思い出
Jun
13
娘はミッション系の中学に6月半ばに編入した。
インターナショナルのエレメンタリースクールの卒業が6月だったからだ。記憶は曖昧だが、6月の初め頃だったと思う。
なので、彼女は中1の1学期のほとんどをskipすることになった。
編入試験の際、そのような話も通していたので、受け入れ側の学校としては問題ないとしてくれた。あとは娘の頑張り次第。
娘は持ち前の明るさと負けん気の強さとで、彼女曰く「生まれて初めて落ちこぼれ感を味わった」にも関わらず、2学期を終える頃には他の生徒たちになんら引けをとらない成績をおさめるようになった。
すごいじゃない!と、手放しで喜んだけれど、そんなに頑張らなくても大丈夫だって!なんとでもなるって!と、常々言っていた。
彼女が「学校休みたい、、、」と言ってきたときには、「お〜全然OK! 学校なんてね、親が電話すれば全て解決なんだから、熱あるって電話するよ!」と言った。実際、そうするつもりだった。が、うちの娘はそういうところがわたしと違っていて(?)、「いや、行く」と言って学校に行った。そんな娘を見ながら、
休みたいときには休めば良いのに、と思った。
休んでいいんだよ、仕事じゃないんだし。と、思った。
休めるのは今のうち。いくらでも休め休め〜。いくらでも加勢するぜ!!と、本気で思った。
でも、彼女はそれを拒んだ。
うまく行かないもんだなーと思った。
わたしは小2と小3の頃に1度ずつ登校拒否をした。
理由はよく覚えていないが、きっと大した理由ではなかったのだろうけれど、学校に行きたくない、休む!と言って、登校拒否を決行したのだ。
が、母はそれを許さなかった。
病気でもないのに学校行かないなんて、そんなこと父ちゃんは絶対に許さないよ!と言っていた。
父はもう他界していて、一緒にいもしない父を出されても、わたしとしては は? だった。
とにかくごねろ!と思った。
ごねてごねてごねまくれ!
子供心にそう思ったのだ。
が、母は強かった。
強かった?のか?とにかく、許さなかった。頑として、許さなかった。
ごねるわたしの、泣きわめくわたしの、さめざめと泣くわたしの、腕をしっかと掴んで、おかまいなしに学校へと連れて行った。
小2のときに1度、小3になってまた1度。
2度、登校拒否が成功しなかったことで、わたしは学習したのだろう、小4以降、登校拒否をやめた。母には通用しない。子供心にわかったのだ。
だからだと思う。
わたしは心の奥底で、深いところで、いつか、もし、そういう場面に遭遇したら、学校なんて別に絶対的に必要なところではないんだから、行きたくなきゃ行かなくたっていいよ、と言いたかった。のだと思う。
だから、娘が「学校に行きたくない」と言ったとき、
行くな行くな!行く必要なし!
と、心から思った。
学校なんて、世界の一部。世界の全てではない。だからいい。行きたくなきゃ行かなくたっていい。
でもね〜。今になって思えば、あれは非常に無責任だったのかなーとも思う。結局、休むことにはならなかったのだけれど、親としてのあの態度は何?と、今になって思う。娘のためというより自分のためだったのかも?と、思う。
思うけど、あれで良かったのさ、とも思っている。
母のことを責めるつもりはない。
あれはあれでいい。
だから、自分のあの態度も、あれはあれで良いのだろう。
そういうことだ。
と、歳をとった今、開き直った感。
先週、職場の同僚とふざけていたら、
m, are you behaving yourself in Japan? Can you?
と言われた。
日本で行儀よくできるのか?といった意味だ。
いや、出来るよ。ってか、するよ!
と答える。そうじゃないと、娘にどつかれる。電車の中で、お店で、あらゆるところで、、、。
ちなみに同僚の言うところの「ふざけたわたし」というのは、まぁ色々。
冗談だったり、突然に踊ったり、歌ったり、そういう感じ?別に飛び抜けてひどいことをしているわけではない。念のため。
来週、うまく行けば2年ぶり以上に娘に会える。
わたしはあまり変わっていないが、彼女は随分と大人になっているっぽい。
お迎えの件で、何度かLINEで話しているのだが、「こっちに来てからのことはなんとでもなるから、心配しないで」と言われて、へなちょこ母は、感激。
2週間の自主隔離では、娘といろんな思い出話をしようと思う。
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