「大人になったら何になりたい?」
と子供の頃に聞かれた
甲子園の高校野球を観て、
「野球の選手になりたい」と思った
そしてリトルリーグに入った
Bruce Leeの”燃えよドラゴン”を観て、
「強くなりたい」と思った
そして空手道場へ行った
”Top Gun”を大スクリーンで観て、
「戦闘機のパイロットになりたい」と思った
フロリダで航空機の免許を取った
現実には、
憧れたことのない不動産業を営んでいる(笑)
この歳になっての憧れは、
本当の意味で「大人になりたい」
ゆとり、落ち着き、信念、
を心に持つ人
これは生涯のテーマなのだろう
毎日の生活がそれを鍛錬する道場
物事思い通りに行かないことがある
思い通りに行かないことは多い
物事のほとんどは思い通りに行かない
結果へ執着をしたとき苦しかった
結果への執着を手放したら楽になった
予想外の出来事、それらへの反応で今がある
予想と異なる展開=悪いこと、ではない
ガッカリや途方に暮れることもある
仕切り直し、方向転換、再スタート
人生はその繰り返しなのだろう
思い通りにならないお陰で、
違う視点を持てるようになった
少し打たれ強くなった
以前より人を許せるようになった
高齢の母が大きな手術を行い、お見舞いで短期帰国をした。
療養中の母と時間を過ごし、弟夫婦と歓談の機会を持てた。
ロサンゼルスへの帰りの飛行機の中でいろいろ考えさせられた。
人々が人生の後半のステージへ移って行くのを目の当たりにする。
私を含め、みんなに回ってくる順番。
40代までは勢いで来れる。
50代以降はそれまでの生き方が表に出てくる。
末が広がる人、尻がつぼむ人。
どこにその違いがあるのだろうか?
”我”が減る=心が豊かになる=末が広がる
”我”が強まる=心が貧しくなる=尻がつぼむ
数多くの人たちと出会ってきて、この例外を見たことがない。
”我”を減らし、余計な”欲”を減らし、
頭の中の雑音が減り、心が落ち着き、不安や心配が少なくなり、
優しくなれる。
先日、著名な和尚さんと個人的に会うご縁に恵まれた
仏教を知らない私の心に彼の言葉がスッと入ってきた
*****
皆さんが苦しみを持つのは「欲」があるからです
人生は自分の思い通りにはいかないもの
自分で怒り、悲しみ、恐れ、嫉妬や後悔を創りだし
それらの妄想に苦しんでいる
欲の根源は「死」への恐怖です
遅かれ早かれみんなこの世を去る日がきます
死を受け入れることで観点が大きく変わる
私が恐れるのは死ではなく
生きている間になすべきことをしないこと
過去への後悔、未来への心配を横において
「今日をどう生きるか」を問うています
あの人に謝っていない、”ありがとう”を伝えていない
あのことへ挑戦していない、あの地を訪れていない
すべきことは沢山ある
妄想に頭と心を奪われている時間はないのです
*****
宗教の枠を超え、学ぶべき人生哲学だと感じた
和尚さんの万人を受け入れる深く穏やかな目
牧師さんや友人のお母さんに同じ目を持つ人がいた
「生老病死」を受け入れ、
「今」を生きようと思った
日本には、食事の際に手を合わせて「いただきます」と言う美しい文化がある。
食事を用意してくれた人は勿論のこと、食材を漁したり育てたり加工したり、
食事に携わった人たちへの感謝だと理解していた。
もうひとつ、
「命をいただきます、という意味がある」
と聞きハッとした。
普段の食事を思い起こすと、
野菜や果物や穀物、そして魚介類や肉類や卵など、
どれも「命」である。
他の命を自分の命にさせていただく
食べ物を無駄にしたり、出されたものへ好き嫌い言ったり、
犠牲になってくれた命に申し訳ない、粗末にできない。
「いただきます」
と言うときの気持ちが変わった。
手を合わせ、より深い感謝が湧きあがってくる。
誰でも、頭にくる、腹が立つことはある
「ちくしょう!」「悔しい!」と感じることはある
それは、時として大きな力になりえる
悪い方へ向けると自分や他を傷つける
良い方へ向けると新しい世界の扉を開ける
実は、私が不動産業へ入ったキッカケは「怒り」だった
ある不動産エージェントに見下された態度を取られ、
「ちくしょう!こいつの競争相手になってやる!」
知識も経験も計画も無く、感情の勢いだけでRE/MAXの門を叩いた
顧客ゼロ、収入ゼロ、でも宣伝広告でお金は出ていく日々…
泳げないのに浮き輪も持たずに海に飛び込んだ愚か者
何度も溺れそうになり、後戻りできずもがき続け、
気が付いたら対岸に泳ぎ着いていた
「悔しい!」という思いが支えてくれた
「怒り」の感情はできれば持たないほうがいい
でも「ちくしょう!」と思ったら挑戦するチャンス
「怒り」で他を攻撃するのでなく、
その力で自分を強くする
我慢とは、「堪え忍ぶこと、辛抱すること」と一般的に認識されている。
その意外な由来に驚かされた。
本来の「我慢」とは、
自分がこの世で最も大切な存在であるという我への執着心、
そして自分は誰よりも尊いという慢心を意味し、
「高慢」「驕り」「自惚れ」などと同義語であった。
つまり「我慢=高慢」。
人に弱みを見せまいと外面を装うことで、後に現在の「耐え忍ぶ、辛抱」となった。
私の認識とは真逆な背景があったことを学んだ。
この語源を知ってから、物事が思い通りにいかなくストレスを感じると、
「我を張っていないか?」「慢心していないか?」と自問するようにしている。
それでもイライラしたり、文句や言い訳がでたり、、、
未熟者だと痛感させられる。
他からの拘束や支配が無く自分の意思に従って生きる、
という人間の基礎的な欲求。
この言葉の由縁をご存知ですか?
明治時代に福沢諭吉氏が、英語のLibertyやFreedomを「自らをもって由となす」と訳したのがその始まり。
他から与えられるものではなく「自らの意思を行動の理由とする=自己責任」で得られるもの。
私は「他に迷惑を掛けなければ何をしても、またしなくてもいい」といった無責任なイメージがあった。
自由には責任が伴う
なるほど…責任が不在だと自分勝手で無謀。
とても納得。
自分の意思と行動に責任を持ってLibertyやFreedomを楽しもうと思う。
コロナを経て3年振りに日本で年末年始を過ごした。
高齢になる母親との時間、弟夫婦や学生時代の友人たちとの時間。
自分の人生も折り返し地点を過ぎ、いろいろと感じ、思い、考えることがあった。
これからの半生をどう生きるか?
何を最終目的にするか?
自問自答を繰り返し「知恵」という言葉に行き着いた。
”知識と知恵”はどう違うのか?
”知識”とは、物事について知っていること。英語ではKnowledge。
「知恵」とは、物事の道理を判断し真理を見極める力。英語ではWisdom。
私が得ていたのは”知識”であって「知恵」ではなかったことに気付かされた。
時代を超え、国や文化そして宗教を超え、普遍的なこと。
これからの半生は「知恵」を理解し育んで行こうと思う。
4年に一度のワールドカップ・サッカーはスポーツに関心の無い人たちも観戦する世界的な大イベント。
その舞台で日本代表は強豪相手に素晴らしいプレーをし、世界へ感動を与えてくれました。
また、サッカーという競技を超えて日本の選手、監督、会場のファンの立ち振る舞いが多くの脚光を浴びました。
>対戦相手をヤジらない、審判へ食って掛からない
>選手はロッカールームをどの国よりも綺麗に使い、ファンは試合後に
観客席を掃除する
>監督はファンへそして相手のチームへ感謝を表する
「日本は尊重、節度、スポーツマンシップの模範を世界へ示した」
「日本文化から学ぶことが沢山ある」
世界中の人たちから絶賛のコメントがSNSに溢れています。
昨年のゴルフのマスターズで日本人初の快挙を成し遂げた松山選手の早藤キャディーが、最終ホール終了後に脱帽してゴルフ場へ敬意を示した姿が話題になりました。
心、技、体
日本の心が世界へポジティブな波及効果を生んでいます。
祖国を離れて生きる私にとって
「日本文化の素晴らしさを忘れない」
「日本人として恥じない言動をする」
という良い気付きになりました。
頑張れ日本!
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