物事において、
学業や、スポーツや、仕事などで、
人より秀でることは決して簡単ではない。
それでも、
状況や環境にたまたま恵まれたり、
ちょっとした努力がいきなり結果につながったり、
思わぬチャンスが巡ってきたり、
一時的に人より秀でる、
という体験をした人は少なくないと思う。
“一時的”な成功は、
実はそれほど難しくない。
私ですら、
学業、スポーツ、仕事など、
一時的な成功は何度か体験している。
本当のチャレンジは,
それを“継続”させること。
周囲の人たちが浮き沈みする中で、
継続して高いレベルを維持するのは並大抵のことではない。
それを成し遂げるために、
新しいテクニックを求めるのは愚かである。
すべては不変の
「原理原則」
この原理原則を理解し、実行することで、
“不変の基盤”が備わる。
時代を問わず不変=当たり前のこと。
「当たり前」をしている人は、非常に少ない。
それをできる人が、
“継続”を手に入れる。
故マザーテレサ女史は、沢山の素晴らしい言葉を残されています。
今日は、その中のひとつを紹介します。
> 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから
> 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから
> 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから
> 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから
> 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから
正しく、”引き寄せの法則”そのものです。
私が心から尊敬する故マザーテレサ女史も、
同じことを言っておられたのですね。
思っていることは言葉に出る。
いつも言っていることは行動へ大きな影響を与え、
その行動を無意識に繰り返し、習慣となる。
そして、それはその人の人柄となり、
気付いたら、それが自分の人生を作っていた。。。
すべてが「思考」に起因する。
思考=運命
本当なんだなぁ、とつくづく感じた。
この言葉を心に刻もうと思う。
この大切さは誰でも理解している。
コミュニケーションの基本は、
自分の言いたいことは横に置き、
まず、
“相手の話しを聞く”
こと。
“相手の話しを聞く”
とは、どういうことか?
私を含めて、ほとんどの人は、
自分の主観からの言いたいことが沢山あり、
それを我慢して、
話しを聞いている“フリ”をする。
相手の目を見て、
相槌を打って、
なるほどぉ、そうですねぇ、、、
その間、
実は、相手の言っていることを理解しようともせず、
頭の中で自分の言いたいことを考え、
相手の話しが終わり次第、すぐに発言したくてウズウズしている。
“相手の話しを聞く”とは、
> 自分の主観も価値観も常識も、すべて横に置いているか?
> 相手の異なる思考へ興味を持って聞いているか?
> 自分をその人に当てはめて、理解しようとしているか?
コミュニケーションは、
私生活でも、仕事でも、
人生の明暗を分けるほど重要な要素である。
それなのに、その理解や認識がほとんどない。
相手を本当に内側から理解しようとする姿勢、
それには勇気と辛抱がいる。
相手の話しを聞くとは、相手を受け入れること。
受け入れられて初めて人は心を開き、
本当のコミュニケーションが始まる。
これらがわかっている聞き手は、
「受け入れる」と「同意する」
は、別であることを明確に心得ている。
自分の中に“軸”を持っている人だけができること。
「人生は短距離走ではなく、長距離のマラソンである」
誰でも聞いたことがある話しである。
それなのに、
この世の中には、
“一時的なダッシュの仕方、
いかに楽をしてすぐに結果をだすか?”
という話しで溢れている。
そして、そういったその場しのぎの方法でも、
短期的な成果がでたり、一時的に目立つこともある。
だから、
みんなそれに飛びつく。
地道な努力を軽視し、
基盤作りを忘れ、
すぐに結果を求める、
一時的なダッシュが続かなくなると、
次の旨い話し、楽な方法を探そうとする。
地道な努力、基盤作り、すぐに結果がでなくても持続する辛抱、
私はそういった、
一見効率のとても悪い、
長距離走ランナーを目指している。
それら無しには、何も得られないことに気付いたから。
実は、その面倒を愚直に行うことが唯一の近道。
「長距離ランナーになる決意と覚悟」
それがスタート地点。
それが無い人は、スタート地点にも立っていない。
“旨い話し”
の先にゴールは存在しない。
I have to do this…
I have to do that…
実は、
「しなくてはならない」
ことは何も無い。
「どうしてもミーティングへ出なければならないので、今日はあなたと時間を過ごせない」
> そのミーティングへ出なかったらどうなるのですか?
「とても大切なミーティングなので、もし出席しなかったら職を失うことになるかも知れない。。。」
> ということは、職を失いたくないので、私と時間を過ごすのではなく、そのミーティングへ行くという選択をしているわけですよね?“しなくてはならない”のではなく、選択ですね?
みなさん、
この違いがわかりますか?
この世の中、「しなくてはならないこと」は存在しない。
すべてが“選択”です。
だから、
「I have to…」
という表現を辞めて、
「I choose to…」
という習慣をつける。
そして、
自分で選択している以上、
そのことへ責任を持つ。
人のせいにしない。
“やらされている”
のでは無く、
“自分の意思でやっている”
私を含めて、
多くの人たちは、この意識が低い。
だから、
うまくいかないとすぐに人のせい、 周囲のせい、状況や環境のせい。
結局は、自分で決めている
ここを理解できたごく少数の人だけが、
次のレベルへ上がって行く。
自分の選択、
自分の責任。
「こうなったらいいなぁー」
「ああなりたいなぁー」
みんな夢を持っている。
そして、
ほとんどの人は、
夢は夢のまま終わる。。。
自分の夢や理想を
空想しているときって、心地良い。
現実からの逃避…
毎日の喧噪から意識が離れ、
今抱えている問題を一瞬忘れ、
空想の世界を漂う、
そして、
意識が現実へ戻ったとき、
そのギャップにため息がでる。
誰でも経験していること。
それでも、夢は夢のまま。。。
それに近づこうと努力をする人はほとんどいない。
何故だろう?
過去にちょっと努力してみたけどうまく行かなかった。
自分にはその能力がないと諦めている。
失敗したらすべてを失うリスクがある。
だから、
夢は夢のまま。。。
たまに現実逃避して、
「こうなったらいいなぁー」
「ああなりたいなぁー」
あなたが現実逃避の空想をしているときに、
それを現実にしようと、本気で、
転んでもつまずいても諦めずに努力している人がいる。
あなたが無理だと思っていることを、
「絶対にできる」と信じて挑戦している人がいる。
ちょっと変人、
狂気の沙汰、
型破り、
だって、
普通の人たちは、
夢は夢のままだから。。。
私にも、
変人、狂人、型破りになる勇気があるはずだ。
If you never chase your dream,
You will never reach it.
この世の中を見ていて、
責任とは取るものではなく、回避するもの
という風潮がある。
責任を認めようものなら損をする。。。
私も、責任回避をしたことは何度もある。
自分以外にも要素があるのは事実だから、
自分の落ち度をそのまま直視したくなかった。
みんな同じなのだろう。
だから、
「それは私の責任です」
自分から進んで認める人がいると、みんな驚く。
本当はそうあるべきだとわかっていても、
そう言った後で、どんな責任が待っているのか、
責任を認めることで、指を外へ向けられなくなる。
言い訳も、自己弁解もできなくなる。
指を自分へ向けるのってとても勇気がいる。
責任と向かい合うと、
その潔いエネルギーに引き寄せられて、
周囲が解決と改善へ協力してくれる。
責任と向き合う生き方、を実践したいと思う。
ある日、私が娘と一緒に食事へ行ったときの出来事。
レストランの入り口近くで一人の年配の女性が座っていた。
私と娘が通りかかると、
「Mr. I want to go home but I have only $6 in my hand. I need $12 more so that I can ride a bus to get home. Please help me. I have no family, no one to ask for help…」
こういう体験をした人は少なくないと思う。
私も何度もある。ほんどのケースは取り合わないようにしていた。
その日、その女性の目を見て、「もしかしたら本当に困っているのかも知れない」と思った。
「本当に困っているのですね?
それなら貸します。あげるのではないです。だから必ず返してください。
私も毎日一生懸命働いて得たお金です。あたなを信じて$20を渡します。」
ポケットから$20札を一枚だしてその女性へ手渡した。
私へ返金の連絡ができるように私の携帯電話番号も渡した。
その女性は$20札を受け取ると、私の目を見て言った。
「I will definitely pay you back right away. I will call you tomorrow.」
そして私たちがその場を去って行くとき、
「Thank God. Thank God.」
と天に向かってつぶやいているのが背後から聞こえた。
私の10才の娘は黙ってこのやり取りを見ていた。
それから3週間、
その女性から連絡はない。
絶対にすぐ返金すると言っていたあの言葉は嘘だったのか?
作り話でいつも人からお金をもらっている人なのか?
いや、もしかしたら私の携帯電話番号を無くして連絡できないのかもしれない…
今までの人生で、
「本当に困っているから助けて欲しい」
と頼まれてお金を貸したことが何度かある。
悲壮感漂い、すがるように懇願し、土下座をした人もいる。
結果として、私が貸したお金がもどってきた例はほとんどない。
かなりまとまった金額を貸したまま、音信不通になった例もいくつもある。
その相手が通りがかりの人ではなく、友人や知人であればこそ、助けてあげたい、必ず返してくれると信じたい気持ちになる。
人にお金を渡す際、人に助けの手を差し出す際、
見返りを求めない、という覚悟が必要なのかもしれない。
名前は覚えていないが、深くシワの刻まれたあの女性の顔をまだ覚えている。
なぜか、裏切られた、という気持ちが湧いてこない。
幸福な人生を送ってもらいたい、と思う。
父が他界した。
正月に私が帰国して両親と時間を過ごしたときには元気だった。
79才、心筋梗塞だった。
子供のころ、父はいつも仕事で忙しく、一緒に遊んだ記憶はほとんどない
不動産業を営んでいた父は、いつも「物件、物件」と言っていた
ときには、電話口で辛そうな顔をしていることもあった
家族を守るために、お客様のために、
彼は毎日戦っていたのだと思う。
日本の弟から、
「突然ですが、今朝父が亡くなりました」
との報告を受けた。
異国に住んでいる私には、その突然の知らせを聞いても実感がなく、
冷静にその日を過ごした。
夜、
様々な思いが頭を駆け巡り、寝られなかった。
朝になり、
急に涙があふれてきた。
父はバブルのときに大儲けに走らなかった。
「嘘をつくな、正直であれ」
その信条を通した彼は、業界では異質な存在だったと聞く。
バブルが崩壊し、多くの同業者が夜逃げをしたり、借金を抱えて倒産したり、
そんな過酷な状況で、父は生き残った。
「嘘をつくな、正直であれ」
私が父の背中を見て教わったこと。
私がその信条を継承することが、
父への最大の供養であり、
息子である証
これは、私たちに与えられている最強最大のパワー。
「選択=人生の進行方向を決める」
強調しきれないほど、重要なこと。
それなのに、そのパワーを使っていない人(私を含め)がほとんどのような気がする。
毎日の生活で自分のコントロール外のことは沢山ある。
状況、環境、出来事などなど。
それらのコントロール外のことへ対して、
自分の対応が無意識のうちに受け身になっていることに気付いていますか?
朝起きた瞬間から、夜寝るまで、
その日の状況、環境、出来事へ、
ほとんど流された対応をしている。
過去の経験から、周囲の人たちの影響から、
自分でも気付かないうちに、
来る日も来る日も、受動的な反応を繰り返している。
“選択の自由”って何のこと?
毎日、数十、数百の場面で、
> どう受け止め
> どう反応し
> どう対応するか
それを選択する自由が我々に与えられている。
過去に何かが大きく変わった経験があるはず。
そのときに、あなたは意識的な「選択」をしていた。
今日は、100ある出来事のうち、
3つだけ今までとは違う意識的な選択をしてみよう。
明日はまた3つだけ、明後日も3つだけ、
それを繰り返すことで、大きな船がゆっくりと方向転換するように、
人生の進行方向が変わり、周りの景色もそれに合わせて変わってくることを実感できる。
選択は、するも、しないも自由。
良い選択をするも、悪い選択をするも自由。
幸せも、選択である
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