高速鉄道の可能性を求めて
Dec
3
戦後の輸送量は飛躍的に増加し、経済成長率は戦前の水準を越えたと思われ、昭和32年当時、輸送申込みの60%しか輸送できなかったと、国鉄線の記事では出てきますが、当時は他の輸送機関が殆ど発達しておらず、(飛行機も60人程度の定員で東京~福岡などは、特急1等運賃で東京~博多まで行くのとほぼ同じ金額(当時はあえて、航空運賃を高く設定すると言う政策的な部分がありました。)
利用者の多くは、鉄道に頼らざるを得ない状況でした。
そのような中、輸送力の拡大(特に東海道線)は喫緊の課題だったのです。
当時、国鉄本社の予測では、現在の経済成長が続く限り、東海道本線の輸送力は昭和39年頃には飽和状態に達するであろうと考えられていました。
その解決策として、東海道本線の全線複々線化による解決策を模索していました。
昭和21年当時にも戦前の弾丸列車の復活を提唱する意見もありましたが、新幹線の実現と言うのは夢のまた夢と思われていました。
そんな折、鉄道技術研究所【現在の鉄道総研】が昭和32(1957年年)5月30日に銀座山葉ホール「東京~大阪間3時間」の構想を発表した時は大変な反響がありました。
高速鉄道建設の話題は、新聞にも大々的に扱われたため、85%以上の人が知っていると答えたと言われています。
だた、本社としては、鉄道技術研究所が勝手なことをしたといって物議を醸したとも言われています。
当時、本社では鉄道技術研究所という組織は、あくまでも付属物であり、本社の命令で動いていればよい、そんな風潮がありました、しかし、東海道線改良の抜本的対策は新幹線しかないという信念を持って、かつその実現の推進に尽力したのが、十河信二国鉄総裁でした。
なお、十河総裁については改めてお話をしたいと思います。
ちなみに、国鉄当時の運転速度では、3時間10分運転であり、3時間ではないと言うご意見もあるかもしれません、当初の計画では、京都停車は想定していませんでした、ところが、世界的観光地である京都を通過させるのは問題があるという経営的判断から停車が決定したと言われています。
それにより当初は東京~大阪3時間運転の予定が、3時間10分に延長となりました。
京都通過の列車が誕生したのは、平成元年にデビューした「のぞみ1号」東京発の列車で、途中新横浜以外は全て通過と言う過激な?運転でしたが、その後は名古屋財界の猛反発もあり、現在の形になったのはご存知のとおりです。
参考 http://library.transport.or.jp/
画像は、昭和31年交通技術に掲載された「広軌幹線の構想」に掲載された、広軌高速鉄道建設要綱(案)になります。参照 交通技術昭和31年2月号
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