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太平洋戦争で戦死した盛岡市出身者の名前が記された日章旗がアメリカで見つかり、26日、遺族に引き渡されました。
こちらが盛岡市出身の戦没者、谷藤幸二郎さんの名前が記された日章旗です。26日は盛岡市の谷藤市長が市内に住む遺族2人に旗を手渡しました。谷藤さんは太平洋戦争に従軍し、1944年6月にパプアニューギニアで戦死しました。旗は出征前に名前が書き入れられたもので、戦後は元アメリカ兵が保管していました。その家族が返還のため遺族を探していたところ、去年判明し、終戦から75年あまりの時を経て遺族のもとに戻りました。幸二郎さんの甥にあたる佐藤勝利さんは「青天の霹靂だった。良く帰ってきたという気持ちです」と話していました。https://news.ibc.co.jp/item_42751.html
戦争遺留品返還式/令和3年2月9日(火)
戦争遺留品の返還式が滋賀県公館で開催されました。
このたび、県内3名の方の戦争遺留品が御遺族に返還されることになりました。本市では、故山田芳蔵様の日章旗が、戦後75年の時を越えて返還されることになり、大変喜ばしいことであります。今回の返還式に立ち会えたことで、戦争の無い平和な世界を築くことの大切さを改めて感じました。戦没者の皆様に追悼の誠を捧げますとともに、御霊の安らかならんことをお祈りします。
http://www.city.higashiomi.shiga.jp/0000012874.html
滋賀報知新聞 2021年3月09日(火)
【寄稿】滋賀県知事 三日月 大造
「健康しが」をめざして 平和への誓いを新たに暦では5日が「啓蟄(けいちつ)」。まだまだ寒い日もありますが、少しずつ、日差しの中に春の気配が感じられるようになってきました。
春は別れと出会いの季節です。コロナとともに、コロナを乗り越え、新たな一歩を踏み出せるよう、一日一日を大切に過ごしてまいりたいと思います。
さて、先日、滋賀県公館において、「戦争遺留品返還式」が執り行われ、私も立会させていただきました。
今回、滋賀県ご出身である三名の方の遺留品が、関係の皆様のご尽力により、ふるさとへ戻ってまいりました。出征にあたり、多くの方から寄せ書きされた日章旗、日々の行動記録が記された軍隊手帳を、私から、ご遺族の皆様にお返しさせていただきました。戦後七十五年を経て、ふるさと滋賀へ戻ってこられた御英霊の御霊に、改めて心より哀悼の誠を捧げます。
「戦争遺留品返還式」にて。戦争の悲惨さ、平和の尊さを痛感しました。
返還式では、滋賀県遺族会相談役の國松善次元知事より、「これらの遺品は無言ではあるが、戦争の悲惨さ、平和の尊さ、友好の大切さを、誰よりも何よりも訴える力をもっている。ぜひ次の世代に伝えてほしい」とのメッセージをいただきました。改めて、滋賀県知事として、このことを深く心に刻みたいと思います。
戦争体験の風化が懸念される今日、二度と戦争の惨禍を繰り返さないために、私たちは、先の大戦において国内外で犠牲になった人びとに思いを寄せ、戦争の悲惨さや平和の尊さを学び続けなければなりません。
東近江市に滋賀県平和祈念館を開設してから、来年で十周年を迎えます。これまでに収集した資料は四万点以上。また、二千人以上の方に戦争体験などを語っていただきました。貴重な資料や証言から紡ぎ出される平和への願い。この思いをしっかりと受け止め、次の世代へ語り継いでいくことが私たちの使命です。
平和と友好の輪が世界に広がるよう、頑張りましょう、共に…。
http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0033611&fbclid=IwAR2vb2nIQblTH4a2QA1r9CVgodfLAG2bG_VTdazxL1m6VPEtftasO4CR9FA
1枚目 米国から戻ってきた日章旗や軍隊手帳を持つ遺族ら=2021年2月9日、大津市京町4丁目の県公館 2枚目 遺族に返還された軍隊手帳=大津市京町4丁目 3枚目 軍隊手帳を見せる遺族=大津市京町4丁目 4枚目 米国から戻ってきた軍隊手帳をのぞき込む遺族ら=2021年2月9日、大津市京町4丁目の県公館 5枚目 返還された日章旗などの遺留品を掲げ、三日月大造知事と記念撮影する遺族ら=2021年2月9日
寄せ書き入りの日章旗など、太平洋戦争や満州事変に出征して亡くなった3人の遺留品が9日、滋賀県公館で遺族らに返還された。米軍兵士が戦地から持ち帰るなどして米国にあったもので、返還活動を続けるオレゴン州のボランティア団体「OBON(オボン)ソサエティ」と県遺族会の協力で実現した。
遺留品は計3点。日章旗が2点あり、サイパン島で戦死した岡田勘平さん=米原市=とフィリピン・レイテ島で戦死した山田芳蔵さん=東近江市=のものだったという。もう1点は、満州事変に出征して帰国後に亡くなった辻英次さん=甲賀市=の軍隊手帳。
このうち山田芳蔵さんの日章旗は、東近江市の元健康福祉部長、山田明宏さん(61)が受け取った。数年前に同市で返還式に携わったことがあり、「まさか自分が受け取る側になるとは」と驚いていた。
芳蔵さんは、明宏さんの祖父の弟。遺骨は戻っておらず、明宏さんは「若くして戦死してかわいそうだった」と語る祖父の姿を覚えている。「こういう形で故郷に帰ってこれた。祖父が生きていたらどれほど喜んだことか。ゆっくり休んでほしい」と話した。
辻英次さんの軍隊手帳には、日々の行動などがきれいな字できちょうめんに書かれていた。英次さんの兄の孫、善明さん(56)が受け取った。
英次さん兄弟は、善明さんの祖父も含め3人が戦死した。善明さんの祖母も約20年前に亡くなり、当時のことはよくわかっていない。善明さんは「親戚と手帳を読んで、どういういきさつだったか考えてみたいです」と語った。
小学1年生のときに父が戦死し、現在は県遺族会とOBONソサエティの橋渡し役を務めている国松善次元知事(82)は「返還された品々は無言だが、戦争の悲惨さ、平和の尊さ、そして友好の大切さを雄弁に語っている。次の世代にぜひ伝えてほしい」と話した。
https://www.asahi.com/articles/ASP2K71W4P29PTJB009.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
70年以上の時を経て遺族に返還された日章旗などの戦争遺留品(大津市京町4丁目・県公館)
太平洋戦争に出征した滋賀県内の兵士の遺留品がこのほど、遺族に返還された。武運の祈りを込めて寄せ書きされた日章旗などを手にした遺族は戦没者に思いをはせ、70年以上を経ての帰還に、静かに喜びをかみしめた。
遺留品を遺族に返す活動をする米国の非営利団体「OBON SOCIETY(オボン ソサエティー)」から昨年9~11月、米国の兵士らが持っていた遺留品3点の情報提供があり、滋賀県遺族会が調査し遺族を特定。大津市の県公館で9日、返還式があった。
滋賀県東近江市の山田明宏さん(61)は「武運長久」などと書かれた大叔父芳蔵さんの日章旗を受け取った。フィリピン・レイテ島で戦死し、祖父からは「遺骨も帰ってきてないし実際いつ亡くなったかも分からない」と聞かされていたという。「大叔父もようやく古里に帰って来られたことを喜んでいるのではないか」と話した。
満州などに赴くも病気で除隊、帰国後まもなく亡くなった辻英次さんが、戦地で紛失したと思われる軍隊手帳には、丁寧な楷書で自身の軍歴などが記されていた。大おい善明さん(56)=滋賀県湖南市=は「面識はないがきっちりとした人だったと読み取れる」と故人の人柄に思いをはせた。
サイパンで戦死した岡田勘平さんの日章旗も返還され、遺族代理として米原市遺族会会長が受け取った。
滋賀県遺族会の大長弥宗治会長は「亡くなられた方の何としても古里の土を踏みたいという願いが遺留品に伝わったのだろう。遺族の皆さんには持ち帰ってご先祖にお供えし、ご報告いただければ幸い」と述べた。
元記事 https://this.kiji.is/733868290969812992?c=39546741839462401
辻さんの軍隊手帳を受け取った善明さん(中)山田さんの日章旗を受け取った明宏さん(右)ら=県公館で
76年ぶり…「戦争遺留品」が遺族へ返還
下記URLに動画あり https://www.ktv.jp/news/articles/23aaa167_b430_4403_9681_e9922aee3b6d.html
太平洋戦争で、アメリカ兵などが持ち帰った日章旗が、滋賀県に住む遺族へ76年ぶりに返還されました。
返還された日章旗には、家族や友達の思いが書き込まれています。
この日章旗は、太平洋戦争でアメリカ兵が自国に持ち帰ったもので、10年以上前からアメリカのNPO団体が、日本兵の遺族に返還する活動を続けています。
9日、フィリピンのレイテ島で戦死した日本兵が持っていた日章旗などが、滋賀県に住む遺族へ76年ぶりに返還されました。
【遺留品を受け取った遺族・山田明宏さん】
「まずはお仏壇へお供えさせていただいて、当分の間、家族で見守っていきたい」
NPO団体では、他にも多くの日章旗を集めていて、持ち主の遺族を探しています。
辻さんの軍隊手帳を受け取った善明さん(中)山田さんの日章旗を受け取った明宏さん(右)ら=県公館で
日章旗、軍隊手帳が遺族らの手に 旧日本兵3人の遺品返還
2021年2月10日 05時00分
太平洋戦争で県内から出征して亡くなった旧日本兵三人の遺品が九日、県公館で三人の遺族らに返還された。遺品は戦勝国の兵士らが母国に持ち帰ったとみられ、終戦から七十六年ぶりに遺族らの手に戻った。
返還されたのは、現在の米原市から出征した岡田勘平さんと、東近江市の山田芳蔵さんの日章旗、甲賀市の辻英次さんの軍隊手帳。いずれも、遺族へ返還する活動を続ける米国の団体「OBON SOCIETY」の依頼で、県遺族会が遺族を捜した。
返還式では山田さんの兄の孫、明宏さん(61)、辻さんの兄の孫、善明さん(56)に、三日月大造知事が遺品を手渡した。岡田さんの娘、信子さんは高齢のため欠席し、米原市遺族会が代理で受け取った。
山田さんの兄は二〇〇四年に亡くなったといい、明宏さんは「祖父が生きていれば、どれだけ喜んだことか。遺品が故郷に帰れたことを喜んでいると思う」と謝辞を述べた。
祖父も戦死したという善明さんは「先祖の苦労があって、今日私たちがいることを実感した」と話した。県遺族会相談役の国松善次元知事(82)は「遺品は無音の語り部。戦争の悲惨さ、平和の尊さ、友好の大切さを力強く語っている」と語った。
1枚目 返還された軍隊手帳と写真。手帳の右上には銃弾を受けたとみられる痕がある
2枚目 軍服姿の時雄さん(岡部昭治さん提供)
3枚目 幼少時の昭治さんと一緒に写真に写る時雄さん(右)。夏に大学から帰省した際の1枚とみられる(岡部昭治さん提供)
4枚目 返還された写真をてにする昭治さん
「兄さんが帰ってきた」 軍隊手帳と写真、米国から返還
太平洋戦争に出征し、フィリピンのルソン島で1945年に戦死した秋田県三種町川尻出身の岡部時雄さん=当時(23)=が携帯していた軍隊手帳と写真が米国で見つかり、2日遺族へ返還された。弟の岡部昭治さん(86)は「兄さんが帰宅したような思い。多くの方々の協力にお礼を言いたい」と話した。
手帳には時雄さんの入隊後の経歴や行動記録の一部が記され、右上には戦闘で銃弾を受けたとみられる痕がある。写真は時雄さんが軍隊の仲間と一緒に撮影したと思われる集合写真で、手帳に挟み込まれていた。
三種町役場で行われた返還式には、昭治さんや県遺族連合会の田口昭益事務局長(66)などが出席。田川政幸町長が昭治さんに遺品を手渡した。
昭治さんの元には、幼い頃に時雄さんと写った写真が残っていた。今回の返還に「敵と味方に分かれて戦った相手の遺品を米国の人が大事に保管し、届けてくれた。兄さんも両親もきっと喜んでいると思う」と話した。
元記事 https://www.sakigake.jp/news/article/20210203AK0021/
深谷健児さんの墓前で日章旗を広げる英美さん(右)、克己さん夫妻=茨城県桜川市大国玉
79年ぶり日章旗介して再会、米国から茨城の遺族に
2020/12/31 10:30朝日新聞デジタル
「祝武運長久」「体当たり」……。旗の白地にこんな文字がびっしりつづられている。南洋で戦死した茨城県桜川市出身の深谷健児さんが戦地に残した日章旗が今月、米国の民間団体から親類の深谷英美(えみ)さん(54)=同市=に手渡された。健児さんの弟が持たせた旗とわかり、英美さんから93歳の弟に送られた。79年ぶりに兄弟は、弟の入院先の病室でつかの間の再会を果たした。
深谷家の本家を継ぐ英美さんの家には、健児さんの位牌(いはい)があり、近所には健児さんの墓石もある。健児さんは、英美さんの父親のいとこにあたる。健児さんのものと思われる日章旗が米国にあると、英美さんに連絡があったのは今年10月。英美さんは、すぐに住職で健児さんの弟の深谷彦晃(げんこう)さん=滋賀県湖南市=に電話した。入院中の彦晃さんに娘たちが、コロナ禍で限られた面会時間で伝えた。彦晃さんはベッドで上半身を起こし、「そうか。ありがたいな」と涙ぐんだという。
彦晃さんによると、兄の健児さんは1941年に出征し、水戸の歩兵第二連隊に入隊。旧満州を経て南洋パラオ・ペリリュー島で24歳で戦死した。日章旗は、出征前、健児さんのために彦晃さんが持たせたものだという。彦晃さんの氏名と「貫け生死一処の大精神」の書き込みもある。
日章旗の返還活動をする米国の市民団体「OBONソサエティ」が、元米兵の遺族から託され、日本側の団体を通して英美さんを探し当てた。
日章旗は、タテ70センチ、ヨコ98センチほど。茶褐色に変色しているが、寄せ書きの氏名や文言は読み取れる。英美さんは、「破れないでよく残ってくれていた。(彦晃さんと)兄弟で再会させてあげたい」と日章旗を折りたたんで封筒に入れ、滋賀に送り、コロナ禍で短時間だけ許された面会の際に、家族が彦晃さんの病室に持参したという。
日章旗は今、彦晃さんが住職を務める寺で、兄弟水入らずの時を待っている。
◇
OBONソサエティ(米・オレゴン州)によると、深谷健児さんの日章旗は、1944〜45年、グアム島に派遣された元米国海兵隊員、故ケネス・カービィさんが持ち帰った戦利品の一つだという。遺族が保管し、同会に連絡があった。
日章旗に書かれた内容から、日本遺族会などの協力で、健児さんのものだとわかった。ケネスさんの遺族によると、ケネスさんは戦地で日本兵捕虜と関わりがあり、日本軍兵舎を見つけた思い出などを話していたが、日章旗を持ち帰った経緯は不明だという。
同会は活動を始めて11年間で、日章旗約380旗を日本側遺族の元に返還し、調査を待つ旗も1200以上あるという。同会共同代表のジーク敬子さん(53)は、京都出身。ビルマ(現ミャンマー)で戦死した祖父が戦地に携えた寄せ書きされた日の丸が、07年にカナダから返還された。母親が「長い年月をかけて家族に会いたいために帰ってきはったんやわぁ」と涙ながらに話したのが、この活動のきっかけとなった。
09年、歴史家のレックスさん(67)と結婚し、ともに活動を始めた。団体名は、先祖の霊が戻るお盆からとった。戦時中、敵軍の旗である日章旗は戦利品の中で最も人気があったという。日本兵の多くが身に付けていたため、多くの日章旗が米国内などに残されている。
敬子さんは「連合軍兵士たちは日の丸に何が書かれているのか理解していなかった。日章旗を返すことで、過去の歴史と心のわだかまりに終止符をうちたい。敵国として戦った者同士が、一枚の旗を通して、相手を思いやり、平和や友好を分かち合ってほしい」と話している。
https://www.asahi.com/articles/ASNDZ6WWPNDMUJHB00K.html
左・山口則敦さん(小石則子さん提供)
右・返ってきた日の丸と、戦地から届いた則敦さんからの絵はがきを手にする小石則子さん=宝塚市内
フィリピンで戦死、父の「日章旗」75年経て娘の手元に
1944年4月に出征し、フィリピン・ルソン島で戦死した陸軍大尉の山口則敦さん=当時(34)=が持っていたとみられる日章旗が、75年の時を経て遺族の元へ帰ってきた。受け取った娘の小石則子さん(84)=兵庫県宝塚市=は「思いがけないことでびっくり仰天。父が帰りたいと願ったのだろうか」と話す。(中川 恵)
小石さんは神戸市須磨区で父則敦さんと母清子さんの3人暮らし。幼かった小石さんにとって則敦さんとの思い出は少ないが「夏に海へ泳ぎに出掛け、色白の父は翌朝、真っ赤になっていた」と振り返る。
則敦さんは召集令状を受け取り平壌へ。小石さんの元へは則敦さんから「からだにきをつけなさい」「なかよく遊びなさいよ」と書かれた絵はがきが届いた。ただ、同年末か45年初頭にルソン島へ移ってからは連絡が途絶えた。則敦さんの戦死が知らされたのは、戦後3年ほどたってから。遺品も遺骨もなかった。
母の清子さんは、夫則敦さんの部下を訪ねては戦地での様子を聞き、退職後はフィリピンにも行ったという。小石さんは成人してから「父は腹部に銃弾を受け、その後、自決した」と教わった。
則敦さんの日章旗を持っていた女性は米国在住で、元米兵の叔父が亡くなった際に譲り受けた。叔父は戦争体験について一切語らず、旗の入手経緯は分からなかったが、インターネットで米オレゴン州で活動する団体「OBONソサエティ」を知り、日本遺族会や県遺族会姫路支部を通じて小石さんにたどり着いた。女性は、旗に添えた手紙に「国が引き起こした戦争の責任を兵士個人が負うことなどできない。旗を受け取ったご遺族の心が少しでも癒やされれば」とつづった。
旗には「贈山口則敦君」「祈 武運長久」の文字と十数人の名前が並ぶ。小石さんは「寄せ書きに手形を押した記憶があるけど、戻ってきたのはそれとは別物のようです」と話す。
清子さんは2001年に亡くなった。小石さんは母の墓前に「(父が)帰ってきたよ」と報告した。小石さんは旗を手に「みんなのお世話になって戻ってきた。ありがたいこと」と目を細めた。
https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202011/0013860698.shtml?fbclid=IwAR08OiXgNsFkRiV82R3ErsGsz1hrxaHLm6AnNpgV1yvuqEohJKcRSnhi9V4
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