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労働運動と国鉄 第5話 2・1ストが残したもの

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2.1ゼネスト 画像 wiki... 2.1ゼネスト 画像 wikipediaから
2・1ストは、GHQの圧力で中止されたが、その結果は労働運動の再編という形で実現されました。 3月10日には、総同盟・産別会議・国鉄総連合など28組織、446万人が参加した、全国労働連絡協議会(全労連)が結成された、これは当時の組織労働者の84%を包含するものでした。
 ただし、全労連の運動は、運営において、全員一致制などの制約から運動体としての役割は十分ではりませんでしたが、二つのナショナルセンター(「総同盟」、「産別会議」)を含む、組織労働者が単一組織に統一できたことの意義はきわめて大きかったといえます。
 ただし、総同盟は昭和23年6月には全労連を脱退しています。
また、2・1ストは賃金面でも大きな成果をあげることとなりました、それは大幅な賃上げに成功したことです。 1月の交渉時に、官公労働者の平均賃金600円に対し、5月には一挙に3倍弱の1600円という大幅賃金を獲得しました。
また、国労、全逓などは組合側に有利な包括的団体協約などを勝ち取りました。(ただし、この包括的団体協約がその後の組合運動の微妙な影響を及ぼしていくことになるので注目していただきたいと思います。)
  このように、当初は純粋に賃上げ闘争等、食べること、生きることから始まった労働運動は、共産党の思惑、GHQの思惑を絡ませながら次第に左傾的、政治的な色合いを帯びていくのですが、これはまた後ほど章を改めて


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労働運動と国鉄 第4話 2・1ゼネストの中止

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NHKでゼネスト中止宣言をする... NHKでゼネスト中止宣言をする伊井弥四郎委員長 wikioedia参照
戦前は、認められていなかった労働者の権利が労働組合法や、労働基本権を確立する労働基準法などが整備されるなかで労働組合運動は急速に発展しました。21年8月には、日本社会党系が中心となった、都道府県単位で結集した日本労働組合総同盟と、共産党が指導する21の産業別労働組合会議が発足したことは前述のとおりですが、その中で目立った行動をとっていたのは、共産党が運動の中心にあった産別会議です。産別会議は民間労組の賃上げや団体協約の締結等の要求を中心とする10月闘争を行いました。この戦いでは東芝を中心として行った電産労協が、電産型賃金と呼ばれる生活給を確保することに成功しています。
 この成功を受けて官公労組も同様の闘争を組織していく事となりました。官公労で中心的存在だった国鉄総連合、全逓(現・JPUであるが。組織は全く別物と考えた方が良い。)、教職員組合等の諸組合は、全官公庁労組共同闘争委員会(以下、共闘委と略す)を結成しました。このときの委員長は国鉄総連合の伊井弥四郎でした。
 昭和22年年頭吉田首相は、ラジオの放送で「労働左派一部指導者を指して、「不逞の輩」と発言」、この発言が労働者の怒りを買うことなり、争議は賃金闘争から、政治闘争へと変容していきました。これを受けて社会党・共産党も内閣打倒の方針で組合の支援を決定。共闘委のゼネスト宣言拡大共闘委員会は、1月8日、2月1日午前零時に無期限スト突入と宣言しました。
 いわゆるゼネラルストライキと呼ばれるもので、官公労働者260万人を含む400万人と言う空前の規模のストとなるはずでした。1月22日、GHQ経済科学局マーカット少将は、「ストライキを実施しないよう警告。」理由は経済的要求でストを行うのは認めるが、政治的に結びつけることは認められず、占領目的に違反する行為であると言う理由からでした。しかし、共闘委はこれを勧告程度に受け止めていたためストの準備を進めていきました。
 1月30日になって、GHQは、口頭でゼネストの中止命令を発しましたが、これを拒否。さらに1月31日には再び文書で中止命令が出され、伊井共闘委員長はGHQの監視のもと、スト中止の全国放送を行い、「1歩前進、2歩後退」の名言を残し、ストはあっけなく中止となりました。
 このストの挫折は、労働運動にとっても大きな転機となりましたが、これによる成果も大きいものがありましたがこれについては項目を改めたいと思います。



併せてご覧ください  国鉄労働組合史詳細解説7
https://whitecat-kat.hatenablog.com/entry/2015/02/14/121126

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労働運動と国鉄 第3話 国労誕生とナショナルセンター発足

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国労マーク 国労マーク
国労の誕生

統合組織への機運が高まった昭和21年、2月27日には北陸の片山津で「国鉄労働組合総連合会」の結成大会が開催され、同年3月15日、東京の飛行会館で第一回の国鉄総連合中央大会が開催されました。これが国労の前身となる国鉄総連合です。
 この大会で発表された組合員数は50万8,656人で、国鉄全従業員の96%に達しました。
 これは、省電闘争のために、全国鉄単一労組準備会が東京の地方協議会から除名されていたためです。

ナショナルセンターの発足

昭和21年8月全国には、単位労働組合を都道府県別に結集した、戦前の総同盟の流れを汲む日本労働組合総同盟(略称「総同盟」)、21の産業別単位労働組合連合組織として共産党の影響力の強い、全日本産業別労働組合会議(略称「産別会議」)が発足しました。
 政党的に見ると。「総同盟」が社会党(現・社民党)系、「産別会議」が共産党系という棲み分けとなっていました。
 そういったなか、戦時中に多くの人を採用した海員と国鉄では人員整理の方針が政府から発表されました。
 国鉄の場合戦時・戦後直後に受け入れた人員及び、復員兵等受け入れで膨れあがった人員を整理するため、約75,000人が対象となりました。
 当時の国鉄職員が約51万人ですから、いかに大量であったかとわかっていただけると思います。
 ただし、その内訳は戦時中に採用した女子職員や、年少者(戦時中は満14歳で国鉄に就職した人も多数居ました。)が対象でした。
 国鉄総連合は闘争委員会を組織し反対闘争を開始します。一部に反対はあったものの国鉄総連は9月15日ゼネストを予定、9月14日当局側が整理案を撤回すると言うことで妥結。この問題についてはひとまず終止符が打たれました。しかし、この問題はここで解決したわけではなく、当時のハイパーインフレの中、運賃収入に対する支出が1.7倍さらに、戦争で破壊された設備の復旧や連合軍専用列車の運転などの負担などで収支は全く取れていませんでした。
 当然、これがその後の大幅な人員整理の対象となっていくのですがこれは後にお話したいと思います。

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労働運動と国鉄 第2話 戦後の労働運動

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進駐軍が持ち込んだ野戦用機関車... 進駐軍が持ち込んだ野戦用機関車、後に、国鉄が購入しDD12という制式番号を与えられる。
戦後、労働運動は民主化の旗印の下、合法化されました。
 昭和20年12月には労働組合法(昭和24年6月施行)が公布され、(実際には昭和20年に制定された労働組合法を全部改正すると言う手続きを経て公布施行されました。)
 そこで、雨後のたけのこのように組合は結成、発展していきました、当初はGHQも民主化のためということで、日本共産党(以下「日共」と略す)の活動についても静観を決め込んでいきます。
 さて、ここで国鉄(当時は運輸省鉄道総局)の動きを見てみましょう。
 運輸当局は、戦争中に結成された国鉄奉公会が解散した後、鉄道委員会の組織化を開始しました、これはいわば御用組合のようなもので、労働基本権も保障されないもので、結局昭和20年12月には国鉄内部からの批判も強く、消えていきました。
 しかし、水面下では戦前からの日共の流れを汲むグループが国鉄従業員組合準備会を結成し組合結成を呼びかけました。これが後に国労と呼ばれる組合に発展していきます。
 この動きは、水面下、各現業機関(機関区・電車区等)の単位で結集が進み、やがて鉄道管理局単位で統合組織が出来上がるに連れて組合の全国組織化の機運も高まっていきました。

参考 http://whitecat-kat.hatenablog.com/entry/2015/02/02/134555

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労働運動と国鉄 第1話 労働運動前史

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国鉄7100形蒸気機関車 (弁... 国鉄7100形蒸気機関車 (弁慶号の愛称で親しまれる)
戦前にも労働組合は存在しましたが、労働組合の存在は非常に弱いものであり、使用者に対しては請願という形で行われるのが一般的でした。
 実際には戦前にあっても、ストライキなどを実行する会社もありましたが、ことごとく労働者の敗北に終わっていました。
 特に太平洋戦争(大東亜戦争)中は、全ての組織が翼賛会に再編されたこともあり、労働運動はひとまず姿を消します。
 鉄道においても、同様で鉄道及び連絡船航路は軍人に準ずるものとして、連絡船航路の従業員は一足先に海軍軍属に、またその他鉄道従業員も、陸軍軍属とされていきました。
 戦前の労働運動に関しては、資料も未だ十分ではないので今後の機会にしたいと思いますが、第1次大戦後から大正デモクラシーにも後押しされて、労働運動が活発化しました。

参考 http://whitecat-kat.hatenablog.com/entry/2015/01/03/112818

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日本国有鉄道誕生 第3話

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客車用バッテリーの点検風景 竜... 客車用バッテリーの点検風景 竜華客車区 天鉄局のアルバムより
国鉄の誕生

GHQの見解を聞いて頭を悩ませたのは時の政府でした。
GHQの命令は絶対であり、マッカーサーからの書簡(指示)という事になれば尚更でした。
 前項に書きましたように、政府としては鉄道総局をどうすべきか考えた結果、政府の意向ができるだけ通る、すなわち政府が公共企業体を支配できる体制を考え出しました、これが後々まで国鉄を苦しめる結果となりますので、よく覚えておいてください。
 そこで政府は、3つの案を考え出します。
 (1) 国務大臣を総裁とする鉄道総庁
 (2) 運輸大臣の監督下に置く特別法人国鉄公庁
 (3) 特別の管理機関をもつ特殊法人国鉄公社
政府は、(1)の形で決着を着けたかったのですがこれは認められず、(3)を採用せざるを得ませんでしたが、政府は影響力を行使できるやおうに、(2)案を加味した線が固守されました。・・・・日本国有鉄道法(廃止)衆議院のhpから引用
 この背景には、陸上輸送をほぼ独占していた国鉄は、国営の企業であり、引き続き国が保有すべきものであるという認識が強かったためであり、これは政府も鉄道省(後の国鉄)も同じような理解でした。当然最初から政治の介入を招く下地が最初から出来ていたと言えます。
 特に、給与総額制や、運賃法定主義など国鉄当局の当事者能力を制限するに及ぶと、国鉄の持つ権限は限りなく小さいものとなってしまいました。→日本国有鉄道法
 こういった、必要以上の足かせが、国鉄としての不幸の始まりになるのですがこれは後の機会にしたいと思います。
何とか、国鉄は昭和24年6月、日本国有鉄道として発足しました。当初4月発足だったのですが、国家行政組織法や運輸省設置法の立法が遅れるなどで、運輸大臣の権限において意見対立があり準備が遅れ6月からの移行となりました。

 日本国有鉄道の誕生は、政府にとっても国鉄本体にとっても多くの問題を内包したままのスタートとなりました。
 国鉄の中には、戦時中に採用した女子職員や、元鉄道省の職員、満州鉄道職員も含め50万人近くの人が働いており、独立採算制を最重要課題にされた国鉄にとって、人員整理が最も最初に行うべき仕事となりました。
 実は、人員整理は鉄道省(運輸省)時代にも実施しようとしたのですが、国労の反対で撤回されました。
 国鉄発足直後の人員整理は当時の鉄道省の輸送力を考えると避けて通れない問題であり、でした。
 やはりもっとも、国鉄にとって不幸だったのは、GHQの指示した公共企業体という概念を国鉄(当時は運輸省)も政府も理解していなかったことに起因でしょう、これは国鉄財政が悪化する40年代まで変わらず、結局56年のローカル線廃止問題をくずぶらせる原因にもつながっていくのですがそれは後の機会にでも。

追記
戦後すぐに、政府内でも毎年赤字を計上する国鉄の赤字に対して、独立採算による仕組みなどが検討され、自動車事業に関して、独立採算制が昭和24年1月から試行され、同年4月からは、本格的に移行しました。ただしこれは、決定打と言うことは無く、同年6月にはマッカーサー指示による、国有鉄道が誕生することになりました。(2021/1/5 加藤追記)

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日本国有鉄道誕生 第2話

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昭和25年国鉄線から、小口扱貨... 昭和25年国鉄線から、小口扱貨物の急行便が走り出したとの記事
労働運動の台頭

当初、労働運動には寛容であった、GHQでしたが、これを日本共産党が解放運動と感じたことに大きな誤りが生じることとなりました。
この辺りにつきましては、国鉄とは直接関係ないので割愛させていただきますが、後ほど機会を見つけて論述したいと思います。
当時の、日本共産党は、ソビエトの指示、すなわち、コミュンテルン(国際共産党)の指示を受けていたこともあり、ソ連の情勢判断は、世界革命近しということで、労働者を指導し、労働運動を活発化させるとともに、非合法活動(銀行襲撃や、爆弾製造など)も平行して行われていました。
 戦後労働運動の推進役を担ったのは官公労であり、民間では食べることに精一杯でそれどころではありませんでした。炭鉱労働に従事していた、韓国人労働者の罷業などにより、石炭不足が生じ、列車設定を減らすといった問題も生じたりしましたが、当時の労働運動の旗振り役は官公労でした。

戦後労働運動をリードした官公労

特に国労は、国鉄、全逓は、郵政省の組合であり、いずれも国民に与える影響も大きいものでした。
 当時国労には(動労や鉄労はいまだ誕生していない)穏健派の右派と、共産党の指導を受けた二つの派閥に分かれていました。)
穏健派は、民主化同盟派と呼ばれ、共産党の運動を拒否するものであり、総評の母体となりました。
 元々、共産党嫌いのマッカーサーであった彼は、高揚する労働運動に我慢が出来ず、昭和23年7月22日、ついにマッカーサー書簡を発し、政府に対し運輸省鉄道総局と大蔵省専売局を政府直営から切り離すことを指示したのです。(これがマッカーサー書簡で、権力を持たない国の組織は公社という新しい形態の組織に改変することを求めたものです。)

新しい組織形態に困惑する政府

 困ったのは、政府でした。政府には公共企業体という知識はありましたが、その歴史的背景についての知識は豊富でなく、その設立・運用に際しては困惑を隠せませんでした。
 そこで、運輸省事務次官であった、下山定則(初代国鉄総裁、後変死)→下山事件(下山事件資料館様にリンクしています。)は、CTS(GHQの下で、鉄道輸送の総元締め)と交渉し、国鉄職員が一般公務員と言う立場は離れたとしても、組織改変は絶対的なものではないという結論を導いたのですが、GHQは同年の9月8日に再びマッカーサー書簡を発表、国鉄従業員の争議権禁止、団体交渉権の承認、調停・仲裁機関の設置が命じられました。
 そしてこのために、、国鉄を設置するための公共企業体を設置する法律、鉄道労使関係の調停・仲裁機関を設置する法律、運輸監督機関の設置と運輸省の再組織に関する法律などを制定することが要求されました。
 GHQが考えていた、公共企業体とは、民間的な発想で効率的な経営を行い、赤字部分を利益の出る分野で補い結果的に赤字部分の事業も存続させていくという考え方であり、それゆえに民間では出来ないと言う考え方でした。この点は重要ですので良く覚えておいてください。そしてこれは、資本主義がある程度まで行き着いた社会において考え出された手法であることにも注目しておいてください。
 対応に困惑した政府は、GHQにお伺いをたてました、GHQの回答は、以下のようなものでした。
 (1) 専売公社とすべき、塩・アルコール・たばこ・・・形式的には国の直営を離れるが、その実態は従来どおり国の直轄事業でよろしい。当然独占事業であることを認める。
 (2)国鉄は、独立採算の会社として独立させ、できる限り効率的な経営を行い、かつ民間では行い得ない事業を遂行させること。
 という見解が示されました。(当時電電公社は誕生しておらず、逓信省の一部局としての位置付けであった。)

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日本国有鉄道誕生 第1話

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はじめに

国鉄を鉄道国有化の明治時代まで遡るか、戦後の昭和24年以降とするかは、議論の分かれるところではございますが。 ひとまず、昭和24年以降の日本国有鉄道以後の内容ということで、記述を進めたいと思います。 なお、国鉄に関する労使問題や、車両の動きなどといった専門的と思われる分野は、別の機会ということで、ここでは、概要のみを伝えることにしたいと考えております。

日本国有鉄道の誕生前史

日本には、かって鉄道省という役所(さらに古くは鉄道院)という役所がありました、戦時中は逓信省(現在の郵政公社の前身) と統合され、運輸逓信省に、さらには運輸省になり、空襲激しくなる中でも、兵員輸送に、また武器弾薬輸送など貨物輸送にと全力を持って、鉄道員の方は、苦労されました。
 特に、昭和も20年になると本土決戦が叫ばれるようになり、鉄道員も軍人とほぼ同等の扱いを受けることなり、組織もそれに見合った形に改変されました。
 しかし、広島・長崎に原爆を投下された日本は、その国力にも限界を感じ、善戦むなしく敗戦。
 原爆投下の際にも、多くの人々を病院に運んだのも国鉄を中心とした鉄道であり、また昭和20年8月15日、終戦が国民に知らされたときも、現人神(当時)である天皇陛下の放送すら聞かずに黙々と安全輸送に邁進していたのも国鉄職員でありました。
 さらには、翌日以降、国民が虚脱感に打ちひしがれているときでさえも、正確に時を刻みつけていたのは、やはり国鉄であり、車両を動かす国鉄職員の人々でありました。

復員輸送と国鉄

国鉄にとって、終戦後のもっとも大きな作業は復員作業でした、陸海軍省は解体改組され、それぞれ第一復員省、第二復員省と改組され、多くの海外からの兵を国内に輸送する仕事が始まったのです。
 特に、長崎南風崎や、舞鶴などは、復員船の港となったため多くの臨時復員列車が設定され、また多くの人がふるさとへと帰っていきました。
 国鉄に課されていた使命は、武器弾薬から人材という宝を無事ふるさとに運ぶことでありました。
 ここに、以前読んだ雑誌の中にその当時の話を語った一文を思い出します。
 大阪駅では、長時間停車があり、そこで多くの兵員はホームにうずくまるそうであった、何ゆえか?
 それは、排泄のためであり、駅の便所まで行くまでに力も残っていない、そしてそれを誰も止めはしない、やがて時間が来て列車はふるさとに向け旅立つ、そして駅のホームには多くのお土産が・・・(食事中の方がいたら申し訳ないです。)
 駅員は、黙々とホームを清掃し、次の列車を待つ。
 そして、それの繰り返しが・・・・

 人心も乱れ、すさみきった中で国鉄職員は戦後の日本を支えるのは我々であるという強い信念で立ち向かわれたのだと思います。
 その背景にあったのは、鉄道国有化の頃から採られた、国鉄一家主義の延長にあったのではないかと思うのは考えすぎでしょうか。

部内でも検討された経営形態

戦後の混乱の中、公共輸送を担う国鉄では復員者の受け入れ、復員者輸送などに忙殺される中、経営は赤字を続け、政府部内にも官営方式を止めるべきではないかといった議論がでてきました、政府は昭和21年6月に、鉄道会議官制を改正し、民間人を含めた運輸大臣の諮問機関として発足しました。
  そこで、国鉄(当時は運輸省鉄道総庁)は独立採算制を採用することが必要であると言う答申が行われました、昭和23年1月のことです。
 そこで、経営悪化が顕在化していた国鉄バスについて思考が実施されました。
 現在の中国ジェイアールバス広島営業所の広浜線横川自動車区で昭和24年1月から試行、同年4月から全国の国鉄バスで自動車区単位の独立採算制となるなど、部内からも変わっていこうと言う動きが出てきましたが、いまだ決定打は出ませんでした。


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