伊丹明に関する資料を全て託してくれた。加えて、この本を執筆するにあたり、伊丹明と実際に関わった人から当時の話を聞き、資料も与えて戴いたことは大きかった。
君子さんも、山崎豊子氏の「二つの祖国」の中で、悪女扱いにされた時は山崎さんを憎んでいたが、晩年、伊丹明を世に出してくれたきっかけとなったのは、山崎さんのお陰だと心を許していた。 伊丹明は、12月24日に日本で自殺した。25日がクリスマスのため、葬儀は26日に行われたが、葬儀にはマッカーサー元帥も参列した。これは異例のことであった。 現在伊丹明の御霊は、ロサンゼルスのボイルハイツにあるカルバー墓地に眠っている。伊丹明の自殺の理由は本人しか判らないが、広田弘毅を救えなかったことや曽木先輩と妻君子を裏切ったことではなかろうかと憶測される。 私の本が昨年出版された時、山崎豊子さんに1冊送ろうと思っていた矢先に、山崎さんは他界されました。山崎さんは、私が持っている程の資料を持っていたとしたら、もっと凄い本を書かれたことであろうと思う次第でした。
私の上梓した「天皇を救った男」について講演しましたが、僅か一部しか紹介できなかったことが悔やまれました。442部隊で、唯一朝鮮人(当時)として日系兵士の中で活躍したキム大尉の話や、白洲次郎と「武相荘(ぶあいそう)で会談した場面も語りたかった。 尚、「天皇を救った男」に興味のある方で,本を購入されたい方は以下のところに連絡を戴ければ入手できます。 1冊が45ドル(Tax,送料込み)になります。   info@bigwavebook.com
或いは、鮫島スチィーブ:(818)243-4145
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