『詩集』 齋藤純二 詩集は小説に比べて売れる書物ではなく、書店に置かれることも少ない。しかし、詩は日々の暮らしの中で、心情に沿う言葉がふとした場面でフレーズとして流れる時がある。その共感が日々の苦悩を和らげる促しとなり、寄り添う言葉があるというのは生きていくための糧になり得る。 汚れちまった悲しみに、だったり 駄目なことの一切を 時代のせいにするな、だったり 苦悩は我が霊魂を 光らしむ、だったり 僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる、だったり 木が美しいのは、 自分の力で 立っているからだ、だったり 倒れる時がきたらば ほほえんでたふれろ、だったり 厳しさの中にあるやさしさを私たちは求めているのかもしれない。生涯、順風満帆にひとは生涯を終える者などいるわけでもなく、苦悩を持ちつつも生きるためのユーモアで乗り切る言葉の群れとして詩があり、詩集という表現が光を放つのであろう。 好きな絵があるように、好きな詩もひとそれぞれある。癒しを鏤めた詩もあり、言葉の景色だったり、リズムだったり、その感性の心地よさに爽快感を得て前向きに相乗する。 いったい、なぜ詩集が売れないのか。売れないから詩集なのか、そんな俗説は悲しくあり読まれないことが勿体無いという気がしてならない。詩人たちが素晴らしい道具を持っているが、使いこなしていないのではなかろうか。だからと言って、楽しく面白いばかりを求めて詩を展開したのならば、詩の魅力は何処へ行ってしまうのか、そんな安売りも如何と思う。 悩み多き詩の果てなき言葉の旅路をニヒルに、また熱く自分をさらけ出すサービス精神のもと答えなき答えを追い続けることが、求められているのかもしれない。一生を語り続けるタフな精神力が詩人には不可欠だと言えよう。書店に詩集が多く並べる意味なんて、詩には最初からなかったのだろう。それでも詩人は詩を書かずにいられないのだから、もうそれだけで良いのかもしれない。