従来の生産性向上は、肉体労働における生産性を問うものであった。経済学でいう資本と技術が生産要素であり、経済学者は資本と主役とし、技術者は技術を主役として生産性向上に努めてきた。肉体労働の場合には、人は一時に一つの仕事しかできず、生産性の向上は目的を問うことでなく、「如何に行うか」が焦点であった。しかし、知識労働の生産性向上には、「何が目的で、何を実現し、何故それを行うか」といった目的の定義と集中、そして仕事の分類・専門化と同時のプロセスの分析が必要になる。
例としてドラッカーは米国の病院における看護婦の仕事の改善を上げている。ある病院では、看護婦は本来の看護という仕事以外のペーパーワークに時間の半分を忙殺していたそうである。そこで、そうした専門知識を要しないペーパーワークを病棟職員に回したところ、看護婦の数が四分の一に削減できて、結果的に人件費を増やすことなく給与を上げることができたという事例を挙げていた。
医療業界では医師や看護婦の不足は言われているが、仕事の本来の目的、専門化、プロセスなどを見直し、肉体労働者とのパートナー関係で生産性は向上されると考えられる。ただその場合不可欠なのが、その知識を学ぶということと同時に教えること。また今日の情報化社会では知識の陳腐化が激しく、継続した学習が求まられる。
以前、ある技術者(彼はイギリス出身)に「Work wisely, not word hard!」と言われたことがある。日米間を毎月のように往復してクタクタになっていた当時の自分にはカチンときた言葉であった。しかし、冷静に考えてみるとManagementの立場で自分でしか出来ない仕事を如何に集中、専門化して行うかという生産性からみると最悪であっただろうと思う。つまり、彼のいうとおりの部分があったと反省している。日本人的な人情というか感情論では、長い労働時間で働いていることを美徳とされることがあるが、冷静に考えると能力がないから悪戯に時間がかかっているだけ。もし能力の問題でなければ、Managementが人の補充や仕事の分散という別次元の対応が必要なのかもしれない。
極端な比較になるかもしれないが、「どうやってお金を儲けるか?」が従来の生産性向上である「如何に行うか」に当たり、「どうしてお金を儲けるか?」が問われている生産性の向上である「何故それを行い、何を実現したいか」に当たるといえる。そして、そのためのプロセスの分析が「如何に行うか」であり、それは目的達成手段であって、主役ではない。
経済発展途上のプロセスにおいては、どの国においてもがむしゃらに頑張ってきたのが当然の成り行きであり、それを否定するものではない。豊かになるためにどうやってお金を儲けるかという手段の生産性向上が求められる。しかし、今日先進国は、次のステージに入っている。豊かさという定義を物心両面で考えなおす時代になっているということだろう。エコロジーや高齢社会のおける医療などが生産性の向上として課題になってきているのはドラッカーの予測した方向性にあたるのかもしれない。
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