僕は宮沢賢治の作品が気になっている。高校二年生の自分が宮沢賢治を批評なんてしたら、どれだけ文学オヤジ達に叩かれるかと思うと、スカイツリーから飛び降りる気持ちで語るに等しい。ちょい、大袈裟。。。だけど行っちゃうんだよな、いやいや言っちゃうんだよな、性格だから仕方ない。喉に詰まっているものは、吐き出すか飲み込まないと気が済まないから。 えっ、何が気になっているかだって? 気にならないでほとんどの読者が読めるんだと思うんだけど、僕はどうしても気になるんだよ。それは、文の語尾。偉そうに言ってしまうと宮沢賢治の詩に関して、そこはとてもダブりのない完璧でリズムのある語尾になっているんだけど。童話については徹底してそこをあえて拘っている感が否めないんだよね。だから僕は宮沢賢治の童話を読むと、語尾しか目に入ってこないから困ってしまう。ほとんど「〜た。」の語尾。小学生の作文のようだ。まあ、童話だからそうなんだよ、って頭にコツンとやられてしまいそうだけど。 こんな感じ。「〜た。」← をつけた。 『どんぐりと山猫』 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。← かねた一郎さま 九月十九日 あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。 あした、めんどなさいばんしますから、おいで んなさい。とびどぐもたないでくなさい。 山ねこ 拝 こんなのです。字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらいでした。←けれども一郎はうれしくてうれしくてたまりませんでした。←はがきをそっと学校のかばんにしまって、うちじゅうとんだりはねたりしました。← ね床にもぐってからも、山猫のにやあとした顔や、そのめんどうだという裁判のけしきなどを考えて、おそくまでねむりませんでした。← けれども、一郎が眼をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。←おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのようにうるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。← 一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川に沿ったこみちを、かみの方へのぼって行きました。← すきとおった風がざあっと吹くと、栗の木はばらばらと実をおとしました。← 一郎は栗の木をみあげて、 「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかったかい。」とききました。← 栗の木はちょっとしずかになって、 「やまねこなら、けさはやく、馬車でひがしの方へ飛んで行きましたよ。」 と答えました。← 「東ならぼくのいく方だねえ、おかしいな、とにかくもっといってみよう。栗の木ありがとう。」 栗の木はだまってまた実をばらばらとおとしました。← 一郎がすこし行きますと、そこはもう笛ふきの滝でした。←笛ふきの滝というのは、まっ白な岩の崖のなかほどに、小さな穴があいていて、そこから水が笛のように鳴って飛び出し、すぐ滝になって、ごうごう谷におちているのをいうのでした。← 一郎は滝に向いて叫びました。← 「おいおい、笛ふき、やまねこがここを通らなかったかい。」 滝がぴーぴー答えました。← 「やまねこは、さっき、馬車で西の方へ飛んで行きましたよ。」 「おかしいな、西ならぼくのうちの方だ。けれども、まあも少し行ってみよう。ふえふき、ありがとう。」 滝はまたもとのように笛を吹きつづけました。← 一郎がまたすこし行きますと、一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。← ねえ、「〜た。」ばっかりでしょ。というか、「〜た。」しかない。これは、宮沢賢治が意図して徹底している表現方法なのだろう。だけど、僕みたいに宮沢賢治の書いた文章の語尾にしか興味が持てなくなってしまうと、作品自体が読めなくなってしまう。たまに「〜です。」みたいに、「た」で終わらない文字を見るとなんだかか嬉しくなってしまうのは、僕がおかしいのかなあ。このまま宮沢賢治の童話は一生、読むことができなくなってしまうのだろうか。 〜した。〜だった。〜した。〜た。 た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。 た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。た。 はあ、どうしても語尾しか読めない。これは狙いだったのだろうか。そんな訳はない。僕がおかしいのだ。まあ、いいや。そのうちこの厄介も消えると信じて。さて、宮沢賢治の詩を読むとするか。