己の本音を包み隠さず言葉に発したのなら、この社会で生活を営むのは酷なことだろう。日常は嘘ばかりで蔓延しているとも言える。しかし、そんなことは承知でひとと会話をするし笑顔も見せたりする。なんともめんどくさい生き物である人間。そして、その忌々しい己に苦しんだりする者もいて、心根の洗浄を行うかのよう、本音を表現へのせ満たそうと作業に没頭したりする。それでもその表現に嘘はないかと言うと、そうではない。対人を意識している以上、純粋な己でない嘘が修正、校正を重ね飾って景色やら感情を描いてしまう。 嘘のない表現とはどのようなものだろうか。もしや嘘のない表現などないのだろうか。それとも嘘に嘘を打ち込んだ中に本音が潜むのだろうか。嘘の己もこれまた本音だろうか。嘘はいったい何を与えようとしているのだろうか。 嘘と感情は密に寄り添う。憎悪からの嘘、思いやる嘘、逃げるための嘘、飾り酔いしれる嘘、感情を平らにするかのよう嘘を利用する。防御本能、あるいは社会で生きるためのユーモアなのだろうか。 嘘のない己からは逃れなれない人間。その現実を流す者がいて、また流されたくないとする者がいる。どちらも嘘のない日々などない。 ただ、流されたくない者(それを自然体と考える者もあろう)が表現する根源の欲のひとつと言えるだろう。表現者にとって嘘とは悪に傾くばかりではなく己と向き合い方を模索し、生きるための追求する想像力を育むモノなのかもしれない。