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岩魚太郎の何でも歳時記

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昭和を生きた物語

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子供たちの視線が自転車に集中し... 子供たちの視線が自転車に集中しています。新車でしょうか? 戦後の混乱期国鉄時代、多くの路... 戦後の混乱期国鉄時代、多くの路線は蒸気機関車でした。 昭和・その戦後の混乱期を、四郎... 昭和・その戦後の混乱期を、四郎という8歳の幼年が、選択のない運命を、必死で生きた物語を書きました。 四年の歳月をついやし完成させた... 四年の歳月をついやし完成させた労作ですが・・・完成させた作品をどう扱うべきか・・・空しい気分です。
あらすじ
 昭和二十年七月十四日。
 青森県陸奥湾沿いにある「青森造船」、そこに勤務する造船技師の国松三郎(28歳)・妻菊子(24歳)・四郎(8歳)が社宅に居住していた。その隣人には、夫を赤紙(召集令状)で戦場に取られ、残された山田早苗(22歳)・裕子(4歳)がいた。
 親しくしていたその家族国松三郎に、広島県呉市にある「呉造船秘密工場」への転勤命令が出された。その旅立ちを青森駅で見送ったのは早苗親子。その別れ際、幼き四郎と裕子の手に持った〝こけし〟がふられ、「指切りげんまん」の声と共に、蒸気機関車の吐き出す黒煙に包まれ、幼き二人には、選択肢のない別れを強いられた。

 その後父三郎は呉造船秘密工場へ、菊子と四郎は、松山市内ある呉造船社宅へと向かったが、その深夜、松山市は大空襲に見舞われた。空襲からの避難の際、防空壕を入ろうとしたが拒否され、焼夷弾(焼夷剤と少量の炸薬(さくやく)とを入れた爆弾)と爆弾が降る中逃げまどった。翌日防空壕前で目にしたのは、防空壕の入り口に焼夷弾が直撃全員が死亡、筵の上に死体が並べている光景を目にした。防空壕に避難していれば菊子と四郎はこの筵の上に横たわっていた……母菊子の意志とは違った選択を、他人の意志で決められた事実、幼き四郎は、生きるということは「こんなことなんだ?」と、理屈ではなく、選択不可の「運命」だと捉えていた。

 それからまもなく終戦を迎えた。戦後食糧難の中、夫三郎からの手紙が来た。内容によると「病で別府温泉病院入院している」とのこと。母菊子と四郎は、夫を訪ねて病院に向かった。そこに待っていたのは、夫に寄り添って看病していた若い女和子であった。三郎は「全快したら必ず迎えに行く! 待っていてくれ」と言ったが、菊子は夫に捨てられた……と思った。世相は戦後の混乱期である。生きていけないと思った。母菊子は松山への帰路、船上から、瀬戸内の海へ身を投げるしか無いと考えた。その思いをとどめたのは、四郎の悲しい瞳であった。(以下省略)

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