2014年12月「写真家:南川三治郎がレンズを通して見た伊勢神宮式年遷宮-日本の伝統美そして日本の心」講師:南川三治郎氏
日時:' 2014年12月10日(水)6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:南川三治郎氏
講演録担当:佐伯和代
講師略歴:
写真家/作家
1945年 三重県生まれ
1966年 東京写真学校(現・東京工芸大学)卒業
大宅壮一東京マスコミ塾・第一期出塾
1969-70年 フランス・パリ在住、ヨーロッパ各国を取材旅行
1970年 帰国、フリーランス・フォトグラファーとして現在に至る
公式サイト: http://www.s-minamikawa.com/
自己紹介:南川さんの公式サイトより抜粋
ヨーロッパの人と文化」に焦点をあて国内外の雑誌媒体を中心に発表。企画、撮影、執筆と一人でこなしミロ、ダリ、キリコ、シャガールといった20世紀後半のアートシーンを代表する巨匠たちとアトリエを撮影した「アトリエの巨匠・100人」(新潮社刊)やグレアム・グリーン、エド・マクベイン、フォーサイスといった欧米のミステリー作家と書斎を撮影した「推理作家の発想工房」(文藝春秋刊)は代表作
これまでに訪れた国は延べ30カ国、インタビューは500人以上にのぼる。後にビザンチン文化の残照を追った「イコンの道」は家庭画報誌上で一年間連載。世界遺産ヴェルサイユ宮殿の全貌を撮影した「Château de Versailles」はフランス人以外の外国人として初めて撮影許可が許される。いずれも銀座・和光ホールにおいて写真展を開催。
ここ数年は世界遺産に認定されたふたつの巡礼道、「熊野古道」とスペインの「カミーノ・デ・サンティアゴ」を撮影。「日・欧巡礼の道」展として写真展を開催。著書も多数
趣味は読書とワイン、世界各地の取材先で飲む地酒ワインとの出会が至福の楽しみとなっている。
写真展、著書、受賞の記録ついての詳細はウエッブサイトにてご覧いただけます。
http://www.s-minamikawa.com/
講演内容: 講演資料はここをクリックしてご覧頂けます: Media:M-Pictures.pdf
04) 日本のテーマを手がけ始めたのは熊野古道が初めてで、熊野古道を降りたところには五十鈴川が流れ、お木曵きの木橇が浮かんでいました。この写真を映したのがきっかけで、第62回神宮式年遷宮の写真を撮るプロジェクトがスタートしました。今から9年前のことです。
02) 万葉集に「神風の伊勢」と謡われた伊勢の国の象徴で、古くから日の出の名所として知られる二見町の夫婦岩。夏至の頃には岩の間から波間を照らして赤々と朝日が昇り、あたりは神々しい雰囲気に包まれるのです。夏至の日の朝には1年に一度だけ、二見の夫婦岩の間から朝陽が昇る時に撮影した写真。写真を撮るには、いかに腕が良くても、チャンスが巡ってこないとダメです。そして、それを取り込む技術が必要です。
伊勢の日の出。神宮を正面に見て左手にある山道を登ってゆきますと、神宮の裏鬼門にあたる金剛證寺が建つ朝熊山があり、その向こうに太平洋が広がります。 天照大神が天(空)から自分の住まいを探すために日本を見渡し、伊勢を選んだのだと言われていいます。ではなぜ伊勢のでしょうか。それは、衣・食・住が歩いて5時間程度、約30キロ以内に全てが揃った場所が伊勢であったから・・・と、伝えられます。森、川、海、田圃、生糸、麻など全てが揃ってあった場所が伊勢。このことから天照大神が伊勢にご降臨されたのだ・・・と語り継がれています。
05) 遷宮で正宮が建てられる予定の御敷地から、後ろに見えるのが正宮で、敷きつめられた白石の中央に御柱の覆屋がたたずみます。 内宮と外宮の違いは、屋根の上の鰹木の数が偶数が内宮、外宮は奇数です。 屋根に交差して上方に伸びている木を千木といい、その切れ角度で内宮(水平)外宮(垂直)がわかります。
6) 2008年、物忌の童女と権禰宜が中央と四隅に設けた5色の弊の前で、忌鎌を執って草刈り穿初めの儀・鎮地祭(内宮)をします.
07) 物忌の童女と権禰宜が中央と四隅に設けた5色の弊の前で、忌鎌を執って草刈り、穿初めの儀・鎮地祭(外宮)をします。
8) 2008年、神宮の入り口とも言える宇治橋も遷宮に先立ち20年に1度架け替えられます。その間に延べ1億人もの参拝者が渡る純和風の橋です。 太平洋戦争の影響で1949年以降は神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになりました。そしてその廃材となった古い鳥居や橋は解体され、他の地方の神社に再利用されます。 なぜ20年なのでしょうか・・・? 私の想像では、20年ごとのサイクルですと、神事も技術も語り継がれ容易に伝承していくであろうと・・・いうことなのでしょうか。
09) 宇治橋が完成すると、宇治橋の渡始式が執り行なわれます(2009年11月3日)。この日最初に渡る渡女には、3代女系家族の人が選ばれます。
10) 神話の世界で、日本の国は「豊葦原の瑞穂の国」と呼ばれています。水に恵まれ稲が立派に稔る国・・・という意味です。日本人にとってお米は単なる食料ではなく、神と人を繋ぐ大切なものといえるでしょう。神話では天照大御神が斎庭の稲穂を天孫にお授けになったことが記されています。
11) 抜穂祭。神田で神嘗祭に奉る御料米の御稲穂を抜くお祭りで、稲刈りは手で抜き取るもので、刃物は使用しません。
12) 御塩は大切なお供え物であるとともに、神宮ではお祓いをする際にも用いられています。夏の土用、五十鈴川の水と海水が交わる潮合にある御塩浜に水を入れて浜に撒き、高濃度の塩水を作り、それを御塩焼所で一昼夜煮詰めて荒塩を作ります。荒塩は毎年春秋の2度三角錐の土器に入れて竃で焼き固めた後、神宮に運んでお供えやお祓いに用いられます。
13) 毎年5 月と10 月に斎行される神御衣祭で、神様に衣替えの御料を皇大神宮と荒祭宮に供える神御衣は、三重県松坂市にある神服織機殿神社で和妙(絹布)を織る織子によって調製されます。
14) 2012年4月に伊勢神宮の臨時神宮祭主に就任された元皇族の黒田清子さまは白衣・緋袴・小袿といった平安の装束姿も初々しく、新緑の神御衣祭で初めての祭典奉仕に臨まれた。
15) 古くから鳥羽半島の国崎地区では神宮の神饌である“熨斗鰒”作りがおこなわれています。ここでは極上の鰒を使い、身取鰒や玉貫鰒など、現在も地元の人々の奉仕によって神饌の調製が行われているのです。
16) めでたい・・・古来。日本人は鯛をもって“祝い事”を司ってきました。お食い初めにはじまり、結納や結婚などのお祝いの席には必ず鯛を添えてことほいだのです。
「日本書紀」によると倭姫命一行が船で伊勢湾を御巡幸の途中篠島に立ち寄り、篠島周辺の豊かな鯛をご覧になり御贄所と定められたそうです。以来、島で採れた鯛を塩づけに調製し、神宮への奉納は今日まで固く守られてきました。現在は御幣鯛として毎年508 尾が神宮に奉納されています。 伊勢神宮では鯛は大切な海の幸とされ、神様が食召しあがる御弊鯛は三節祭と呼ばれる6月と10月の神嘗祭,12月の月次祭には伊勢湾に浮かぶ篠島から調進される干鯛が神饌としてお供えされるのです。
17) 朝御饌 毎朝、上御井神社より水を汲み、檜と山枇杷の火鑽具で忌火を起こし、神様の食事を調えます。
18) 年に2回、神楽祭が行われます。
19) 神々の御料品である豪華な衣服や調度類は、約2500点も平安時代の『儀式帳』の規定のままに、古代の文化と技術を現代に伝えており、当代の最高の美術工芸家により調製されています。(神宝制作 組物(唐組平緒)古沢康史)御神宝制作は公表はされていませんが、組紐、刀鍛冶などをはじめ、2500点以上もの御神宝を制作しているとされています。
20) 神宮には、皇室から牽進された神馬が飼育されています。神馬は、毎月、1日・11日・21日の三度、神職に伴われ、紫地に白く染め抜いた菊花紋章の馬衣を着け、真赤な手綱も鮮やかに大御前に見参します。また、毎朝、雨が降らないかぎり、内宮の山道を新馬見参をし、その姿は、気高く愛らしいものです。
21) 大麻暦奉製始祭で来年用の神宮大麻954万体の第1号に朱印を押す神職。神棚に祀られるお札のことを伊勢神宮では「神宮大麻」、あるいは「大麻」と呼び、頒布される神符のことを指し、その起源は平安時代まで遡ることができるとされています。
22) ドーン,ドーン,ドーン・・・大きな祭典の直前になると、神宮の杜には太鼓の音が響きわたります。これは報鼓と呼ばれる合図です。太鼓をたたくことで、神宮内の人々に、祭典の始まりを告げるのです。
23) ザクザクザク・・・傘をさしながら一糸も乱れることのない雨の日の参進。神宮の祭典は雨の日も風の日も中止になることはありません。神職の持つ傘は、歩いていても揺れることがなく、歩調も揃いざっ、ざっと砂利道を歩く音が快く響きます。
24) 神宮の森の木々の間から満天の星が輝く10月16日の夜、臨時祭主となられた黒田清子さまは、松明だけの光のなか、神嘗祭「由貴夕大御饌」をとどこうりなく奉仕されました。
25) 神宮の最も重要な祭りのひとつ、12月の深夜に斎行された月次祭「由貴夕大御饌」。
26) 皇大神宮別宮の由貴夕大御饌。時計の針は午前零時を回り、松明に照らされて、荒祭宮で神嘗祭由貴夕大御饌に奉仕する神職たち。
27) 涼やかな風が吹くなか、風日祈宮でおこなわれる風日祈宮祭。御幣、御蓑、御笠を奉じて、風雨の災害なく五穀の豊かな稔りと成長をお祈りします。5月と8月の年2回行われている。
28) 降りしきる雨のなか、傘をさして内宮で斎行される月次祭内宮奉弊のために参進する大宮司以下の神職たち。
29) 春季皇霊祭遥拝。宮中皇霊殿で皇祖皇宗をお祭りになるに際して、神宮で行われる遥拝式参列に向かう神職の行列。 行列の持つ傘は、歩いていても、揺れることがなく、歩調も揃い、ザ、ザ、ザーと砂利道を歩く音が木霊します。
30) 宇治橋を渡り参道を約10分(距離は2キロ程度)ほど歩くと、朝日に光る壱の鳥居があります。
31) 神嘗祭にあわせて、伊勢市民が街中を練り歩きながら新穀を奉納する初穂曵き。(外宮付近で)
32) 正宮遠望。神々が住まう国は、素朴な杜を覆いつくす常緑の森に囲まれています。森の中には総檜造りの社殿がたたずみ、神々が鎮まる。時おり聞こえるのは小鳥のさえずりや葉ずれの音。ここには悠久の二千年の時と繋がる空間があるのです。
33) 右:神宮林で美しい水を落とす“仙人の瀧”の上方に横たわる木は注連縄のようにも見えます。五十鈴川の源流は内宮の奥に広がる神路山と島路山に水源を発し、太古の昔から今も変わりなく清らかな水が湧き出て、年間を通して水が枯れることはありません。
左:神宮を守る御杣山。度重なる遷宮で、今は御用材はこの神宮の杜の木では出来ません。現在 は木曽から御用材を持ってきています。現在、空いた山林には植林を行っています。ヒノキだけでは強い木に育たないので他の種類の木を混ぜて植林を行います。遷宮は、千年先のことまで考えて行われているのです。木材、茅などはもちろん自給自足です。
34) 遷宮に使うための御用材、木材、茅などはすべて自給自足。将来の御用材を育てるため、毎年神宮林では植樹祭が行われます。遷宮は千年先のことまで考えて行われているのです。
35) 斎宮(斎王)は天皇が新たに即位するごとに、天照大御神の杖代わりとなって奉仕する御杖代として伊勢神宮に遣わされた未婚の内親王もしくは女王が、京から伊勢への途上、斎宮が桂川で御禊をしたという故事を再現したものです。(京都・渡月橋近くで)。
36) 長年の使用に耐えさせるために、木の節には別の木材で節穴を埋める宮大工。「寸法が1mmでも違えば組めなくなります。臍もどんなに強い雨風にも狂わないような、神宮独特の凹凸と傾斜を持った臍なのです」。
37) 立柱祭(内宮)。正殿の建築はじめに際し、屋船大神を祀り、御柱を奉る立柱祭で御柱の木口を木槌で打ち固め,新殿の安泰を祈る立柱祭(2012年3月4日)
38) 上棟祭(外宮)。上棟祭は2012年3月26日<内宮>、28日<外宮>で厳かに斎行された。建物の無事を祈って小工が「千歳棟」と叫び、続いて「万歳棟」、「曵曵億棟」と声があがり、小工は「オー」と答えて槌で棟木を打ち固めた。
39) 大祓。 大宮司以下、淨衣に身を固めた神職や楽師たちが、一糸乱れず大宮司から波が打ち寄せるように身を二つに折って地に平伏する大祓の所作はまさに圧巻だ。
40) お白石拾い。 鈴鹿山脈から伊勢に流れる宮川には白い石が流れてきます。新御敷地に敷きつめるため、神領民は手のひら大の白い石を川原で拾い集めます。
41) 川曵き。2013年7月26日伊勢市を流れる清流五十鈴川で、炎暑のなか川曵きがありました。木橇に乗せたお白石を、川を遡って内宮まで運ぶのです。清流を遡る川曵きは壮快!「エンヤー」のかけ声と木遣りの声が川面に威勢良く響きました。
42) 内宮お白石持ち行事。 全国から内宮お白石持ち行事の奉献に集まった特別神領民はじめ、全国の崇敬者が、炎暑のなか内院に入り御白石を納める人々の顔は晴れやかでした。20年に一度の機会。お白石は一人2個まで、両手で持ち、新しいお宮さんに入って、敷くことができる。この機会以外、一般人は入ることが絶対にできない。この時、ヒノキの香が漂い、とても清々しい儀式でした。
43) 外宮 新正殿 豊受大神をおまつりする豊受大神宮(外宮)は雄略天皇の22 年、内宮より500 年ほど後に鎮座した。豊受大御神は天照大御神の御饌都神、つまりお召し上がりになる大御饌(食物)つかさどる神、ひいては衣食住の守護神としてあがめられている。内宮とともに御正殿と呼ばれます。
44) 檜の香りも香ばしく、新しく建ちあがった外宮の新正殿。撮影できるのも20年に一度。
45) 内宮 新正殿神宮の装飾は素晴らしく、使われている金具は全て金が使われています。ですから20年たっても変色もしません。新しい宮殿と隣の神様がお住まいの宮殿と比べてもその素晴らしさがわかります。
46) 内宮 新正殿。建ちあがった新正殿越しに旧正殿を臨む。新しい宮殿と後ろに見える神様がお住まいの宮殿と比べてもその素晴らしさがわかる。
47) 内宮御正殿御階段。高欄には5 色の居玉が付けられている(右)。石には石理という部分があり、それを探りあげ、居玉になる石を見つけるのが石の職人。 御正殿の装飾は素晴らしく、確かめてはいませんが、使われている金具は全て金のようです。
48) 内宮 新正殿 伊勢神宮内宮で正式参拝をしたいとお願いすると、いくばくかの寄進が必要となります。そうすると、内宮の神苑のそばまで連れて行ってくれ、2礼2拍手をして神に祈ります。撮影は厳禁。内宮での滞在時間はほんの5分程度。しかし、とても心が洗われます。
50) 遷宮祭事、御装束神宝読合に参列するための参進。
51) 御船代奉納式に参列するための参進。
52) 杵築祭
杵築祭(内宮)にむかう祭列。遷御の儀を4日後に控えて、新しい正殿の柱の根元を築き固めるお祭り。
53) 杵築祭(饗善)外宮 神職をもてなすために、行われるのが饗善。この饗善は鮑や鯛などが添えられた豪華なもの。
54) 川原大祓(内宮)遷御の前日、五十鈴川の畔で新調された御装束、神宝と遷御に奉仕するすべての奉仕員を祓い清める儀式。今回の遷宮で80 年ぶりに漆塗りの辛櫃が復古しました。
55) 川原大祓(外宮) 外宮でも遷御の前日の夕刻、中ノ御池畔の川原祓所へ黒田臨時神宮祭主以下奉仕員が整列、川原大祓が麗々しく斎行されました。遷宮は1週間程度かけておこなわれますが、陶器や織物、貴金属類などの宝物を祓い清める行事が内宮も外宮もあり、川原大祓と呼ばれています。
56) 遷御(内宮)式年遷宮の中核をなす遷御。大御神に本宮から新宮にお遷りいただく御列は、2000 年前の神宮御鎮座の御列、または神代の高天原から豊葦原中津国への天孫降臨の御列を彷彿させるかのよう。 ご神体は天蓋(絹)の中、行列が新しい宮殿へと、しずしずと移動。この取材時、私の眼前には青白い稲妻が走り、ちょっと生暖かい風が吹いた・・・。と、私は感じました。 遷御が終わったあと、聞いたところによると、誰もが見えるものではないらしく、人により見えるものも違うとか。
57) 遷御(外宮)浄闇に囲まれた神域に「カケロー、カケロー、カケロー」の鶏鳴三声が響き、ご神体は神代さながらに新宮へと遷られました。 写真は40Mくらい離れた地点から撮影。撮影時は何が写っているか解らなかったのですが、 しかし、何かが写っているだろう・・・とシャッターを押していました。そして帰宅後、NIKONの専門家に来てもらい、潜像を読み出す作業をして小一時間、浮かびあがった画像が1枚あり、その写真には御神宝のお琴と神職の行列が写っていました。しかし、これも本当は写ってはいけないもので、公開もしてはいけない。見てはいけないものなのです。それだけ貴重なもの・・・と、言えるのではないでしょうか。
58) 奉幣 遷御のあと、お礼参りとして行われるのが「奉幣」。大宮司以下、玉串諸役の禰宜代までが太玉串を手に参進します。
59) 奉幣 遷御の明くる日の奉幣。長い裾をひきずり、陽光に輝く新殿に太玉串を手に参進するさまは、時代絵巻を見ているようだ(内宮奉幣)。 平安時代そのままの衣装を身につけて行う。一人3時間の着付けが必要となるほど。
60) 内宮雑感 遷御の儀から一夜明けた早朝の内宮では、朝の爽やかな風が神域を包み、参拝客の顔も心なしか弾んで見えた。
以上。
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:南川三治郎氏
講演録担当:佐伯和代
講師略歴:
写真家/作家
1945年 三重県生まれ
1966年 東京写真学校(現・東京工芸大学)卒業
大宅壮一東京マスコミ塾・第一期出塾
1969-70年 フランス・パリ在住、ヨーロッパ各国を取材旅行
1970年 帰国、フリーランス・フォトグラファーとして現在に至る
公式サイト: http://www.s-minamikawa.com/
自己紹介:南川さんの公式サイトより抜粋
ヨーロッパの人と文化」に焦点をあて国内外の雑誌媒体を中心に発表。企画、撮影、執筆と一人でこなしミロ、ダリ、キリコ、シャガールといった20世紀後半のアートシーンを代表する巨匠たちとアトリエを撮影した「アトリエの巨匠・100人」(新潮社刊)やグレアム・グリーン、エド・マクベイン、フォーサイスといった欧米のミステリー作家と書斎を撮影した「推理作家の発想工房」(文藝春秋刊)は代表作
これまでに訪れた国は延べ30カ国、インタビューは500人以上にのぼる。後にビザンチン文化の残照を追った「イコンの道」は家庭画報誌上で一年間連載。世界遺産ヴェルサイユ宮殿の全貌を撮影した「Château de Versailles」はフランス人以外の外国人として初めて撮影許可が許される。いずれも銀座・和光ホールにおいて写真展を開催。
ここ数年は世界遺産に認定されたふたつの巡礼道、「熊野古道」とスペインの「カミーノ・デ・サンティアゴ」を撮影。「日・欧巡礼の道」展として写真展を開催。著書も多数
趣味は読書とワイン、世界各地の取材先で飲む地酒ワインとの出会が至福の楽しみとなっている。
写真展、著書、受賞の記録ついての詳細はウエッブサイトにてご覧いただけます。
http://www.s-minamikawa.com/
講演内容: 講演資料はここをクリックしてご覧頂けます: Media:M-Pictures.pdf
04) 日本のテーマを手がけ始めたのは熊野古道が初めてで、熊野古道を降りたところには五十鈴川が流れ、お木曵きの木橇が浮かんでいました。この写真を映したのがきっかけで、第62回神宮式年遷宮の写真を撮るプロジェクトがスタートしました。今から9年前のことです。
02) 万葉集に「神風の伊勢」と謡われた伊勢の国の象徴で、古くから日の出の名所として知られる二見町の夫婦岩。夏至の頃には岩の間から波間を照らして赤々と朝日が昇り、あたりは神々しい雰囲気に包まれるのです。夏至の日の朝には1年に一度だけ、二見の夫婦岩の間から朝陽が昇る時に撮影した写真。写真を撮るには、いかに腕が良くても、チャンスが巡ってこないとダメです。そして、それを取り込む技術が必要です。
伊勢の日の出。神宮を正面に見て左手にある山道を登ってゆきますと、神宮の裏鬼門にあたる金剛證寺が建つ朝熊山があり、その向こうに太平洋が広がります。 天照大神が天(空)から自分の住まいを探すために日本を見渡し、伊勢を選んだのだと言われていいます。ではなぜ伊勢のでしょうか。それは、衣・食・住が歩いて5時間程度、約30キロ以内に全てが揃った場所が伊勢であったから・・・と、伝えられます。森、川、海、田圃、生糸、麻など全てが揃ってあった場所が伊勢。このことから天照大神が伊勢にご降臨されたのだ・・・と語り継がれています。
05) 遷宮で正宮が建てられる予定の御敷地から、後ろに見えるのが正宮で、敷きつめられた白石の中央に御柱の覆屋がたたずみます。 内宮と外宮の違いは、屋根の上の鰹木の数が偶数が内宮、外宮は奇数です。 屋根に交差して上方に伸びている木を千木といい、その切れ角度で内宮(水平)外宮(垂直)がわかります。
6) 2008年、物忌の童女と権禰宜が中央と四隅に設けた5色の弊の前で、忌鎌を執って草刈り穿初めの儀・鎮地祭(内宮)をします.
07) 物忌の童女と権禰宜が中央と四隅に設けた5色の弊の前で、忌鎌を執って草刈り、穿初めの儀・鎮地祭(外宮)をします。
8) 2008年、神宮の入り口とも言える宇治橋も遷宮に先立ち20年に1度架け替えられます。その間に延べ1億人もの参拝者が渡る純和風の橋です。 太平洋戦争の影響で1949年以降は神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになりました。そしてその廃材となった古い鳥居や橋は解体され、他の地方の神社に再利用されます。 なぜ20年なのでしょうか・・・? 私の想像では、20年ごとのサイクルですと、神事も技術も語り継がれ容易に伝承していくであろうと・・・いうことなのでしょうか。
09) 宇治橋が完成すると、宇治橋の渡始式が執り行なわれます(2009年11月3日)。この日最初に渡る渡女には、3代女系家族の人が選ばれます。
10) 神話の世界で、日本の国は「豊葦原の瑞穂の国」と呼ばれています。水に恵まれ稲が立派に稔る国・・・という意味です。日本人にとってお米は単なる食料ではなく、神と人を繋ぐ大切なものといえるでしょう。神話では天照大御神が斎庭の稲穂を天孫にお授けになったことが記されています。
11) 抜穂祭。神田で神嘗祭に奉る御料米の御稲穂を抜くお祭りで、稲刈りは手で抜き取るもので、刃物は使用しません。
12) 御塩は大切なお供え物であるとともに、神宮ではお祓いをする際にも用いられています。夏の土用、五十鈴川の水と海水が交わる潮合にある御塩浜に水を入れて浜に撒き、高濃度の塩水を作り、それを御塩焼所で一昼夜煮詰めて荒塩を作ります。荒塩は毎年春秋の2度三角錐の土器に入れて竃で焼き固めた後、神宮に運んでお供えやお祓いに用いられます。
13) 毎年5 月と10 月に斎行される神御衣祭で、神様に衣替えの御料を皇大神宮と荒祭宮に供える神御衣は、三重県松坂市にある神服織機殿神社で和妙(絹布)を織る織子によって調製されます。
14) 2012年4月に伊勢神宮の臨時神宮祭主に就任された元皇族の黒田清子さまは白衣・緋袴・小袿といった平安の装束姿も初々しく、新緑の神御衣祭で初めての祭典奉仕に臨まれた。
15) 古くから鳥羽半島の国崎地区では神宮の神饌である“熨斗鰒”作りがおこなわれています。ここでは極上の鰒を使い、身取鰒や玉貫鰒など、現在も地元の人々の奉仕によって神饌の調製が行われているのです。
16) めでたい・・・古来。日本人は鯛をもって“祝い事”を司ってきました。お食い初めにはじまり、結納や結婚などのお祝いの席には必ず鯛を添えてことほいだのです。
「日本書紀」によると倭姫命一行が船で伊勢湾を御巡幸の途中篠島に立ち寄り、篠島周辺の豊かな鯛をご覧になり御贄所と定められたそうです。以来、島で採れた鯛を塩づけに調製し、神宮への奉納は今日まで固く守られてきました。現在は御幣鯛として毎年508 尾が神宮に奉納されています。 伊勢神宮では鯛は大切な海の幸とされ、神様が食召しあがる御弊鯛は三節祭と呼ばれる6月と10月の神嘗祭,12月の月次祭には伊勢湾に浮かぶ篠島から調進される干鯛が神饌としてお供えされるのです。
17) 朝御饌 毎朝、上御井神社より水を汲み、檜と山枇杷の火鑽具で忌火を起こし、神様の食事を調えます。
18) 年に2回、神楽祭が行われます。
19) 神々の御料品である豪華な衣服や調度類は、約2500点も平安時代の『儀式帳』の規定のままに、古代の文化と技術を現代に伝えており、当代の最高の美術工芸家により調製されています。(神宝制作 組物(唐組平緒)古沢康史)御神宝制作は公表はされていませんが、組紐、刀鍛冶などをはじめ、2500点以上もの御神宝を制作しているとされています。
20) 神宮には、皇室から牽進された神馬が飼育されています。神馬は、毎月、1日・11日・21日の三度、神職に伴われ、紫地に白く染め抜いた菊花紋章の馬衣を着け、真赤な手綱も鮮やかに大御前に見参します。また、毎朝、雨が降らないかぎり、内宮の山道を新馬見参をし、その姿は、気高く愛らしいものです。
21) 大麻暦奉製始祭で来年用の神宮大麻954万体の第1号に朱印を押す神職。神棚に祀られるお札のことを伊勢神宮では「神宮大麻」、あるいは「大麻」と呼び、頒布される神符のことを指し、その起源は平安時代まで遡ることができるとされています。
22) ドーン,ドーン,ドーン・・・大きな祭典の直前になると、神宮の杜には太鼓の音が響きわたります。これは報鼓と呼ばれる合図です。太鼓をたたくことで、神宮内の人々に、祭典の始まりを告げるのです。
23) ザクザクザク・・・傘をさしながら一糸も乱れることのない雨の日の参進。神宮の祭典は雨の日も風の日も中止になることはありません。神職の持つ傘は、歩いていても揺れることがなく、歩調も揃いざっ、ざっと砂利道を歩く音が快く響きます。
24) 神宮の森の木々の間から満天の星が輝く10月16日の夜、臨時祭主となられた黒田清子さまは、松明だけの光のなか、神嘗祭「由貴夕大御饌」をとどこうりなく奉仕されました。
25) 神宮の最も重要な祭りのひとつ、12月の深夜に斎行された月次祭「由貴夕大御饌」。
26) 皇大神宮別宮の由貴夕大御饌。時計の針は午前零時を回り、松明に照らされて、荒祭宮で神嘗祭由貴夕大御饌に奉仕する神職たち。
27) 涼やかな風が吹くなか、風日祈宮でおこなわれる風日祈宮祭。御幣、御蓑、御笠を奉じて、風雨の災害なく五穀の豊かな稔りと成長をお祈りします。5月と8月の年2回行われている。
28) 降りしきる雨のなか、傘をさして内宮で斎行される月次祭内宮奉弊のために参進する大宮司以下の神職たち。
29) 春季皇霊祭遥拝。宮中皇霊殿で皇祖皇宗をお祭りになるに際して、神宮で行われる遥拝式参列に向かう神職の行列。 行列の持つ傘は、歩いていても、揺れることがなく、歩調も揃い、ザ、ザ、ザーと砂利道を歩く音が木霊します。
30) 宇治橋を渡り参道を約10分(距離は2キロ程度)ほど歩くと、朝日に光る壱の鳥居があります。
31) 神嘗祭にあわせて、伊勢市民が街中を練り歩きながら新穀を奉納する初穂曵き。(外宮付近で)
32) 正宮遠望。神々が住まう国は、素朴な杜を覆いつくす常緑の森に囲まれています。森の中には総檜造りの社殿がたたずみ、神々が鎮まる。時おり聞こえるのは小鳥のさえずりや葉ずれの音。ここには悠久の二千年の時と繋がる空間があるのです。
33) 右:神宮林で美しい水を落とす“仙人の瀧”の上方に横たわる木は注連縄のようにも見えます。五十鈴川の源流は内宮の奥に広がる神路山と島路山に水源を発し、太古の昔から今も変わりなく清らかな水が湧き出て、年間を通して水が枯れることはありません。
左:神宮を守る御杣山。度重なる遷宮で、今は御用材はこの神宮の杜の木では出来ません。現在 は木曽から御用材を持ってきています。現在、空いた山林には植林を行っています。ヒノキだけでは強い木に育たないので他の種類の木を混ぜて植林を行います。遷宮は、千年先のことまで考えて行われているのです。木材、茅などはもちろん自給自足です。
34) 遷宮に使うための御用材、木材、茅などはすべて自給自足。将来の御用材を育てるため、毎年神宮林では植樹祭が行われます。遷宮は千年先のことまで考えて行われているのです。
35) 斎宮(斎王)は天皇が新たに即位するごとに、天照大御神の杖代わりとなって奉仕する御杖代として伊勢神宮に遣わされた未婚の内親王もしくは女王が、京から伊勢への途上、斎宮が桂川で御禊をしたという故事を再現したものです。(京都・渡月橋近くで)。
36) 長年の使用に耐えさせるために、木の節には別の木材で節穴を埋める宮大工。「寸法が1mmでも違えば組めなくなります。臍もどんなに強い雨風にも狂わないような、神宮独特の凹凸と傾斜を持った臍なのです」。
37) 立柱祭(内宮)。正殿の建築はじめに際し、屋船大神を祀り、御柱を奉る立柱祭で御柱の木口を木槌で打ち固め,新殿の安泰を祈る立柱祭(2012年3月4日)
38) 上棟祭(外宮)。上棟祭は2012年3月26日<内宮>、28日<外宮>で厳かに斎行された。建物の無事を祈って小工が「千歳棟」と叫び、続いて「万歳棟」、「曵曵億棟」と声があがり、小工は「オー」と答えて槌で棟木を打ち固めた。
39) 大祓。 大宮司以下、淨衣に身を固めた神職や楽師たちが、一糸乱れず大宮司から波が打ち寄せるように身を二つに折って地に平伏する大祓の所作はまさに圧巻だ。
40) お白石拾い。 鈴鹿山脈から伊勢に流れる宮川には白い石が流れてきます。新御敷地に敷きつめるため、神領民は手のひら大の白い石を川原で拾い集めます。
41) 川曵き。2013年7月26日伊勢市を流れる清流五十鈴川で、炎暑のなか川曵きがありました。木橇に乗せたお白石を、川を遡って内宮まで運ぶのです。清流を遡る川曵きは壮快!「エンヤー」のかけ声と木遣りの声が川面に威勢良く響きました。
42) 内宮お白石持ち行事。 全国から内宮お白石持ち行事の奉献に集まった特別神領民はじめ、全国の崇敬者が、炎暑のなか内院に入り御白石を納める人々の顔は晴れやかでした。20年に一度の機会。お白石は一人2個まで、両手で持ち、新しいお宮さんに入って、敷くことができる。この機会以外、一般人は入ることが絶対にできない。この時、ヒノキの香が漂い、とても清々しい儀式でした。
43) 外宮 新正殿 豊受大神をおまつりする豊受大神宮(外宮)は雄略天皇の22 年、内宮より500 年ほど後に鎮座した。豊受大御神は天照大御神の御饌都神、つまりお召し上がりになる大御饌(食物)つかさどる神、ひいては衣食住の守護神としてあがめられている。内宮とともに御正殿と呼ばれます。
44) 檜の香りも香ばしく、新しく建ちあがった外宮の新正殿。撮影できるのも20年に一度。
45) 内宮 新正殿神宮の装飾は素晴らしく、使われている金具は全て金が使われています。ですから20年たっても変色もしません。新しい宮殿と隣の神様がお住まいの宮殿と比べてもその素晴らしさがわかります。
46) 内宮 新正殿。建ちあがった新正殿越しに旧正殿を臨む。新しい宮殿と後ろに見える神様がお住まいの宮殿と比べてもその素晴らしさがわかる。
47) 内宮御正殿御階段。高欄には5 色の居玉が付けられている(右)。石には石理という部分があり、それを探りあげ、居玉になる石を見つけるのが石の職人。 御正殿の装飾は素晴らしく、確かめてはいませんが、使われている金具は全て金のようです。
48) 内宮 新正殿 伊勢神宮内宮で正式参拝をしたいとお願いすると、いくばくかの寄進が必要となります。そうすると、内宮の神苑のそばまで連れて行ってくれ、2礼2拍手をして神に祈ります。撮影は厳禁。内宮での滞在時間はほんの5分程度。しかし、とても心が洗われます。
50) 遷宮祭事、御装束神宝読合に参列するための参進。
51) 御船代奉納式に参列するための参進。
52) 杵築祭
杵築祭(内宮)にむかう祭列。遷御の儀を4日後に控えて、新しい正殿の柱の根元を築き固めるお祭り。
53) 杵築祭(饗善)外宮 神職をもてなすために、行われるのが饗善。この饗善は鮑や鯛などが添えられた豪華なもの。
54) 川原大祓(内宮)遷御の前日、五十鈴川の畔で新調された御装束、神宝と遷御に奉仕するすべての奉仕員を祓い清める儀式。今回の遷宮で80 年ぶりに漆塗りの辛櫃が復古しました。
55) 川原大祓(外宮) 外宮でも遷御の前日の夕刻、中ノ御池畔の川原祓所へ黒田臨時神宮祭主以下奉仕員が整列、川原大祓が麗々しく斎行されました。遷宮は1週間程度かけておこなわれますが、陶器や織物、貴金属類などの宝物を祓い清める行事が内宮も外宮もあり、川原大祓と呼ばれています。
56) 遷御(内宮)式年遷宮の中核をなす遷御。大御神に本宮から新宮にお遷りいただく御列は、2000 年前の神宮御鎮座の御列、または神代の高天原から豊葦原中津国への天孫降臨の御列を彷彿させるかのよう。 ご神体は天蓋(絹)の中、行列が新しい宮殿へと、しずしずと移動。この取材時、私の眼前には青白い稲妻が走り、ちょっと生暖かい風が吹いた・・・。と、私は感じました。 遷御が終わったあと、聞いたところによると、誰もが見えるものではないらしく、人により見えるものも違うとか。
57) 遷御(外宮)浄闇に囲まれた神域に「カケロー、カケロー、カケロー」の鶏鳴三声が響き、ご神体は神代さながらに新宮へと遷られました。 写真は40Mくらい離れた地点から撮影。撮影時は何が写っているか解らなかったのですが、 しかし、何かが写っているだろう・・・とシャッターを押していました。そして帰宅後、NIKONの専門家に来てもらい、潜像を読み出す作業をして小一時間、浮かびあがった画像が1枚あり、その写真には御神宝のお琴と神職の行列が写っていました。しかし、これも本当は写ってはいけないもので、公開もしてはいけない。見てはいけないものなのです。それだけ貴重なもの・・・と、言えるのではないでしょうか。
58) 奉幣 遷御のあと、お礼参りとして行われるのが「奉幣」。大宮司以下、玉串諸役の禰宜代までが太玉串を手に参進します。
59) 奉幣 遷御の明くる日の奉幣。長い裾をひきずり、陽光に輝く新殿に太玉串を手に参進するさまは、時代絵巻を見ているようだ(内宮奉幣)。 平安時代そのままの衣装を身につけて行う。一人3時間の着付けが必要となるほど。
60) 内宮雑感 遷御の儀から一夜明けた早朝の内宮では、朝の爽やかな風が神域を包み、参拝客の顔も心なしか弾んで見えた。
以上。