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知人の葬儀へ参列した。
誰も予期せぬ突然の事故死だった。
葬儀でお坊さんが話してくれた言葉が心に残った。
「人間は生まれた瞬間から死という宿命があります」
「ここにお集まりの皆さん、100年後には全員この世にいないのです」
「この限られた命をどう生きますか?」
そんなことを考えずに私は生きている、と気付かされた。
それでは濃い意味のある人生は送れないのだろう。
私の順番がいつ回ってくるのか?
それは神のみぞ知ることである。
それまでの間の限られた人生をどう生きるのか?
何のために生きるのか?
大切だと思っていたこと、自分の中の優先順位が、
音を立てて崩れた。
お坊さんは話をつづけた。
「この世を去り、あの世へ行くのです」
「“死”は終わりではなく、次の世への“Departure”です」
この世は、あの世への準備期間なのかも知れない。
その観点から、大切なことや優先順位を一から考え直す。
「Departure」の準備を始めなければ、と思った。
みんな、良いところも、そうでないところもある。
のんきな人にも、短気な部分がある。
親切な人にも、意地悪なところがある。
自信満々に見える人にも、気弱な面がある。
そして、その逆も然り。
みんなすべてを持っている。
どの部分をどのくらい表に出しているか?
また、どの部分をどのくらい抑えているか?
で、「あなた」の人間性や性格が形成される。
私を含め、ほとんどの人たちは、
苦手なことを立派に実行できる資質が自分の中に存在することを知らない。
自分の短所を数日で打ち消せることに気づいていない。
だから、
それぞれが表に出している資質をもとに、
私は「こういう人間です」。
あの人は「ああいう人です」。
とレッテルを貼る。
“すべて、あなたの中に存在する”
自分を理解する時間を持ってください。
何が成功や幸せの妨げになっているのか?
どの資質をもっと出せば、人生が好転するのか?
無いものを作るのではない。
すでに持っている要素の配分を変えるだけ。
それで、人生が変わる。
ベスト・バージョンの自分には、
ベスト・バージョンの人生が待っている。
十人十色という諺があるように、
十人いれば、十人それぞれ異なる価値観や性格がある。
そして、十人それぞれ、
自分が正しいと思っている。
そういう世の中で、
みんなが自分固有の価値観という定規を人に当てて、
正しい、間違っている、
良い、悪い、
としてしまうとどうなるのか?
違いがすべてマイナスに作用し、
人間関係はとても狭くなってしまう。
「人それぞれ」
を理解することで、
自分の定規を人に当てなくなる。
人から定規を当てられても気にならなくなる。
違いを尊重し、
人の意見や評判に左右されない自分本来の生き方ができる。
あなたは自由になり、
周囲の人たちをも自由にする。
「人それぞれ」
まず、自分を理解し、自分を確立する。
あなたは誰?
何が大切?
どこへ行きたいの?
真の人間関係、真の共存共栄が始まる。
先日、車を運転しているときに流れていたラジオで、「余命6ヶ月と医師に宣告された重病者が“笑”で健康を快復させた」という話しを聞いた。
迷信ではなく、本当に“笑”が心身の健康に良い影響を与えるのだろうか?
カリフォルニア州にあるLoma Linda Universityの学者二人が“笑”についてリサーチを行い、以下の調査結果を発表している。
< 笑がもたらす健康への7つのベネフィット >
1.血圧を下げる
笑は血圧を下げ、心筋梗塞など疾患のリスクを抑える効果がある。
2.ストレスホルモンを減少させる
笑によってストレスホルモンが減り、自然と心配やイライラが少なくなる効
果がある。
3.腹筋を鍛える
お腹を抱えて笑った経験は誰にでもあるはず。笑は腹筋を使い、それ以外の
筋肉をリラックスさせる効果がある。
4.心肺機能を高める
笑は血の循環を良くし、歩行と同じくらいのカロリー消費をもたらす。
5.免疫能力を高める
笑により、免疫力を高めるT細胞が活性化され、病気になりづらくなる。
6.鎮痛効果がある
笑はendorphinsという体内にある鎮痛剤を分泌する効果がある。
7.心身の健康増進
笑により我々は気持ちが前向きになり、心身機能改善に役立つ。
日本でも昔から“笑う角には福来る”という諺がある。
“笑は最高の健康法”と多くの医師も言っているそうだ。
笑は人間関係を良くするという心理学者の話しも聞いた。
しかめっ面や怒ってるより、笑がある方がいいですよね?
健康のためにも、人生を豊にするためにも、
意識して“笑”のある毎日を過ごしたいと思った。
先日、お客様と話しをしていて、
「世知辛い世の中になった」
という言葉を聞いた。
義理人情の無い社会
みんな自分の損得勘定ばかり
人を信用できない世の中
という意味合いで使われていたようだ。
私も仕事をしていて、
>散々情報だけ聞き出していなくなる人
>嘘をついてでもその場の得を取ろうとする人
>売買の準備だけ手伝わせて、契約の際に割引するエージェントへ鞍替えする人
と遭遇したことが何度かある。
私は、憤慨するより「哀れな人たち」と思っている。
義理人情、道徳を軽視して心が豊になることはない。
私は「世知辛い世の中」という言葉を聞く度に、
自分がそうなっていないか?
そういう人たちと付き合っていないか?
という自分への警告としている。
「世知辛い世の中」
に加担する生き方はしない。
義理人情、道徳を大切にした心を持ちたいものだ。
“物事に偶然は無い、すべては必然である”
良く聞く言葉。
出来事Aと出来事Bに因果関係や関連性があるのか?
偶然であるという説:
物事はランダムに起こるのであり、関連性はない。
出来事Aと出来事Bは、それぞれ独立した出来事である。
だから、良いことがあればラッキー、好ましくないことが起これば運が悪い。
例:朝出勤しようとしたら車のタイヤがパンクしていた。
反応:「あーっ、ツイてない。。。」、仕方なくパンクを修理して出社。
結果として、偶然の出来事となる。
必然であるという説:
物事はすべて関連性がある。
出来事Aと出来事Bは、意味があってどこかでつながっている。
だから、良いことがあっても、好ましくないことが起こっても、なぜ?どうして?
と関連性について考える。これは人それぞれ異なる解釈であり、決まった答は無い。
例:朝出勤しようとしたら車のタイヤがパンクしていた。
反応:「これは、どういう意味があるのだろう?」と考える。
結果として、必然の出来事となる。
この観点から見ると、
「偶然か、必然か?」ではなく、
「偶然にするのも、必然にするのも、自分次第」となる。
これは、哲学的な考え方で論理性は無い。
あなたにとって、
物事は偶然ですか?
それとも必然ですか?
先日、少年野球リトルリーグの世界選手権がアメリカで行われ、決勝で日本がアメリカへ大逆転で優勝を飾ったというニュースを読んだ。
一回表に日本チームが2得点での良いスタート。
しかし、その裏になんとアメリカチームに打ち込まれ10失点。
試合会場が相手チームの地元という精神的にも孤独な状態で、
誰でもその大差に“勝負有り”と、日本チームは戦意喪失する状況であったはず。
日本の監督が意気消沈した子供たちを前に
「まだ終わっていない。全力を出して来い!」
と激励したそうだ。
結果として、18対11でリトルリーグ世界選手権始まって以来の記録的な大逆転優勝を果たしたわけである。
私はこの記事を読んだとき、
日本の監督と選手たちの“気の持ちよう”に大きく感銘した。
絶体絶命の時に、それをどう受け止め、どう行動するか?
起こった出来事や状況はコントロールできなくとも、
その受け止め方は自分次第である。
出来事ではなく、“受け止め方”が次の行動へ影響を与える。
人生では、さまざまなピンチが起こる。
そして、すべてのピンチには逆転勝利の可能性が隠されている。
好ましくない出来事や状況を越え、逆転へ意識を向けることができるか?
数字での結果とは別に、
逆転へ意識を向けて行動した時点で勝利は起きている。
その観点から、いかなるピンチであろうと、
あなたは、毎回逆転勝利を達成できる。
仕事は、“事に仕える”と書く。
人様のお役に立つことである。
その観点から、金銭的な報酬の有無とは別に、
この世に生きる全ての人に「仕事」がある。
専業主婦としての「仕事」
親としての「仕事」
子供としての「仕事」
祖父母としての「仕事」
天涯孤独と思っている人にも大切な「仕事」がある。
職業を持っているあなた、
好きであろうが、なかろうが、
何かの意味があって今の職についている。
現時点では、それが与えられた天職です。
愚痴や不平不満を言う前に、
まず、“事に仕える”。
人様のお役に立つことを通して、初めて先が開けてくる。
お役に立ち、社会へ貢献し、
有形、無形の報酬がついてくる。
この順序が逆になると、
有形、無形の報酬が目的になると、
宇宙の法則から外れ、歪みが生じる。
心身(特に心)の健康を害したり、人々との信頼関係を失ったり、、、
築いてきた有形、無形の資産が、やがて消えて行く。
私自身も少なからず身に覚えがあること。
“事に仕える”という本来の意味を大切にしたいと思う。
私たちは「素」で生まれてきた。
悩みも、嫉妬も、欲も、恐れも、無い
“愛”だけの状態でこの世に生まれてきた。
物質社会での滞在が長くなると、
「素」の周りに、欲、恐怖の層が重なってくる。
だんだん、“愛”が奥に隠れていく。
ある人から言われた。
「自分の遺書を書いてみなさい」
「今日であなたの人生が終わると思って、書いてみなさい」
その過程で、本当に大切なことへ意識が向き、
真の自分を何重にも覆っている欲や恐怖の層が、
かさぶたがとれるように落ちていく。
気付くと、心が“至福”で満たされる。
遺書を書くことで「生」の原点と向かい合い、
物質社会の雑音が消え、
生まれて来た時の「素」へ戻ることを垣間みれるそうだ。
生きている間も「素」を忘れたくないと思った。
我々は偏見の固まりである。
知らないこと、
よく理解していないこと、
それらを、
自分の主観で無責任に結論づける悪い傾向がある。
最近メディアで話題になった話。
元オリンピックの金メダリストであった男性が、
「自分の内面は女性なのです。
いままでの人生では、仮の自分をずっと演じて来た。
勇気を出して女性になる決意をした」
私はこの話しを聞いたとき、
「精神病の人なのだろう」
と一笑した。
先日、珍しくテレビを観ていたら、
その人物が女装で出演し自分の経緯を話していた。
私の最初の反応は、
「頭のおかしい人。話しには興味もない」
他にテレビを観ていた人がいたので、勝手にチャンネルを変えることもできず、
仕方なしに画面を観ていた。
そして、いつの間に、その人物の話しに聞き入っていた。
男性として生まれながら、内面は女性であるということ。
私が今まで生きて来た人生では、まったく縁もなく、理解のできないことである。
「そういう境遇の人たちもこの世にいるんだ。知らなかった。。。」
わかりもしないのに、
理解しようともせずに、
偏見で勝手に決めつけるのは罪だ!
自分がその人物に対して思っていたことを大きく反省した。
偏見は人を傷つけ、恨みや怒りを生む。
偏見は“違う”というだけで、一部の人たちを差別し追い込む。
追い込まれた人たちは、
精神病になったり、犯罪に走ったり、また自殺する人も多いそうだ。
“違い”を否定せず、
尊重する大切さを教えられた。
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