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栃木県の歴史散歩

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化灯籠(日光・二荒山神社)献納者の謎

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 かつて鹿沼市史編さんにたずさわったものとして、同市史を通覧するたびに、いくつかの大きな謎が未解決のままになっていることを気にしている。
 その一つは、日光・二荒山神社本殿前に化灯籠が奉納されているが、その献納者のことである。唐銅製の化灯籠の由来はともかくとして「願主、鹿沼権三郎入道教阿、正応五年(1292)壬辰三月一日」とある人物のことだ。
 教阿は藤原秀郷流佐野家の一族で系譜によれば、鹿沼姓を称した行綱の子になる。佐野家は日光山信仰について、行綱以前から強い帰依を示していた。
 鹿沼氏が鹿沼の在地豪族であることは「鹿沼近郷を領し日光神領を掌り支配してありし人なるべし故に神徳を仰ぎて灯籠を献ぜしなるべし」と伝えられている通りだ。しかし鹿沼氏について、教阿以後は消息がなく、正応以来200年余も過ぎたころ、初めて鹿沼氏がでてくる。
 大永(1531-)年中、鹿沼右衛門太夫教清というものが宇都宮忠綱と争い、鹿沼の東、黒川を波った上野台の合戦で討死、鹿沼氏は没落してしまった。そのあとに現れたのが壬生氏である。初め壬生氏はいまの壬生町に居を構えていたが、二代綱重が鹿沼に在住その子綱房が鹿沼城を構築し、日光神領惣政所として鹿沼一円を支配した。綱雄、義雄と続き、宇都官氏、小山氏の二大家族間に介在する在地勢力として勇名をはせていた。
 義雄の時、すなわち天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐があり、義雄は小田原に味方して、相模国酒勾川に陣殻した。それゆえに小田原陥落後、壬生氏は秀吉によって所領を没収され、家名は断絶してしまった。鹿沼城も廃城になって、江戸時代にはいる。
 治乱興亡の流れが、まことに順序よく記載されたかのように見えるが、われわれにとって最大の謎は鹿沼教阿以来200年余もの鹿沼氏の空白である。さらに、そのあとに出てきた壬生氏の鹿沼入部の時期も謎である。一部では鹿沼築城の綱房が鹿沼入部とされているようだが、その父綱重はすでに永正7年(1510)鹿沼に館を構えていたことは、連歌師宗長の旅日記「東路のつと」に明らかだ。
 鹿沼宿の先覚者山口安良はすでに文政年間(1818-)、その著「押原推移録」でいち早くこうした点をつき、論考を残している。山口安良から150年を経た現在、再びこの問題を提起しなければならないということに、いささか郷土史家として情けない気がする。しかしこうした謎は鹿沼史ばかりでなく、限られた史料にしか頼ることのできない郷土史記述にとって共通の問題ではなかろうか。
 偶然にも「日光山列祖伝」の中に、三八世権別当昌喩(応永元-18年、1394-1411)は当国の豪族壬生氏の一族であるという記載を発見したが、早くから鹿沼史は日光山との関係において考察せねばならないという信念をもっている筆者にとって、これが事実とすれば、その10代あとに現れる、壬生綱房の次男とされる権別当昌膳の存在とともに鹿沼氏壬生氏の動向について新しい展開がでてきそうな予感がある。日光山列祖伝とは日光山座主の系列を示したものである。
 未公開の史料が今般県史編さんの史料編として数多く発表されることになるが、県内の郷土史家のために従来の郷土史の謎を解く重要なカギになってくることを強く信じている。

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「那須の金山」開発の名ごり 江戸初期に採掘の記録

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 史料調査には、おおいに偶然性が伴い、なかなか計算通りにはいきにくい。しかし一方では、予想外の副産物が飛出してくることもある。那須の須賀川(現在は黒羽町)の里を歩いていた時のことである。当日ご案内いただいた方の日からふとお聞きしたのが、かつて当地が佐竹氏の支配地であった時代に金を採集し、これをひくのに使われた石臼(うす)の話であった。
 半信半疑のまま付近をたずね歩いてみると、確かに石臼がある。神社の境内や民家の庭先などに、注意しなければほとんど気がつかぬように置かれてある。通常のものよりひとまわり大きく、上下の摺りあわさる面は激しくえぐられでもしたかのように摺り減っている。
 最近家を改築されたお宅では。改築前の家の土台にこの石臼が使われていた。その家は元禄時代に建てられたものだという。とすると、この石臼は元禄以前のものであるに違いない。しかし本当に金採集のために使われたものであろうか。その日は、その事実をとても信じられぬまま帰宅した。
 それから数日過ぎたある日、なにげなく「水府志料」(江戸時代に著わされた常陸国の地誌)を読んでいると、意外な記述にぶつかった。同書の久慈郡、那須郡の各所に、江戸初期に行われた金鉱山の開発の事実と、それに関連した遺跡、遺物の存在が記されており、先日、須賀川で見聞してきたのと全く同様のことがらであった。
 同史料にもとづいて考えてみると、金山開発は八溝山ろくを中心に、常陸国との境に沿って、佐竹氏の時代はもとより、その後の水戸、黒羽両藩の時代にかけても行われていたと思われる。
 近世大名による金山開発は、通常元禄期ごろまでがその盛期であり、その後はどこでも技術的に行詰り、衰えてしまう。現在県内に残る史料のうちには、この地方の金山開発を裏付ける史料はないものであろうか。江戸時代初期の史料は少ない。ことに那須地方ではごくまれである。果してあるだろうか。
 旧小口村梅平(現在の馬頭町)出身の大金久左衛門重貞は、著書「那須記」を通じて広く知られているが、この重貞の自伝である「重昭童依調年記」(重貞は晩年に重昭を名のる)の中に、江戸初期の水戸藩による金山開発の記録があった。
 同書によると、重貞31歳の時、大山田に新たに金山が発見された。万治3年(1660)のことである。水戸藩の役人の命によって金の採掘が始められ、間もなく大山田の八郎右衛門、小日の大金久左衛門重貞ら4人が「金掘り支配」を仰付けられ、各人に給米として7石二人扶持が与えられた。彼らのほかに、金掘り人足あわせて5、60人がことにあたったという。
 後日、馬頭町小日に現在も名家として残る大金家をおたずねした。もしやと思って捜すうちに、庭の松の木陰に、いつか須賀川で見たのと同様の石臼を発見し、ようやく那須地方における金山開発の史実を信じる気持になれた。
 これを端緒として、那須地方と金との関係はようやく明らかになってきた。金山の開発は近世初期に一時盛期を経験したが、その後は衰え、幕末に殖産興業的立場から再び注目された。
 ことに黒羽藩はさかんに開発を試みたがうまくいかず、本当の活況をもたらしたのは、技術的に進歩した大正、昭和になってからであり、それもごく短期間にすぎなかった。盛時には、これにより巨利を得た人もいたとか。
 これらの金山開発に先んじて、那須では古くから砂金の採集も行われていたと考えられる。「続日本後紀」承和2年(835)の条の
 下野国武茂ノ神ニ従五位下ヲ授ケ奉、コノ神沙金採之山ニ坐 の文を引用するまでもなく、現在でも武茂川、押川の流域には砂金採集の遺跡が「小金沢」「金洗沢」などの地名とともに点在しており、その折使われた各種の道具類も民家に所蔵されている。
 夏も終りに近いある日、私たちは昔実際に砂金採りをした人の案内で「大尽沢」の異名を持つ清流深く踏入った。切るように冷たい水につかりながら、昔とったきねづかで、あざやかな手さばきを見せる老人の方法は、紛れもなく古代以来、連綿と伝えられてきた「ねこながし」であった。
 あふことは絶えて那すのゆりかねや心ばかりはちちにくたけと(下野歌枕)
と歌にまでうたわれた那須の金の姿が、いま私たちの日の当りにあった。
 注 佐竹氏は中世以来の常陸の大豪族であり、義重以来、常陸、下野に大勢を占め、慶長7年(1602)出羽へ転封されるまでは、佐竹義宜が常陸、下野に計54万石を領した。

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戦国期の刀工たち 名王国広、足利に滞在 長尾氏のために鍛刀

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 わが国の代表的な武器として、まず第一にあげられるのが刀剣である。かつては、武士たちの盛んな需要と保護によって、鍛治の技術が発達し、諸国に名工が生まれた。下野の刀工といえば、幕末のころ鹿沼に輩出した細川一派が有名だが、それ以前にも、多くの刀工たちがいた。
 足利市にある真言宗の名刹・鑁阿寺所蔵の文書のなかに「綱切の太刀」という佐野天命宿の刀鍛治がつくった太刀のことがみえる。太い綱を一刀のもとに切ってしまう、豪壮なつくりの業物だったためにつけられた名であろう。時代は室町のころ。当時、天命(明)宿には鋳物師のほかに刀工がいて鍛刀に励んでいたことがわかる。
 また鑁阿寺の文書(年代欠) によれば「堀内」と「河原町」とに鍛治職人が住んでいた。堀内鍛治とは、鑁阿寺寺の境内かその周辺、河原町鍛治とは渡良瀬川の近くに住んでいた鍛治職人を指すのだろう。
 文書中には「古釘」のこともみえる。釘といっても現在使われているような短めのものではなく、14、5寸に及ぶ長いもの。現在、刀匠として人間国宝に指定されている宮入昭平氏などは、鍛刀の際には旧家を解体した時にでてくる長い「古釘」を使用するそうである。
 むかしも、刀つくりに古鉄を使うことが好まれたらしい。鑁阿寺文書の「古釘」も、その用途は鍛刀にあったのではないだろうか。
 さらに、天正18年(1590)8月、名工として名高い堀川国広が足利学校に滞在して、刀をつくっている。田安家旧蔵の天正18年8月年紀の小脇指(こわきざし)には「於野州足利学校打之」との銘がある。
 国広は日向国(宮崎県)古屋の人で、天正5年12月、主家の伊東家が没落し、伊東満千代(マンショ)に従った。刀剣研究・鑑定家の佐藤貫一氏の研究によれば、国広の現存する作刀は、天正4年から慶長18年に至る37年間にわたっている。この間、天正10年には伊東マンショが遣欧少年使節の一員として遠くローマヘ派遣され、国広は山伏として隠棲したという。
 さらに国広は「九州日向佳国広作」「天正18年庚寅(1590)弐月吉日 平顕長」と銘のある山姥切と号する刀を鍛造している。平顕長というのは足利城主長尾氏。国広が長尾氏のために鍛刀したことがわかる。
 天正18年は、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼした年である。北条方に味方し、小田原に在陣した足利城主長尾氏は、この後領地を失って没落していく。短い銘文のうちに、激変する時代をかいま見る思いがする。
 宇都官市の北方、12キロ余。旧日光街道の宿駅徳次郎(とくじら)(宇都宮市徳次郎町)、最近は道路建設などで変わっているが、室町後期には、ここにも守勝、重勝、勝広という刀工がいた。
 なかでも守勝の作品は、室町期に流行した独特の相州彫をうまく模倣しているという。これらの刀工たちの作品のなかには、県の重要文化財に指定されているものもある。そのほか、永禄のころ、活躍した頼光、元亀のころの定勝なども「徳次郎の刀工」である。
 徳次郎には「鍛治打ち」の地名や「鍛治神」の小さな石のほこらが残っている。また、戦国大名宇都宮氏に仕えた新田氏の城跡の土塁や空濠がはっきりと残っている。刀工たちのつくった刀は、宇都宮氏や新田氏の需要に応じるものであったのだろう。
 昨今の刀剣ブームは実にすさまじい。一種の投資の意味もあるのだろう。だが、日本刀を優れた文化遺産として保護しようとするのであれば、もう少し別の面からの保護対策も必要ではないだろうか。
 東京都渋谷区代々木にある刀剣博物館は、わが国でただ一つの常設の日本刀博物館だが、余り知られていない。県立の総合博物館を設け、館内に刀剣室を設けて郷土にゆかりある刀工の作品などを常設したなら、どんなに刀剣の理解に役立つことだろう、と思われてならない。

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今宮祭祀録にみる武士道と神道 民支配のカギは祭祀権

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 塩谷郡氏家町に鎮座する今宮神社は、通称今宮明神の名で町民に親しまれている。この社の起源は、宇都宮朝綱の五男である兵衛尉公頼(きみより)が宇都宮明神を勧請したことによるという。
 公頼は氏家勝山に城を築き、はじめて氏家氏を称し、氏家郡二十四郷およそ2000町を領有した。城山守護のため鬼門の方角に祀(まつ)ったのが、この今宮明神だった。幕末、下野の生んだ国学者河野守弘はその著書「下野国誌」の中で、こう述べている。
 ところで、氏家町の西導寺(浄土宗の旧刹)は、氏家公頼の建立した寺で、代々、氏家氏の菩提(ぼだい)所だった。この寺に、鎌倉時代の正安2年(1299)から文禄2年(1592)までの今宮神社の年々の祭礼の次第を書きつづった「今官祭祀(し)録」という記録が伝えられている。
 この記録には、中世の下野の有力な武士だった宇都官氏の命令で、氏家郡二十四郷に蟠踞(ぼんきょ)した宇都宮氏の被官たち(家臣のこと)が毎年、順番に頭役(とうやく)を勤めたことが詳しくみえるのである。
 頭役とは普通、中世武家社会で神社の神事に奉仕する役をいう。具体的には社殿の造り替え、修理、祭礼や流鏑馬(やぶさめ)などの準備や負担をすること。多くの場合、在地の武士(地方に勢力をはっていた武士)が勤めている。
 鎌倉時代、諸国の一宮(いちのみや、国中第一の神社を意味し尊崇を得ていた神社の祭杞は、御家人(鎌倉殿=将軍の家臣)の頭役で行われた各地の祭祀権も、同じように在地武士の手にあったことが、現在の歴史学会では明らかにされつつある。
 新興勢力である武士にとって、どうして支配権を拡大し、強化していくかは一大課題だった。神社の祭権を握ることが、その有力な手段だった。
 民衆の崇拝をあつめている神社の祭祀権を握れば、精神面から民衆を支配する手段を得ることになるのである。
 武士の氏神については、一般に4つのパターンが挙げられる。
一、姓氏系統上の祖先神
二、室町時代以降には、実在の歴史的人物
三、血縁関係のない宗教的神祇(ぎ)
四、武士が同時に神官である場合のその神社の祭神
 通説によれば、二を除き、いずれも武士団結合の精神的中核となるものと考えられている。 一族共同の祭祀は、苗字とともに、一族の精神的きずなの役割を果たした。
 中世には、惣(そう)領(武士の一族の長)は、一族を代表して根本所領に祀られている祖先神や鎮守の神をまつり、これを族的結合の中心としていた。
 宇都官氏は、下野の一宮である二荒山神社の社務職(検校職ともいった)を世襲していく家柄=社家で、同時に武家でもあった。
 弘安6年(1283) に制定された「宇都宮家弘安式条」には、社寺に関する規定が数多く見られる。例えば第一条に「当社修理事」、第二条に「神宮寺井尾羽寺往生院善峰堂塔庵室等、修理を加うべき事」などとある。
 これは、宇都宮氏が二荒山神社(宇都宮明神)や今宮神社(今宮明神)などを管理していく必要上、また、その神社を中心とする族長として一族被官層を掌握していく必要上から定めたものと考えられる。
 以上のように「今官祭祀録」は、中世史料の乏しい栃木県では、武士団と神道の関係を研究する格好の材料である。宇都宮氏の歴代の当主は「御屋形様」と呼ばれて尊敬され、当主自身が参拝することも多かったようである。
 「今官祭祀録」は中世の氏家。宇都官地方を中心にした下野の社会情勢を知る上でも、好適な史料である。
 というのは、頭役の勤仕と関連させて、その年に起きた主要な事件、例えば戦国期における宇都宮氏をめくる合戦や、下野の気象に関する記事が含まれているからである。
 とくに気象関係の史料は、栃木県では他にないため、貴重なものである。例えば、天文元年(1532)は不作であったこと、天文9年8月14日の亥刻(午前10時―12時)から丑刻(午前2時―4時)まで大風が吹き、宇都宮の「東勝寺(廃寺で現存せず)之五重塔」を吹き倒し、「世間之堂塔等皆悉く吹伏」せる程で「人民数多吹とばされ」るという強風であったことなど、興味をそそる記述がある。
<注>氏家郡二十四郷について、氏家郡とは主に中世私的に唱えられ、使用された郡の呼称である。他にこの郡名が見える史料としては、塩谷郡佐貫にある氏家公頼寄進の「銅版曼茶羅(まんだら)」など数例がある。
 ところで、二十四郷とは、具体的にどの地域をさすのであろうか。宝暦5年(1755)に荒牧三郎左衛門信瑞が書写した「氏家記録伝」によれば、次のようになっている。
 関俣、文挟、土室、柏崎、八ツ木、栗ケ嶋、平田、石末、阿久津、肘内、大久保、上平、風見、山田、大宮、金枝、玉生、船生、上麻(わあさ)、驚沢、大田、寺渡戸、泉、氏家。 

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戦国武士と文芸 中央の歌人と積極的に接触

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 戦国乱世の時代にあっても武士のなかには学問研究や文芸活動に保護、育成の手を染めた者も決して少なくない。周防の大内氏、駿河の今川氏、能登の畠山氏、若狭の武田氏などの守護大名の例は、特に有名である。下野でも山上、壬生、小山各氏らが連歌を中心に中央の歌人と接触し、文芸に意欲を燃やした。
 駿河生まれで、連歌師として著名な柴屋軒(さいおくけん)宗長の紀行文「東路の津登(つと)」によれば、永正6年(1509)8月の中ごろ、宗長は下野の佐野に到着し、山上氏(筑前守)の館に滞在し、連歌会(れんがえ)を催している。山上氏は、佐野氏の一族である。この折、筑前の子と思われる音丸という幼少ながらも連歌に心得のある者が参会している。宗長はさらに、佐野泰綱の亭において連歌会を開いており泰綱の父、秀綱は、このことに感激している。
 宗長は佐野をあとにして壬生へと足を向けた。これに同行したのが、佐野氏の家臣である横手刑部少輔繁世である。壬生には壬生綱房の亭を訪ねた。歌名所として聞こえた室八島を見学してから鹿沼へ行き、綱房の父、綱重を訪ね、綱重と共にさらに日光山へと向かっている。その帰りには再び佐野へ立ち寄り、足利の鑁阿寺(ばんなじ) へ詣で連歌会を催している。横手氏は、この座にも出席し「必ず駿府を尋ねたい」旨を話した。これに対し、宗長は「我庵はうつの山べの松にほふ蔦のはとづる谷の細道」と、詠い教えている。横手氏も連歌に関心があったようである。このように、佐野氏とその家臣に積極的に文芸を学びとる態度があったことが指摘される。
 しかし、とりわけ注目できるのは宗長と壬生綱重との交渉であろう。宗長は横手繁世に伴われて壬生へ行き、連歌を催し壬生綱房と会っている。室の八島をへて、さらに鹿沼に足を進め、綱房の父である綱重の館に一泊し一路、日光山へと向かった。日光では、座禅院で連歌を催している。ついで大平山へ向かい、般若寺に一泊、連歌を催している。翌日、綱重は宗長と別れている。この間、壬生綱重は、ずっと宗長と同道しいるのである。
 両人は非常に別れを惜しみ、「六十(むそじ)あまり全(おな)じふたつの行末は君が為めにぞ身をもおしまん」と詠んでいる。綱重は「壬生系図」によれば、大水3年(1523)に76歳で没している。したがって、永正6年(1509)には62歳という老境であった。宗長もまた61歳という老齢に達していた。宗長の綱重に対する心遣いが感じられる。
 彼らが下野を遊歴したのは、季節的にみると台風のシーズンであった。日光から、宇都宮をへて壬生、大平山へ至る道中は「雨風吹出」「きぬ(鬼怒)川、中(那珂)川などいう大河とも洪水」をし、「雨風に簑も笠もたまらず」、時折、雷鳴さえ轟きき、雨は「車軸の如」き有り様であったという。こうした悪天候を両人は、ものともせず旅している。
 宗長が連歌の師匠である飯尾宗祇に倣って諸国遊歴の旅に出たことは有名な話であるが、それにもまして驚くのは壬生綱重のとった態度である。そこには「連歌」に対する地方武士の強い希求の念を見いだすことができる。そればかりではない。「此頃、那須と鉾楯(ほうじゅん)すること出きて合戦、度々に及べり」と宗長は見聞のさまを記している。これは宇都宮氏と那須氏の反目・抗争を示している。戦乱も風雨をも意に介せず、宗長に同道した壬生綱重は下野の戦国期にあって確かに異彩であろう。
 壬生綱重にくらべて小山政長や、山上宗閑の場合はきわめて強引な態度である。室町時代の屈指の学識家で歌人でもある三条西実隆の日記「実隆公記」によれば、享禄元年(1528)9月6日、易僧の葉雪が京都の実隆邸を訪ね、小山政長の連歌に付句合点を求めてきた。「頻(しき)りと所望」(原漢文)とあるところから、実際はよほど執拗に感じたらしい。しかし結果的には実隆の方が折れて、その求めに応じている。
 続いて政長は享禄5年(1532)6月19日に連歌師宗牧を仲介者として実隆の発句を所望している。実隆は清書して与えている。政長は、よほどうれしかったものとみえ、同月23日、再び宗牧を仲介者として発句のお礼として沈香(じんこう=じんちょうげ科の常縁喬木で香料として使用)を贈り届けさせている。
 また「実隆公記」享禄5年3月8日条によれば三条西実隆は前月末に請われた「詠歌大概」一冊を山上筑前の子である宗閑に与えている。この書物は、藤原定家の著した歌論書であり、彼の歌論中、最も重んじられたものである。したがって三条西実隆自身、この書物を珍重していたことは想像できる。
 宗閑が「一詠歌大概」に眼をつけたのは、その価値について熟知していたからかも知れない。政長といい、宗閑といい、両者は優劣をつけられぬほどの強引ぶりである。実隆は決して快くは思わなかったであろう。けれども、その強引さのなかに下野武士の激しい文化意欲というものを感ぜずにはおれないのである。

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結城氏の「新法度」~家臣統制「大名」維持

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 下野の小山氏は平安時代以来、下野の国衛(こくが=国司の役所)を中心に勢力を張った名族であった。小山政光の子、朝光は将軍源頼朝に仕え下総国結城に拠り、はじめて結城氏を名乗った。この結城氏は本宗(=宗家)小山氏、同族長沼氏らと肩をならべる有力な御家人として活躍。さらに南北朝、室町の戦乱の時代をたくましく生き抜き、佐竹、宇都宮、小山の諸氏とともに「関東屋形」とよばれた。その結城氏は「法度」と呼ばれる一種の法律で軍事的統制を強化し、領国支配を確立、小さいながらも戦国大名としての面目を保持していた。
 結城氏は朝光よりかぞえて11代目の氏朝の時、有名な「結城合戦」で敗れ、一時、衰えた。この合戦は永享12年(1440)、結城氏朝が鎌倉公方足利持氏の遺児である春王、安王らを擁して幕府に反抗した事件である。しかし、結城氏の奮戦むなしく、翌年結城の城は落ちて氏朝は自殺をとげ、春王、安王らは捕らえられ、のち殺された。
 ところが14代の氏広、15代の政朝になって再び勢力を回復させた。とくに政朝は、結城家の中興に尽力するところが大であったといわれる。この政朝の子、政勝こそ「結城氏新法度」の制定者である。政朝は父祖の遺業を継承し、戦国大名としての才覚をいかんなく発揮し、宇都宮氏や常陸の小田氏らとしばしば戦っている。
 この法度は別名「結城家法度」「結城家新法度」「結城政勝法度」などとも呼称される。本文の後に次のような奥書が見える。
 弘治二年丙辰十一月二十五日新法度書レ之政勝(花押)
 さらに、この後に2カ条の追加と家臣連署の請文があり、おわりに政勝の次代晴朝審判の1カ条がある。政勝は「結城系図」によれば永禄2年8月1日に56歳で死去している。この没年を信ずる限り、この法度の制定は政勝の晩年、53歳の時にあたる。
 まず、この法度は冒頭に法度制定の趣旨を述べた前文があり、ついで104カ条に及ぶ本文がある。その前文は欠字などがあるが、その末尾に「後代に於ても此の法度たるべく候」(原漢文)とあるところからして、この法度を制定した決意がうかがわれ、家臣に対する強力な統制の姿勢がは握できる。下野とも関連ある結城氏の法度のうち、とくに注目できる規定について紹介してみよう。
 新法度第4条は、けんか口論などの沙汰に加担することを固く禁じている。第5条では、けんかをしかけられ、やむなく相手になった者を改易に、また、けんかの一方に加担した場合は一族を改易に処し所帯や屋敷を没収するとある。さらに第6条は非常識・不当な言動をしかけられても自制して、とりあわないこと、慮外(りょがい=ぶしっけなこと)をしかけた者には処罰を加え所帯、屋敷を没収する。
 戦国家法のなかでもけんかに関する規定は決して一様ではない。「大内氏壁書」によると、はじめ当事者間の私的解決に任せていたが、後に主君である大内氏が理非を裁決することになっていた。伊達氏の「塵芥集」では、しかけた方を罰するとあり、「今川仮名目録」では、けんかの本人は死罪、力を合わせて助けた人の負傷、死亡は沙汰に及ばずとみえる。今川氏自身の裁量がかなりあったことがわかる。
 さらに「甲州法度」によれば、けんかの本人は是非を問題とせず両方に成敗を加える、けんかをしかけられても堪忍した者は処罰しない。力を合わせて助けた人は同罪であるという。いわゆる「けんか両成敗」の規定であり、誠に厳しい掟である。
 けんかをしかけられても堪忍を重ね、こらえ自制してとりあわないことである。戦国の武士にとって耐えられるものではなかったはず。けれども結城氏は、けんかをしかけられても、とりあうなという。私闘によって家臣たちの間が分裂し統制力の及ばなくなることを憂慮して、このような「堪忍」「忍耐」の規定が加えられたのであろう。
 けんかの当事者を理由のいかんにかかわらず処罰するのも厳しい。しかし、けんかをしかけられても決してとりあうな、応じるならば処罰を加えるという規定はさらに厳格ではないか。けんかの発生自体を恐れ、このような規定を加えた点に結城氏の家臣統制をゆるがせにしない態度を感じる。
 このほか結城氏の承認なしに家臣が結婚をしてはならない▽朝夕の寄り合いにおける飲酒の制限▽私の相談事の厳禁▽酒に酔い結城家の当主の目の前にでて申し立てをしてはならない▽敵地の者と音信してはならない▽結城氏の定めた制礼に違反する者は厳重に罰する。これは何人の弁護をも許さない、などが定められている。
 第56条に放火犯は特別の重罪として「はりつけ」にすることがみえる。また、第17条には市場や神事、祭礼の場所に奉行を置くことがみえる。商業活動に何らかの統制を加えていたのだろう。
 第54、55の両条にわたって家臣の放れ馬を稲作を食い荒らしたといって尾を切ったり、たたいたり殺したりしてはならぬこと、やたらと捕らえて金とひきかえに渡すということは盗人同様の所行であるという規定がある。戦闘における機動力は馬にかかっていたことを示すものである。
 ひとたび合戦となると、結城の本城に螺貝の音がとどろき(=第67条)、家臣はその身代、財産に合った所定の武具や兵員を従え、かけつけた。10貫文以上の手作り地(直営地)をもつ侍は、一匹一領(馬1匹、具足1領、従者なく自分一人で乗馬する)、5貫文以上の者は具足被り物持ちという、いでたちであった(=第66条)。
 螺貝が鳴ったら使者を出し、どこへかけつけるべきかを確認した上で、かけだすことをすすめている(=第67条)。大きな貝の音は外の事件、小さな音は結城のおひざもとでの事件であった。しかし、武装せず一騎でかけだすことは禁止されていた(=第68条)。
 鎌倉時代のころには先懸(さきがけ)の功名という言葉の通り抜けがけすることは軍功の一つであった。しかし、戦闘法はもはや、かつての一騎打ちから歩兵である足軽隊を中核とする集団戦法に変化していた。命令をうけたわけでもないのに、抜けがけをし、敵に殺されても、それは忠義の行為ではなく(=第69条)、軍陣においても退却の際に、ひとり踏みとどまり、あるいは進撃の時に単身で飛び出すという行動を禁止している(=第70条)。
 さらに結城氏の親衛隊というべき馬まわりの武士については他の部隊に加わってはならない、独立の部隊として10騎、20騎一隊となって行動すべきこと(=第71条)。また、出陣中、勝手に帰ることも禁じている(=第96条)。
 このほか注目できるのは、寄親、寄子制である。寄親(親方)、寄子(寄騎、与力、同心、指南などともいう)の制は戦国大名の軍事組織の中心であった。従来は惣領(一族の長)が一族を統率していたが、戦国期にはいると大名は有力家臣を寄親とし、これに小武士を寄子として配属させ支配させる傾向がおこってきた。これは崩壊しつつあった族的結合にかわるものであり、百姓、牢人(ろうにん)などを、あまねく軍事組織にくみこむ必要があったからである。
 第8、31の両条から結城氏の領内にも、この制があったことがわかる。戦国の世にあっては平時も戦時体制であったから、この寄親。寄子の関係は常に保たれ平時には上意下達がおこなわれ、結城氏の命令が家臣に徹底的に伝えられた。また、寄子の訴訟を寄親が主君に上達する権限をもっていたのである。

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古文書にみる中世のお天気 五重塔も吹き倒さる

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 毎年、夏を迎え、長雨が続くと、東北・北海道地方の農家では、冷害の大打撃をうける。また逆に日照りが続くと、都市は砂漠なみの状態になり飲料水にもことかくありさまである。
 このように徴妙に変化する〝お天気〟は、人間の生活を制約し、おびやかしさえする。科学文明の高度に発達した現代でもこんな訳だから、江戸時代にはなおさら。鎌倉・室町時代には、最も深刻な問題の一つだった。
 とりわけ中世には、干ばつは非常に恐れられた。田植えどき、カンカン照りが続くと田にひび割れができ植え付けることができず、秋の収穫は激減。必ずといってよいほど飢饉になった。
 その一つに、治承4年(1180)から養和元年(1181)にかけての飢饉があげられる。鴨長明の随筆「方丈記」からも、その惨状が想像できる。
 世の中、飢渇して、あさましき事侍りき。…ついひぢ(築地)のつら、路の頭に飢死ぬる類ひは、かずもしらず。
 気象災害史の研究家としても知られる気象学者荒川秀俊博士は、この養和の飢饉について専門の立場から面白い結論を出している。
 つまり、干ばつで大きな被害をうけるのは西日本であること、西日本はいうまでもなく平氏の根拠地であり、兵糧米の補給地であること、平氏が源氏と富士川で対決したのは治承4年(1180)10月20日、ちょうど古米と新米のいれかわる端境期に当たり、米の大消費地である京都では、すでに深刻な食糧問題がおこっていたことなどを挙げ「平氏を走らせたものは水鳥にあらずして飢餓の大衆であった」と指摘している。
 いわば干ばつが平氏を敗退させたというのだ。天候が歴史上の事件に影響を与えた一例として興味深い。
 近世史料のうちで、日誌類のなかには、天候をこまめにつけたものもあり、気象学者が指摘するように、こうした史料を一括して保存するとか、一覧表をつくっていくことが確かに急務だろう。
 誠に幸いなことに、栃木県では日光東照官に「御番所日記」が所蔵されている。17世紀から幕末までの東照宮御番のありさまが、克明に記されている。同時に200余年の日光の天候が、わかることも忘れてはならない。
 今市市文化財保護委員長の森豊氏は、「御番所日記」を丹念に調べ、「日光の災害」としてまとめ、日光東照宮の社報「大日光」に発表されている。
 ところで、栃木県の中世史料のうち〝お天気〟に関するものとなると、極端に乏しい。氏家町の西導寺に所蔵されている「今宮祭杞録」については、すでに紹介したが、その記述のなかに気象関係の記事が含まれている。
 天文元年(1532)、現在の氏家町を中心とする地域では、穀物の実りが悪く「不作」だったことがみえる。続いて天文9年(1540)8月には、異常な「大風」のため著しい被害がでている。
 八月十四日、亥剋(午後9時)より丑の時(午前1時)まで大風吹き、世間の様体中す計りなく候。宮(宇都官)にては東勝寺の五重塔を吹き返し候。なおも世間の堂塔など、みなことごとく吹きふせ候。さる間、人民あまた、吹きころされ候、当社にも古木数九十本かへり申候
 宇都官の東勝寺とは、田川沿いにあった寺で、宇都宮貞綱が父景綱のために建立したもの。七堂伽藍の備わった、立派な寺院だったらしい。宇都宮氏の没落にともない廃寺になった。
 東勝寺の五重塔が倒れ、神社の古木が数多く倒されれ、人間が吹き殺された、というのだから、大変な「大風」である。
 また永禄6年(1561)7月29日から「大風」に加えて「大雨」が降り、8月1日の己の刻(午前9時)には「大水」になった。台風の襲来によるものだろう。
 さらに天正4年(1576)には「長雨」が降り、穀物の実りが例年の「半作」だったため、祭礼が営めなかった、という。
 さて、栃木県の中世史料の宝庫の一つは、日光山常行堂である。この堂の本尊は宝冠阿弥陀如来。護法神として摩多羅神をまつり、正月初めの修正会、正月14日の慈覚大師の忌日会などが営まれる。ここには多くの古文書・古記録が伝えられている。
 そのうち「常行堂施入帳」という記録は僧侶や武士からの施入物を、年代を追って記述したもの。源頼朝、源実朝の念珠施入から始まり、天正12年(1584)8月の施入で終わっている。
 このうち応永21年(1414)12月23日のこととして、
 大風に常行堂、吹き破られるなり。然る間、本尊ならびに摩多羅神、立て奉るところ無きによって、当上執事恵乗坊へ入仏奉るなり。
 寒冷前線の通過に伴う突風だった、とみられる。ほかにも相当な被害があっただろう。今のところ、ほかの史料には全く見えない、きわめて重要な記事といえる。

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佐野天命鋳物 鋳物の集団足嶋入明衆・鳴田天明衆

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 「東山時代、関東の天命釜をもって、良となす」(和漢三才図会)と称賛され、西の声屋釜をしのいで全国に名を知られた佐野天命鋳物についてみてみよう。すでに諸書で考察されているので、ここではその域を越えるものではなく、紹介程度にとどまることをあらかじめお断りしておいて、さっそく本論にはいろう。
 まず、天命鋳物の起源について、結論からいえば、はっきりしたことはわかっていないのが現状である。佐野天命鋳物師であった正田家の正田治郎右衛門が著した「湯釜由緒」の記事に、
 昔天慶2年(939)7月、河内国丹南郡狭山郷天命より佐野の西旗川の東岸、金屋寺岡村へ移住し其後犬伏宿北一異鋳物師入という処へ転居し、この時始めて土びん茶釜なるものを鋳造す。これを小天命湯釜といい、また、この年治安3年(1023)5月15日なるを以て、年号の安三の2字を取りて、安三湯釜とも名づけ、普通小天命釜と称し…
とあり、これによれば、天慶年間に、河内国丹南郡狭山郷(現在の大阪府南河内郡狭山町) の鋳物師が、下野の金屋寺岡村に移住してきたのにはじまるという。その後、鋳物業の中心地はだいたい次のように移っている。
 河内国狭山郷―金屋寺岡村―犬伏宿北裏鋳物師入―田町―金屋町―金井町―金屋仲町―金屋町―金屋下町―金吹町
 「金」という字がついた町名が多いところからみてて、鋳物業は当時、相当盛んだったらしい。
 真偽のほどはともかく、文献や伝説には天命鋳物の起源をほぼ天慶年間としているものが多い。しかし、それ以前に、佐野の鋳物業が全くなかったわけではないだろう。おそらく日常使うなべやかまは、もっと早くから作られていたに違いない。そうした下地があったからこそ、当時のかなり高度な鋳工技術を受入れ、発展の基礎を築けたのだろう。
 鋳物師は最初、庄園領主や農民の要求があると、そのつどなべ、かま、くわなどの生活必需品を作っていた。生産力も低く、需要も少なかったから、各地を回って需要に応じていた。
 その後、次第に需要がふえ、放浪の姿が消え、特定の地方に定住して鋳物業の中心地を作る形に変っていった。中世の代表的な産地は、河内の丹波、大和の下田、播磨の野里、相模の鎌倉と下野の天命である。
 佐野天命の鋳物師が文献にはっきり登場してくるのは、やはり中世に入ってからである。日光「常行堂記録」には、正長3年(1430)7月28日の夜、常行堂の「大火舎」(火鉢)が失われたが、これは天明八郎次郎なる鋳工によって寄進されたことがみえている。またかれは、宝徳3年(1451)8月18日常行堂摩多羅神に鰐口を寄進している。さらに足利「ばん阿事文書」の「正光院義貞書留」の中には「綱切ノ太刀」という天命の刀鍛治が作った刀のことが記されている。
 こういった事実から、室町初期、すでに佐野天命宿には、天命八郎二郎という鋳物師や刀鍛治などが、一つの集団として鋳物業に従事していたことがわかる。
 時代は下るが、佐野大庵寺の「念仏日記」は、領主佐野昌綱が欣求浄土の志を立てて僧岌翁から「念仏一千返」(千回念仏を唱えること)のやり方を聞き、家臣や庶民にもこれをならわせた時の記録だが、この中に天命鋳物師について興味ある記事がのっている。
 八万返 清心禅門 尾嶋天明衆
 五千返 韮墨工禅門 嶋田同
 三千返 内田道正 天明衆
 三千返 内田道祐 同
 三百返 大山備前 同
 三千返 大森六良左衛門 同
 三千返 川嶋八良左衛門 同
 この記録から当時、仏門に帰依した鋳物師がいたこと、鋳物師の集団が「尾嶋天明衆」「嶋田天明衆」といった一定の集をもち、「座」のような組織を作っていたことがわかる。
 天正4年(1576年)に発布された「鋳物師職座法之掟」で「一国ないし一郡には特別の由緒ある鋳物師が居住するので、他国の鋳物師や新規の者の営業を許さない」と定められた。この法律は、鋳物師の特権保護と同時に、軍需品の調達など領主の支配政策に基づいて意図的に行われたものである。
 このようにして天明鋳物師たちは、現在の佐野市を中心に、独占排他的に営業していたようである。その活動は、鋳物業の本場和泉、河内の鋳物師の組織「鍬鉄鋳物師本座」の営業をおびやかすほどだった。そのため和泉、河内の鋳物師は自分たちの独占権を守ろうと足利幕府に訴え、幕府は、鎌倉府(関東公方)に対して、上野、下野の鋳物師が新たにくわ鉄商売を行うことを禁止するよう命じている。宝徳元年(1449)、室町初期のことである。いかに天命鋳物師が全国的に活躍していたかがわかる。
 八代将軍足利義政の時代は、東山文化といわれ、京都に銀閣寺を建て、茶室として東求堂を設けるなど、茶の湯が流行した。こうした世相の影響をうけ、最初に述べた「天命の釜をもって良となす」といわれるほど高度な芸術品が生み出されたのだろう。

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足利尊氏源家一族を強調 幕府創設の発願は家時にあり

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 足利氏には藤姓足利氏と源姓足利氏があり、室町幕府の基礎を築いた足利尊氏は源姓である。足利の地を初めて開発し、足利氏を称したのは下野押領使鎮守府将軍藤原秀郷の後裔、成行であった。以後、この足利庄は家綱、俊綱、忠綱と相伝され、俊綱は「数千町を領掌し、郡内の棟領」であり「下野国足利庄の領主職」を有していた。その子息忠綱は、小山朝政と「一国の両虎たるにより、権威を争」っているほど大きな勢力を持っていた。しかし野木宮合戦で敗れ、藤姓足利氏は滅亡した。この藤姓足利氏に代わって足利庄を領したのは、八幡太郎義家の三男、義国であった。この義国の次子、義康が足利氏を称して、義兼―義氏―泰氏―頼氏―家時―貞氏と続き、尊氏に至る。
 ところで、義国の嫡子義重は、上野国新田庄を相続し、新田氏の祖となった。新田氏は足利氏の嫡流であったにもかかわらず、「増鏡」や「神皇正統記」では新田義貞を「尊氏のすえの一族」と記るしているように、当時、新田氏はあまりふるわなかった。
 北条氏一門でさえ、北条執権専制政治の中で、勢力を伸ばすには「薄水を踏む」思いであったが、外様大名の足利氏が勢力を仲ばしえたのは、執権北条氏と代々姻族関係を重ねてきた結果であった。
 こうして、着々と実力を蓄えてきた足利氏は、時機いたらば天下を取ろうという野心をもっていた。今川了俊が著した「難太平記」という書物には、尊氏が建武新政府に叛旗(はんき)をひるがえした動機についてふれている。
 すなわち、源義家は「我七代の孫に吾生れかはりて天下をとるべし」という置文(一種の遺書)を書き残したが、七代目に当たる家時の時はまだ時機がいたらず、天下をとることができなかった。
 そこで家時は「我命をつづめて三代の中にて天下をとらしめ給へ」と八幡大菩薩に祈願して自殺した。その間の事情は家時自筆の置文にくわしくみえており、今川了俊は父とともに尊氏、直義(尊氏の弟)の前でそれをみたが、この時、尊氏は幕府創設の契機はこの家時の発願にあると語ったという。
 上にいう家時の置文が実在したかどうかはしばらくおくとしても、尊氏は家時からかぞえて三代目にあたり「我ハ源家累葉ノ族也」とことさら強調し、源家―武家政治再興の信念にもえ、ついに室町幕府を開いたのである。
 足利氏と密接な関係をもつ足利庄は、義康が鳥羽上皇の建立した安楽寿院領に寄進してその代官となり、以後、美福門院、八条院障子内親王へと伝えられた。室町幕府はこの足利庄を特別に重視し幕府の直轄地としている。
 幕府はこの足利庄の支配を、最初鎌倉府にゆだねていたが、鎌倉公方持氏の代になると、幕府―鎌倉府の関係が円滑でなくなり、幕府が直接支配するようになった。そのため足利庄の代官は、幕府の管領の被官の中から任命される慣例となった。残念ながら、その具体的な支配のあり方や庄民の存在形態は、史料に制約されて明らかにすることができない。
 最後に、尊氏の人物について一言しておこう。
 「梅松論」という書物に、夢窓疎石(鎌倉末・南北朝時代の禅僧、尊氏に信任厚かった)の言葉によれば尊氏は仁徳をそなえた上に、なお「大いなる徳」があるという。
 それは①「御心強にして、合戦の間身命を捨給ふべきに臨む事、度々に及ぶといへども、笑を含て怖畏の色なし」、②「慈悲天性にして人を悪み給ふ事を知り給はす、多く怨敵を寛有すること一子のことし」、③「御心広大にして物惜の気なし、金銀土石をも平均に思食て武具御馬以下の物を人々に下給ひしに、財と人とを御覧し合る事なく、御手に任て取給ひし也」といわれている、
 この記事からある程度、尊氏の性格を想像することができよう。

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鉄仏と宇都宮氏の関係を探る 鉄への信頼と鎌倉仏教の影響?

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 鉄仏―鋳型の中に高熱で溶解した鋳物鉄を流しこんで造った仏像をいう。仕上がりの見ばえは余りよいとはいえない。しかし、いかにも素朴で、どっしりと重要感にあふれた姿は、何ともいえない。現在、関東地方で、所在を確認されている鉄仏は約30体ある。これらの鉄仏は、大部分が13世紀中ごろから14世紀初めの鎌倉時代にかけて造られた中世の産物である。この鉄仏類は最近、ようやく彫刻史の上で注日され、研究が進められ、関心も高まってぃる。埼玉県立博物館で「関東の鉄仏展」が開催されたことは、そのあらわれとみてよい。
 この特別展に出品されたのは、ほとんど関東の鉄仏だった。本県からの出品もあった。下野の鉄仏については、栃木県文化功労賞を受賞された野中退蔵氏の労作「下野の仏像」に取りあげられている。これらの鉄仏は、まことに幸いなことに、銘文によってその仏像の造立時期、造立者がわかっている。
 中世、下野の豪族宇都宮氏についてはすでにこの欄で紹介したが、本稿では宇都宮氏と鉄仏の関係について紹介してみようと思う。
 まず、宇都宮二荒神社の宝物として伝えられる鉄造の「狛犬」(こまいぬ)がある。これは、いわゆる鉄仏ではないが、鉄仏と同質のものである。
 狛犬といっても、ほかのように、唐獅子ではなく和犬である。両耳をたれ四肢(し)をそろえてすわっている。その手法は、稚拙な感じを与えるものだ。左前足が欠けている。左側面に陽鋳銘(銘文が陰刻でなく地よりも高くあらわれているもの)があり、「建治3年(1277)4月日、吉田直連施入」とみえる。
 この「吉田某」なる人物が、一体どういう人物だったのかは、はっきりしない。二荒山神社の神官だったのか、宇都宮氏の被官だったのか。いずれにせよ、同神社と大変ゆかりの深い人物だったろう。
 次に宇都宮市清水町、清厳寺の「鉄塔婆」について紹介しよう。
 この鉄塔婆は、板石塔婆(板碑)と同じ形をしたもので、上部に梵(ぼん)字の「キリーク」、その下に雲に阿弥陀仏、下部には4行28字の偶(げ)と4行79字の銘、ならびに年紀などが陽鋳されている。
 銘文に見える「孝子某」を幕末期下野芳賀の国学者河野守弘は、彼の労作「下野国誌」の中で、「宇都宮旧記」によるとして宇都宮景綱の子貞綱だとしている。亡母の十三回忌に造った塔婆だ、という。
 貞綱はモンゴル軍が、わが国を三度目に襲った事件=弘安の役に多くの軍勢を率いて九州筑前に下向したが、到着した時はすでにモンゴル軍撤退のあとだったという。貞綱は九州で警戒防備にあたったという。
 この塔婆は、もと同市釈迦堂町の東勝寺にあったものである。この寺は宇都宮貞綱が建立したが、宇都宮氏没落とともに廃寺となり、塔婆は清厳寺に移された。清厳寺は、宇都宮氏の腹心の部下だった芳賀氏の建立である。
 ところで、宇都宮氏は弘安6年(1283)に、一族の統制強化を目的とした「宇都宮家弘安式条」を定めた。この年に造られた鉄仏が塩谷郡喜連川町の専念寺で発見されている。阿弥陀如来立像で、全身に火災にあった跡が認められる。
 筆者は前掲の野中氏の著書で、この鉄仏の存在を知り、知人にさそわれて同寺を訪ねた。そして背銘「奉読誦阿弥陀経百巻、弘安六年癸未十月□□ (2字不明)」を確認したときの感激を忘れることができない。宇都宮氏とゆかりの深いものではないかと思えてならなかったからである。
 宇都宮頼綱の弟朝業は、塩谷郡川崎に住み、塩谷氏の祖となった。この喜連川あたりも、宇都宮氏の支族塩谷氏の支配下にあったと考えられている。しかも、宇都宮氏は浄土教に深く帰依している。頼綱自身、法名を蓮生といい、法然の弟子証空に熱心に師事しており、朝業は法名を信生といい仏門に入っている。従って背銘に「奉読誦阿弥陀経百巻」と見えるのは、この浄土信仰を示す、数少ない在地の史料といえる。
 上都賀郡西方村の西方薬師堂の薬師如来坐像も、貴重な鉄仏の一つである。銘文が背面中央と左肩に陽鋳されており、部分的に漆箔(うるしはく)の跡がある。年紀銘は、前掲の狛犬と同じ建治3年である。
 勧進僧(寺院の建立・修復あるいは仏像の造立などのため信者や有志を勧誘して、その費用を奉納させるために尽力する僧)や鋳物師(いもじ)の名前のほかに「四郎入道」「源藤三入道」などという名も刻まれている。いずれも、この地方に勢力をはっていた武士ではないだろうか。
 この地域にはのちに、宇都宮景綱の孫、綱景が館をかまえ、西方十余郷を領し、西方氏の祖となった。宇都宮氏と関係の深い地域だったといえる。
 鹿沼市上石川の北犬飼薬師堂の薬師如来坐像は、銘のある県内の鉄仏としては最古の作品である。背面に陽鋳銘があり、建保六年(1218)という年紀銘を認める。
 いかにも素朴というか、稚拙な感じが漂っているが誇れる鉄仏である。銘文には「大旦那藤原則安」「大工坂本某」のほかに「紀氏」を名乗る者が2人刻まれている。宇都宮氏の腹心の臣に、紀氏(益子氏)がいるが、この鉄仏に見える紀氏も、宇都宮氏と関係の深い紀氏ではないだろうか。
 以上、推測の域を出ないところもあるが、あながち否定できない点もある。特に下野の鉄仏には、多くの在地武士と思われる人名を見いださせる。筆者は宇都宮氏の一族か被官と考えたい。中世、下野の有力武士の代表である宇都宮氏が、浄土宗に代表される新興仏教に影響を受け、こうした鉄仏を造ったのではないだろうか。
 下野には、天明釜で有名な佐野天明宿があり、多くの鋳物師たちが住んでいた。おそらく鉄仏の多くは、地元の天明の鋳物師たちによって造られたものだろう。
 わが国の歴史で、鉄の文化といえば、ただちに「日本刀」が思い浮かぶ。鉄という永久不変なものへの信頼が、新興階層である武士たちの人気を集めて、こうした鉄製の仏像が造られたのだろう。鉄はサビに弱いので、腐食して、朽ちはててしまった鉄仏も、かなりあったのではないかと思う。
 (執筆にあたって野中退蔵著「下野の仏像」埼玉県立博物館編「関東の鉄仏」を参照した)

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