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四季織々〜景望綴

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 9

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
「桜の章」が明日で完結しますので、遅ればせながら主な登場人物の紹介をします。
   
    ◇◇◇登場人物紹介◇◇◇

◇榊原 祐里(さかきばら ゆうり)孤児・桜河家に世話になる
◆桜河 光祐(さくらかわ こうすけ)桜河家の長男

◆桜河 啓祐(さくらかわ けいすけ)桜河家の当主
◇桜河 薫子(さくらかわ かおるこ)桜河家の奥さま

◆桜河 優祐(さくらかわ ゆうすけ)光祐と祐里の長男
◇桜河 祐雫(さくらかわ ゆうな)光祐と祐里の長女

◇桜河 濤子(さくらかわ なみこ)桜河家の大奥さま

◇笹生 紫乃(ささき しの)桜河家の婆や
◆森尾  守(もりお まもる)奥さま専属運転手
◇森尾 あやめ(もりお あやめ)女中頭

◆鶴久 柾彦(つるく まさひこ)鶴久病院長男
◇鶴久 結子(つるく ゆうこ)柾彦の母

◇東野  萌(ひがしの もえ)光祐の従妹

◆榛  文彌(はしばみ ふみや)祐里の見合相手

◆遠野夫妻(とおの)桜河家執事夫妻
  
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 8

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
   遺言

 暖かな陽光を受けて、桜の蕾が膨らみかけた祐里十八歳の誕生日の午後だった。  
亡くなった桜河濤子さまの遺言書が、顧問弁護士によって旦那さまに届けられた。

【ユウリノ ケッコンアイテ キマル シキュウ カエラレタシ チチ】

旦那さまからの電報を受け取った光祐さまは、心臓が止まる思いがした。春の休暇で帰った時には縁談話はなかった筈なのに青天の霹靂の気分だった。取る物も取りあえず駅に行き、列車に飛び乗った。列車の中では祐里の結婚相手を暗中模索していた。帰る時刻を知らせていないにも拘らず、桜川の駅では森尾が車で待機していた。森尾も突然の光祐さまの帰省に固い表情をしていた。光祐さまは、父上さまの決意の固さを感じ、この最大の困難に思いを巡らし、これから起こる事に立ち向かい、今回も必ず祐里を守り抜こうと決心した。もしもの時は、自分の祐里への想いを正直に父上さまと母上さまに話して許しを請おうと思っていた。光祐さまは、車がお屋敷に到着するなり、奉公人たちが出迎える間もない速さで、ただいまも言わずに旦那さまの書斎へ駆け込んだ。
「光祐、お帰り。早かったね」
 旦那さまは、自分の考えが正しい事を確認して光祐さまを笑顔で迎えた。
「父上さま、祐里の結婚相手が決まったって、どういう事なのですか」
光祐さまは、肩で息をして早口で旦那さまを問い詰めながら、旦那さまが微笑んでいる姿に不思議な戸惑いを感じた。
「光祐、祐里のこととなると熱くなるようだが、まぁ落ち着きなさい」
 すぐに奥さまと祐里が何事かと書斎に入り、奉公人たちは遠巻きに様子を窺っていた。
「旦那さま、わたくしは何も聞いてございませんわ」
 奥さまは驚いて旦那さまに詰め寄った。祐里は、突然の結婚話に凍りついたように書斎の入り口に佇んでいた。
「さて、光祐も帰った事だし、薫子も祐里も今から大切な話をするから座りなさい」
光祐さまや奥さまの剣幕とは正反対に、旦那さまは、優しい笑みを浮かべて、ゆっくりとおばあさまの遺言書を机の引き出しから取り出して長椅子に腰かけた。奥さまは、旦那さまの隣に座り、光祐さまは、凍りついた祐里を優しく導いて向かい側に座った。
「先日の祐里の誕生日に元山弁護士より、おばあさまの遺言書を受け取った。光祐が都に戻ったばかりだったので、この連休まで待つことにしたのだがなんと待ち遠しかったことか。今から読み上げるが、これはおばあさまのお気持ちであり、光祐や祐里にその気持ちがなければ遂行しなくてもいいと初めに断っておく。ただ、私が打った電報でこのように早く帰って来たところを見ると光祐の気持ちは、おばあさまのお気持ち通りのようだね。さて、祐里は、後から私たちに遠慮せずに自分の気持ちを正直に言いなさい」
奥さまも光祐さまも祐里も訳が分からないまま神妙に頷いた。旦那さまは、それではと濤子さまの遺言書をゆっくりと開いて読み上げた。

         遺言書

  桜河濤子は、榊原祐里について、ここに遺言する。

一、榊原祐里が、満拾八歳になるまで存命し、他家へ嫁いでいない場合、
  両者の合意のもとで、桜河光祐との結婚を許可する。

    □□拾参年四月弐拾参日
                   □□□□□桜川一番地
                          桜河濤子 ㊞

もう一通の旦那さま宛の手紙には、理由が記されていた。

  啓祐殿
 母の本心を残します。いつの日か、啓祐の眼に触れることを望みます。
 祐里を連れて、桜川を散歩している途中で、旅の修行僧に出会いました。
 祐里を一目見るなり跪いて、このお方は、神さまの御子でございます。大切に育ててくださいませと、
祐里に手を合わせました。
光祐が気に入って不憫で引き取ったばかりの娘で、にわかには信じられませんでした。
しかし、祐里は、本当に神さまのような一緒にいると、幸せな気分にしてくれる娘でした。
将来、祐里を光祐の嫁にしたいと思いました。それ故、養女にしたいと申し出た啓祐に反対して、
光祐とは戸籍を別にする事にしました。将来、祐里を光祐の嫁にしたいと思いました。
それ故、養女にしたいと申し出た啓祐に反対して、光祐とは戸籍を別にする事にしました。
もし、桜河の家に縁があるとしたら、神さまの御子の祐里は、苦難を乗り越え、必ずや光祐の嫁に
なってくれると信じています。
 祐里が拾八歳になり、光祐と祐里がお互いに合意するのであれば、結婚を許可します。
もし、祐里がそれより前に他家に嫁いでいた場合や光祐が結婚をしていた場合は、この遺言はなかった
ものとし、弁護士に破棄を依頼しました。
即座に遺言書を開示しなかったのは、祐里の強運を試したかったのです。
当主である啓祐の意向を聞きもせずに、勝手な遺言書を残す母をお許しください。
 母は、いつまでも桜河の家が栄え、皆がしあわせに暮らせる事を望んでいます
 祐里の身分が何になりましょう。祐里の前では、そのような些細な事は、誰も問題にすることは出来ないと
思います。
どうか光祐と祐里が、桜河の未来を荷なって、しあわせでありますように祈るばかりです。
                                                濤子                    

旦那さまは、遺言書を読みながら、元山弁護士の突然の来訪を思い出していた。
「ようやく、啓祐さまに濤子さまの遺言書をお渡しする重責を果たす事ができまして安堵いたしました。これをお残しになられる時は、大層、祐里さまの行く末を案じられて、即座に開示すべきかどうか最後までお迷いでございました。濤子さまのご遺言通り、祐里さまは、強運の持ち主でございました」
 遺言書を読み終えて感慨に浸っている旦那さまに、元山弁護士は、大きく頷いて笑顔を見せた。
「元山弁護士、母は、このような遺言をしていたのですね。母の真意が分かり、こころが晴れました。ありがとうございました」
 旦那さまは、元山弁護士の両手を力強く握って満面の笑みを浮かべた。
 旦那さまは、濤子さまが断固として祐里を養女にする事を反対しながらも、孫の光祐さまと同じように可愛がっていた態度がずっと腑に落ちないでいたのだが、ようやくその真意を納得することができた。
 そして、自分も妻も何故祐里を手放す気になれなかったのか、すんなりと理解できた。祐里は、桜河家に縁を持ち合わせた娘だったのだ。 旦那さまは、光祐さまが帰るまで、奥さまにも祐里にもこの遺言書の件を伝えるのを我慢した。そして、光祐さまを驚かそうと、五月の連休前に電報を打ったのだった。

「どうだね、光祐。現在の気持ちを言ってみなさい」
遺言書を読み終えて、旦那さまは、満面の笑みを湛えて光祐さまに問いかけた。
「父上さま、驚かさないでください。電報の祐里の結婚相手って、ぼくだったのですね。ぼくは、結婚相手は祐里しかいないと子どもの頃から決心していました。父上さまは、いつも祐里は妹だとおっしゃっていましたが、大学を卒業して一人前になったら祐里と結婚したいと父上さまに申し上げるつもりでおりました。ぼくの妻は、祐里の他には考えられません。ぼくは、祐里と結婚して桜河の家を大切に守っていきます」
光祐さまは、祐里の手を取り、しっかりと旦那さまに返答した。一番驚いて、溢れんばかりのしあわせを感じているのは祐里だった。
「やはり、光祐は、祐里のことを想っていたのだね。灯台下暗しだったというわけだ。さて、今度は祐里の気持ちを正直に聞かせておくれ。私たちや光祐に遠慮しなくてもいいのだよ。他家に嫁ぎたければそれは祐里の自由だし、その時には、娘として立派な支度をするつもりだからね」
 旦那さまと奥さまは、期待を込めて身を乗り出して祐里を見つめた。祐里は、旦那さまと奥さまの勢いに背中を押されるようにして、俯きながらも秘めていた想いを語った。
「私には、もったいのうございます。おばあさまのご遺言にとても感謝いたします。私は、分不相応と思いながらも、ずっと光祐さまをお慕い申し上げて参りました。これからも、旦那さまと奥さまと桜河のお屋敷で暮らせると思うと嬉しいばかりでございます。本当に祐里でよろしゅうございますの」
 祐里は、真っすぐに光祐さまを見つめて、旦那さまと奥さまに視線を移した。
「もちろんだとも。私たちは、祐里しかいないと思っているのだよ」
 旦那さまは、満面の笑顔で頷いた。
「光祐さん、祐里さん、おめでとうございます。ここ数日の旦那さまのご機嫌なお顔の訳がようやく分かりましたわ。わたくしにも内緒にされてございましたのね」
奥さまも晴れやかな笑顔で、愛しい光祐さまと祐里のしあわせな姿に目を細めた。
「皆が喜ぶ顔を同時に見たかったからね。そうと決まれば、すぐにでも婚約披露をしなくてはなるまい。善は急げだから、婚約披露宴は明後日の大安に決まりだ。結婚は、光祐が大学を卒業して我が社に入ってからになるだろうが、薫子、準備をお願いするよ」
「はい、旦那さま。花婿、花嫁の両方のお支度でございますから楽しみでございます。桜河家に相応しい立派なお支度をいたしましょうね」
 奥さまは、瞳をきらきらと輝かせた。
「それから、祐里、今日からは私たちのことを遠慮せずに、父親、母親と思っておくれ。祐里は、桜河家の人間になったのだからね。さぁ、早速呼んでおくれ」
旦那さまと奥さまは、熱いまなざしで祐里を見つめた。
「父上さま。母上さま。祐里は、しあわせものでございます」
祐里は、二人の熱いまなざしに満面の笑顔で応えた。旦那さまと奥さまは、祐里を抱きしめた。祐里は、お屋敷にこれからも居られると思うと胸がいっぱいになり、旦那さまと奥さまに抱かれて、しあわせの涙を溢れさせた。光祐さまは、その様子を安堵して見つめていた。
しばらくして光祐さまと祐里が書斎を退室すると、旦那さまは、遺言書を机の引出しに仕舞って、奥さまに大きく頷いてみせた。
「私の心配は取り越し苦労だったようだ。光祐は、自分で最良の妻を見つけていたのだね。それにしても、祐里は、不思議な娘だ。母上が神の御子と信じていたように祐里の前では生まれや身分など問題にならなくなってしまう。薫子、桜河の家が笑いの種になったとしても私たちは満足だね」
 旦那さまは、奥さまの手を取った。
「誰も笑いはいたしませんわ。祐里さんは、どなたがご覧になられても立派な光祐さんのお相手でございますもの。旦那さまとわたくしが、どこに出しても恥ずかしくないように大切に育てて参りましたし、祐里さんの気品は持って生まれたものでございます。どちらの御嬢様にも比類のない限りでございますわ。榊原さんは、きっと神さまに縁の家の出でございましょう。祐里さんのお見合いから、光祐さんの気持ちは薄々感じておりました。わたくしとて、光祐さんの嫁には祐里さんをと思ってございましたもの」
 奥さまも満面の笑みで、旦那さまの手に両手を添えた。
「私も見合いをさせた後から急に祐里を嫁に出すのが惜しくなった。今思えば、祐里以外に光祐に似合いの娘はいない。祐里を手放さずに済んで本当にめでたし、めでたしだ」
「わたくしもほっといたしました。祐里さんは、ほんに側に居るだけでしあわせな気分にしてくれる娘でございますもの」
旦那さまと奥さまは、肩を寄せ合い、光祐さまと祐里の結婚に思いを馳せていた。

 光祐さまは、安堵した途端に午後から何も食べていないことを思い出して食堂に行き、紫乃の作った夕食を至福の気分で食べ終えた。祐里は、しあわせな微笑を湛えて、その光祐さまの安堵した様子を横で見つめていた。心配して台所で待機していた森尾夫婦と紫乃は、二人の吉報を聞いて嬉し涙で見守っていた。
「爺は、光祐坊ちゃまと祐里さまのおしあわせな御姿が何より嬉しゅう御座います」
 森尾夫婦は、手拭いで何度も目頭を拭った。
「明日は、ご婚約のお祝いに坊ちゃまの大好きな桜葉餅をお作りしましょうね。ご近所にもお届けしましょう。皆も坊ちゃまと祐里さまのご婚約を喜んでくださいますわ。婆やは、嬉しいばかりでございます」
 紫乃は、窓から見える桜の樹を見上げて言った。
「ご馳走さま。爺、あやめ、婆や、ありがとう。いろいろと心配をかけたけれど、皆が大好きな祐里をしあわせにするよ。これからも、ぼくに力を貸しておくれ」
 光祐さまは、森尾夫婦と紫乃に頭を下げた。
「光祐坊ちゃま、もったいないお言葉で御座います。私たちは、何時でも光祐坊ちゃまと祐里さまの味方で御座います」
 光祐さまと祐里は、改めて森尾夫婦と紫乃の深い愛情に胸がいっぱいになった。
「祐里、庭に出てみようよ」
「はい。光祐さま」
 五月の爽やかな風が若葉の香りを庭いっぱいに漂わせる明るい月夜だった。
「今年は、お庭の桜の樹に少しお花が残ってございますの。若葉色の葉と淡い桜色が綺麗でございます」
 祐里は、月の光に照らされた大好きな桜の樹を見上げた。
「桜の樹もおばあさまもぼくと祐里を祝福してくれているのだね。桜の樹、ありがとう。お陰で祐里をしあわせにできるよ」
 光祐さまは、桜の樹を見上げて手を合わせた。月の青い光が桜の花に反射して、そよ風と共にはらはらと舞い散る花弁の中に佇む祐里をますます美しく見せていた。
「光祐さまがお側に居ない時は、おばあさまの桜の樹がいつも私を励ましてくれました。桜さん、本当にありがとうございます。そして、光祐さまが力強く私をお守りくださいました。私は、光祐さまを信じて今日まで参りました。祐里は、夢のようにしあわせでございます」
「祐里、これからもずっとぼくの側にいておくれ」
「はい、光祐さま。祐里は、いつまでも光祐さまのお側に居とうございます」
桜の花弁が祐里の長い髪にとまり、光祐さまは、そっと祐里を抱き寄せてくちづけた。祐里は、光祐さまの力強い愛に包まれて溢れんばかりのしあわせを感じていた。
 天の月と優雅な桜の樹だけが、二人のくちづけを静かに祝福して見守っていた。光祐さまは、祐里との結婚が公になるまで、兄以上の行動に出ないように心に誓っていた。それほどまでに祐里のことを清らかに大切に想っていた。離れていても祐里のことを想うだけで、こころが安らいだ。それは、祐里も同じだった。

こうして、桜河家では、光祐さまが大学を卒業して会社の役員研修を無事終了した、光祐さま二十三歳、祐里二十一歳の桜の盛りに、盛大な結婚式・結婚披露宴が三日三晩続いて催された。お屋敷の樹齢三百年になる桜の樹が光祐さまと祐里の結婚を祝して、百年に一度咲くという紅白の見事な花を開花させた。その桜の樹の下の花婿・花嫁の絵にも描けない美しさは、春風に乗って都にまで伝わっていった。
 光祐さまは、祐里を愛しみ力強く守っていた。祐里は、光祐さまに寄り添って、桜の樹をお守りの如く毎日欠かさず大切にして過ごした。旦那さまと奥さまは、仲睦まじい光祐さまと祐里の姿に目を細めて見守っていた。
 
 翌年の春、これも桜の盛りに桜の樹とお屋敷の人々の祝福を受けて、無事に双子の優祐と祐雫が生まれた。輝かしい桜河家の未来を荷なった御子の誕生であった。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 7

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
   紅葉

 桜山が見事な紅葉の彩りを見せる頃、お屋敷の桜の樹が茜色に染まり、絢爛たる華やぎを辺り一面に披露していた。
 祐里は、毎日、桜の樹の下に赴いては、はらはらと舞い散る落ち葉に語りかけた。
「桜さん、綺麗な色でございますね。錦の反物を織っているようでございます。この反物は、祐里に似合いますでしょうか。光祐さまにご覧いただきとうございますね」
 黄色から茜色に染まった葉は、祐里の問いに応えて、陽射しを受けて舞い散り、祐里に錦の振り袖を纏わせていた。桜の樹は、愛しい祐里を自身の落ち葉で優しく包むことにしあわせを感じていた。祐里の足元には、艶やかな落ち葉が錦の絨毯のように広がっていた。
 祐里は、風に舞い散る落ち葉を庭箒で桜の樹の根元に掃き寄せた。この落ち葉は、お屋敷の土に返り、再び、桜の樹の養分となる。
「桜さん、落ち葉を光祐さまにお送りいたしましょうね」
 祐里は、一番綺麗な茜色の落ち葉を拾って手のひらで包み、光祐さまへの想いを込めて手紙に同封した。
 祐里の熱い想いは、茜色の葉に託されて光祐さまの住む都へ旅に出る。

 旦那さまが仕事が忙しい時に、月の半分近く滞在する都の桜河家別邸に光祐さまは、執事の遠野夫妻と暮らしていた。
 桜河家別邸は、旦那さまが奥さまと結婚して新居になる予定だったが、奥さまには都の空気が合わないと分かり、それ以来、別邸として使われていた。
 遠野は、桜河電機では、社長の右腕とも謳われ、旦那さまから絶大なる信頼を置かれていた。また、妻・寧々は、十三歳から都で生活するようになった光祐さまの母代わりでもあった。
「光祐坊ちゃま、お帰りなさいませ。祐里さまからお手紙が届いてございます。すぐにおやつをお持ちいたしましょうね」
 寧々は、玄関で奉公人たちと共に笑顔で光祐さまを迎え、書簡入れから封書を取り出すと手渡した。寧々は、光祐さまの養育を任されて以来、数回祐里とも会う機会があり、光祐さまが祐里を大切に想っていることをそれとなく感じていた。
「ただいま。寧々、ありがとう。おやつは、食べたくなったらぼくから声をかけるよ」
 待ちかねていた祐里からの手紙を受け取った光祐さまは、寧々や奉公人に普段通りに挨拶しつつも、逸るこころを抑えて自室へ足早に向かい、扉を閉めると同時に手紙を開封した。


 光祐さま

 お屋敷の桜の樹が艶やかな錦に染まりました。
 あまりに綺麗な茜色にございましたので、
光祐さまにご覧いただきとう存じましてお送りいたします。
 光祐さまは、いかがお過ごしでございましょうか。
祐里は、旦那さまと奥さまにご慈愛いただきまして、恙無く過ごしております。

 先日の雨上がりに桜山に虹の橋が掛かりました。
 桜山の錦秋があまりに綺麗でございましたので、
神さまが虹の橋を架けられて見物にいらしたかのような美しい眺めでございました。
 祐里は、時間も忘れて見惚れておりました。
 光祐さまとご一緒に眺めとうございました。

 少しずつ、寒くなって参りますので、お身体をご自愛くださいますようお祈り申し上げます。
 冬の休暇でお帰りになられる日を指折り数えてお待ち申し上げております。
                    かしこ
     十一月二十三日
  光祐さま       
                    祐里


 手紙から仄かに祐里の香りが立ち、気分が和らいだ。手紙に同封された茜色の落ち葉は、祐里の笑顔を写してこころを温かくした。光祐さまは、くるくると落ち葉を指で回してから部屋の窓辺の目に付く所に飾った。不思議なことに茜色の落ち葉を見ていると、お屋敷の自室のバルコニーで祐里と一緒に居る気分になれるのだった。茜色の落ち葉は、秋の陽射しを受けて祐里が微笑んでいるかのように感じられた。
「祐里、もうすぐ帰るよ」
「光祐さま、楽しみにお待ち申し上げます」
 光祐さまは、声に出して落ち葉に話しかけた。すると祐里の声が返ってきたように感じられた。

 祐里は、おばあさまの仏壇にも桜の落ち葉を供えた。
「おばあさま、大切な桜の樹が落ち葉の季節になりました。錦のように綺麗でございましょう。お供えいたしますので、どうぞご覧になられてくださいませ」
 祐里は、おばあさまの遺影に話しかけて手を合わせた。
(祐里、ありがとう。これからも桜の樹を大切にしておくれ)
 閉じた瞳の中でおばあさまの優しい笑顔が蘇っていた。

 祐里は、柾彦や女学校の同級生にも栞として桜の落ち葉を贈った。ひとひらの落ち葉は、贈られた人々を不思議としあわせな気分にさせていた。
 柾彦は、お気に入りの本に落ち葉を挟み、常時手元に置いて大切にした。

 光祐さまは、旦那さまのお供で度々晩餐会に参会した。また大学の友人達の邸宅に招かれて、数々の良家の令嬢とまみえて人気を博していたにもかかわらず、祐里以外の女性にこころを動かされる事はなかった。

 その後、旦那さまのもとには、数々の良家より祐里の見合い話が届けられたが、祐里の結婚は自由にさせる考えで断っていた。そして、今では祐里を我が娘のように思い(どれほどの良家であろうと簡単に嫁に出すものか)と考えていた。

 榛文彌は、転属先で酒宴の帰りに冬枯れの山で遭難し、人にも語れないほどの恐ろしい体験をして、桜林で倒れているところを捜索隊に発見されたらしいと巷に風の便りが流れた。
 その後は、長い年月、文彌の消息を耳にすることはなかった。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 6

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
   秋桜

 夏の陽射しが和らいで涼やかなそよ風が吹き抜ける頃になると、桜川の清流が秋空を映して青く澄み渡り、川原は一面薄紅色の秋桜で覆われる。
 祐里は、桜の季節の次にこの秋桜の頃が好きだった。ただ、光祐さまが都に行かれてからは少々淋しい秋桜の頃ではあった。光祐さまが小学生の頃は、毎年秋になると、桜川の川原で秋桜の冠を作って祐里の頭に載せてくださった。
 土曜日の午後に祐里は、澄み切った青空の下、お屋敷に飾る秋桜を桜川の川原に摘みに出た。可憐な秋桜がそよ風に靡くように揺れていた。和かな陽射しの中、祐里の周りには小鳥たちが飛び交って可愛い声で囀り、川のせせらぎでは小魚が集まって呟きかけるかのようにのどかに泳いでいた。
「姫。何をしているの」
 祐里が見上げた川沿いの土手の道には、柾彦が笑顔で立っていた。
「こんにちは、柾彦さま。とても綺麗でございますので、お屋敷に飾る秋桜を摘んでおりますの。柾彦さまは、お出かけでございますの」
 祐里は、摘んだ秋桜を柾彦に掲げて見せた。柾彦は、薄紅色の秋桜に囲まれた祐里を御伽噺に出てくる姫のように感じて見惚れていた。まるで祐里を取り囲んでいる秋桜が天女の羽衣のようであった。
「あまりに天気がよかったから、姫に会えるような気がして散歩に出てきたのだけれど、やっぱり会えたね」
 柾彦は、川原の坂を一気に駆け下りた。
「私も、あまりにお天気がよろしゅうございましたので、川原に来ましたの。秋桜がちょうど見頃でございます」
 祐里は、一人で見る秋桜よりも柾彦と一緒に見る秋桜を一層美しく感じていた。必ず、柾彦は、祐里が困った時や淋しい時に姿を見せてくれた。
「姫には、秋桜も似合うね。風に靡く秋桜の可憐な花のようでありながら、実はこの根のようにしっかりとした強さを兼ね備えている」
 柾彦は、可憐な花を抓んでから腰を屈めると秋桜の太い根元を指差した。
「まぁ、柾彦さま。私は、そのように強うはございません」
 祐里は、頬を赤らめた。柾彦は、儚げでありながら毅然とした祐里の真の強さを感じていた。自分は、祐里の守り人でありながら、それでいて祐里から守られ力を得ているように思われた。
「はい。姫は、か弱き姫でございます。姫には、小さな花束を贈りましょう」
 柾彦は、秋桜の花の細い茎を手折り、丸い小さな束にして祐里の前に差し出した。
「柾彦さま、可愛い花束でございますね。ありがとうございます」
 祐里は、満面の笑みで小さな花束を受け取った。力強く愛してくださる光祐さまを一途に慕いながらも、祐里は、優しく側で守ってくれる柾彦と一緒に過ごす時間を楽しく感じていた。
「お屋敷の花は、ぼくが持つよ。姫には、ぼくの作った花束がお似合いだから」
 柾彦は、祐里の摘んだ秋桜と鋏を受け取り、一抱えになるくらいの秋桜を摘み取った。祐里は、小さな花束を抱えて柾彦の仕事ぶりを微笑んで見つめていた。
「柾彦さま、お屋敷にお寄りくださいませ。奥さまはお留守でございますが紫乃さんの美味しいおやつをご一緒にいかがでございますか」
 祐里は、一所懸命に秋桜を摘む柾彦にお礼がしたくて、お屋敷に誘った。
「紫乃さんのおやつは、最高だものね。それでは、姫、お手をどうぞ」
 柾彦は、躊躇う祐里の手を取ってしあわせな気分で歩き出した。
川原を上って桜橋を渡ったところで、祐里は、柾彦から手を離した。
「柾彦さま、どうぞ、お先にお歩きくださいませ」
 祐里は、男子より一歩下がって歩くようにと躾を受けていた。
「姫、遠慮せずに並んで歩こうよ。姫は、桜河家の姫なのだから」
 柾彦は、立ち止まって祐里を振り返って促した。家並みの続く道で、柾彦は、元気よく「こんにちは。秋桜をどうぞ」と衆に挨拶をして秋桜を配った。祐里は、頬を赤らめて柾彦の横で衆に挨拶をした。
衆は、柾彦の堂々とした明るい振る舞いに好感を持ち、祐里とお似合いだと語り合った。
「ただいま帰りました」
 祐里が玄関の扉を開けると菊代が迎えた。
「祐里さま、お帰りなさいませ。柾彦さま、いらっしゃいませ。応接間にご案内いたします」
「菊代さん、こんにちは。どうぞぼくにお構いなく」
 柾彦は、台所に進んで、紫乃に元気よく挨拶をした。祐里は、菊代に微笑んで、柾彦の後ろから台所に向かった。
「紫乃さん、こんにちは。ご褒美のおやつをいただきに、姫を川原から送って来ました。これは、おみやげの秋桜です」
 柾彦は、台所の紫乃に秋桜を手渡すと椅子に腰掛けた。
「柾彦さま、いらっしゃいませ。綺麗な秋桜でございますね。ありがとうございます。柾彦さまは、お客さまでございますので応接間へどうぞお越しくださいませ。すぐにおやつをお持ちいたします」
 紫乃は、秋桜を受け取ると、慌てて柾彦に返事をした。
「ぼくは、ここでいただきます。奥さまは留守のようですし、ここで紫乃さんと一緒のほうが気楽ですので」 
 柾彦は、屈託のない笑顔を紫乃に向けた。
「紫乃さんもご一緒にいただきましょう」
 祐里は、困った顔の紫乃に微笑みかけた。紫乃は、諦めて秋桜を桶に入れると、蒸かしたての栗甘露入りの蒸しパンと抹茶の膳を柾彦の前に置いた。
「柾彦さまは、坊ちゃまの弟さまのようでございますね。何時も、祐里さまに優しくしてくださいまして、紫乃からもお礼を申し上げます。ありがとうございます。お代わりもございますので沢山お召し上がりくださいませ」
 紫乃は、柾彦に深々とお辞儀をした。
「お礼なんて恥ずかしいです。秋桜を運ぶのを口実にして、紫乃さんのおやつをいただきたくてついて来ただけですよ。では、いただきます」
 柾彦は、立ち上がって恐縮した顔を見せ、目前の膳に手を合わせた。紫乃は、にっこり微笑んで祐里と自分の膳を並べると、柾彦と祐里の楽しい会話に耳を傾けた。
 夕方になり、祐里は、桜橋まで柾彦を送って出た。ちょうど、夕日が傾きかけて、桜川に沿った秋桜の帯を茜色に染め始めていた。
「柾彦さま、夕日に染まる秋桜が綺麗でございますね」
 祐里は、茜色に染まる柾彦の顔を見上げた。
「本当に楽しい午後だったね。締めくくりにこのように綺麗な夕日を姫と一緒に見られたし、最高の日でしたよ」
 柾彦は、秋桜を背景に茜色に染まる祐里の美しさに見惚れていた。祐里を愛したい衝動に駆られながらも、守り人として祐里と共に過ごせる喜びを噛み締めていた。一途に光祐さまを慕っている祐里に横恋慕して、このしあわせな時間を崩してしまいたくはなかった。そして、何よりも祐里を悲しませることだけは謹みたかった。
「私もこのように綺麗な景色を柾彦さまとご一緒に拝見できまして、嬉しゅうございます。柾彦さま、本日は楽しいひとときをありがとうございました」
 しばらくの間、柾彦と祐里は、言葉を忘れて茜色に染まる秋桜を寄り添うように並んで見つめていた。茜色の和らかな時間が祐里のこころを柾彦に傾かせていた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 5

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
   守り人

光祐さまが都に戻り、祐里は、女学校への入学準備で慌しい日々を過ごしていた。文彌からは、執拗なまでに恋文が届けられた。心配する旦那さまと奥さまの厚意で、祐里は、森尾の車で女学校に通学することになった。
 入学して一月経った女学校の帰りに、祐里は、図書館へ立ち寄った。窓の外では遅咲きの桜の花弁が陽射しの中で舞っていた。探していた本に背伸びしてやっと手が届いた祐里の背後から、星稜高等学校の制服姿の男子がすっと本を取って渡してくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 祐里は、長身の男子を見上げてお辞儀した。
「難しい本を読むんだね」
 優しい視線が注がれた。
「先生が薦めてくださった本でございますの」
 祐里は、光祐さまの他に優しく話しかけてくる男子に出会ったことがなく、心臓がドキドキする不思議な気分を感じながらお辞儀をして、貸出受付に向かった。

 白百合女学院の並びには、星稜高等学校が在り、春の花咲く学園通りは、行き交う男子学生と女子学生で賑やかだった。
「萌、毎日、声をかけられて困ってしまう」
萌は、取り巻きの級友に毎朝声をかけられた人数を自慢するのが楽しみだった。女学校の制服も萌の生地は舶来物で仕立てがよく、一目瞭然で良家のお嬢さまと誰もが認めた。
「萌さまは、可愛くていらっしゃるから」
祐里も級友たちも声を揃えて相槌を打った。
「祐里さまは、桜河のお嬢さまだから、みなさん、遠慮されて声をおかけになれないのでございますわ。それに虫が付かないようにお抱え運転手付きでございますし。今度の土曜日の昼食会に祐里さまもご一緒しましょう。杏子さまのお家の銀杏亭をお借りして、星稜の方々と盛大にいたしますの。萌からも薫子叔母さまにお願いいたしますから」
 萌は、学校が終わるといつもすぐに帰ってしまう祐里を昼食会に誘いたくて、林杏子に目配せした。萌は、幼馴染の久世春翔と共に昼食会を企画していた。
「そういたしましょう。萌さまと祐里さまがお揃いになれば、杏子の家の銀杏亭も三ツ星レストランに格上げですもの」
 杏子は、萌の気持ちを察して祐里を誘った。勿論杏子も昼食会の企画に加わっていた。
「それでは、ご一緒させていただきます」
女学校の級友たちは、祐里が『榊原祐里』と名乗っても、違和感なく桜河のお嬢さまとして接してくれていた。

土曜日の放課後の銀杏亭は、制服姿の男子学生と女子学生で賑わっていた。
「また、会えたね。鶴久柾彦です。どうぞ、よろしく」
先日の図書館で出会った方だった。優しい微笑を湛えて祐里を見つめていた。
「先日は、ありがとうございました。榊原祐里と申します」
 図書館では、ドキドキしてきちんとしたお礼の言葉も言えなかったが、今日は級友たちと一緒で心強く、祐里は、落ち着いて挨拶ができた。
「柾彦さま、祐里さまとお知り合いでいらしたの」
杏子が話に割りこんできた。
「先日、図書館で会ったばかりだよね」
柾彦が、祐里に相槌を求めた。
「ええ、鶴久さまに高い書架から本をお取りいただいて」
「まぁ、祐里さま、ご縁ですわね。柾彦さまは、鶴久病院の御曹司でなかなか昼食会にお誘いしても来てくださらないのよ。柾彦さまはお目が高い。祐里さまは、昼食会に初登場の桜河家のお嬢さまですの」
杏子は、二人を仲人のように紹介すると次の席へ移って行った。
「杏子は、小さな時からお調子者だから気にしなくていいよ。噂の姫に早速会えて光栄だな」
 柾彦は、女子学生との昼食会には興味がなく誘われても断っていたが、今回は幼馴染の杏子から「桜河のお屋敷の祐里さまをお誘いしたのよ」と聞いて、参加する事にしたのだった。柾彦は、自己主張ばかりの鼻持ちならないお嬢さま方が苦手だった。初めて見かけた図書館といい、今日といい、祐里は、控えめで可憐であった。
「何か悪い噂になってございますの」
 祐里は、心配顔で柾彦を見つめた。柾彦は、そんな祐里が可愛く思えた。
「我が校では、車窓の美女で有名だよ。送迎の守りが固くて誰も姫に声をかける事が出来ないって」
 柾彦は、大袈裟な身振りを交えて話した。
「まぁ。私は、そのような御伽噺のお姫さまではございません」
 祐里は、慌てて否定すると恥ずかしげに俯いた。
「その証拠に、ほら、何人も姫に視線が釘づけですよ」
祐里は、柾彦に促される形で周囲を見回し、それぞれの視線に穏やかな会釈を返した。
「姫は、不思議なひとだね。初めて話すのに以前からの知り合いのように安心する。一緒にいるだけでしあわせな気分になるよ。ぼく的には、姫を解剖して分析してみたい」
 柾彦は、大袈裟に顕微鏡を覗く格好をしてみせた。
「お医者さま的なお考えでございますのね。心の中まで見透かされているようで恥ずかしゅうございます」
 祐里は、恥ずかしげに制服の上から胸を押さえて隠した。そのしぐさに柾彦は、ますます好感を持った。祐里の席には、次々に洋菓子と飲み物が自己紹介と共に届けられた。祐里は、にっこり笑って御礼の言葉を返した。柾彦は、祐里の横にいて、他の男子学生との会話をより楽しくさせてくれていた。祐里は、少しずつ柾彦に打ち解けていった。
 銀杏亭の柱時計が午後三時を打った。
「鶴久さま、迎えの車が参ります。本日は、お相手をしていただいてとても楽しく過ごさせていただきました。ありがとうございました」
 祐里は、柾彦に丁寧にお辞儀をして立ち上がった。
「また、会えるよね」
 柾彦は、立ち上がり、出入り口の扉まで祐里を送った。
「ご縁がございましたら、またお目にかかりとう存じます」
 祐里は、柾彦を見つめてにっこり微笑んだ。柾彦は、祐里の笑顔に見惚れていた。
 森尾の車が銀杏亭の前に停まり、祐里は、杏子と萌に別れの挨拶をして外に出た。
「祐里さま、柾彦さまを独占でしたわね」
 杏子が祐里の耳元で囃し立て、萌は、幼馴染みの久世春翔と一緒に祐里に手を振った。

柾彦との縁はすぐに訪れた。旦那さまのお供で行った美術館で、取引先の方と偶然に会った旦那さまが談話室で仕事の話をしている間、祐里は、気を利かせて中庭の散策をしていた。
 大きな庭石の前で柾彦が笑顔を向けていた。
「姫、また会えたね。こんな所で会えるなんて、やはり縁があるんだね」
 柾彦は、『縁』を強調した。
「まぁ、鶴久さま。こんにちは。奇遇でございますね」
 祐里は、偶然の再会に驚きながら、笑顔でお辞儀した。
「柾彦でいいですよ。制服の姫も美しいけれど、今日のワンピースもとてもよく似合って眩しいくらいです」
 祐里の白いレースのワンピースが、五月の新緑を背景に陽射しを浴びて輝いていた。首元には、光祐さまから贈られた桜の花の首飾りが揺れていた。
「お褒めいただきましてありがとうございます。柾彦さまは、おひとりでございますか」
 祐里が話すたびに長い黒髪が風に揺れ、陽射しにきらきらと輝いて、柾彦の視線を釘付けにしていた。
「母のお供で、少々退屈していた時に、姫をみかけて中庭に出てきたところだけれど、姫は、誰と来ているの」
 柾彦は、周りを覗った。
「柾彦さま、私は、姫ではございません。旦那さまのお供でございます。只今お取引先の方とお話をなさっていらっしゃいますの」
「桜河家ともなると、父上のことを旦那さまって呼ぶのだね」
 祐里は、返事に窮して質問には答えずに話題を変えた。
「お母さまは、おひとりで大丈夫でございますの」
「お話好きの伯母と一緒だから大丈夫だよ。桜河の旦那さまに挨拶しておこうかな。鶴久病院とのお近づきもお願いしたいし」
 祐里は、旦那さまに柾彦をどのように紹介すべきなのか思いあぐねて困惑した。
「柾彦さま、突然困ります」
「姫は、困った顔も可愛いね。冗談だから機嫌を直して」
 柾彦は、しばらく祐里の困惑した表情を眺めて(なんて美しい瞳なのだろう)とこころをときめかせながら快活に笑った。
「柾彦さまは、意地悪でございますのね」
 祐里も柾彦の笑顔につられて一緒に笑っていた。祐里は、柾彦の明朗快闊な性格がとても新鮮に思え、一緒にいることを楽しく感じていた。いままで、桜河の名が他の男子と祐里の間に壁を作っていたこともあり、男子とは親しく話をしたことがなかった。それに祐里がひたすらに光祐さまだけを見つめて過ごしてきたことも事実だった。
「そろそろ、旦那さまの元に戻ります。柾彦さま、お声をおかけくださいましてありがとうございました。ごめんくださいませ」
 祐里は、柾彦の聡明な瞳を見上げてお辞儀した。
「また会える日を楽しみにしておくよ」
 柾彦は、館内に消えていく祐里の姿を眩しそうに見つめて、儚げな桜の花弁の様でもあり、可憐な白い百合の様でもある祐里をますます可愛く思った。
しばらくして、柾彦は、立派な風格のある旦那さまと祐里が一緒に絵画を見ている姿を遠くから見つめた。旦那さまは、祐里をゆったりとした微笑で包み込み、目の中に入れても痛くないといった様子を見せていた。それに応えて、祐里もしあわせ溢れる笑みを返していた。柾彦は、噂に聞くと本当の娘ではないらしい祐里が旦那さまに大切にされているのが分かり、何故だか嬉しかった。
「綺麗な方でございますわね。桜河のお嬢さまでしょう」
気が付くと柾彦の後ろに意味ありげな笑みを浮かべて母の結子が立っていた。
「母上、いつの間に」
 どきっとして、柾彦は、振り返った。
「柾彦さんが見惚れていたから、しばらくそっとしておいたの。恋愛に堅物の柾彦さんでも恋する年頃なのね。あれほどのお嬢さまなら恋をしないほうが無理でしょうけれど。伯母さまに知れたら大騒ぎになってよ。お気をつけあそばせ」
「そのようなことではありません。図書館で棚から本を取って差し上げただけですよ」
柾彦は、慌てて結子に返答した。
「さようでございますか。鶴久病院も家柄としては申し分ありませんけれど、桜河のお嬢さまをお迎えするには恐れ多くて自信がございませんわ。でも、桜河さまとお近づきになれたら、病院の格も上がり大きくできますわね。我が家には何時連れていらっしゃるの」
 結子は、柾彦をからかうように話した。
「だから、そのようなことではありません。先日の昼食会で少しお話しただけです」
 柾彦は、否定するつもりが口を滑らせて祐里との縁を語って赤面した。
「まぁ、いつもは昼食会なんて時間の無駄だとおっしゃって出たことがなかったのに・・・・・・初恋は人を変えるものなのね。あのように綺麗な方に看病していただけたら病気なんて、すぐに治りそう。鶴久病院は、名病院と評判になりますわ」
「母上、ぼくは、今でも堅物ですよ。さぁ、そのような絵空事よりも、伯母さまがあちらでお呼びですよ」
 柾彦は、もう一度、祐里の姿を見つめ、結子の口を塞いで急き立てるように伯母の側に歩いていった。結子は、柾彦の微笑ましい恋心を喜んでいた。

梅雨の晴れ間の真珠晩餐会に、祐里は、奥さまに連れられて参会した。祐里の白絹のワンピースの首元に桜色の真珠の首飾りが可憐に輝いていた。この首飾りは、代々桜河家の女主人に伝わる家宝の品で、今宵の晩餐会のために奥さまが特別に祐里に貸し与えたものだった。桜色の真珠の首飾りは、祐里の白い肌に反射して華やいだ美しさをもたらせていた。祐里は、奥さまの横で参会の奥様方に挨拶をしてまわり、風に当たりたくなってテラスへ出た。下弦の薄暗い月夜で梅雨特有の生暖かい湿気を帯びた空気が辺りを取り巻いていた。大広間では、ちょうど管弦楽の演奏が始まった。
「やっと再会できたね。この日が来るのを首を長くして待っていたよ」
榛文彌が葡萄酒の杯を片手に大蛇のような視線で見据え、祐里の前に立ちはだかった。
「少し見ない間に一段と綺麗になったね。恋文の返事をもらっていないけれど、今度会う時は、全てを僕のものにする約束を覚えているよね」
 祐里は、平静を装って文彌の脇をすり抜けるつもりが、文彌から腕を掴まれて、首を横に振りながらテラスの後方に後退った。文彌は、不敵な笑みを浮かべ葡萄酒の杯を円卓の上に置くと、後退る祐里の細い両肩を強引に掴んで回り込み、人の目の届かないテラスの大きな柱の後ろに押しつけた。そして、祐里のワンピースの襟元に手を滑らせて胸を鷲掴みにし、柔らかな首筋を伝ってくちづけを迫った。
「君は、遂に僕のものだ」
 人々の集う晩餐会で、文彌と二人きりになるとは思いもよらず安心しきっていた祐里は、大蛇に睨まれた獲物のように身動きが取れずに(光祐さま・・・)とこころの中で助けを求めて震えていた。
「姫」
 寸前のところに柾彦が割って入ってきた。
「柾彦さま」
 驚いて腕の力を抜いた文彌の隙をついて、祐里は、柾彦に駆け寄りその背中に隠れた。
「誰、このひと」
 柾彦は、文彌の顔を睨み付けた。
「お前こそ、誰なんだ」
 文彌は、掴みかからん勢いで、円卓の上の葡萄酒の杯を掴むと柾彦に投げつけた。柾彦は、祐里を庇いながら上手に葡萄酒の杯をかわした。紅色の滴と共に後方で硝子の砕け散る音が管弦楽の演奏に共鳴した。
「ぼくは、姫の守り人です。このような公の場で、礼儀知らずの野獣から姫を守るのがぼくの務め。姫、もう大丈夫です」
 怯むことなく柾彦は、文彌の前に立ちはだかった。背中に寄り添う祐里の柔らかな肌を感じ、勇気が漲っていた。
「へぇー、光祐坊ちゃんだけじゃなく、他にも男がいたとはね。おとなしい顔をして男を手玉に取るのが上手だな。そいつにも、もう抱かれたのか。そうやって、桜河の旦那さんにも取り入ったのだろう」
 文彌は、待ち焦がれていた祐里との愛撫の時間を初対面の柾彦に阻まれ、祐里に罵声を浴びせた。
「榛様、柾彦さまに失礼でございます。お話は、旦那さまがお断り申し上げた筈でございます。このような事をなされては、御家の恥ではございませんの」
 祐里は、柾彦の背後で安心して気を取りなおすと、毅然とした態度で言い返した。
「身分違いの君に恥などと言われたくないね。黙って僕の女になればいいものを」
 文彌は、血相を変えて、柾彦に掴みかからん勢いだった。
「姫を侮辱する失礼な野獣など相手にしないで、さぁ、姫、大広間に戻りましょう」
柾彦は、文彌を無視して祐里を促した。このままだと文彌に殴りかかってしまいそうだった。(確か鶴久病院は、榛銀行から融資を受けていた筈だった。更に学生の身で大人の文彌と騒ぎを起こしては、鶴久病院の名を汚すことになる)と、瞬時に頭の中で思い巡らせている自分に気付き、柾彦は、悲しかった。
 テラスにひとり残された文彌は、地団駄を踏み(必ず僕の女にしてやる)と祐里の胸の柔らかい感触の残った手を握り締めて、首筋の甘い香りを思い出しながら、祐里への恋情ゆえの憎悪を募らせていた。
「ありがとうございます。柾彦さまがいらしてくださって助かりました。申し訳ございません。お洋服に葡萄酒がかかってしまいました」
 祐里は、レースの白いハンカチを取り出して、柾彦の肩口に飛び散った葡萄酒の滴を拭き取った。祐里の白いハンカチは、深紅の葡萄酒が沁み込んで紅く染まり、それはまるで祐里のこころの傷口から零れた鮮血のようで痛々しかった。柾彦は、祐里が小さく震えているのを気遣って、ハンカチを持つ祐里の手を取ると少しおどけて言った。
「ありがとう、姫。先程、姫に気づいて声をかけようと思ったら、なんだか野獣が姫を追いかけていて、守り人のぼくは疾風の如くかけつけた訳です。野獣を退治できなかったのは残念でしたが、姫のお命はお守りできました」
 柾彦は、祐里に怖い思いをさせる前に間に合いたかったと悔やんでいた。
「柾彦さまったら、また、御伽噺になってしまいますわ」
 祐里は、柾彦の優しさに包まれてすっかり機嫌を直して笑顔になっていた。柾彦は、先程文彌が口にした『光祐坊ちゃん』という名が胸の中で引っかかっていた。
「祐里さん、探しましたのよ。あら、どなたですの」
 奥さまが祐里を見つけて側に歩み寄り、柾彦に目を留めた。
「はじめまして、桜河の奥さま。鶴久病院の鶴久柾彦と申します」
 柾彦は、突然の奥さまの登場で驚きながらも、はきはきと快活に自己紹介をした。
「星稜高等学校にお通いの方で、先日、図書館と美術館でお会いしましたの」
 祐里は、柾彦から慌てて手を放し、頬を染めながら出会いの経緯を申し添えた。
「桜河薫子でございます。鶴久病院は、ご立派な病院でございますわね」
 奥さまは、恥ずかしげな祐里に目を細め、はきはきとした柾彦に好感を持った。
「ありがとうございます。桜河の奥さまにそのように病院を誉めていただけましたら、父母も喜ぶと思います」
 柾彦は、奥さまの美しい気品の前にも臆することなく返答した。
「はじめまして、鶴久結子でございます。息子が桜河さまのお嬢さまと親しくさせていただいているようで、一度ご挨拶申し上げようと思っていたところでございました。早速、お近づきになれて光栄でございます」
 いつの間にか、柾彦の後ろに母・結子が立っていた。シルクタフタの多彩なドレスを身に纏った結子は、真珠の長い首飾りをつけモダンな雰囲気を醸し出していた。それとは打って変わり、奥さまは、真珠色地に紫陽花文様の着物姿で帯留めに真珠をあしらい、しっとりとした美しさを見せていた。
「こちらこそ、はじめまして。桜河薫子でございます。祐里さんが親しくしていただいているようでございますわね。よろしければ、お近づきの印に次の日曜日にお茶にいらっしゃいませんか」
「まぁ、ありがとうございます。嬉しいですわ。お言葉に甘えて伺わせていただきます」
「お待ち申し上げております」
 奥さまと結子は気が合って、柾彦と祐里の横で世間話を始めていた。
「母上の長話に付き合っていたら夜が明けてしまうからね。姫、あちらで何か飲み物をいただきましょう」
 柾彦は、結子に聞こえないように祐里の耳元で囁いた。祐里は、頷いて柾彦に従った。
「祐里さんとあちらで飲み物をいただいてきます」
 柾彦は、結子と奥さまに断ると祐里の手を取り誘導した。
 柾彦は、林檎の果汁を二つ取り、傍らの椅子に祐里と一緒に腰かけた。
「びっくりしたなぁ。姫の母上さまに会って緊張したところに、母上まで登場してくるのだもの」
「私も驚きました。柾彦さまのお母さまは、とても優しそうなお方でございますね」
 祐里は、柾彦の快活さは母親譲りだと感じていた。
「姫の母上さまだって優しそうだし、姫に似てすごく綺麗な方だね」
 柾彦は、奥さまと祐里の雰囲気が血は繋がっていなくてもよく似ていると思った。
「奥さまは、私の理想の方でございますもの。柾彦さま、私は、桜河のお屋敷でお世話になっておりますが実の娘ではございませんの。本当はこのような晩餐会に参会できる身分ではございませんし、柾彦さまと親しくお話しさせていただける立場ではございません。先程は、あの方の非礼な言葉に気分を害されましたでしょう。私のような者のために申し訳ございませんでした」
 祐里は、柾彦に誤解されたままでは申し訳なく思い、真実を話して深々と頭を下げて謝った。柾彦には隠し立てをしたくなかった。
「それで、旦那さまや奥さまと呼んでいるのだね。ぼくには、お二人が姫のことを実の娘のように可愛くて仕方がないと思っていらっしゃるって感じられるよ。姫が頭を下げる必要なんてないよ。姫は、素敵な女性なのだから誰にも引けを取らないし、気兼ねすることもないさ。姫の誇りを汚すような失礼な野獣の言うことなんて気にしないほうがいい。姫は、誰がみても桜河家の気高き姫なのだからね」
 柾彦は、上着から漂う葡萄酒の香りと隣に座る祐里の甘い香りに酔いしれながら(慎ましやかでありながら、誰よりも気品を感じさせる美しさを持ち合わせた祐里が気にする身分や立場とは、いったい何なのだろう)と祐里の美しい顔を見つめながら考えていた。
「柾彦さまは、本当にお優しい方でございますのね。光祐さまもいつもそのようにおっしゃってくださいます」
「兄上さまのこと」
「はい。今は都の大学に行っておられますが、とても強くてお優しい御方でございますの」
 祐里は、頬を桜色に染めて遠くの光祐さまを想った。柾彦は、祐里の瞳が隣にいる自分を透り越して光祐さまに注がれているのを感じた。それでも、野蛮な文彌のような男から祐里を守りたいとこころから思った。祐里といると柾彦のこころは満たされ安らぎを感じることができた。柾彦にとって祐里への想いは、初恋のようでもあり、姫を警護する『守り人』の使命感に溢れていた。
「姫の兄上さまにも会ってみたいな」
 柾彦は、祐里のこころを夢中にしている光祐さまを自分の目で確かめたいと思った。
「もうすぐ夏の休暇でお帰りになりますわ。柾彦さまと気がお合いになると思います」
「兄上さまにお会いできる日が楽しみだよ」
 柾彦は、祐里と共に遠くの光祐さまに思いを巡らせた。
 帰りの際、柾彦は、祐里と結子が挨拶をしている隙に奥さまに文彌との経緯を告げた。
「また、祐里さんに近付いてくると思いますので気を付けてください」
「まぁ、そのような事がございましたの。ご忠告、ありがとうございます」
 奥さまは、無垢に微笑む祐里を心配して見つめ、女性として今まさに蕾が開花を始めた祐里の色香に気付いた。そして、尚更、好青年の柾彦に好感を持った。
 帰りの車中でも、祐里は、何事もなかったかのように、いつもの笑顔で奥さまに話しかけた。奥さまは、そんな祐里がいじらしくて思わず抱きしめていた。祐里は、奥さまの優しい胸の香りに包まれて安堵していた。
 寝る前に湯に浸かった祐里は、文彌から触れられた首筋から胸にかけての肌を石鹸で念入りに洗った。ふと、気が付くと湯気よけの天窓の隙間から、深緑の桜の葉がひとひら舞い降りて、祐里の首筋にはらりと留まった。すると不思議なことに赤みが消え、祐里は清められたようにこころが安らぐのを感じた。(桜さん、ありがとうございます)祐里は、両手で桜の葉を包み込んで手を合わせた。庭の桜の樹は、緑色の葉をさやさやと風に靡かせて祐里の感謝の声に耳を傾けていた。
 その夜、奥さまは、文彌のことを旦那さまに報告した。旦那さまは(祐里は、十六になってから一段と匂いやかになった。悪い虫が付かないように気を付けねばならぬ)と考えていた。翌日、旦那さまは、弁護士を通じて榛家へ抗議した。榛家では、面目を保つ為に文彌を地方の支店へと転属させることにした。
 
 次の日曜日、鶴久結子と柾彦は、桜河のお屋敷のお茶会に招かれ、おみやげに桜の挿し木を持ち帰った。その桜の挿し木は、鶴久病院の庭で見事な枝を広げることになる。それとともに鶴久病院は、大きな病院となり、ますます医療を発展させていった。

夏の休暇に入り、お屋敷に帰省した光祐さまは、祐里から柾彦を紹介された。祐里に優しいまなざしを向ける柾彦に対して光祐さまは、弟のような既知の親近感を抱いた。柾彦は、光祐さまの隣にいる祐里が一段と美しくそれでいて寛いでいるのを実感し、光祐さまの絶大なる存在を思い知った。光祐さまに会うまでは、祐里の相手として自分にも可能性があるのではと考えていたのだが、柾彦の恋心は瞬時に打ち砕かれた。
 光祐さまは、夏の休暇中、事ある毎に柾彦を誘って祐里と三人で楽しんだ。それからというもの柾彦は、光祐さまを兄のように慕い、末永く二人の交流は続くこととなった。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 4

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
   花蕾

光祐さまと祐里は、紫乃の焼いたマドレーヌを持って、東野家へ森尾の車で向かった。 森尾夫婦は、紫乃から祐里の縁談話を聞いて、祐里を元気づけようと車の後部座席に溢れんばかりの菜の花を飾った。祐里は、森尾夫婦の心遣いの菜の花に包まれて、こころに陽光が差し込んだように感じていた。
 東野家では、伯母の紗代子が光祐さまと祐里を迎えた。
「光祐さん、いらっしゃいませ。ますますご立派になられましたね。祐里さん、いらっしゃいませ。この度は、大変でございましたね」
 紗代子は、光り輝く好青年の光祐さまと一歩後ろに立つ慎ましやかな祐里を見つめて相好を崩した。 
「こんにちは、伯母上さま。ご無沙汰でございました。母がお世話をおかけしております」
 光祐さまは、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、伯母上さま。ご心配をおかけして申し訳ございません。紫乃さんのマドレーヌでございます。どうぞ、みなさまでお召し上がりくださいませ」
 祐里は、お辞儀をすると菓子箱を紗代子に差し出した。
「ありがとうございます。薫子さんがお待ちかねでございます。さぁ、こちらへどうぞ」
 光祐さまと祐里は、紗代子の案内で奥さまが娘時代を過ごした南側の薔薇園に面した部屋に通された。
「父上さまが母上さまのことを気になさっておいでで、代わりにご機嫌伺に参りました」
「光祐さんと祐里さんの顔を見たら、気分がよくなりました。さぁ、お座りなさい」
 長椅子の中央に奥さまが座り、左右に光祐さまと祐里が座った。奥さまは、優しく祐里の手を取った。
「まぁ、祐里さん、元気のないお顔ですわね。心配しなくても、わたくしは、まだまだ、祐里さんを手放しはいたしません。もしもの時は、東野の家に祐里さんを連れて帰る決心をしましたのよ」
「奥さま、ありがとうございます。そして、私のことでご心配をおかけして申し訳ございません。奥さまのお気持ちだけで、私はしあわせでございます」
祐里は、奥さまの厚意が嬉しくて潤んだ瞳を向けた。
「祐里さんが悪いのではなくてよ。この事はわたくしにお任せなさいね」
 奥さまは、祐里を抱き寄せると愛おしさで胸がいっぱいになった。光祐さまを産んだ後にもう子どもができないと判り、その後に引き取った祐里に随分と慰められたことを思い出していた。まだ言葉を上手に発音できない三歳の祐里が『おくさま』と屈託のない笑顔で呼びかけてくれ、どんなにこころが和んだことか。光祐さまも妹ができたことで、一人っ子の我が侭を通すことなく思いやりのある優しい性格に育っていた。
「母上さまの里帰りを気にされて、父上さまが榛様の事を詳しく調べてくださるそうです。調査結果が届けば、きっと父上さまにもご理解いただけると思います」
光祐さまは、今朝の旦那さまとのやり取りを説明した。
「結婚は、とても大切な事ですもの。可愛い祐里さんを簡単に嫁がせるなんて、わたくしにはできませんわ」
 奥さまは、突然の縁談話で、ますます、祐里が可愛く思えてならなかった。

東野家の一人娘である従妹の萌は、祐里と同い歳で、祐里が進学する女学校に小学部から通学している。萌は、西洋人形のように絢爛豪華で、欲しいものは何でも与えられ、宝物のように大切に育てられていた。
「光祐お兄さま、お久しゅうございます。お帰りを待ち侘びてございました。お会いできて嬉しゅうございます」
 薔薇を花瓶に活けていた萌は、久しぶりに会う光祐さまに瞳を輝かせた。
「こんにちは、萌。綺麗になったね。春からは、祐里も同じ女学校に通うから、仲良くしておくれ」
 光祐さまは、笑顔で話しかけ、萌は、光祐さまに花開く満面の笑みを返した。
「こんにちは、萌さま。どうぞよろしくお願い申し上げます。萌さまとご一緒できまして嬉しゅうございます」
 祐里は、光祐さまの後ろで丁寧にお辞儀をした。祐里の声とともに萌の笑顔が一瞬陰った。萌は、子どもの時から祐里が苦手だった。祐里は、いつも光祐お兄さまの横にいて、しあわせそうに微笑んでいる。庶民の生まれで孤児なのに華やぎがあり、子どもの頃から祐里にだけ分かる嫌がらせをしても、少し困った顔をするだけで何もなかったかのように優しく接してくれた。その度に萌は、居心地の悪さを感じた。そして、何よりも唯一の従兄である大好きな光祐お兄さまが、祐里に向ける優しいまなざしに嫉妬を覚えていた。そんな祐里に縁談の話が持ち上がり、叔母が反対して実家に戻ってきていると母から聞かされた。(早く嫁いでいなくなればいいのに)と萌は思っていた。
「おばあさまのお部屋に伺うところだけれど、萌も一緒にどう」
 光祐さまから誘われて嬉しいと思いながらも横の祐里に嫉妬して、萌は、傍らの薔薇を思わず握り締めていた。
「痛い」
 萌の指から赤い血の雫が零れた。祐里は、自身が傷ついたような顔をして駆け寄り、萌の指を白いハンカチで包みこんだ。
「光祐さま、お先に行かれてくださいませ。私は、萌さまの手当てをしてから参ります」
「萌、大丈夫。後から祐里とおいで」
 光祐さまは、萌に優しく声をかけて、祖母の籐子の部屋へ先に向かった。
「萌さま、薬箱はどちらでございますか。消毒をいたしましょうね」
「私に構わないで。あなたに優しくしてもらいたくないの」
 萌は、鋭い声を発して、祐里の手を振り払った。
「でも、萌さま、痛うございましょう」
萌は、傷を労わる祐里の言葉に良心が痛んで、ますます悲痛な表情になった。
「あなたは、どうしていつも優しいの。自分が辛い時なのになぜ人に優しくできるの。あなたを見ているとイライラするのよ。私に構わないで、さっさと光祐お兄さまの後を追って行ってちょうだい」
「萌さま、ご不快な思いをおかけいたしまして申し訳ございません。でも、黴菌が入りますと大変でございます。お手当てが済みましたら、すぐに失礼いたします」
 祐里は、萌から発せられる棘のような言葉にこころを痛めながらも、萌の傷を心配して手を取った。
「大丈夫よ。もう、血も止まったもの。それよりもハンカチが汚れてしまったわ」
 萌は、嫉妬心を抱きながらも、祐里の手の温もりに包まれて、血で赤く染まった白いハンカチを見つめ、自身の醜い心の染みのように感じて目を反らせた。
「ハンカチは、お洗濯をいたしますので気になさらないでくださいませ。念の為に消毒をしておきましょうね。早く痛みが治まるとよろしゅうございますのに」
 祐里は、安らかな笑みを浮かべて、薬箱から消毒液を取り出して手当てをした。
「痛っ」
 萌は、消毒液が沁みて大袈裟に声をあげた。祐里は、身を縮めて痛みを共有していた。
「萌さま、申し訳ございません。包帯をいたしましょうね。もう大丈夫でございます」
 祐里は、萌に労わりの声をかけながら手際よく包帯を巻いた。萌は、祐里から手当てをされながら、祐里の慈悲のこころに触れ、痛みと苛立ちが消えていくのを感じていた。
「祐里さま、ありがとう。女学校では萌と仲良くしてくださいね」
 萌は、祐里の真心に触れ、目が覚めた気分になり、初めて自分と同じ立場に置いた。
「萌さま、こちらこそどうぞよろしくお願いします」
「祐里さま、おばあさまと光祐お兄さまがお待ちかねですわ。早く参りましょう」 
萌は、祐里の手を取って籐子の部屋へ向かいながら、波立った心がすっかり凪いでいた。祐里は、初めて萌から『祐里さま』と呼ばれて、戸惑いを感じつつも嬉しかった。

一方、旦那さまの会社には、早速、榛家からの婚約申し出の書状が届いた。旦那さまは、気の早いものだと少々苦笑しながら執事の遠野を呼び、至急、榛文彌の身辺調査を依頼するように命じた。それから、仕事に取りかかろうと椅子に腰かけ、今朝の支度を手伝ってくれた祐里の手際のよさに頭を巡らせていた。祐里が『旦那さま、どうぞ』と上着を着せかけてくれた瞬間は、しあわせを纏ったような気分に包まれた。
「本当に愛らしい娘に育ったものだ」
 旦那さまは、上着に触れて思わず呟いていた。祐里がいなくなったお屋敷の静寂をしみじみと考えていた。慎ましく愛らしい声で『旦那さま』と呼ぶ声が聞こえなくなると思うと寂しさが込み上げてきた。おかしなことに祐里を嫁に出すのが惜しいとさえ思えてきた。そして、首を振り「まだ嫁ぐまでに三年はあるのだから」と自分に言い聞かせて、机の上に積まれた書類へ目を移した。

 籐子は、三年ぶりに会う光祐さまにとても上機嫌だった。おまけに祐里のことで、一人娘の奥さまが戻ってきていることにも内心喜んでいた。そして、血の繋がらない祐里を三人目の孫として愛しんでいた。
「光祐さん、祐里さん、今夜は、薫子さんと一緒にお泊まりなさいな。父上さまは、おひとりで頭を冷やされるとよろしいですわ。それにおじいさまも、お仕事から戻られましたらお喜びになられますもの」
「ありがとうございます。おばあさま」
「萌も、光祐お兄さまと祐里さまがいてくださると楽しいもの」
 光祐さまと萌は、籐子の両隣に座り、祐里は、籐子の肩を優しく揉んで差し上げた。
 光祐さまと祐里は、祖父の東野香太朗と伯父の東野圭一朗が仕事から帰り、皆と一緒に夕食をご馳走になってから、お屋敷に戻った。
 その夜、東野香太朗は、奥さまを諭した。
「薫子、桜河に嫁に出たのだから、何があろうと東野の家に戻って来るとは承服しかねるね。啓祐君に従うのが妻の務めだろう。しかし、母上も内心喜んでおる。戻ってきたからには、二、三日ゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます、父上さま。今まで旦那さまに添うことがわたくしの務めと精進して参りました。でも、桜河電機のために祐里さんの縁組をなさる旦那さまには同意できかねます。そのような冷たいおこころの御方とは思いませんでした」
「啓祐君も経営者の風格が出てきたということだ。経営者たる者は、まず会社の利潤を最優先して考えるものだからね。薫子と啓祐君の縁組にしても、先代の詠祐さんとは意気投合して縁組を約束したが、東野地所・桜河電機相互のそれなりの利潤を考えてのことだった。しかし、薫子が母の立場で祐里を大切に思っているように、私は、光祐や萌と同様に祖父として祐里を愛おしく思っている。いざという時は、私が祐里を引き受けよう」
「父上さま、ありがとうございます」
 奥さまは、厳しい顔の裏に隠された父・香太朗の優しさに包まれて、久しぶりに娘時代に戻ったような気分になって抱きついた。
 旦那さまは、翌日の夜に奥さまを迎えに行き、義父に頭を下げた。奥さまは、調査報告書が届くまでの間、休戦を宣言してお屋敷に戻った。

光祐さまは、こころがすっきりとしないながらも、できる限り祐里を側に呼んで、二人の時間を大切に過ごした。
 朝早くから、紫乃が丹精込めて作っている畑の水撒きに出かけた光祐さまは、如雨露の水を大きく振り回し、朝日に煌く雫の宝石を纏う祐里の美しさにしばし見惚れていた。
「光祐さま、冷とうございます」
 祐里は、雫を手の甲で受けて困った顔をして微笑んだ。『ぼくは、絶対に祐里を守るからね』という光祐さまの力強い言葉を信じて、光祐さまに寄り添ってしあわせな時間を噛み締めていた。
「ごめんよ、祐里。さぁ、拭いてあげよう」
「ありがとうございます。光祐さま」
 光祐さまは、手拭いで水滴を拭きながら、祐里と共有するしあわせを感じていた。祐里は、光祐さまに見守られて、ますます美しく輝いていた。
 日本庭園の池では、祐里が側に寄るだけで鯉が餌を催促して集まり、その頭上では小鳥が囀っていた。光祐さまは、小学生の頃に祐里と散歩の途中で、野犬に出遭った時のことを思い出していた。牙を鳴らして跳びかかろうとする野犬に、祐里は、手を差し出して手懐けた事があった。光祐さまは(祐里は、本当に万物から好かれるものだ)と感心して、祐里の無邪気な横顔を見つめていた。その二人の楽しそうな様子を奥さまはお屋敷の窓から、紫乃は台所の窓から、微笑ましく見守っていた。
お屋敷では、仲睦まじい光祐さまと祐里の若々しい明るい声が満ちていた。

五日後に旦那さまのところへ榛文彌に関する調査報告書が届けられた。この日は、偶然にも光祐さまの十八歳の誕生日に当たる三月三十一日で、光祐さまにとって素晴らしい誕生日の贈り物となった。調査報告書には、文彌の大学時代から現在に至るまでの女性関係が延々と綴られていた。旦那さまは「これでは、祐里が苦労する事になる」と溜め息をつき『祐里を大切にして、本当にしあわせにしてくれるのですか』という光祐さまの言葉を思い出していた。旦那さまは、すぐに榛家へ婚約の断りの書状を書き送った。榛家からは、その後も再三の申し出があったが旦那さまは断固として断った。奥さまも光祐さまも喜んだ。そして、当の祐里がどんなに喜んだことか。
「祐里、私に任せてくれた縁談は、すまないがなかったことにしておくれ。考えてみれば、祐里は桜河の家に縛られないで好きな男性のところに自由に嫁にいくといい。だが、もう少しその可愛いらしい笑顔を私たちの側で見せておくれ」
 旦那さまは、祐里を抱き寄せた。
「はい、旦那さま。ありがとうございます。祐里は、しあわせものでございます」
 祐里は、旦那さまの大きな広い胸に抱えられて安らぎを感じていた。
「今度のことで、私も薫子も祐里を嫁に出すのが少々惜しくなった。祐里より先に光祐の嫁を考えるべきだったね。大学を卒業するまでにはお相手の娘さんを決めておかなければなるまい。薫子も候補の娘さんを気に留めておくように。光祐は、本日で十八歳になったのだから、そろそろ桜河家の後継ぎとしての自覚を持ちなさい。光祐には、桜河家の嫁として相応な娘さんを見つけなければならないからね。祐里も光祐の許婚者が決まった時は仲良くしておくれ。今夜は、盛大に光祐の誕生祝いと大学の入学祝いをするとしよう」
「はい、畏まりました。旦那さま」
「はい、父上さま。ありがとうございます」
「はい、旦那さま」
 こうして、一先ず、祐里の縁談は白紙に戻り、旦那さまは、上機嫌で今度は光祐さまに矛先を向けた。奥さまと光祐さまは、安堵して祐里に優しい笑顔を向け、お屋敷は温かな空気に包まれていた。
光祐さまの誕生・大学入学祝いの盛大な宴が終わり、大勢の招待客を見送った後、光祐さまと祐里は、バルコニーで静かに寄り添って春の匂いに包まれた庭を眺めていた。
「ぼくは、これからも桜の樹に誓って、必ず、祐里を守るからね」
「ありがとうございます。私は、光祐さまを信じてついて参ります」
 光祐さまは、縁談が白紙に戻されて安堵している祐里の瞳を真剣なまなざしでみつめた。祐里は、はらりと嬉し涙を流し、光祐さまの胸に顔を埋めた。光祐さまは、優しく祐里を抱きしめた。桜の蕾が二人を祝福して微笑むかのようにふっくらと膨らんだ。

 祐里の誕生日の四月三日は、光祐さまが十日間の休暇を終えて都に戻る日だった。光祐さまは、朝食の後、時間を惜しむかのように祐里を連れて桜池に散歩に出た。お屋敷の奥地には、豊かな水を湛えた桜池が広がり桜川地方の水源となっていた。桜の木立にぐるりと囲まれた桜池は、立ちこめた霧が晴れて行くに連れて、後方にすそ野を広げる雄大な桜山の新緑と青い空を映し出し、荘厳な美しい水面の表情をみせていた。この桜池から桜山までの広大な土地は、桜河家の所有地だった。
「静かでございますね」
 祐里は、陽射しに輝く水面を見つめ、光祐さまと並んで池の辺に佇んでいた。光祐さまと祐里の二人だけの時間がゆったりと流れていた。
「ぼくのこころのようだよ」
 光祐さまのこころも池の水面のように静かで穏やかだった。
「桜池が桜の樹を映してしあわせそうに見えるだろう。ぼくのこころも祐里がいるだけでしあわせだもの」
 光祐さまは、桜色に頬を染める祐里を笑顔で見つめた。
「そのように想ってくださいまして、祐里は、しあわせでございます」
 光祐さまと祐里の仲睦まじい様子に、桜の木立の膨らんだ蕾たちがくすぐられるように微笑んで咲き始めていた。
「祐里、十六歳のお誕生日おめでとう。ぼくからの贈り物だよ」
 光祐さまは、ポケットから桜の花の首飾りを取り出して祐里の首にかけた。
「光祐さま、ありがとうございます。とても嬉しゅうございます。大切にいたします」
 祐里の白い肌の上で桜の花の首飾りが小さく揺れた。
「ここにこうしていると、子どもの時のままのような気がするね。何時も祐里が側にいた。昨日も今日も明日も変わることなく」
 光祐さまは、大きな石の上に腰かけ、祐里も横に座った。
「光祐さまが中学に進学された時は、淋しい想いをいたしました。でも、これからは、淋しくても、光祐さまを信じてお待ち申し上げます」
 祐里の瞳の奥には、光祐さまから愛されているという自信が覗われた。それは、今まで孤児として身の拠り所のなかった祐里の確固たる居場所であった。
 光祐さまと祐里は、お腹がすくまで寄り添って、春の陽射しに映える池を投合しながら見つめていた。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 3

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
   大蛇

その翌日には、旦那さまが出張から戻って、昼食会が催されることになった。
 紫乃は、朝から腕を振るい、祐里も台所を手伝った。あやめは、お屋敷の隅々までを奉公人総出で磨きあげた。
 光祐さまは、台所の椅子に腰かけ、紫乃と祐里が料理を作る様子を眺めていた。
「坊ちゃま、殿方がお台所に入るものではございません」
 紫乃は、こころもち嬉しそうに困った顔をして注意した。
「父上さまと母上さまのお邪魔にならないように、ここにいるだけですよ」
「まぁ、光祐さまったら」
 祐里と紫乃は、顔を見合わせてくすっと笑い合った。光祐さまは、幼少の頃から隅の椅子に座って、祐里や紫乃との談笑を楽しみにしていた。祐里は、紫乃から料理を習い随分と腕を上げていた。
その頃、旦那さまの書斎では、旦那さまが奥さまに祐里の運命を左右する重大な話をしていた。
「これからは女の子も高等な学問を受けていた方がよいと思い、勉学熱心な祐里を女学校に進学させる事にしたけれど、昨日商談でお会いした榛様から縁談の話が持ち上がった。突然だが本日の昼食会にご子息を連れて来られるそうだ」
旦那さまは、満更でもない話だと思いながら奥さまの同意を求めた。
「えっ、祐里さんにお見合いの話でございますか。まだ、祐里さんは、十五でございますのよ。光祐さんは、長男で後継ぎでございましたから都の学校に出す覚悟は出来ておりましたが、わたくしは、まだ、祐里さんを手放すなんてことは出来ません」
 何時でも、旦那さまに従う奥さまが初めて意見をした。
「薫子、そう、私を責めないでおくれ。私とて祐里は可愛い。本当の娘だったらいつまでも手元に置きたいくらいに可愛い。しかし、光祐も祐里も年頃になった。榛様も気にしてくださったのだが、間違いが起こる前に祐里を嫁に出したほうがいいような気がしてな」
 旦那さまは、奥さまを優しく諭した。
「間違いだなんて。わたくしは、光祐さんと祐里さんを兄妹のように育てて参りました。光祐さんは、桜河家の後継ぎであることを自覚していますし、まして、あのように遠慮深い祐里さんがそのような気になるとは思えません」
 奥さまは、自分の育てた光祐さまと祐里を信じていた。
「祐里はともかく、光祐は、私に似て真っ直ぐな性格だ。私は、薫子と結婚すると子どもの時から決めていた。光祐だって益々美しくなっていく祐里に情が移らないとも限らないだろう」
「わたくしと旦那さまの場合は、生まれた時から父上さま方が許婚としてお約束されてございましたもの。ですから、わたくしは、物心ついてから旦那さまだけをお慕い申し上げて参りました。でも、光祐さんは、兄として祐里さんと接して可愛がってございます。恋愛感情などあろうはずがございませんわ」
 奥さまは、娘時代に思いを馳せながら、旦那さまへの変わらぬ深い愛情を感じていた。
「私は悔やまれてならない。祐里を引き取る時に桜河の籍に入れるべきだった。まだ、ご存命だった母上が反対されなければ、祐里は養女とはいえ、光祐とは戸籍上でも兄妹の間柄になっていたのだが・・・・・・後継ぎの光祐には、それなりの良家から嫁を迎えねばならぬ」
「榛様は、祐里さんの事情はご存知でございますの」
 奥さまは、祐里のしあわせに思いを巡らせていた。
「事情は申し上げた。先日の晩餐会に薫子が貧血で出られずに、祐里に供をさせたことがあっただろう。あの時にご子息が祐里の振り袖姿を見初めてくださって、是非にとのお話だ。文彌くんは、二男だから祐里の生まれのことは、それほど気にされていない様子だった。榛家ならば申し分のない家柄だろう。それに近々海外事業部に力を入れようと思っていた矢先の榛銀行との縁組は桜河電機にとって願ってもないことなのだよ」
「まぁ、わたくしの貧血がきっかけで、祐里さんが計略結婚の道具にされるなんて・・・・・・」
奥さまは、後悔の念に心を痛めた。
「計略結婚はさて置き、お見合いと言ってもそう大袈裟に考えずに、榛様をお招きしての気軽な昼食会と思いなさい。光祐と祐里にも伝えておくれ」
「旦那さま、わたくしは反対でございます。それにわたくしからは、祐里さんに伝えかねますので旦那さまがおっしゃってくださいませ。わたくしから、光祐さんだけではなく、祐里さんまで取り上げるなんて酷うございます」
奥さまは、断言して、渋々着替えのために自室へと向かった。旦那さまは、奥さまの剣幕に苦笑いをしながら、光祐さまを捜して明るい笑い声のする台所へ向かった。
「光祐。祐里。昼食会には、取引銀行の榛様とご子息を招待しているから、失礼のないようにきちんとした服装で席に着きなさい。そうだね、祐里は、華やかになるから振り袖を着なさい」
 旦那さまは、光祐さまと祐里の顔をしっかり見据えていった。光祐さまと祐里が楽しそうに一緒にいる姿は、子どもの頃から変わらず微笑ましく感じられた。
「はい、父上さま」
「はい、旦那さま、畏まりました」
 光祐さまと祐里は、旦那さまに返事をして顔を見合わせた。
「祐里さま、ここはもうよろしゅうございますから、お支度をされてくださいませ」
紫乃は、怪訝な顔で祐里を促した。
「はい、紫乃さん」
祐里は、自室に戻り箪笥から振り袖を取り出して衣紋掛けに掛けた。奥さまが桜河家に嫁入りの時に持ってこられた振り袖は、桃色地に満開の桜文様が総刺繍で施された見事なもので、先日の晩餐会に旦那さまのお供をすることになって、奥さまが祐里にくださった振り袖だった。祐里は、光祐さまに振り袖姿を見ていただけると思うだけで嬉しかった。
光祐さまは、不安になって奥さまの部屋の扉を叩いた。
「母上さま。少し、よろしいでしょうか」
 奥さまは、着物に着替えて頭を押さえて考え込んでいた。
「どうぞ」
「お加減が悪いのですか」
光祐さまは(父上さまも母上さまもご様子が変だ)と感じていた。
「少し、頭が重くて。でも、昼食会までには回復しますから、心配なさらなくても大丈夫でございます」
奥さまは、憂いを含んだ笑みを浮かべた。
「父上さまが祐里に振り袖を着なさいとおっしゃったのですが、榛様は、それほど大切なお客様ですか」
「旦那さまは、本日の昼食会を榛様のご子息と祐里さんのお見合いのお席になさるお考えなの。わたくしも先ほどお聞きしたばかりで、反対と申し上げたのでございますが、既にご招待されたからって旦那さまがおっしゃるの」
 奥さまは、いつになく興奮した面持ちで、旦那さまの意向を光祐さまに話した。
「ぼくも反対です。祐里は、まだ十五ですよ。祐里に何も知らせないで突然見合いだなんて、そのような事があっていい筈がありません。父上さまは、何をお考えなのですか」
光祐さまは、心臓を打ち抜かれた気分になり、どうにかしなければと心ばかりが焦った。旦那さまがこれほど早急な行動にでるとは予想だにしなかった。
「旦那さまは、貴方と祐里さんに間違いが起こってからではと心配されておいででございますの。そのようなことは取り越し苦労でございましょうに」
「はい・・・・・・も、勿論です」
 光祐さまは、こころを見透かされた気がして返答に詰まった。
「そろそろ榛様がお着きになられる時間でございますわ。とにかく、光祐さん、お支度をしていらっしゃい」
 奥さまに促されて光祐さまは、気が向かないまま着替えのために自室へ戻った。光祐さまの部屋には、旦那さまの命で既にあやめが式服を準備して掛けてあった。
 昼食会は、晴れやかな榛家とにこやかな旦那さま対重苦しいお顔の奥さまと光祐さまに、訳が分からないままお雛さまのようにちょこんと席に着いている祐里の三様の雰囲気で始まった。祐里の振り袖姿は、しっとりとした気品漂う奥さまの藤色の留め袖姿と共に、桜河家の応接間を一際艶やかに輝かせていた。
「ようこそ、いらっしゃいました榛様。妻の薫子です。長男の光祐です。それから、長女の祐里です」
 旦那さまが家族を紹介し、名前を呼ばれて会釈を返しながらも奥さまと光祐さまは、何時になく儀礼的な様子で、祐里は、二人が気になって落ち着かなかった。
「本日は、お招きに預かり恭悦至極に存じます。榛恭一郎でございます。これが妻の千鶴子でございます。それから、二男の文彌でございます」
 榛恭一郎の挨拶が終わるとすぐさま、正面の席の文彌は、長卓の下から足を伸ばして祐里の足袋に触れて、馴れ馴れしく声をかけてきた。祐里は、自分の足が当たって失礼をしたと思い恐縮して足を引いた。
「祐里さんは、振り袖がとても似合っているね。先日の晩餐会の時も美しかったけれど、今日は一段と美しい。惚れ惚れします」
「先日の晩餐会でございますか。気づきませんで申し訳ございませんでした」
文彌は、祐里を凝視したまま、間髪を入れずに次から次へ話しかけ、祐里は、受け答えをしながらも、文彌の鋭い眼にたじろいで俯いた。
祐里は、先程まで上機嫌だった光祐さまが初めて見て頂く振り袖姿にも無言のままで、とても怖い顔をしているのが気になって、文彌との会話も会食も上の空で(早く時間が経つとよろしゅうございますのに)とばかり思っていた。光祐さまは、自分以外に向けられた祐里の艶やかな振り袖姿が腹立たしくて仕方がなく、祐里から視線を反らせていた。
 ようやく、食後の苺と珈琲が運ばれてきた。祐里が珈琲を飲干して、ほっとしたのもつかの間、旦那さまからの提案があった。
「祐里、文彌くんを我が屋敷自慢の庭園に案内しておくれ。ゆっくりと文彌くんと歓談してきなさい。光祐は、ここにいて榛様から経済界のお話を聞かせていただきなさい」
 旦那さまは、気を利かせて、立ち上がりかけた光祐さまを制した。
「はい、畏まりました」
祐里は、落ち着かないまま返事をした。光祐さまは、長卓の下で不安げな表情の祐里の手を優しく握って頷いて、文彌を睨みつけた。文彌は、不敵な勝ち誇った笑みを返した。祐里は、光祐さまの優しい手の温もりに元気付けられて、仕方なく、洋館の玄関から日本家屋の前に広がる荘厳な日本庭園へ文彌を案内した。
「ねえ、君、僕と結婚しようよ」
文彌は、祐里と二人きりになったのを確認すると、突然に求婚の言葉を口にして、庭園を案内する祐里の肩を掴み自分の方に向かせた。祐里の振り袖に描かれた桜の花弁が舞い散るように大きく揺れた。
「おっしゃっている意味がよくわからないのでございますが」
祐里は、とっさに身構えた。同時に奥さまと光祐さまの不機嫌な態度を理解した。
「桜河の旦那さんから、今日の見合いの話は聞いてないの。初めて会って、結婚の申し込みだなんて冗談だと思われるかもしれないが、僕は、ずっと以前から君の事を見知っていた。初めて見たのは、光祐坊ちゃんの中学入学祝いの宴だった。君は、まだ幼さを残しながらも美しく輝いていた。それから、年々女らしく綺麗になっていく君を見る度にますます僕の心は、君に釘付けになったのだよ。僕の瞳に映った今日の君は、最高に美しい」
 文彌は、ぎらぎらとした獲物を捕らえる大蛇のような眼で、振り袖を透かして祐里の裸体を見ていた。祐里は、文彌の鋭い視線に振り袖を切り裂かれた気分に陥りながら、頭の中で『見合い』という言葉が波紋となって広がっていった。
「私は、今日はじめて榛様とお目にかかりました。榛様の事は、何も存じておりませんし、春からは女学校に進学するものとばかり思っておりました」
 祐里は、後退りしたい気持ちでいっぱいになり、大蛇に睨まれた獲物のように身体の力が抜けていくのを感じていた。見慣れた庭園が一瞬にして藪と化した気分だった。
「困惑した君の顔もなかなか美しいね。僕は、二十三で、君はもうすぐ十六。結婚できる年齢だけど、進学したいのだったら結納を交わして、君が女学校を出てから結婚ということにしてもいいよ。こんなに美味しそうな君を目の当たりにすると、待てなくてすぐに結婚ってことになるだろうけれど。君は、会う度に美しい女に変化していくからね。他の男の視線に触れさせるのがもったいないから、今すぐにでも榛の家に連れて帰りたいくらいだ。いくら好き合っていても、孤児の君が光祐坊ちゃんと結婚できるわけがないだろう」
祐里に恋焦がれる文彌は、光祐さまと祐里のお互いに惹かれ合う気持ちを瞬時に察知していた。文彌は、燃え盛る恋の眼差しで祐里を見下ろし、激しい恋情をぶつけるように、祐里の華奢な肩を抱き寄せて唇を奪おうと迫った。
「お許しくださいませ。お会いしたばかりでございます。お見合いのお話すら旦那さまから伺ってはございませんし、それに私は、まだ結婚など考えられません」
 祐里は、光祐さまを想い、頑固に文彌を拒絶し、抱擁から逃れた。
「まぁ、楽しみは後にとっておいてもいいか。君はもう僕のものなのだから。桜河の旦那さんは、乗り気になっているからね。それはそうだろう、後継ぎの光祐坊ちゃんの側にいつまでも綺麗な君を置いていては、間違いが起こってからでは遅すぎるもの。それとも、もう、光祐坊ちゃんには抱かれたの。それで日陰の女にでもなるつもり」
 文彌は、孤児という立場からして自分の意のままにおとなしく従うと思っていた祐里の頑なな拒絶にあい、ますます祐里への恋情を滾らせていた。
「光祐さまに失礼でございます。そのようなことはございません。光祐さまは、精錬な兄上さまでございます。それに、私は、ものではございません」  
 祐里は、初めて会った文彌から容赦ない侮蔑を受けながらも(この方に怯むわけには参りません)と真っ直ぐに見詰めて言い返した。
「ふふっ、光祐坊ちゃんは、兄上さまか・・・・・・自分の身分を弁えているのならば話は早い。僕は、身分違いの君を正妻にしてやると言っているのだよ。感謝してもらいたいね」
 文彌は、必死になって受け答えをする祐里をますます愛おしく感じていた。
「感謝などいたしません。私は、邪な考え方をされる榛様が嫌いでございます」
 祐里は、思わず正直な気持ちを口にしていた。そして、旦那さまの招待客にこのような発言をした自分に驚きながらも、権力を笠に着る文彌に涙を見せてはならないと、瞬きをしてしっかりと見返した。こんなにも早く光祐さまとの別れの日がくるとは、こころが張り裂けんばかりに哀しかった。
「さすがに桜河家で育っただけあって気丈な女だ。だが、君は、世話になっている桜河の旦那さんの意向には逆らえないだろう。桜河電機は、海外進出で榛銀行の融資を当てにしているからね。君を担保にもらう条件を附帯して、次に会うときには、僕にそんな口が利けないように君の全てを僕のものにしてやるからな」
 文彌は、大蛇が鎌首をもたげるように高い壁となって立ちはだかり、弱い立場の祐里を甚振ることで、めらめらと燃え上がる激しい恋情を感じていた。
「旦那さまのご意向には従わざるを得ません・・・・・・榛様とのお付き合いをお望みでございましたら従います。でも、私のこころは、決して榛様のものにはなりません」
 祐里は(身分違いとおっしゃるのでございましたら、私を妻になどなさらなければよろしゅうございますのに)と精一杯の思いを込めて文彌を拒絶した。文彌は、不敵な笑みを浮かべて祐里の前に君臨し、祐里の拒絶をも楽しんでいた。
光祐さまは、途中で席を立ち、その様子をバルコニーから見て悔しい思いをしていた。文彌と祐里の間に割って入って、どんなに文彌を殴りたかったことか。バルコニーの手摺りを握る手に血が滲むほど力が入っていた。
「そのように怒った顔も魅力的だ。君の全てを食べ尽くしたいくらいだ」
文彌は、再び祐里の細い肩を強引に抱き寄せてくちづけを迫った。その時、奥さまの足音が聞こえてきた。
「祐里さん、文彌さん、午後は陽射しが強うございますので、テラスでお茶にいたしましょう。祐里さん、紫乃にお茶の用意をお願いしてくださいね。文彌さんは、テラスへご案内しますのでこちらへどうぞ」
 奥さまは、時間を見計らって台所に行き、紫乃にお茶の用意を催促し、祐里を心配して庭に呼びに出た。
「はい」
 奥さまの申し出では文彌も断れず舌打ちをして、祐里を振り返りながらもテラスへ向かった。
「はい、奥さま。すぐにお茶をお持ちいたします」
 祐里は、安堵の溜息をついて、何事もなかったかのように台所へ向かった。
「祐里さま、お顔の色が悪うございますが、帯がきついのではございませんか。昼食会がお見合いの席とはびっくりいたしましたね」
 紫乃は、心配して祐里の帯を心もち緩めた。紫乃は、突然に降って湧いた祐里の見合いに驚いていた。口には出せないけれど、旦那さまの意向とはいえ、三歳の時から育み、台所仕事を手塩にかけて教えてきた祐里を嫁に出したくないと強く思っていた。
「ありがとうございます、紫乃さん。楽になりました」
「お茶は、紫乃と菊代で運びますので、祐里さまはお先にテラスへお越しくださいませ」
祐里は、紫乃の優しさに触れて元気を取り戻すとテラスへ向かった。
 祐里は、旦那さまとお客さまの手前、愛想よく振る舞っていたけれども、時間が早く経つことばかりを念じていた。奥さまと光祐さまは、そんな祐里の横で、こころを痛めて見守ることしかできなかった。祐里に横暴な態度をとった文彌は、旦那さまの前では上手に立ち振る舞い、好印象を与えていた。反面、旦那さまに気付かれないように光祐さまには、敵意に満ちた毒牙を鳴らすような視線を放っていた。光祐さまは、文彌の剥き出しの敵意をしっかりと受け止め、傷ついた手を握り締めて耐えていた。
お茶の時間の後、榛一家は、満足して帰っていった。文彌は、玄関先の車寄せで見送る祐里を凝視し、大蛇がとぐろを巻いて締めつけるかのごとく祐里のこころを暗黒の闇へと束縛していた。
 旦那さまと奥さまが屋敷に入るのを見届けて、祐里は、ひとり桜の樹の下に向かった。桜の樹は、傷ついた祐里のこころを陽だまりの暖かさで包み込んだ。(桜さん、祐里は、お嫁になど行きとうございません。光祐さまのお側で、ずっとこのお屋敷に居とうございます)祐里は、桜の樹を見上げてこころの中で呟き、大粒の涙を零しながらその太い幹に顔を伏せた。桜の樹は、爽やかなそよ風と可愛い鳴き声の小鳥たちを呼び、お雛さまのように可憐な振り袖姿の祐里を優しく慰めた。その真上のバルコニーでは、光祐さまが(桜の樹、ぼくに力を貸しておくれ。ぼくは、祐里を守りたい)と真剣に桜の樹に祈っていた。
 しばらく、桜の樹の下にいた祐里は、辛いこころを抱えたまま、夕食の支度を手伝う時間を気にして、振り袖を着替えに自室へ戻った。
 夕食の時間は、奥さまも光祐さまも気分がすぐれないと食堂に出て来なかった。祐里は、食欲がないまま、旦那さまと二人で食事をとった。
「祐里、文彌くんはどうだった。しっかりした青年だろう」
旦那さまは、縁談の話にご満悦でにこやかに祐里に話しかけた。祐里は、返事のしようがなく小さく頷いた。
「そうか、お茶の時間にも話がでたが、婚約して、祐里が女学校を卒業してから結婚というのはどうかね。私は、文彌くんに望まれて嫁に行くのだからいい話だと思うがね。女は、良き伴侶に恵まれてこそ、しあわせになれるのだからね」
 旦那さまは、優しく祐里を諭した。祐里は、良縁に喜び、結婚を望んでいる旦那さまの様子を目の当たりにして、文彌から受けた侮蔑を口にできなかった。
「旦那さま、あまりに突然のお話で、どのようにお答えしてよろしいのか・・・・・・私のことは、旦那さまに全てお任せいたします。どうぞよろしくお願い申し上げます」
 祐里は、こころを殺して旦那さまの前で涙を見せないように懸命に我慢した。
「そうか、そうか、私に任せてくれるか。私は、祐里にしあわせになってもらいたい。心配せずとも桜河家の娘として立派な支度をするからね。榛家ならば、家柄は申し分ないし、生活に苦労をする事もないだろう。どうした、胸がいっぱいで食が進まないのかね」
「そのようなことは・・・・・・あの、旦那さま、私が光祐さまに先置いて縁談を決めてもよろしゅうございますか」
「光祐の心配は無用じゃ。光祐は、桜河家の後継ぎとして、大学を卒業するころには相応しい良家の子女と縁組をすることになるだろう」
祐里の視界には、無限の闇が広がっていた。旦那さまは、上機嫌で祐里の蒼白な顔色を気に留めなかった。初めての見合いで気疲れもし、更に自分の眼鏡に適った好青年の文彌を気に入って胸がいっぱいなのだろうと感じていた。
 紫乃は、台所で夕食の片付けを手伝う蒼白な顔色の祐里を気遣って(今の祐里さまをお慰めできますのは、坊ちゃまだけでございます)と思い、祐里に声をかけた。
「祐里さま、今日はお疲れでございましょう。片付けは紫乃と菊代でいたしますので、坊ちゃまに食後の果物をお持ちして、ゆっくりなさってくださいませ」
「祐里さま、さぁ、前掛けを外されて、坊ちゃまにこちらをお持ちくださいませ」
「はい。紫乃さん、菊代さん、ありがとうございます」
 祐里は、心配顔の菊代から果物の盆を受け取って、光祐さまの部屋へ向かった。
「紫乃さん、旦那さまは、あまりにも酷いことをなされます」
「菊代、旦那さまのなさることに私たちが口を挿むことは許されません。せめて坊ちゃまが祐里さまのおこころをお慰めになられることを祈るばかりでございます」
 菊代は、祐里を不憫に思って切ない涙を流し、紫乃は、旦那さまの意向に必死に耐え忍んでいる祐里のひとときの安らぎを祈っていた。
「光祐さま、食後の果物をお持ちいたしました」
 祐里が円卓に盆を置くと、光祐さまにそのまま抱きしめられた。
「祐里。昼間は、何も助けてあげられなくてすまなかった。よくひとりで頑張ったね」
 光祐さまは、祐里を泣かせてばかりいる自分の力のなさにこころを痛めていた。優しい光祐さまの包み込むような声に、祐里は、昼間からの緊張がどっと解けて、光祐さまの温かい胸に縋って泣きじゃくる。文彌に見つめられ、抱きつかれて汚されたような気分になっていたこころの漆黒が涙とともに晴れていった。
「祐里の振り袖姿は、榛様に見せるのが惜しいくらいにとても似合って綺麗だったよ。ぼくは、何があろうと絶対に祐里を守るからね」
 光祐さまは、祐里を長椅子に座らせて向き合うと、指先で祐里の溢れる涙を拭った。祐里は、光祐さまが振り袖姿を褒めてくださったことに喜びを感じながら、光祐さまの手の傷に気付いて優しく包み込んだ。光祐さまの傷口からは、悔しさと深い愛情が痛いほどに感じられた。祐里の慈悲深いこころが光祐さまの傷口を少しずつ癒していった。
「旦那さまは、榛様との御縁組をお慶びでございます。旦那さまの仰せのとおりにいたしますが、でも、祐里は、いつまでも光祐さまのお側に居とうございます」
 祐里は、涙を湛えた瞳で真っ直ぐに光祐さまを見つめた。
「勿論だよ。ぼくの大切な祐里、いつまでもぼくの側に居ておくれ」
 光祐さまは、しっかりと祐里を抱きしめて、優しく祐里の黒髪を撫でながら(大切な祐里を誰にも渡しはしない)とこころに誓う。文彌に渡すくらいなら、今すぐにでも無垢な祐里を抱いてしまいたかった。しかし、立派な男として祐里を守る立場にない学生の自分にその資格はないし、何よりも祐里が大人の女性に成長するまで大切にして待ちたいと思っていた。現に祐里は、安心しきって自分に抱かれている。光祐さまは、これほどまでに大切にしている祐里に、初対面でくちづけを迫る文彌に対して不信感を擁いていた。
 その晩、祐里は、なかなか寝付けなかった。瞳を閉じると、大蛇のように凝視する文彌の眼と光祐さまの優しい笑顔が交互に現れた。ようやく明け方になって、うつらうつらした時に夢を見た。
 ・・・・・・・・・暗闇から大蛇がしゅるしゅると忍び寄り、祐里の身体に巻き付いた。ひんやりとした感触が祐里を暗黒の奈落へ引きずり込んでいった。祐里は、ぎらぎらとした大蛇の視線を目の当たりにして恐怖に駆られ、必死に「光祐さま」と名を呼び助けを求めた。そこに一筋の光が差し込んで、桜の花弁がひとひら祐里の黒髪に舞い降りた。「祐里」と光祐さまの優しい声がした途端に暗闇と大蛇が掻き消え、祐里は、青空に輝くの桜の樹の下に佇んでいた・・・・・・・・・。
祐里は、目を覚まして「光祐さま」と呟いて寝返りを打ち、再びうつらうつらと夢に引き込まれていった。そして、場面は父母を亡くした日へ移っていった。
・・・・・・・・・ 季節は梅雨だった筈なのに桜の花弁が舞っていた。突然、轟音と共に裏手の山が崩れて、土砂が津波のように襲ってきた。父と母が、祐里を抱きしめて守ってくれていた。そこに大きな樹の枝が伸びてきて祐里を包み込み、土砂の上を滑っていった。樹の枝は、土砂の津波を潜り抜けて安全なところに祐里を運ぶと、いつの間にか幻のように消えていた。祐里の父と母は、家と共に山崩れで亡くなったが、祐里は、奇跡的に助かった。泣いているところを村人に見つけられ、桜河のお屋敷に連れて行かれた・・・・・・・・・。
 父と母の顔はもう思い出せなかった。ただ、二人の優しい『ゆうり』という声だけが今も耳に残っている。(お父さま、お母さま、祐里を助けてくださいましてありがとうございます。これからも祐里をお守りくださいませ。どうぞお屋敷に置いていただけますようにお力添えくださいませ)祐里は、こころの中の父母に手を合わせた。
翌早朝、奥さまは、真剣な表情で光祐さまの部屋を訪れた。
「おはようございます、光祐さん。わたくしは、貴方が帰省されているのに心苦しいのですが、今回だけは旦那さまのお考えに添うことができませんので、しばらく東野の里に帰ります。わたくしの留守の間は紫乃に家事を任せますが、わたくしの代わりに旦那さまと祐里さんをお願いしますね」
「はい、母上さま。ぼくは、父上さまに祐里のことをお願いしてみます」
 奥さまは、光祐さまの手を取り、固い決意の表情で頷いた。それから、旦那さまに置き手紙を残して、紫乃に家事を委任すると、森尾の車で実家に帰って行った。
光祐さまは、朝食の食卓に着きはしたが、怖い顔で旦那さまを見つめ無言のままで通した。いつもにこにこと愛らしい声で話をする祐里までが、泣き腫らした瞳を気にして俯き加減で食事をしていた。旦那さまは、久しぶりに家族が顔を合わせたというのに、奥さまと光祐さまの抵抗に遭い、どうしたものかと考えていた。奥さまが嫁いで二十年、今までに旦那さまに逆らったことはなかった。そのことでも旦那さまは、心を痛めていた。
朝食を終えると、旦那さまは、光祐さまを書斎に呼んだ。
「光祐、私に何か言いたい事があるのならば、はっきりと口に出して言いなさい。三年ぶりに家族が揃ったというのに昨日からずっとそのしかめ面だ。母上は、実家に帰ってしまうし、奉公人達の様子もおかしいし、祐里のめでたい縁談の何処が気に入らないのだ」
 旦那さまは、腹を立てながらも光祐さまの意見を聞くことにした。
「父上さまは、十五にしかならない祐里の縁談をどんどん進められて、あまりにも強引です。父上さまの仰せに祐里が逆らえるとお思いですか。結婚はとても大切なことですよ。祐里の気持ちを考えておられるのですか」
 光祐さまは、真っ直ぐに旦那さまを見つめて熱心に訴えた。
「祐里は、現在は十五でもこの春で十六になり、嫁に行ける歳になる。突然のことで驚いてはいるが、榛様を気に入ったようで、全て私に任せると申しておる。榛様から是非にと請われて行くのだから願ってもない縁談ではないか。光祐は、桜河家の後継ぎで祐里の兄なのだぞ。可愛い妹のしあわせな結婚を喜んでやるべきではないのか」
 旦那さまは、まだまだ子どもだと思っていた光祐さまの意見を聞いて成長を感じながらも、お屋敷の当主としての威厳を保った。
「祐里のしあわせは、ぼくも望んでいます。でも、祐里は、未だ十五ですし、進学も決まっているのですから、結婚話は女学校を卒業してからでも遅くはないでしょう。それに榛家は良家でしょうが、文彌さんはしっかりとした人物なのですか。昨日の文彌さんの態度を拝見した所、祐里を大切にして、本当にしあわせにしてくれるとは思えません」
光祐さまは、祐里を守り通さねばと心に決め、真剣に旦那さまに訴えた。旦那さまは、光祐さまの意見を受け、しばらくどうしたものかと考えて口を開いた。
「家としてではなく、個人としてということか。光祐も一人前の口を利くようになったな。そこまで申すならば、調べさせてみるか。調査で榛様が好青年であると太鼓判を押してもらえば、母上も光祐も納得するだろう。いいかね光祐、何度も言うようだが、光祐は、桜河家の後継ぎで、祐里は、妹なのだぞ。何時かは嫁に出さねばならぬ」
 旦那さまは、昨日の文彌の振る舞いを見て、仕事上でも付き合いのある榛家に何も疑問の余地はないと考えていた。そして、尚更光祐さまの兄としての立場に念を押した。
「父上さま、祐里が妹ということは重々承知しております。それならば、どうぞ、父上さまの娘である祐里のしあわせを考えてあげてください。よろしくお願い申し上げます」
 光祐さまは、一筋の光を見つけた気分になって旦那さまに笑顔を見せた。
「さぁ、私は、仕事に行ってくる。光祐、ご機嫌伺に母上の好きな菓子でも持って、東野の家へ顔を出しておくれ。籐子おばあさまも三年ぶりの光祐をお待ちかねだろうからね」
 旦那さまもようやく笑顔を見せて、光祐さまの肩を優しく叩いた。
「はい、父上さま」
 その時、祐里が書斎の扉を叩いた。
「入りなさい」
「失礼いたします。旦那さま、そろそろご出勤のお時間でございます」
 祐里は、いじらしくも旦那さまに笑顔を向けた。
「祐里、支度を手伝っておくれ」
 祐里が書斎に入ると、光祐さまは、明るい表情で頷いた。祐里は、光祐さまの笑顔に安堵して、旦那さまの支度を手際よく整えると、奉公人一同と共に玄関先で見送った。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 2

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
   桜の樹

 それから、六年の歳月が流れた。
 祐里は、少女から美しい娘へと成長し、間もなく十六の歳を迎えようとしていた。四月からは、町の女学校に進学する。桜河のお屋敷では、十三年間、旦那さまと奥さまからは、実の娘のように可愛がられ、奉公人達からは、祐里さまと愛しまれていた。
「祐里さん、今し方電報が届いて、光祐さんが春の休暇で、三年ぶりに帰っていらっしゃるの。森尾と一緒に駅までお迎えに行っていただけるかしら」
 華やいだ声は、奥さまの薫子さま。貧血気味の奥さまは、透き通るような色白の肌で大切に育てられた薔薇のようなお方。祐里の部屋の扉を叩いて笑顔を向けた。
「光祐さまがお帰りになられるのでございますか。はい、すぐに参ります」
三年ぶりに帰省される光祐さま。お便りは届いていたけれど、どんなにお会いしたかった事か・・・・・・祐里のこころは、春の陽射しに包まれた。
「今夜は、光祐さんの好物を紫乃に揃えてもらいましょうね。駅に行く途中に魚桜で特別なお魚を注文してくださいね。森尾が玄関に車を廻していますからお願いします」
「はい、奥さま」
 祐里は、桜色のワンピースに着替えて、若葉色のカーディガンを羽織ると玄関へ急いだ。祐里の長い黒髪と色白の肌に桜色のワンピースが映えて、一足早い桜満開の雰囲気を辺り一面に醸し出した。
「森尾さん、お待たせいたしました」
 祐里は、奥さま専属運転士の森尾守の開けた後ろの扉から車に乗りこみ、光祐さまのいなくなったこの六年間を思った。
 光祐さまが祐里にくださったお仕事だったから、淋しくても元気に振る舞い、旦那さまと奥さまが淋しくないようにと配慮した。
「祐里さま、ようやく、光祐坊ちゃまがお帰りでございますね」
「はい、嬉しゅうございます。森尾さん、先に魚桜に回ってください」
 祐里は、満面の笑顔を森尾に向けた。森尾は、祐里の華やいだ気持ちを受けて、快く車を発進させた。魚桜では、祐里の顔を見るなり、店主が活きのよい真鯛を掲げて見せた。
 駅前に車を駐車して、改札口を出ると定刻通りに列車が到着した。光祐さまは、祐里が想像していた以上に長身になり、爽やかな笑顔で列車から降り立った。
「祐里。帰ったよ」
 光祐さまは、祐里を見つめ、優しい声で包み込んだ。
「光祐さま。お帰りなさいませ」
 祐里は、光祐さまのきらきらと眩しい姿を仰ぎ見て、例えようがないくらい胸がしあわせでいっぱいになった。
「光祐坊ちゃま、お帰りなさいませ。ご立派になられて、爺は、嬉しゅう御座います」
 森尾は、涙ながらに光祐さまの鞄を受け取った。
「ただいま。爺も元気そうで安心したよ。ぼくは、祐里と散歩して家に戻るから、爺は先に帰って母上さまに無事に着いたと知らせておくれ」
 光祐さまは、森尾に優しいまなざしを向けた。
「畏まりました。どうぞ、光祐坊ちゃま、祐里さま、お気を付けてお帰りくださいませ」
 森尾は、光祐さまと祐里に深々とお辞儀をすると一足先にお屋敷へ戻って行った。
「祐里、桜川を散歩しながら帰ろう」
光祐さまが先に歩き出した。
「はい、光祐さま」
 祐里は、光祐さまの広い背中を見つめながら、一歩後ろをお供した。
「祐里、綺麗になったね。驚いたよ」
 振り向いた光祐さまのまなざしを浴びて、祐里の胸はどきどき、頬が桜色に染まっていく。光祐さまは、三年のうちに少女の殻を脱いで、女性の衣を纏い始めた祐里の変化にしばし見惚れていた。
「光祐さまは、ご立派になられました」
 光祐さまは、にっこり笑って頷いて祐里の手を取り、川の土手を降りて行った。
 菜の花の咲く川原は、紋白蝶が飛び交い、春の陽射しに包まれてのどかで暖かだった。光祐さまは、ずっと祐里の手を引いて歩いた。祐里のこころもぽかぽかと温かくなっていた。
「いつも、祐里とこうして散歩したね。いつの間にか日が暮れて、よく母上さまが心配なさって叱られたよね」
 光祐さまは、祐里の足元に気を配りながら優しい眼差しを向けた。
「はい、光祐さま。懐かしゅうございますね」
 祐里は、真っ直ぐに光祐さまを見つめて返事をした。光祐さまと一緒にいると何時の間にか時間が過ぎてしまい、気が付くといつも暗くなっていたのを思い出していた。暗い道でも、光祐さまが手を引いてくだされば全然怖くはなかった。
 突然に光祐さまは、祐里をぎゅっと抱きしめた。お屋敷の光祐さまと孤児の祐里では身分違い。どれほどお慕いしても、叶わぬ恋。旦那さまと奥さまがいくら可愛がってくださっても、光祐さまに愛される資格などあるわけがない。でも、光祐さまの胸の中で溶けてしまいそうなしあわせを感じている祐里がいた。(このまま、時間が止まってしまうとよろしゅうございますのに)と、祐里は、こころの中で念じていた。
「祐里の香りがする。ぼくの大切な祐里。ぼくだけの祐里」
 光祐さまは、胸いっぱいに祐里の香りを吸い込んだ。
「光祐さま。もったいないお言葉でございます」
 祐里の瞳からは、はらはらと涙が零れて、光祐さまの濃紺の上着を涙の雫で滲ませた。光祐さまの逞しい胸に包まれて、至福の真っ只中にいながら、同時に奈落の不安を感じている祐里だった。お屋敷の光祐さまは、雲上人のように手の届かぬ御方だった。
「ぼくは、祐里を愛している。どのようなことがあろうとも、必ず、祐里と結婚する。それとも祐里は、ぼくのことが嫌いなの」
光祐さまの真剣なまなざしを受けて、祐里は、首を横に振った。
「ずっと、お慕い申し上げております。でも、光祐さまには、孤児の私など分不相応でございます。まして結婚など畏れ多うございます。祐里は、このようにご一緒させていただくだけでしあわせでございます」
 祐里は、瞳を涙でいっぱいにして、光祐さまを見上げた。
「父上さまも母上さまも祐里のことを可愛がっておられる。身分など関係ないよ。それにぼくが誰よりも愛しているのだから、祐里は、ぼくを信じてついてきておくれ。さぁ、涙を拭いてあげよう。祐里が泣いていると、母上さまが心配されるからね。祐里は、泣き顔もまた美しいけれど、やはり笑顔が一番似合っているよ」
 光祐さまは、ハンカチを取り出して祐里の涙を拭った。そして、もう一度、強く抱きしめて優しく髪を撫でると、手を繋いだまま歩き出した。
(ぼくは、ひとりの人間として、こころの優しい祐里を愛している。ただ、それだけのことなのに、どうしていけないのだろう)と光祐さまは考えていた。
「休暇は、いつまででございますか」
「祐里の誕生日の三日に発つ。入学式までにはまだ日にちがあるのだけれど、父上さまとご挨拶に伺う御邸が多くてね。滞在は十日間だけれど、祐里と一緒に過ごすと、都に帰りたくなくなるよ」
「十日間でも、光祐さまとご一緒に過ごせますのは嬉しゅうございます」
川原の小さな草花が光祐さまと祐里を優しく包み、小鳥たちは可愛い声で囀って二人の仲を祝福していた。光祐さまと祐里は、至福の世界に包まれていた。
 川原を過ぎて桜橋を渡った所で、光祐さまは、祐里から手を離し、しきたりを重んじて一歩前を歩いた。
「桜河のお坊ちゃま、お帰りなさいませ。祐里さま、こんにちは」
 光祐さまと祐里は、家並みの続く道で、光祐さまの帰省を祝いに出てきた衆から声をかけられた。衆は、立派になった光祐さまを仰ぎ見た。
「ただいま帰りました。お元気で何よりです」
「こんにちは。ご機嫌いかがでございますか」
 その一人一人に光祐さまは、会釈を返し、祐里は、一人一人に丁寧に声をかけた。
 光祐さまの帰省の知らせは衆に知れ渡っていた。桜川地方では、桜河のお屋敷に足を向けられないと衆が言う。旦那さまも奥さまも光祐さまも衆から敬われていた。そして、祐里の出生を知っている衆でさえ、今では祐里のことを桜河のお嬢さまとして敬っていた。祐里が道を通るだけで、衆は不思議としあわせな気分になるのだった。
光祐さまは、お屋敷の八脚門をくぐり、庭の長い石畳を抜けて、東側の住まいである有名な建築家が設計した洋館と西側の亡き祖父母の住まいであった荘厳な日本家屋を三年ぶりに懐かしい思いで眺めた。そして、洋館の玄関へ歩を進めた。
「光祐坊ちゃま、お帰りなさいませ」
 女中頭の森尾あやめを先頭に女中たちが足音を聞きつけて、玄関の端に一斉に並んで出迎えた。
「ただいま、あやめ。皆も出迎えありがとう」
 光祐さまは、あやめに笑顔を向けた。あやめは、立派になった光祐さまの姿に胸がいっぱいで涙ぐんだ。他の女中たちも光祐さまの健やかな成長に見惚れていた。
「お帰りなさいませ、光祐さん。お帰りを待ち侘びてございましたのよ。祐里さん、ご苦労さま。ご一緒にお茶にしましょう」
奥さまが居間から出てきて、成長した光祐さまを誇らしげに見つめた。
「母上さま、ただいま帰りました」
 光祐さまは、よく透る澄んだ声で挨拶をした。
「奥さま、ただいま帰りました。遅くなりまして申し訳ございません。お茶を入れて参ります」
 祐里は、泣いたあとの顔が気になって、台所に続く廊下の鏡を覗きこんだ。それから急いで洗面室で顔を洗って台所へ向かった。
「ただいま、紫乃さん。魚桜から真鯛は届きましたか」
 笹生紫乃は、奥さまが嫁いだ時に実家から連れて来た婆やで、奥さまのよき相談相手だった。お屋敷の台所を取り仕切り、女中頭のあやめと共にお屋敷の奉公人を束ねていた。紫乃は、光祐さまの好物を腕に縒りをかけて沢山準備していた。
 祐里は、お屋敷では養女と同等の待遇を受けていたが、進んで台所や掃除の手伝いをしていた。紫乃は、祐里を見込んでお屋敷に代々伝わる数々の料理を教え込んでいた。
「祐里さま、お帰りなさいませ。絶品の鯛が届いてございます。坊ちゃまがお帰りになられて、賑やかにおなりでございますね。おやつは坊ちゃまのお好きなお茶と苺のタルトの準備ができてございます。お茶は紫乃が運びますので、祐里さまはタルトのお盆をお願いいたします」
 紫乃の料理は、天下一品。食する人の気持ちに添って料理が食卓に並べられた。紫乃の口癖は『お料理はこころの匙加減で決まります』だった。
「はい。紫乃さん、おいしそうでございますね」
祐里がお盆を抱えると甘酸っぱい苺の香りに包まれた。紫乃の畑で採れた春の香り。
 奥さまと光祐さまは、長椅子に並んで腰かけて、にこやかに話をしていた。その様子に(奥さまのしあわせ溢れる笑顔は、本当に久しぶりでございます。光祐さまがいらっしゃるとお屋敷の中が光り輝くようでございます)と祐里は感じ入った。
「坊ちゃま、お帰りなさいませ」
 紫乃は、朗らかな笑顔を光祐さまに向け、香り高い紅茶を茶碗に注いだ。
「婆や、ただいま。婆やのご馳走を楽しみに帰ってきたよ」
 光祐さまは、変わらない紫乃の笑顔に生家に帰ってきた安らぎを感じた。
「まぁ、嬉しゅうございます。坊ちゃま、紫乃にお任せくださいませ」
 お屋敷は、光祐さまの帰省で、陽だまりの暖かさに包まれていた。

春の朧月夜。祐里は、光祐さまへ紅茶を届けに部屋の扉を叩いた。
「光祐さま、お茶をお持ちいたしました」
「祐里、来てごらん。月が綺麗だよ」
 バルコニーから光祐さまの声。光祐さまの部屋のすぐ横には、蕾を膨らませた樹齢三百年を超える優美な桜の樹が枝を広げている。その枝の間に朧な月がかかっていた。月の薄明かりの中で木立が織り成す陰影が静かな湖のように青く広がっていた。時折明るさを増す月光が池の水面に輝く星空を展開していた。
「光祐さまとご一緒に拝見させていただくお庭は、御伽の世界のようでございますね。天空のようでもございますし、深い海の底のようにも見えてございます」
 祐里は、光祐さまと並んでバルコニーに佇み、幻想的な庭園の風情に感動していた。光祐さまの横にいるだけで満ち足りたしあわせに包まれていた。
「月の光を浴びて、祐里は、この桜の精みたいだよ」
 光祐さまは、庭に感動している祐里の横顔をみつめて、優しく肩を抱き寄せた。祐里は、静かに光祐さまに寄り添い温もりを感じていた。時間が止まったようにゆるやかに流れていた。
 祐里は、お屋敷に世話になった日の事を思い出していた。
 ・・・・・・・・・黒い喪服を着た人たちが行き来し、祐里は、ひとり、部屋の隅に座っていた。いつの間にか隣に光祐さまが座って「ゆうり」と優しく微笑んで手を握ってくださった。福祉施設に行く予定だったのに、光祐さまは、その手をお離しにならなかった。その姿をご覧になられた桜河の旦那さまと奥さまが光祐さまの遊び相手にと、祐里を引き取ってくださった。奥さまは、光祐さまの出産後に体調を崩され、子どもの産めないお体になられたらしく、お二人は、祐里を実の子と同じように育ててくださった・・・・・・・・・。
 祐里は、ご厚意に感謝しながらも遠慮して甘えられないでいたが、事情を知らない人が見ると、桜河のお嬢さまと思われても等しいほどに気品と優雅な雰囲気を持ち合わせて育っていた。
「おばあさまは、ご病気になられてからは、お側に寄せてはくださらなかったのでございますが、亡くなる少し前に私をお呼びになられて『この桜の樹は、桜河のお守りの樹だから、祐里がわたくしの代わりに大切にしておくれ』とおっしゃいました。それから毎日、桜の樹にお話に行くことにいたしましたの」
 祐里の胸の中には、優しいおばあさまの笑顔が蘇っていた。
「おばあさまは、とても桜の樹を大切にされていたし、桜と同じくらい祐里のことを可愛がっておられた。おばあさまは、ぼくと祐里の味方だったものね」
 光祐さまは、いつも背筋を伸ばしてお屋敷の采配をしていた祖母が、光祐さまと祐里には相好を崩し、厳しい顔を見せたことがなかったのを思い出していた。
「祐里、少し冷え込んで来たから部屋に入ろう」
 光祐さまは、祐里の手を引いて部屋の中へ入り、格子の硝子扉を閉じた。
「お茶が冷めてしまいました。温かいお茶をお持ちいたします」
 祐里は、冷めてしまった紅茶を気にかけた。
「お茶はいいよ。それよりもしばらくの間、祐里とこうしていたい」 
二人は、長椅子に座り静かに寄り添った。何も話さなくてもこころが満たされ、しあわせな時間が緩やかに流れていった。
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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章◆ 1

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◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆桜の章...
       桜  物  語


   桜 の 章


   序章

私の名は、榊原祐里。三歳の時に父母を山崩れで亡くし、桜河のお屋敷にお世話になった。母が私を産むまでの数年間、お屋敷の手伝いに通っていたことがあり、旦那さまが孤児(みなしご)の私を引き取ってくださった。
 祐里の『祐』は、光祐さまの『祐』。父母がお屋敷のご長男・光祐さまに肖って、私に祐里と名付けたと、後に婆やの紫乃さんから聞いた。
 お屋敷での私の仕事は、光祐さまの遊びのお相手だった。
中学生になられた光祐さまは、都の学校へと進学された。
「光祐さまが都にお出でになられましたら、祐里のお仕事がなくなってしまいます。祐里は、お屋敷を出て行かなければなりませんの」
 光祐さまが都に発たれる前日、私は、恐る恐る光祐さまに問うた。
「ぼくは、しっかり勉強をして立派な男になって、祐里のもとに帰って来る。祐里は、ぼくのお嫁さんになるのだよ。それまでの祐里の仕事は、父上さまと母上さまに甘えて、お二人を淋しがらせないことだ。頼んだよ、祐里」
 光祐さまは、私の手を握っておっしゃった。
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はじめに

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はじめに
4年前の梅雨にたった一人の弟が突然逝きました。今まで二人姉弟だったのに、突然ひとりっ子になってしまいました。

通夜・葬儀の日、泣かなかったわたしに息子たちは「冷たい母」だと今でも言います。
悲しみは、涙だけでは、表現できない時もあるのです。

その翌年の秋から、20年ぶりに文章を書きたくなって、一気に書いて2年がかりで加筆訂正しました。
わたしは、もう千回くらい読みました。
ひとり言のようにここに記していきます。


◇◇◇桜物語◇◇◇

・・・はじめに・・・

日本人は、桜の花を愛します。
私も桜の花が大好きです。

生家に桜の樹がありました。
毎年、私の誕生日を祝ってくれるかのように
満開の花を咲かせてくれました。
その桜の樹は成人して数年後の台風で
折れてしまいました。
今は、もう、ありません。
ほのかな薄紅色の花と黄緑色の葉を同時に
楽しませてくれる桜でした。
母がその葉で桜葉餅を作ってくれました。

いまでも私のこころの中の桜は満開です。
その想いをこの『桜物語』に籠めました。
生きていくにはいろいろなことが起こるので
ひとを思いやり信じるこころや
自然の神々の力を呼び覚まし
桜の花を愛でた時のような気分に浸れるよう
ただただ
しあわせな物語を書きたかったのです。
是非、素晴らしい桜の風情と究極の愛を
あなたのこころに感じてください。



    ◇◇◇桜物語・目次◇◇◇

  ◆ 桜 の 章 ◆
   ・序章
   ・桜の樹
   ・大蛇
   ・花蕾
   ・守り人
   ・秋桜
   ・紅葉
   ・遺言
   ・陽光

  ◆ 柾 彦 の 恋 ◆
   ・追憶
   ・杏子〈きょうこ〉
   ・恋慕
   ・美月〈みづき〉
   ・祐雫〈ゆうな〉
   ・萌 〈もえ〉
   ・笙子〈しょうこ〉
   ・紫乃〈しの〉
   ・笙子〈しょうこ〉
   ・告白
   ・桜の姫

  ◆ 追 章 神 の 森 ◆
   ・宿命
   ・神の森
   ・誘惑
   ・出生
   ・蜘蛛の糸
   ・静謐
       
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