サンプル
d(sinθm-sinθ0)=mλ (回折格子の干渉式)
むむむのむ、世の中知らない事は数多くあるものだ。
カメラレンズに「回析現象」という言葉が有る。平たく言うと「絞り込むと解像度が落ちる」という現象を指す言葉だ。難しく言うと光が波の特性を持つために発生する(絞り羽の裏側への)回り込み現象と、その結果として撮像面到達光への干渉が増大する現象そのものを指す。「小絞りボケ」とも言う。
この話は35mmフィルム時代にカメラを覚えた者には違和感が有ると思う。『だって絞りって絞るほどシャープになるんじゃないのぉ?』
以前にも書いたがデジタル時代になってカメラあるいは写真の概念は随分変わった。フィルム時代には(一部のプロ機材を除き)フィルムは入れたものを撮り切るまで同一、だからISO(昔はASAね)なんてのは固定だった。ホワイトバランスなんてのも、余程厳密なスタジオ撮影での話で一般には関係ない話だった。露光補正とか色温度なんて現像処理の範疇だ。
そういう時代のカメラに於いて「設定」項目とは、シャッタースピードと絞りのほゞ2点。このうち絞りには「被写界深度」というファクターが付いてくるから、撮影技術における露光調整とは作品意図の表現と重なって「絞りで調整する」というのが当たり前だった。(スポーツ/夜景/一部意図的にSSを決める流し撮りなどを除く)
今でもデジカメを「A」設定で撮ってる多くの親父は、その認識ではないのか?少なくとも私はそうだぞ。
フィルム当時の35mm版レンズにおける絞りはF0.98~F32の間程度。で、一般的な高級カメラには標準でF1.4、広角望遠でF2.8から4という、まぁ、今と大して変わらないレンズが付いていた。
さて、本日のお題に戻って「回析」の話だが、元気の主力μ4/3規格では、F8程度が解像の限界だと言う。これ以上絞ると「回析」によってボケが発生し始めるのだ。更にF8というのもパナのライカ/Xレンズ、オリンパスのPROレンズでの話で、中級以下の光学特性のレンズではF5.6程度が限界だと言う。
デジタルカメラに本腰を入れ始めたころ、周りの方々から「元気はフィルム時代の基礎が有るから、話が早いよな。」と言って戴いた。事実、その素養はデジタルに於いても役に立つ物だったし、理解を助ける事でもあった。実際、フォトマスター検定でも役に立ったし。
よって、フィルム時代に生きた元気は「被写界深度」を深くしたい時に留まらず、『シャープに撮りたい時』にも許す限り絞り込んで撮影を行ってきた。いやはや、本当に知らないとは恐ろしい。
何で、こんな重要な事を知らずにいたかというと、この回折現象という物は撮像素子の大きさに影響するという物だからだ。これは、恐らく少し難しく正確に言えばレンズが作るイメージサークルの大きさで影響度合いが変る、という事だと理解している。
もちろん、回折には撮像素子の解像度(画素数)も影響している。低画素なら「ボケ」ても「ボケ」にならない(解像できない)からだ。即ち、高画素ほど「小絞りボケ」にシビアになる。今回は、話が複雑化するだけなので、解像度、画素数については割愛。
いずれにしろ、35mm位の撮像面サイズが有ればF22位では、然程気にする事が無い現象だったから、昔は絞り=被写界深度程度の単純な理解で実質的な問題は発生しなかった。
だが、μ4/3の撮像素子は規格上、35mmの撮像面に対し面積比では26%しかない。単純比較はできないのかもしれないが、F22に絞れば35mmならF22でも、μ4/3ではF88の影響が出ている、という事だ。μ4/3でF8が限界というのも、35mmならF32相当だよ、という事なら理解できる。フィルム時代でも、それ以上絞るのは『変』だからだ。
ちなみにAPS-Cなら面積比43%(CANONなもう少し小さい)だから、F11-16程度が限界という事になる。
そもそも、この現象に気づいたのはE-M5に40年前のG.Zuiko200mmF4+MC4のテレコンで換算800mmをピント&解像を上げたくSSの許す限り絞って撮っていたらボケボケだったからに他ならない。テレコンで倍になるのでF32なんて絞りで撮っていたわけだ。35mm換算ならF128ってか。
とは言っても、この構成でオリンパス推奨値の限界F8=テレコン装着のF4開放では甘くて話にならない。どーすんのさ。(テレコン外せって事だね)
む~、世の中に「マイクロフォーサーズではボケない」という書き込みは良く見かけるが、「マイクロフォーサーズでは絞り込めない」という話はあまり聞かない。こっちの方がはるかに重要だろ。
更に言えば、この状況でレンズまたは本体設定でF11以上の絞りを設定できるのも如何なものか?(レンズは資産だから将来的に本体の補正でF16まで小絞りボケを除去、とか考えているのかもしれんが)
とにかく、現状のμ4/3では、最高の光学系を持つレンズを使用してもF8までが絞りの限界だと、よーく認識しておく必要が有る。そうなると例えばオリンパスのM.Zuiko12-40mmF2.8PROの有効絞りは昔風に言えば2.8/4/5.6/8の4段という事になる。(デジタルの世界では、もっと小刻みに絞り設定できるが)
ただ、μ4/3では同時に「被写界深度」が深くもなるし、高品位レンズでは開放から解像するので「小絞りボケが8から出る」と知っていれば、他の特性と併せて実質的な問題も回避できるのかもしれない。要は「全部前倒しになってる、」とでも思えばいいのだ。(そんな単純じゃないぞ、とわかってはいるが精神安定の為にも、そう思う事にする)
こういった制約の中で自己を表現する撮影をこなす技術を「写真術」と呼ぶのか、しらん。
元気のカメラの現行主力機は、オリンパスのOMD E-M5だが、この後継機が来年の2月に発表になるという。
さまざまなスペックの憶測や観測が数年前から言われてきたが、発表が近くなって大分と信憑性の高い情報が出てくるようになった。
最大の話題は「センサーシフト」を活用して1600万画素の画像センサー(現行機と同じ画素数)で、4000万画素の撮影を可能とする、という物。現在のプロ機の「フルサイズ」が3400万画素程度だから、一気にμ4/3が、そこを越える事になる。(何せセンサー面積の小さい4/3規格では、画素数の向上が図れない、とか言われ続けてきたからね。)
この技術1600万画素のセンサーを「シフト=動かして」何枚か(仕様状の最大は8枚との事)撮影し、合成して4000万画素にする、という物らしい。
その仕組みから「三脚専用」「静物専用」「動体不可」「S/S制限」という限定仕様(モード)なのでは無いか?とネットでは言われている。
ん~、どうだろう?そんな中途半端なことするのかいな?と、思っていたら、オリンパスが昨年、「像面位相差AFの画質劣化を読み出し位置の変更で軽減する特許」というのを出願していることが判った。
この特許は、像面位相差AFでの「ドット抜け」を、読み出し位置をシフトして解決する、という感じの物。実際には、出願後の製品「E-M1」の画質向上に貢献している。
この考えを一歩進めれば、「センサー全面シフト」で普通に撮影できそうな気がする。つまり、読み出し位置のシフトという電気的な処理とセンサー自体の物理シフトという合わせ技。これなら5軸補正も連立できそう。形を変えた電子シャッターかもしれんが、それなら1/8000とかでも機能する。
オリンパスさん、ここは一発、世間を驚かせちゃってちょうだい。
今日は文句を書く。いつもじゃないか、と思われるかもしれないが、まぁ許せ。
相手はNHKだ。これも定番だが、まぁ許せ。
対象は「見逃し視聴」だ。
「見逃し視聴」ってのは、放送済みの番組をネット配信で見る事の総称のようだが、まぁ陳腐な名前だ。あぁ、今回の話は、別の名前の話ではない。
先日、民法キー局が「見逃し視聴」の無償化を進める協議会を発足した、みたいな記事が流れていたが、Radiko同様、そこにNHKの名前はない。
NHKの「見逃し視聴」は、見放題プランで数千円の物と単品で数百円、また無償で見られるプランの3本建てになっている。無償プランは、もちろん、NHKとして番宣したい番組(朝ドラ初回とかね)に限定される。
冗談じゃねーぞ。NHKは視聴者の受信料によって番組を制作し、放送している団体だろが。それが、なんで「見逃し視聴」に再課金するんだ。
世帯主になってからNHKにカラー放送、BSなど全ての受信料を定額キッチリと滞納もなく払ってきている私としては、「NHKに著作権が帰属する全てのコンテンツは私にも按分された所有権が有る」と主張したい!いーや、それが当たり前だろ。
そのような善良な正規の視聴者を対象に「再配信」で再課金する愚は、明日止めなさい。日本放送協会くん。
昔から感じている事を書く。
なんで、レンズ交換式カメラのマウントマークはマウントの上にあるんだ?って事。内容は単純なのだが、趣旨を伝えるには、少し説明しなければ判りにくい話だ。
レンズ交換式のカメラには、カメラボディとレンズとの接続部分があり、この部位を「マウント」と呼ぶ。昔はネジ込み式(スクリューマウントなんぞと言った)だったが、これでは付け外しに時間が掛るので、爪とバネの併用による「バヨネット」と呼ばれる方式が開発され今日では主流になっている。(この形式が各社違うのがカメラ業界最大の不幸と、未だに業界は気が付いていない)
スクリューマウントでは構造上、レンズの固定の為に最低でも3~4回以上はレンズをネジ込まなければいけない。360度×4=1440度だ。
一方、バヨネットでは「引っ掛ける」構造なので40度程度の捩じりで着け外しできる。その差は劇的に大きい。
装着の為の角度が45度にも満たないので、通常バヨネット方式ではマウントに「マウントマーク」と呼ばれる赤い点が打たれている。どのカメラも丸点なので、こういう所は国際標準なのだろう。
その丸点とレンズの表示(一般的には、レンズの正中線に赤い線が引かれている=被写界深度の起点表示と兼用)を合わせて捻るとレンズが固定される、という仕組みだ。
もう何十年と、この方式が使われている。さて、本題に入ろう。(相変わらず前振り長すぎ)
なんで、レンズ交換式カメラのマウントマークはマウントの上にあるんだ?って事。(再掲)
前述の「丸い点」の様に「マウントマークはマウントに表示する」ってルールが有るのかもしれない。まぁ、自動車のペダルが右からアクセル、ブレーキ、クラッチみたいな事だ。使う機材が変っても操作の共通性を確保するには、こういうルールが要る。
だが、しかし、だ。 結論を書こう。
「なんで、マウントの側面にもマウントマークを付けないんだ」。
マウントマークがマウントに有るのは、(規格かもしれんので)今までどおりでいいが、追加でマウントの側面(多くの場合、左右斜め40度くらいの位置)に線でも点でも良いから、『はーい、レンズのマウントはここから始めてくださいねー。』ってマークを付けないんだ。
このマークが有れば、マウント位置を確認するためにカメラを上に向けなくて済む。
お手持ちにレンズ交換式カメラの取説が有ったら最初の方を見ていただくと例外なく「レンズ交換時には、ミラーボックス内に埃などが入らないように注意して下さい。」と書いてある。ご丁寧な場合には、カメラを下向きにしてレンズ交換しているイラストまで付いてるものも有ったりする。
そらそうだ。レンズを外せばカメラ内部は丸裸、特に私のようにミラーレス機の場合には撮像素子がダイレクトにもろ見え。レンズ外した状態で上向けて、鳥の糞が入ったら、どうすんだ。責任者出てこーい、である。
にも、関わらずマウントマークがマウントにしかないんじゃ、カメラを上に向けないと場所が判らんじゃないか。マウントマークを確認するために、いちいち頭上までカメラを持ち上げろってか。マウントの横に赤線でも切っといてくれれば、マウント部を斜め下に向けてレンズを付けられる。この位の事、出来るでしょうメーカー各位。
と、予てより思っているのだ。もちろん、ベテランのフォトグラファー諸氏にとっては、「使い慣れた自分の機材ならマウントマークなんか見なくても、レンズマウント位は目をつぶっても出来るわい。」というご意見を戴けそうだ。んな、こた判っている。
でも、そこをちゃんとフォローアップする工夫が物作りには必要なんじゃないか、その視点を持つ事と製品への具体化が「工夫」なのでは、と信じている。
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ハリウッド版の「GODZILLA」をIMAX-3Dで見てきた。平日の夜の回で通常料金より500円高いIMAXだからか、館内はガラガラ。ほとんどが中年以降のサラリーマンという「コア」な雰囲気だった。
結論から言えば「金払っても、まぁ良し」という出来。これは結構、褒め言葉だ。
観終わっての最初の印象は「これ、ディレクターズカットの方が絶対面白いんじゃねぇ」という物。上映時間135分と言う眺めの映画なのだが、180分、いや200分位のディレクターズカットが観たくなった。
それほど、ゴジラ(あるいは怪獣)への愛が感じられたからだ。もちろん、観客である私の「思い入れ」というソースもたっぷりかかっている。
判りにくい表現だ。ヲタの世界だからしょうがないが。
ギャレス・エドワーズという監督、39歳だが本作が長編2作目。念の為、BSで放送していた1作目の「モンスターズ:地球外生命体」を観ておいた。その1作目が評価されての大抜擢、という触れ込み。正直1作目が140万円(ホンマかいな)という超低予算映画だっただけに、「金の使い方が下手なんじゃね」という危惧を持っていたが、なかなかどうして巨額の予算をちゃんと肝を押さえて使ってくれていた。この監督、これからも期待できる。(何せ1999年から閉鎖されている日本の廃墟に置かれた車は、全て当時の年式の国産車と言う念の入れようだ)
作品全体を通しての「雰囲気」は、2001年版の金子ゴジラ『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』に近い。勿論、ストーリーなど一切の被りはないが、トーンは似ている。また、今回の相手怪獣「MUTO」がギャオスっぽいからかもしれない。(ゴジラ対ギャオス観たいもんなぁ)
映像の断片断片では9.11、3.11を彷彿とするシーンが有る。シナリオに対する蓋然性は確保されているが、この辺りは新進監督の「映像表現」に対する考え方が出ているように感じた。
反面、金門橋のスクールバスのシーンなどでは、米国の劇場で観客が全員で「Go!」とか、「Wooo」とか「Yes!」とか言いそう(言わせそう)な展開で、この辺は商業監督としてのツボも抑えている。
後は「これってワザと?」と思えるくらいに渡辺謙さんの演技がクサい。なんか、芹沢博士の怪しさをマッドサイエンティストっぽくしたくてやってるみたいで変。これは、カットシーンを全部見ないと「人物造形」が判らないのかもしれない。
そういった部分、細かい表現やセット、小道具類など、そこかしこが「ん~、ディレクターズカットの方が面白いんじゃねぇ」の根拠だ。
BLD買わせるための技だとすれば、いよいよもってギャレス・エドワーズ恐るべし、だ。
これは我が家のアトリウム
今日は私の地元の夏祭り。町内の神輿が練り歩き神明神社に社中がつどう。
ああ、日本の文化ここに在り、と思いたいが一寸待て。神輿の掛け声が変だぞ。
関東の時祭りならば『輪一処』=わっしょいが正しいだろ。
ところが我が町の神輿の掛け声は『わっしょい、そいや、そいや』。おっとと違うでしょ。んー、こう言う話も文化を伝承して行く方々による方言化と見なすべきか。
個人的には地回りの神明神社の祭りは輪一処で有って欲しい。それが『輪を以って尊しとなす』日本なのだから。
こういう事は後から書くと「結果論」とか「後付け」とか言われるので先に書く。よって「大きな間違い」「ド恥」「救いようのない馬鹿」な話となる危険も有る。
何の話かと言えば『Xbox One』の話だ。
先日(6/20)にMSKKによる『Xbox One』国内販売に関するプロモーションが行われた。今回は日本市場でシェアを獲得するために頑張るそうだ。
状況を整理する。
『Xbox One』は昨年11月に欧米で先行発売されており、既に500万台を出荷しているという。SCEの『PS4』が700万台だから、届いてはいないものの「どっこいどっこい」のペースで売れているわけだ。
そして日本では満を持して9/4に発売を開始する。価格は39980円(4万でいいだろ)とPS4を強く意識した価格。売り物の「Kinect」を付けると49980円(5万だろ)だ。
MSKKとしては背水の陣だ。と、いうのも世界的には前モデルの「Xbox360」もそこそこ善戦しているのだが、日本国内では圧倒的に「PS3」に押されて見る影もない。それどころか「Wii」にも負けている。国内マーケットは次世代機『Xbox One』で一気に巻き返しを図りたいところだ。
さて、前置きが何時ものように長いが、言いたい事は、
『おいおい、これが日本で力を入れているって話なのかよー』
ということだ。具体的に述べる。
MSKKによると『Xbox One』は「音声応答」が売りだと言う。コアなゲーマーは、極論すれば「ほっといてもOK」だが、据え置き型ゲーム機を「メディアプレーヤー」のように使うライトユーザーには、電源オン、コントローラでログイン、アプリ起動、操作なんて事が面倒なので「音声で使える」ようにしている、との事だ。一部のメディアでは、「音声応答を英語で済まさず、日本語対応してきた所に力の入れ具合が判る」なんて書いてあったりするが・・・笑止。全く判っていない。
国内家電メーカーでも「音声リモコン」などと言ってエアコンやテレビを声でオンオフできる、と言うのを売りにしている物も有るが、それで「大ヒット」という話を聞いたことが無い。音声応答は思っている以上に面倒なのだ。
今回のプロモでの音声応答の例は「Xbox オン」とか「ゲーム名 移動」とか使えますって話だが「移動」って何だ?「起動」ならまだ判るが「移動」?Moveか?これで「力の入れ具合...」冗談じゃない。
音声応答は、相当の曖昧応答が出来ないと面倒なだけだ。我が家ではPS3とDEIGAを6.1chAVRに繋ぎTorune+USBHDDで運用しているが、女房の「音声コマンド」は『あっち点けて』とか、『こっちの「もやさま」を見る』とかだ。これを私が解析してオペレーションしている。どーだ、凄いだろ。力の入れ方が違う。
更にいけないのは、コアなゲーマー以外を取り込む為の、日本向けキラーコンテンツとして自慢げに「DAMカラオケ」を紹介しているあたりだ。
「DAMカラオケ」の可能性について『最近日本では一人カラオケなどが流行っており、国内最大の配信コンテンツを持つDAMには大きなニーズがある』。
冗談じゃーない。なんで「一人カラオケ」に行くのか判ってるのか?日本の住宅事情、家庭事情では「カラオケボックスに金払ってでも行かないとデカい声で歌えない」から「一人でもカラオケ」に行くのだ。そのカラオケが、どーして家庭用据え置き型ゲーム機の「キラーコンテンツ」になるのか?さーっぱり判らん。(田舎の一軒家の8トラックの代替需要は有るかもしれんが過疎化で人がいないぞっと)
結局は、「外国人の日本マーケティング」なのだ。MSらしいと言えばらしい。
9/4発売後、『Xbox One』は爆発的に売れるかもしれない。そうなるようにMSKKも頑張るだろう。でも、今日、敢えて言い切る。
『はい、今回も残念でした。また、どうぞ。』
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