ふぅ波
Jan
16
津波警報は未明に解除された模様。
今朝のYahoo!は通常どおりのデザインだった。
姉たちは解除される少し前に山を下り、家に戻ったらしい。一晩中、駐車場の車内で過ごしたせいで、そのまま泥のように眠ったよう。まるちゃんもやっと落ち着いたみたい。
空振りになった避難劇、疲労困憊の中、少々「早まり過ぎたかも」という気持ちが残ったようだが、いやいや、避難して大正解です。お疲れさまでした、と、言えることに感謝したい。
姉2が母と一緒に暮らしていた頃、あれはいつだったか。
同じように津波の危険ありということで避難準備だか避難勧告だかが出されたことがあった。
姉は、とりあえず必要なものをバッグに入れ、母を連れて戸外へ出た。
あの頃、母はまだ歩行器を使って歩けたので、よっちらおっちら、母と山のほうへ向かった。
母のことを考えて早めに行動した姉、近所の家々に動きは見られなかったようだが、そんなことは気にせず、母を連れて歩く。
我が家から少し上がったところに教会があるが、そこでは安心できない。
もう少し上がったところには神社があり、そこは階段をずっと上がっていかなければならないので、母には無理だろうと判断、そのまま山道を進んだ。
海岸線からそれなりの距離かつ高度的にも大丈夫だろうと思ったところに落ち着いたらしいのだが、それにしても町内は至って普通。
しかも、母と歩いている途中、近所の人から「まだそんな段階じゃない」的なことも言われたとか。
この時も、結局は事なきを終え、母とおっちらおっちら家に戻ることになる。
この話は、後になって姉自身から笑い話として聞かされたのだが、わたしは姉の気持ちがよくわかった。
母は、その昔、チリ地震津波を経験している。
その頃、わたしの両親は母の父親と同居していた。
父親(わたしの祖父)は病気がちで、いつも床に臥せっている状態で、母は祖父を介護しながら暮らしていた。
そんな中、津波警報が出た。
町のサイレンが鳴り、人々は皆、山のほう、高いところへと向かったという。
考えてみれば、わたしはまだ生まれていなかったが、兄や姉たちはもうこの世にいた頃だ。
母はその話をよくしていたのに、今になってもっとちゃんと聞いておけば良かった、と後悔している。
姉2は母からのその話を何度も聞いていて、よく覚えている。
わたしが聞いた話は、姉からのものだったのかもしれない。
「置いて行かんでくれよー」
強烈に覚えているのは、祖父が母に放ったらしいこの言葉だ。
寝たきり、と言っても良いような状態だったのだと思う。母は、そんな祖父を連れて、とにかく逃げた、と。
その時、父は(父もまだ生きていた)、一目散に駆けて行った、と。
祖父を残して、子供達を連れて。
わたしたちは母からその話を聞いた時、父ちゃん、非情だわーーーと、笑ったものだ。
でも、今さらながら、母はどんな気持ちだったろう、と思う。
島の津波は19:50到着、0.5mと記録されている。
被害はなかったと思う。時間的にももう暗くて辺りは良く見えない頃だろう。ふぅ波は見えなかった?でもきっと打ち寄せる音は聞こえたのかも。
記憶がおぼろげだ。
姉ならもっと良く知っているので、また詳しく聞いてみたいと思う。
昨日、避難しているときに姉と話したのだが、母がいたらどんなに怖がっただろう、と、言っていた。
「いなくて良かったよ」
と、返した。
「うん、いたら、ものすごく怖がったと思う」と姉が言うので、
「もし母ちゃんがいたら、トイレがあっても大変じゃ」
と返すと、笑っていた。
姉は、とても優しい。