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  • 岩魚太郎の空襲体験記

岩魚太郎の空襲体験記

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松山大空襲後(写真は総務省より... 松山大空襲後(写真は総務省より引用)
岩魚太郎の空襲体験記

004 松山大空襲 昭和二十年七月二十六日

 国松菊子28歳と四郎8歳は、菊子の夫三郎と、呉山中にある秘密海軍工廠に津輕造船から転勤を命じられ、空襲を避け七月十九日、北陸線経由て、青森駅を出発。家族三人は、呉に一週間を要して到着した。
 到着したのは七月二十六日の正午、空襲を警戒し、呉港から午後五時会社が用意した漁船に乗船、松山市の社宅に着いたのは午後八。
一週間の長旅の疲れもあって、その夜は行水をして(暑中などに、湯や水を入れたたらいに入って、身体の汗を流し去ること)午後九時には熟睡した。
 午後十一時三十分頃、熟睡したその目覚ましの音は、空襲警報と聞いたこともない爆撃機の飛行音と爆弾の爆発音だった。

東の空からB29の編隊が迫ってきていた。まるでスズメバチの大群のような音。豪雨のように焼(しょう)夷(い)弾(だん)が落ちてきた…」
 菊子は、四郎を起こし、とりあえず身の回りの品と現金を背(はい)嚢(のう)(注5)に詰め込み玄関を飛び出した。空襲警報が狂ったように鳴り響くさなか、四郎が寝ぼけ眼で空を見上げた。
 飛行機(アメリカ軍B29)から、黒い点のような物が無数に空から降ってくる。8歳の四郎が初めて見る光景であった。瞬間、強烈な爆発音と地響きがした。菊子は、慌てて四郎の手を引き、近くにあった防空壕に駆け込もうとした。防空壕の入り口に隣組の組長らしき老人が立っていた。

「あんた、見慣れない顔だが何処の組だ」
「主人が呉海軍工廠に配属されて、昨夜ここに引っ越して来たばかりです」
「そうか。引っ越して来たばかりか……気の毒だが、この防空壕は隣組の人数しか入れない広さしかない。残念ながら入れることは出来ん。外の場所に退避してくれ」
「外の場所って言いましても、引っ越して来たばかりで何処に避難したらいいか分かりません。お願いですから入れてください」
「いくら頼まれても駄目なものは駄目だ」

 菊子が哀願するそばを、「組長さんお願いします」と腰を低く頭を下げながら、夫婦と子供ずれの中年夫婦が、老婆に見送られ防空壕の中へ入って行った。老婆は菊子と四郎を横目で見ながら足早に立ち去った。
 男は、菊子と四郎の眼前で、自ら防空壕の中に入り入り口の扉を閉めた。
「母ちゃん!」
 四郎は菊子の顔を見上げながら叫んだ。
「母ちゃんの手を離すんじゃないよ!」
「うん!」
 焼夷(しょうい)爆弾(注7)と通常のと爆弾とが、混合してしながら落下する中を、あてもなく逃げる菊子と四郎姿が、炎の中にフェードアウトされて消えてゆく。

 昭和二十年七月二十七日午前八時

 松山大空襲の翌日である。
 市街地は焼け野原と化し、消火しきれない炎と煙が無数にくすぶっていた。その中を、顔面煤にまみれた菊子が、四郎の手を握りよたよたと歩いて来る。四郎が左足を引きずっている。傷を負ったらしく、ふくらはぎの位置に布が巻かれている。
 我が家の近くにようやくたどり着いた。
 勿論我が家も周囲の建物も全焼し跡形もない。
 防空壕の入り口に、大勢の人々が輪になって立っている。
 菊子が肩越しに覗き見る。

 四郎が人々の足を分けながら最前列に進み出る。
 菊子が四郎を追うように人をかき分けて前に出る。
 数人の人々が防空壕から死体を運び出し、その死体をむしろの上に順番に並べている。
「焼夷弾と爆弾で、防空壕の入り口が塞がれ逃げられなかったそうだ」
 菊子は、小声で話す後ろの男の声を聞いた。
 そのむしろの上に、昨夜防空壕に入ることを拒んだ組長の顔があった。
 四郎は菊子に手を握られ、強引に輪になっている人々の外へ連れ出された。
 菊子は、四郎の目線まで腰をかがめ黙って強く抱きしめた。
 菊子の涙は止まらなかった。

 菊子は、呉海軍工廠にいる夫の三郎に手紙を書いた。松山で空襲に遭ったこと、四郎も左足を火傷して、火傷の跡は残ったが歩行に支障がなかったこと、愛媛県東温市北郷村に移住、四郎は北郷の国民小学校に通っていること、食料は配給と少額の蓄えでしのいでいると記した。
 しかし菊子は、防空壕の話は記さなかった。手紙の検閲を恐れたからである。夫の配属先、呉海軍工廠も空襲を受けていないかどうかを心配した。
 手紙の返事はこなかった。
 戦況は、手紙どころではない緊迫した状況であることは、菊子にも分かっていた。人々はそのことは互いに分かってはいたが、口に出せば「非国民」という烙印を押されることを恐れていた。

 四郎の北郷国民小学校二年生の授業が始まった。
 松山の空襲で焼け出された生徒も数人いた。焼け出された生徒達の教科書はなかった。一冊の教科書を、机をくっつけ共有した。
 学校では、雨降り以外は八時に全校生徒の朝礼が校庭で始まる。 整列は横に一年生から六年生、縦に身長の低い順から高い順に並ぶ。その理由は、身長が低い生徒の前に身長の高い生徒が前に並ぶと、正面中央にある奉安殿が身長の低い生徒からは見えないからである。奉安殿とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語(注8)を納めている小さな神殿である。

 その教育勅語を全校生徒で唱和させられる。当時の教育では義務化され、小学一年でも、暗唱出来ない生徒は、暗唱出来るまであらゆる手段を用いて暗唱させられていた
 体育の時間では、校庭にアメリカ兵の人形が立てられる。その人形の正面には、「鬼畜米兵」の文字が書かれてある。四郎の身長は1.2m。身長の約二倍もある長さの竹槍を小脇に抱え、走りながら人形に突進、「エイ・エイ・ヤアー」と叫びながら、「鬼畜米兵」と書かれた人形に竹槍を突き刺す。そして先生は言う。
「今回は、松山に敵の空襲を受けたが、日本は必ず勝つ。日本人には大和魂がある。畏れおおくも陛下は教育勅語でこう仰せられています。「我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心をひとつにし敵と戦えば必ず勝利する」
 四郎は先生のその言葉を信じていた。

 しかし松山大空襲が七月、翌八月に広島と長崎に原爆が投下され、日本は一気に敗戦へと向かった。

 松山大空襲:昭和二十年七月二十六日午後二十三時三十分
  死者二百五十一名(当時の人口十一万人)
 広島に原爆投下:昭和二十年八月六日午前八時十五分
  死者十六万六千人(当時の広島市の人口は三十五万人。
 長崎に原爆:昭和二十年八月九日午前十一時二分
  死者七万四千人。(当時の長崎市の人口は二十四万人)
 原子爆弾は、一般庶民には「ピカドン」と呼ばれていた。一瞬ピカッと光ってドンと爆発するからだ。
 

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