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気動車の発展と開発 気動車急行の誕生 第10話

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準急列車として昭和37年から運... 準急列車として昭和37年から運転を開始した「はまゆう」ですが、キハ28・58が連結されていた例としてアップしておきます。
キハ55の成功は、無煙化と高速化を同時に達成する手段として各管理局からの配置要望も多かったそうです。
準急気動車が気動車化されても、急行は客車列車の場合も多く、気動車化は喫緊の課題でした。
ただ、キハ55は気動車としては優秀でも、車内設備は貧弱であったことから、特急列車並みの車体幅とした、急行気動車の開発が進められることになりました。
実は、製造に関しては北海道向けの車両開発が先行したため形式的にはキハ56【北海道用】キハ57【信越線】キハ58の順で製作されました。
昭和36年1月に先行試作車が完成しました。
キハ55と基本的なスタイルは同じですが、車体幅は2900 mm となり、車体幅を絞る形となった他、ドアの幅が740 mmから850 mmに拡大されています。
特に先行して誕生した、キハ56はキハ22に準じた車体であり、1等車は153系サロ152と同様にリクライニング装備のシートが取り付けられましたが、下降式窓は見送られました。
本州向けに開発された車両は、サロ152同様の下降式窓が採用されました
その後本州向けに開発された車両は、サロ152同様の下降式窓が採用されましたが、下降式窓の保守を十分に行えず昭和50年代にはユニットサッシの窓に取り替える工事が行われ、優雅な下降窓は無粋な上段下降下段上昇の緊急時に窓から脱出できないのではと思わせる窓高さの車両が誕生しました。
ただ、1等車に関しては、サロ152等が特急形に準じた蛍光灯カバーがありましたが、気動車では省略されるなど、微妙に簡素化されていたりしました。
なお、エンジンはキハ80系で採用されたDMH17H【横型エンジン】が採用され、排気筒が出入り口両端に移設され、キハ20までの車両にあったように車体中心に排気筒が無くなり車内がすっきりしたものです。
また、洗面所も客車同様のものが設置され、急行列車にふさわしいものとなりました。
実際には、準急気動車でもキハ28・58が使用され、その逆でキハ55・26が急行列車に使用される場合もありました。
もっとも、北海道ではキハ22が急行列車として走るなんてことも一般的でした。
今から考えればおおらかな時代であったと思います。

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気動車の発展と開発 一般用気動車と通勤用気動車 第9話

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出発式 奈良駅 昭和36年12... 出発式 奈良駅 昭和36年12月10日
気動車の発展と開発 一般用気動...
今回から、新しい取り組みと思ったのですが、新年から新しい話題にするのが良いかと思いましたのでもうしばらく続けさせていただきます。
液体式気動車の系譜
戦後の液体式気動車(昭和35年頃までは液圧式)は、キハ44500(称号改正後はキハ15)からスタートしました。
液体式気動車の歴史を簡単に振り返ってみますと、上記のキハ44500試作車を経て、昭和29年から量産型と言える、キハ45000(後のキハ17)が製造され、派生して2エンジン車仕様のキハ44600(後のキハ50試作車を経て)キハ44700(後のキハ51)が誕生、その後、準急用としてキハ44800(後のキハ55)が誕生します。
キハ55が誕生して、初めて、優等列車用気動車が誕生し、キハ17は、一般気動車という分類になりました。
一般型気動車の誕生
その後昭和32年にキハ55の成果を活かして、キハ17のボディサイズを一般客車並みに拡張したキハ25(両運転台はキハ20、北海道仕様はキハ20の北海道仕様で、窓は二重になったものの、後に量産されるキハ22のようにデッキがなく極めて不評でした)形が量産されることになりました。
初期のキハ20系列は、キハ55の初期型と同様、窓上部がHゴムの明かり取り窓としたタイプでしたが、翌昭和33年(1958)の増備車からは、2段上昇式窓に変更されました。
なお、初期のキハ20は、キハ17と同じエンジン・並びに台車でした、なおキハ20の初期車もその後台車をDT22A・TR51(国鉄形気動車の標準台車)に交換されています。
また、蛍光灯がまだ発展途上の時期であり、本格的な蛍光灯を採用したのは、昭和38年増備車からであり、それまではキハ17と同様の白熱灯でしたが、その後サークライン式の蛍光灯に変更されています。
キハ20形は昭和41年まで製造されることになり、国鉄における標準型の普通気動車列車として最近まで活躍したのはご存じの通りです。その後はキハ45→キハ47と変遷していきました。
なお、直噴エンジンを搭載したキハ37(DMF13)系エンジンへと続きますが、昭和40年代以降の気動車発展史を語らせていただきます。
通勤形気動車の誕生の背景
なお、今回は一般気動車の中では異色のキハ35・36形気動車に焦点をあててみたいと思います。
キハ35系気動車は、関西線は東海道本線比べて近代化が遅れていた関西線に、昭和36年から投入された車両です。
関西線は、関西鉄道を前身とする鉄道で東海道線のバイパス線と比して大幅に近代化が遅れていました
その理由の一つには、並行する近鉄の存在も大きかったと思われます、結果的に国鉄としても東海道線並びに新幹線の建設で、関西線まで中々予算を回せなかった事情もあったかと思います。
昭和32年には、準急「かすが」がキハ51で運転されるなど、一部気動車化されたとはいえ、その殆どの列車は蒸気機関車牽引による客車列車として残っていました。
昭和34年の監査委員会では、関西線の近代化が遅れていることが指摘され、それを受けて「湊町~奈良間」の線増と気動車化による抜本的な改善を図ることとなり、新たな通勤用気動車が開発されることになりました。

参考:
関西本線にキハ35形が導入される契機となった、国鉄監査報告書(昭和34年)

キハ35形の特徴
この車両は、気動車初の通勤形として位置づけられ車内はロングシートが設けられていましたが、電車と異なり3ドアでステップ付きという車両と相成りました。
特に車体中央部はエンジンが搭載されており、ステップを戸袋窓付きで作ると車体強度上問題があるため、ドアは外吊り式とされましたが、プラグドアのように閉ドア時に車体とドアが密着すればよい良いのですが、そのような構造ではなく簡易な構造であったため、戸袋を設けることで強度が不足することは避けられた反面、隙間風対策は十分とはいえない車両となりました。
また、車体の外側をドアがスライドするため、ドアすぐ隣の窓は下段が特にほとんど開かないようになっており、腕などをだして、ドアに挟まれる事故が起こらないように配慮されていました。

車内は、3ドアロングシートですが、運転台の反対側車端にはトイレが設けられ【キハ36はトイレなし)、トイレ横のシートは枕木方向に設けられていました。
これはトイレを開けたときに、乗客と直接目が合わないようにする配慮からでした。
また、電車は通勤形電車は禁煙でしたが、気動車の場合さほど混雑もしないと言うこともあって、出入り口付近の柱に灰皿が設けられており、車内で喫煙可能でした。

さらに、キハ20形一般気動車と異なり、キハ35はキハ80系やキハ28・58と同じ横型エンジンを積んでいたことも特色でした。
なお、キハ35が配置されたことで、港町~奈良間は頻発運転が行われることとなりましたが、それでも近鉄が優位であることに変わりはなく、関西線の湊町から奈良間の電化は昭和48(1973)年まで待たねばなりませんでした。

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気動車の発展と開発 特急用気動車の開発 第8話

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交通技術昭和35年11月号から... 交通技術昭和35年11月号から引用
アジア鉄道首脳者会議 がきっかけで始まった特急気動車開発
特急気動車の開発は、昭和34年から開発がスタートしました。
昭和31年キハ55により、2エンジン車体と軽量車体により高速の優等列車の可能性が高まったことから、以前から構想はあったようです。当時、日本国有鉄道総裁であった十河信二の提唱で始まった、アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference)、(昭和33(1958)年に第1回が開催)が再び昭和35年に開催することが決定したこともあり、客車特急はつかり号を気動車に置き換えることで接客サービスの向上を図ることが正式に決定されたのでした。
エンジンは従来のエンジンを設計変更して対応
エンジンは、実績があるDMH17エンジンを2個使うこととされましたが、従来の縦型だと室内にエンジン点検用の蓋を設けねばならず、防音などで問題があると言うことで、横型に設計変更しれたDMH17Hエンジンが新たに開発されたのですが、単純にエンジンを縦から横にしたというだけで上手くいくはずがなく、従来の垂直シリンダーに比べ潤滑不均一など多くの弱点を持っていた他、排気系の過熱による発火事故が発生したのですが、それはもう少し先の話。
キハ81の製造が急がれた理由
キハ81は設計がスタートしたのが昭和34年秋であり落成はほぼ1年後の9月15日に第1編成が落成しています。
これほど急がせた理由は昭和35年に再びARC第2回会議が再び東京で開催されることになったからでした。
このときはキハ81意外にも157系(クロ157)も展示されたようです。
内外に、日本国有鉄道の現在を知ってもらうことで外国への車両輸出の目的もあったわけです。
当時の鉄道資料から
そこで、今回は、鉄道技術と言う部内誌に掲載された記事を参考に、キハ81形を中心としたはつかり形の特徴を記したいと思います。
まず最初に先頭車について語らせていただきます。
こだま形に似せたボンネットですが151系電車と比べると運転台が少し低くなっています、これには理由がありました。
当時は東北本線でも単線区間が多く、タブレットの交換を行いながら走行していました。
そこで、タブレットの交換が容易に行えるように、また、信号機が見やすいように運転台を少し低くして【階段の段数を減らした】いました。
また、電源用として発電エンジンを前頭部(ボンネット内)に設置していました。
内装等は若干異なっていたようで、こだま【151系】の内装がメラミン化粧板でしたが、キハ81では、ポリエステル化粧板を使用したと記録されています。
また、151系電車と異なり、浮き床構造にしたと言う記述があるのですが、これは誤記なのか否かを今後資料を探して見たいと思いますので、キハ81に採用された浮き床構造の話は後日にしたいと思いますが。初期の151系は浮き床構造でなかったのかもしれません。

なお、エンジンは既に 書かせていただきましたが、DMH17H系エンジンで先頭車は1台、食堂車は発電エンジンのみ、中間車は2エンジン車とした仕様で、燃料タンクは走行用に550リットル、発電用880リットルの容量があり、寒冷地対策として、機関予熱装置や停泊中の冷却水凍結防止などの措置が取れるように配慮されていました。

新製時の車輪直径860 mmで最高速度110 km/h、交換直前の車輪直径、最小780 mmの時で100 km/hを少し超える程度とされました。キハ80系の最高速度が100 km/hと記述されているのは、最小時の速度に合わせたものであることが理解できると思います。

なお、運転台に設けられた赤色の装置は非常点滅灯で、車両無線等がない時代の防護措置として緊急停車時に点滅させるもので、キハ82系にもこの装置は継承されました。
これも、気動車特急独特の装備として特筆されるといえましょう。

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気動車の発展と開発 高出力気動車の試作 第7話

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キハ60 試作車 鉄道技術昭和... キハ60 試作車 鉄道技術昭和35年3月号から引用
今回は、キハ55の後に試作された高出力気動車、キハ60のお話をさせていただきます。
昭和31年、キハ55形気動車が試作されましたが、昭和34年には、DD13形機関車に使われているエンジン(500 PS)を横型にした上で出力を低下させ400 PSとした気動車が3両試作されました。
形式はキハ60とキロ60で、昭和35年1月29日に落成しています。
ちなみに、キハ60-1は東急車輛製造、2は帝國車輛工業で製造されています。
また、キロ60は新潟鉄工が製作に携わりました。
製造後、各種主権などが行われたようです。

鉄道技術研究所大井分室で60系ディゼル動車定置試験 2/8~2/19
東海道線 藤沢~茅ヶ崎間で60系ディゼル動車走行性の試験 2/21~2/22

外観は量産型のキハ55に準じた軽量車体ですが、外吊り引き戸を採用しており、浮き床構造を採用したほか、キロ60は騒音防止の観点から固定窓になっていました。
結論から言いますと、大排気量エンジンと直結2段変速機【DD51に見られる充排油方式】をスムーズかつ緻密に同調させることができず、乗り心地はかなり悪かったといわれています。

エンジンの振動や騒音が大きくて実用にならず、キロ60は、主権終了後の昭和37年には早くもエンジンをDMH17Hエンジンに換装し、1軸駆動となり、キハ60-101と改番されました。
キハ60の方は、試験終了後は予備車となり、房総地区各線で海水浴シーズンに付随車代用で使用された後、1965年(昭和40年)にDMH17H 1基搭載・1軸駆動に改造されたそうです。

ただ、エンジン以外で採用された技術はその後の車両のに反映されることになりました。
その一つが、ディスクブレーキで、キハ60で使用されたディスクブレーキはその後80系気動車で採用されました。
1台車2軸に出力が伝わる方式は、その後キハ65の開発の際に活かされることになりました。
そういった意味では、キハ60で開発された技術の一部は十分活かされたといえます。

弊ブログ、こちらも併せてご覧ください。
挫折した試作車・・・キハ60
http://blackcatk.exblog.jp/237662473/

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気動車の発展と開発 キハ55系気動車の誕生 第6話

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キハ55側面図 交友社 回想の... キハ55側面図 交友社 回想の旅客車(下)から引用 妻面にカーブが設けられた車体 ... 妻面にカーブが設けられた車体 交友社 回想の旅客車(下)から引用
少し間が開いてしまいました。
本日も、国鉄時代の内燃気動車の発達史をアップさせていただきます。
今回は、キハ55のお話をさせていただこうと思います。

国鉄では、戦後石油事情が好転したことから、戦後はディーゼル機関搭載の車両が試作され、電気式キハ44000に始まる戦後気動車が幕を開けたことは既に書きましたが、DMH17系エンジンの出力は150 PSその後はエンジンに予燃焼室設けて160 PS、その後180 PSまで引き上げられました、しかし、勾配線区では力不足を露呈してしまい。25‰勾配がある線区には配置しない等の措置が講じられていました。
しかし、気動車の配備要望は強く、勾配線区では2エンジンの方針が決定され、試作車としてキハ50が製作されました。
車体長は、22mの長さとなり、これでは分岐器の保安装置(轍叉桿(Detector Bar)に問題があるとして、その後車体長を20.6mに抑えたキハ51が開発されます、ただし、ここまでは車体幅は2.6mの小さな車体に甘んじるしかありませんでした。
昭和30年に入ると、10系客車の手法を活かして、気動車の軽量化と居住性の改善を図ることが計画されました。
モノコック構造を採用しながら車体幅や車体長を拡大した準急用気動車が誕生しました。
この車両は、車体が大きくなっても、重量は従来のキハ51とほぼ変わらなかったそうで。軽量客車の構造を活かされており、キハ55と言う形式が与えられました。

キハ55は、東武が1700系(後の1720系DRCとは異なる)を投入したことに対する対抗措置という側面もありました。
車体幅は、2.9mまで拡幅され、車体長は電車よりも長い21.3mとなりました。
この長さは、その後国鉄気動車の標準長となり、JR移行後もそのまま引き継がれています。
また、初期のキハ55は車端で車両の角が干渉する恐れがあるとして妻板の両端がカーブしていましたが、その後に製造される車両では普通に切妻とされています。

デッキは設置されたものの、床上にトイレ用の水タンクを設置したため、キハ58などに見られる本格的な洗面所は設けられていませんでした。
その辺は、153系電車と比べると設備面で劣ると言わざるを得ませんでした。
余談ですが、キハ28/58で初めて気動車も、電車並みの接客設備を獲得しましたが、キロ28に関しては照明カバーが省略されるなど、電車と比べると本質的で無い部分で、コストダウンが図られていました。
これは、特急も同様で、181系や485系が背ずりの反対側もモケットバリであったのに対して、塩ビの化粧シートが貼られており、カーテンも横引きではなく、普通のロールカーテンになるなどの相違がありました。

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気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩2 第5話

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気動車では最大級の長さを誇った... 気動車では最大級の長さを誇ったキハ50
軽量化された。キハ45000 概要
液体式気動車として、キハ44500形に試作車をベースにして、前面を貫通構造にしたキハ45000形が、昭和28年10月上旬から随時完成したと記録が残っています。
当初の車両は客車をそのまま気動車に置き換えたような配置でドアのすぐ横まで4人ボックスが並ぶ全クロスシートでした。
非力なエンジンをカバーするために、車体幅はキハ44000に準じた大きさで、車体幅は2700 mmにするなど従来に客車などと比べると一回り小さな車体となっていました。
また、車内も軽量化されており、ひじ掛けも省略し、座席の高さも低くするなど徹底的な軽量化がなされました、ただし、台車はその設計に難があり特にビビり振動が多くて乗り心地はよくありませんでした。
ちなみに、10系気動車に使われたDT19(動力伝達用)とTR49(付随車)の重量はいずれも4.5t、4.4tであり、同時期に使われていた客車の6t(TR50と思われる)と比べても軽い台車が使われていました。
これが原因で、車体にアコモデーション改良もままならなかったと言われています。
私も子供の頃何度か乗りましたが、あまり乗り心地は良いとは言えず、低い座席と相まって、キハ20とキハ17が連結されていた場合は、20は満員でも17は少ないということで、乗客もみなよく知っていました。
全国から配置要望があったキハ17
昭和29年5月の交通技術を参照しますと、昭和28年度末までに220両が落成し全国で気動車の数は458両となり、房総東線、奈良・桜井線・越後線・筑肥線など31線の各線に投入したと記録されています。
具体的な線区等は今後調べてみたいと思いますが、選定にあたっては。
1)機関車と客車を全面的に置き換えできる線区
2)蒸気列車を一部置き換えて運転経費の節減を出来る線区
3)列車増発を必要とし、気動車によることが最も有利な線区
を基準にされたと言います。
地方管理局からは、配置の要望が多かったのですが、極端に管理局ごとに偏ると、気動車不配置地区との格差は出るので、積極的に気動車を投入したくないと言う意見もあったことは事実でした。

キハ44500(キハ15)とキハ45000(キハ17)の相違を中心として
キハ44500は外観が湘南形であり、ドアも3か所(両端並びに真ん中)であり、運転台は全室方式でした。
キハ45000(キハ17)は半室運転台で、私の記憶では、運転台の仕切りも貧弱なものでバスのようなイメージであり、横から運転士の操作を覗ける仕様でした。
後ろも壁など無かったように記憶しています。
キハ50の試作とその背景
キハ17の問題点はエンジン出力にあり、実は25‰以上の勾配では入線できず、選定に際しては実はそうした問題点をクリアしなくてはなりませんでした。
そこで、DMH17エンジンを2台積んだキハ44600(後のキハ50)が誕生しました。
この車両は、期間を2台積むために車体長を22mとしてボギー中心距離(ボギー車の台車間の距離)も15.7mとしたのですが、これが後に転轍機の轍叉桿(Detector Bar)と呼ばれる、誤転換を防止する保安装置を跨いでしまう危険性があったため、当初配置された関西線などでは轍叉桿の改修を行ったそうで運転線区が限定されることとなりました。
その後、改良型として、キハ44700(その後キハ51)が誕生しました。
こちらは、車体長を20.6mに短縮した車両で、キハ50で問題となった、轍叉桿の問題はクリアされました。
キハ51は結局20両ほど製造されるのですが、その後は更なる優等列車の開発ということでキハ55が試作され、さらに急行型気動車・特急形気動車と発展していくことになります。

続きます

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気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩 第4話

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液体式気動車 キハ15を経て量... 液体式気動車 キハ15を経て量産化されたキハ17系気動車
本日は、液体式気動車の発展と言うことで綴らせていただこうと思います。
現在は電車の部品と共用する目的から、鉄道車両では電気式を選択する例も増えていますが、国鉄時代はDMH17エンジンに液体変速機の組み合わせが圧倒的で、昭和43年から量産された181系や同エンジンを積んだ、キハ65等を除けば非電化区間の主役としてそれこそ日本全国走っていました。
日本で液体式が発展した背景には、欧米と比べると貧弱な線路にもその原因はあったと言われています。DMH17系エンジンは、戦前のGMH17(ガソリンエンジン)をディーゼルエンジンに設計変更したものが基本で、液体変速機共々戦前に設計されたもので初期のDMH17系エンジンは150 PSその後160 PS、過給機を付けて180 PSまで引き上げましたが、これ以上は難しかったようです。
液体式気動車の発展
さて、ここで今一度液体式の発展を振り返ってみたいと思います。
キハ44500 初めての液体式気動車でキハ44000と同じ3ドア湘南形 後にキハ15形
キハ45000 後の17形と呼ばれた気動車
さらに、キハ17をベースに2エンジン車としてキハ50が試作されました。
キハ50は、車体長22mは長すぎてポイントで支障が出ることが判明したため、使用箇所は限られてしまいました。
その後車長を切り詰めて21.5mに抑えたキハ51が量産され、勾配線区での活躍も始まることとなりました。
その後、キハ17の後継としてキハ20系が製造されるとともに、昭和31年には準急用ディーゼル気動車として、キハ55が誕生することになりました。
と続くことになります。
液体式気動車誕生(キハ44500形)
キハ44500形は、昭和28年3月に4両が試作車として誕生するのですが、昭和43年の鉄道ピクトリアルでは昭和27年10月に落成したと言う記述もあるのですが、交通技術その他複数の資料では、昭和28年3月日本車両で製造されたとなっていますので、昭和28年落成とします。
液体式気動車成功までの道のり
また、液体式のこうした成功に至るまでには数々の苦労があったようで、昭和43年鉄道ピクトリアル7月号のk時を参照しますと、戦後の燃料事情が好転したことから、昭和26年に
鷹取工場に、神鋼造機製の液体変速機が保管されているものが見つかったのでこれをメーカーに送って整備した後、5月からエンジンと液体変速機を組み合わせた状態で2か月程試験を行ったところ、所定の成績を得られたので、名古屋工場で「機械式気動車を液体式に改造」キハ42500形42503(後のキハ07)に取り付けて、走行試験を行うことになりました。
しかし、十分な加速力も得られず、実用化は不可かと思われたとき、亀山付近の勾配で白煙をあげて停止してしまったそうです。
液体変速機が焼き付きを起こしていたとのことで、原因は変速機に十分な油が充填されていなかったために、十分か加速が得られなかったうえに焼き付きを起こした原因であることが判りました。
再び、神鋼造機株式会社で修理をしたうえで、同年11月2日に再び名古屋~亀山間で現車試験を行い好成績を得ました。
勾配を登れない気動車
その後、キハ42503は大宮配置となり川越線で試用されることになりました。
使用に先立ち、御殿場線で試運転を行ったところ、駿河小山駅の25‰勾配での曲線でクラッチが滑り運行不能となり試験員全員で後押ししたという情けない結果になったそうで、帰路は蒸気機関車にけん引されたと記録されています。
原因を調査したところ、クラッチ版が弱いことが判明し、改造して強化するなどして、同年12月末には安心して運用を任せられるようになっりました。
ただし、160PSではやはり勾配線区では非力であることは否めず、その後2エンジンのキハ50が試作されることとなるのは既に書かせていただいた通りです。

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気動車の発展と開発 天然ガス動車のお話 第2話

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キハ42000の一部は、天然ガ... キハ42000の一部は、天然ガス動車に改造されたが、その後軽油の供給が増えたことで、天然ガス動車は3年程度で廃止され、ディーゼル機関の気動車に再改造されました。
戦後の仇花、天然ガス動車
今回は、戦後一時的に使われた天然ガス動車のお話をさせていただこうと思います。
戦後の一時期、新潟県と千葉県で天然ガスが採取できたことから。
ガソリン不足で休車となっていたキハ42000(後のキハ07)を改造して天然ガスで走れるようにした車両が存在したそうです。
天然ガスが噴出する千葉では鉄道の救世主に
そこで、当時の技術資料などを参考にしてみますと、昭和21年頃から天然ガス動車を活用してはどうかという意見があったそうです。
天然ガス動車の技術は昭和10年頃には完成していたそうで、小湊鉄道は昭和16年に内燃気動車(ガソリン車)の天然ガス気動車化の改造を行い戦時中も気動車を運転したと言う記録もあります。
当時の総武線は車両の老朽化が著しく、輸送力が慢性的に不足していたこともあり、千葉区におけるガスカーの導入は待望されたものでした。
天然ガス動車の問題点
当時の資料などを参考に調べてみますと。
天然ガス動車の運転開始は概ね昭和23年頃であり、昭和27年にはDMH17エンジンに換装されて消滅しています。
天然ガス動車は、ガソリンエンジンを使う気動車と比べれば割安でしたが、
1)出力は、ガソリン機関と比べて、85%程度の出力
2)床下にボンベを搭載しなくてはならず、重量面でも不利
といった問題点がありました。
当時の石油事情に振り回された、天然ガス動車
また、天然ガス動車は、ガソリンエンジンの気動車と比べても割高という問題もありましたが、ディーゼルエンジンの軽油+天然ガスで走らせる、混合型にしますと、ガソリン車よりも安く出来るようになったそうで、本格的な天然ガス動車の発展が期待されたのですが、軽油の供給が安定したこともあり結局、天然ガス動車はその使命を終えて消えて行きました。

なお、天然ガス動車では、キハ41000(後のキハ04)では、ボンベを8本、キハ42000(後のキハ07))では、12本~16本を床下に搭載していたそうで、ボンベ1本あたり10㎞~12㎞でしたので、キハ42000で、120 km~144 km、空ボンベを一本一本取り替える方式でしたが、その後は親ボンベから充填する方式に、昭和25年時点ではガス会社に引き込み栓を、設けて直接ガス会社で充てんする方式に変更したと記述があります。
その後は、
なお、ボンベ1本あたり10 km~12㎞程度しか走れず、120 km~144㎞程度であり、当初は終着駅でボンベを積み替える作業が伴っていたそうですが、その後はガス会社に直接引き込み線を伸ばして、直接ボンベに充填する方式に変更されたそうです。



下記の記事もご参照ください。
気動車発達史 4 天然ガス動車

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気動車の発展と開発  戦前の気動車のお話 第1話

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キハ07 九種鉄道記念館(画像... キハ07 九種鉄道記念館(画像 wikipedia)
西成線列車脱線火災事故(画像 ... 西成線列車脱線火災事故(画像 wikipedia)
1)戦前はガソリン動車、戦後はディーゼル動車
戦前の国鉄でも、実は気動車は運用されており、特に地方ローカル線などでは経営の合理化として使われる例がありました。
戦前の気動車としては、大宮の鉄道博物館に保存されている、キハ41000形(キハ04)やキハ07(キハ42500形)が存在しましたが、戦前はディーゼル機関車ではなく、ガソリンエンジンを搭載した気動車が一般的でした。
ディーゼル機関の開発は遅く、試作エンジンが、昭和11年に作られました。
試行錯誤の結果、予燃焼室付きのでエンジンが開発され一応の完成を見るのですが、戦争の激化により開発は中止されてしまいます。
この時試作されたエンジンが、戦後の気動車化発展の基礎をつくるDMH17ですが、その辺はもう少し後の話となります。
なお、昭和15年には西成線(現在の桜島線、安治川口駅)で駅員が列車通過中にポイントを切り替えたため車両が脱線転覆した事故がありました。
これについては、Wikipediaの西成線列車脱線火災事故に詳しく書かれていますので、詳細は省略しますが、概要は下記の通りです。
遅れていたダイヤを復旧させるために、信号掛が分岐器付近を通過中していた列車の位置を十分な確認をしないままポイントを切り替えたため、走行していた3両編成気動車の最後尾1両が、2対のレールにまたがったまま進行することとなり(泣き別れ)、同駅構内の島屋町踏切付近の構築物に衝突して脱線・転覆。何らかの火花などが、これまた運悪く破損していたガソリンタンクから漏れたガソリンに引火、火災が発生して189名が死亡、重軽傷者69名を出した事故です。→ 西成線列車脱線火災事故

2)戦後の一時期使われた天然ガス動車
3)10系気動車の誕生
続きます
以下は、本日の夜以降に書かせていただきます。
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2)戦後の一時期使われた天然ガス動車
3)10系気動車の誕生
続く

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国鉄VS東武 日光観光客争奪戦 第2話

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157系電車(画像 wikip... 157系電車(画像 wikipedia) 準急日光号運転開始当時の編成 ... 準急日光号運転開始当時の編成 Wikipedia参照
東武を震撼させた157系

157系の登場が、昭和34年、東武の1720系(DRC)の登場が昭和35年ですから、東武が157系の登場に危機感を持ったのは言うまでもありませんでした。
東武がどれ程危機感を持っていたかといいますと、昭和31年から製造していた1700系に代えて、新しい車両を投入したこと、更に従来車の1700系も、昭和45年、更新の際、ボディを載せ代えて1720系と同じ仕様にしています。

157系諸元

ここで、東武に1720系(DRC)を導入させる切っ掛けとなった157系について簡単に紹介させていただきます。
157系直流電車 4M2Tの6両編成   Mc+M'+T+Ts+M'+Mc
電車としては153系と同じモーター(MT46)ですが、勾配区間における抑速ブレーキとノッチ戻し機能が付加された構造で、準急電車として製造されていますが、当時の準急列車のレベルを遥かに超えたものでした。

157系電車の発展

日光号の他に、なすの号、中禅寺号があり、日光号が東京始発日光行きであったの対し、中禅寺号は、新宿発日光行きであり、なすの号は、上野から黒磯止まりとなっていました。
ただし、中禅寺号となすの号は季節列車として冬は11月21日から1月末までは運休となっており、運休期間中の間合いを利用して東京~大阪間に昭和34年には、「特急ひびき」として運転されました。
こだまと比べますと、ビュフェがありませんでしたが、2等車はリクライニング装備、3等も回転クロスシートであり、2等車のモケットが151系のモケットと異なりワインレッドのモケットであることや、冷房が付いていないことを除けば、特急列車と何ら遜色のない車両でした。
さらに、昭和36年4月1日からは、伊豆と日光の両観光地を直結する季節準急「湘南日光」が伊東~日光の間で運転されることとなりました。
この頃には、「ひびき」も2往復に増発される等、本来の日光線への直通から、東海道線にその活躍の場は移っていきました。
その後も、157系は日光線で使われるのですが、「中禅寺」・「なすの」については157系から165系に車両が置き換えられ、グレードアップどころかダウンしてしまいました。
この頃から、国鉄は東武に対して戦意を喪失したように受けられます。
結局、日光号だけが157系運転で残っていましたが。昭和44年4月25日の改正で、急行日光号も165系に置き換えられ。いよいよ日光への観光客輸送は東武に軍配があがることになりました。

東武の車両がJRに乗り入れる時代
時代は流れ、現在のように東武とJR東日本が乗入りするようになるとは夢にもおもいませんでした。

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