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国鉄VS東武 日光観光客争奪戦 第1話

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国鉄が最初に日光線に投入したキ... 国鉄が最初に日光線に投入したキハ55 157系電車の登場を受けて、急... 157系電車の登場を受けて、急きょ東武が投入した1720系
世界的観光地日光

現在でこそ、JR東との相互乗り入れが行われていますが、かつて国鉄時代は国鉄と東武双方が競争していました。
昭和31年、東武が1700系特急車と呼ばれるロマンスカーを導入、国鉄も負けじと同年10月10日から、準急用気動車として開発したキハ55を投入します。
160PSのエンジンを2基搭載した強力型とはいえ、東武の1700系と比べれば見劣りする車両であり。
決して有利な戦いとは言えませんでした。
その後、昭和34年には、日光線も電化されることとなり、東武と競争条件がほぼ同じとなりましたので、ここで積極策に出ることになります。

攻める国鉄と追われる東武

国鉄は日光線の電化工事を行い、電車列車並びに一部列車は客車に戻して機関車牽引とし、当時地方で要望の多かった気動車は地方線区に回す措置が取られたそうです。
観光輸送列車である「日光号」に関しては、キハ55に代えて、157系と呼ばれる特別準急電車が製作されました。

157系電車は、既に多くの鉄道雑誌などで紹介されているのでご存じの方も多いと思いますが、当時としては珍しく列車名によって始発駅が異なっていました。(東京起点で)
1)日光号  東京~日光
2)中禅寺号 新宿~日光
3)なすの号 上野~黒磯
となっていました。
当時から、新宿発の設定があったことも興味を持たされるところです。
157系電車の特徴は、準急電車とはいえ当時の特急とほぼ同じ設備を持っていたことであり、3等車(後の2等車)は電車特急こだまの3等車と同じ回転クロスシートであり、2等車(後の1等車)もリクライニング装備となっていました。
当初は冷房装置の搭載も計画されたそうですが、そうなると特急列車との格差が無くなってしまうと言うことで冷房装置取り付けは見送られたものの、準備工事が行われていました。
冷房を設けない代わりに窓は開閉式とされ、下降窓が設けられましたが、この下降窓の設備に不備があり結果的に車体寿命を縮めてしまったことも皆様よくご存じだと思います。
157系の登場で焦ったのは、東武の方でした。
今まで優位性が157系の登場で大きく崩れてしまったからです。

157系がDRCを誕生させた
157系の登場で焦ったのは、東武の方でしょう。
今まで増備されていた1700系の製造を打ち切り、マイナ^チェンジ版として1720系(DRC)が誕生するきっかけとなりました。
151系を意識しつつも、独自のデザインの車両でした、製造はナニワ工機(後のアルナ工機)が製造を行いました。
阪急の2000系以降に見られる、窓枠にアルミを巻く独特のスタイルを関東で見ることが出来ました。
また、当時の車両としては珍しく、4号車にはジュークボックスを備えたサロンカーを設けるなど、国鉄の157系をかなり意識した車両でした。
明日は、東武1720系登場以降の様子をアップします。

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新幹線建設と国鉄 第2話 新幹線計画概要と建設基準

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在来線と新幹線の車両限界比較 在来線と新幹線の車両限界比較 ヘビーコンパウンドカテナリ方式 ヘビーコンパウンドカテナリ方式
東海道新幹線は、十河総裁と島技師長が推進する形でスタートを切ることになりましたが。
車両限界等の建設基準等は、昭和36年4月から国鉄部内に設けられた、新幹線建設基準調査委員会で検討されました。

昭和36年8月には最終決定がなされ、その記事が「交通技術昭和36年10月号」にアップされていましたので、当時の記録を引用しながら簡単に解説させていただきます。

なお、一時期通勤輸送に山手線をオール2階建てにすればいいと言う発言があり、車両限界を無視したものだと物議をかもしたことがありますが、これは在来線の車両に場合新幹線と異なりレール面上3m(車内から見れば2m付近から大きくカーブを描く車両限界のためです、トンネルなどの構造物によって車両の大きさが制限を受ける例の一つと言えます。
新幹線の場合は、全く新規に作るものですから、自由に車両限界などを選択できました、その計画によりますと、貨物輸送を行うことを想定していたことから、コンテナ輸送以外にセミトレーラーをそのまま載せて貨物輸送できることを想定して積載限界を決めたため、であり、結果的に在来線と異なり矩形型の大きな車両限界を設定できたと言われています。
以下簡単に概要を記述させていただきます。

1)車両限界 車両高さ 4,500mm 車体幅 3,400㎜ ちなみに、在来線は、車両高さ 4,100mm 車体幅 3,000㎜です。
2)停車場及び列車長、旅客電車は、車両長25m(1車平均〉16両編成を基本とし、貨物は
4M6Tの単位編成を考え、必要により30両まで編成して運転する計画である。従って停車場内本線有効長は、この列車長に停止のための余裕を加えて500m以上、旅客電車のみの線路では450m以上とした。と書かれており、当時から16両編成の旅客運転が想定されていたことが伺えます。
3)電化方式については、国際標準電圧である25,O00Vとし。周波数については、東海道沿線では富士川を境として東が50c/s(当時はサイクルで表記)、西は60c/sとなっているため、新幹線の交流電車は、50/60両方の周波数に対応した車両を開発するか、地上設備で周波数を統するかを検討した結果、当時の技術では両用周波数の変圧器の開発が困難で有ったため、地上設備で統一する方法を採用することにしたそうで。当時は回転変流器(モーターで発電機を回して50→60Hzに変換する方式が採用されました。
現在は、インバータ方式で変換されますが、当時はそのようなアナログな方式が使われていました。2014年まで実は回転式が一部使われていたようです。
2014年11月27日の社長会見が出ていました。
興味のある方はぜひ、こちらも併せてご覧ください。

https://jr-central.co.jp/news/release/nws001563.html
https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000024902.pdf

4)運転保安装置として、連続制御式自動列車制御装置(ATC装置)を設備するとともに、運転指令業務の能率化を図るため、到着進路をほぼ自動的に設定する半自動化列車集中制御方式(CTC方式)を採用するとして、運転保安度の向上を図ることになりました。
5)その他として、新たに50Tレールと呼ばれる、新幹線独自の形状のレールが開発された他、架線についても高速運転での集電性を向上させるため、合成コンパウンドカテナリ式と呼ばれる、従来のコンパウンド式架線を改良した方式を開発しました。
どのようなものかと言いますと、ドロッパーと呼ばれるトロリー線と補助架線をつなぐ装置に合成素子で作られたダンパーのを取り付ける方式で、集電装置による架線の振動を減衰させることを目的に開発されました。
しかし、実際には強風などで共振現象が大きくなり、架線事故の原因となったので現在では新幹線では使われていないとのことです。
実際、国鉄時代は架線が切れて新幹線が運休することが多々ありました。
現在は、より安定性を高めたヘビーコンパウンド架線方式を採用しているようです。
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新幹線建設と国鉄 第1話 十河信二総裁と阿川弘之

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鉄道ファンでもあった阿川弘之が... 鉄道ファンでもあった阿川弘之が書いた童話、「きかんしゃやえもん」
阿川氏は、新幹線建設には批判的であったと言われていますが、新幹線開業後の成功を見て不明を詫びたと言われています。
今回から、何回かに分けて新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。

新幹線に関しては、戦前の弾丸列車計画まで遡ることができます。

実際に、丹那トンネルなど一部の区間は建設に着手していましたし、日本坂トンネルのように戦前には完成し、一時期は在来東海道線で利用された区間もあったと言われています。

昭和30年代の輸送力はひっ迫しており、東海道線の全線複々線化も視野に入れて検討されましたが、鉄道技術研究所が新幹線による東京~大阪3時間運転の可能性を示したことを受け、鉄道が斜陽産業と思われていた中に光明を見出したと言えます。

最終的には、十河信二の決断が大きかったと言えましょう。
世間は鉄道斜陽論が一般的であり、鉄道は時代遅れであり今後は飛行機や高速道路による自動車輸送が増大するものであり、高速鉄道などは妄想の産物でしかないと言われていました。

このように、新幹線建設に関しては並々ならぬ情熱を持っていた十河総裁でしたが、当時の国鉄は運輸省から分離したとはいえ、国鉄自身も、そして政府も国鉄は国の機関という意識が双方にあって、運輸省は国鉄を監督する立場にあるとはいえ、その立ち位置は現在の国交省とJR各社という位置づけとはかなり異なっていました。

また、作家の阿川弘之(元海軍士官で、絵本・「きかんしゃやえもん」の作者)が、世界の三バカと呼ばれた(ピラミッド・万里の長城・戦艦大和)と同じく、新幹線も同じ道を辿るのではないかと、新聞で発表し、国鉄に再検討を促したと言った話もありました。

それでも、十河信二としては高速輸送としての新幹線が国鉄が生き残るべき道であると信じて建設に邁進することになります。
新幹線建設の計画には、桜木町事故で引責辞任していた島秀雄を口説いて副総裁格の技師長として迎え入れ、島技師長とのコンビで新幹線計画は進められました。

改めて、こうして十河信二という人を振り返ってみますと、改めて胆力のある総裁であったことが伺えます。

特に、国鉄は、輸送量の増大もあったとはいえ、十河総裁在任中の国鉄は黒字決算を続けていましたし、動力近代化による運輸の合理化や、支社制度の導入による本社機能のスリム化等、機構改革にも着手して政治力を発揮しています。
また、新幹線建設に関しても政治力を発揮し、当時の大蔵大臣、佐藤栄作の助言により世界銀行からのの借り入れなどを実現させたことも特筆されます。
ただ、当初から新幹線の建設費を過少に見積もっていたこと、さらに新幹線建設のために地方交通線(ローカル線)の建設を渋ったことなどから、新幹線開業前に昭和38年には再任されることは無かったのですが、これは上記のような理由で政治家に嫌われて詰め腹を切らされた形でした。その後は国鉄監査委員を務めていた、石田禮介氏に総裁の任が回ってくることになるのですが本題から外れますので、今日はこの辺で止めておくこととしましょう。

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新性能電車の幕開け第5話 特急電車151系の発展

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交通技術1960年2月号から引... 交通技術1960年2月号から引用
昨日は、151系電車は大人気で、急きょ増備することになったと言うお話をさせていただきましたが、実は昭和33年10月の、「こだま」運転開始前から検討はされていたそうです、そこで問題になったのは、「こだま」は、2・3等車のみの編成でありながら冷暖房完備であるのに対し、「つばめ・はと」は1等展望車並びに食堂車以外は非冷房では差が付き過ぎることから、検討されたのですが、その時は、「こだま」号が運転開始前であり、当時は客車にするか電車にするか決めかねていたのでした。

昭和31年には、EH1015が歯数比を変更して高速試験が行われたのも、当時としては長距離列車は、客車列車というイメージがあったからでした。
結果的には、昭和34年7月に高速試験で151系が163km/h記録するに及んで、「特急つばめ・はと」も電車化して共通運用を図る方針が決めらたと言います。

そこで、計画では、電車の編成は12両編成で、モーターは6両までに抑えられることになりました。
これは沼津以西の電力事情があったからと言われています。(昭和35年2月、交通技術2月号)
なお、1等展望車に代わる特別2等車の設計は時間がかかるため、比較的設計のまとまりやすい2等電動車4両(モロ151・150各2両)と3等付随車(サハ150 4両)を使って昭和34年12月から、「特急こだま」は12両編成化されました。
その後、第2次増備車として、サシ151、クロ151が落成して、順次こだまの編成も置き換えられて最終的に、「特急こだま」と「つばめ・はと」は共通運用されることになりました。

特にクロ151は展望車に代わる車両として非常に特徴的で、4人区分室と一人掛座席14脚を備えた開放室からなり、中央部に設けられた出入り口があり、車端にはサービスコーナーが設けられていました。
設計当初は、進行方向に向かって27度斜め外向きが定位として設計され、オットマン(足置き台)が使用できるようになっていました。
改良型では、椅子と一体型になり、任意の位置で使用できるようになっていました。
また、壁は吸音効果を期待して織物貼りになっていたそうで、車両における織物を貼った例は、国鉄では100系新幹線にも見ることが出来ました。
座席の上には厚さ8㎜の強化ガラスによる幅80㎝の荷棚が設けられていたそうです。
なお、区分室は車体幅いっぱいを使ったもので、乗務員通路部分とは床に設置したマガジンラックでかろうじて区分される程度であり、ひかり天井方式、荷棚はハットラック式となっていました。
ちなみに、国鉄で光天井方式を採用したのは、クロ151区分室以外では、クロ157貴賓室も光天井方式を採用していました。
JR東日本が253系で区分室付のグリーン車を連結していた時期がありますが、この区分室では、完全に通路とは仕切られる形となっており、クロ151と比較すると狭苦しく感じられたものでした。

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新性能電車の幕開け第4話 特急電車151系の誕生

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画像 wikipedia 15... 画像 wikipedia 151系特急電車
昨日は、小田急の車両を借り入れて高速試験を行ったと言うお話をさせていただきましたが、実は3000系の設計には国鉄の技術研究所がかなり設計に関しては技術協力をしたそうですが、小田急としてもかなり部内で物議は有ったそうです。
特に、運転台が低くなることが万が一の事故の場合どうするのかとか、見通しが悪くなると言う問題提起がなされたと言います。
また、連接台車に関する保守も保守部門からは不安が有ったそうです。
また、、お役所以上に固い(融通が利かない)と言われた国鉄ですが、この高速試験は結果的には大成功であり、最終的に3000系で培われた軽量化の技術は、国鉄の車両設計にも大いに影響を与えたようです。

なお、高速試験は、101系も試験に供されました、台車を試作の空気ばねに変更し、歯数比を変えた特別仕様で135km/hを記録しました。

最初は物議をかもした、小田急3000系の借り入れですが、結果的には多くの貴重なデータを提供することになりました。
連接台車については、国鉄では591系誕生まで持ち越されることになりましたが、こうしたデータは新幹線建設のための基礎データを提供したと言われています。

また、昭和33年には国鉄としても101系に搭載されたMT46モーターを搭載した日本初の特急電車として151系を誕生させることになりました。
151系は小田急の車両を参考にしたと言うよりも、国鉄独自の軽量設計の集大成と言うべき存在でした。

特に、それまでは食堂車・展望車など1等車の一部にしか設置されていなかった冷房装置を3等車にまで広めた功績は大きく、車両に取り付けるユニットクーラーをサロ85に設置して試験が行われた他、101系には試作空気ばねでの試験などが行われ、10系客車なで採用された軽量車体を含めて、当時の国鉄における技術の延長線上にあった車両でした。

また、高速運転を考慮して運転台を上げた独特のボンネットスタイルはヨーロッパのTEEなどを参考にしたとはいわれていますが、優雅にまとめられており、国鉄の黄金時代を彩る列車として、また戦後の復興のシンボルとしても評価に値する列車と言えましょう。

当初は、特急「つばめ・はと」を置換える予定はなく、あくまでもビジネス特急としての計画であったことから、3等車のみの編成で計画していたそうですが、途中からやはり2等車は営業上必要であると言われて設計変更がなされその格差に苦慮したと言う記述が星晃氏の回想録などで出てきます。

その時に試作されたものの一つにシートラジオがあったそうですが、当時はイヤホンを一つ一つ消毒していたそうで(持ち帰り式の安いイヤホンではなかった)その手間が邪魔だったことや携帯式のラジオが普及したことで廃止になったと言われています。
当初は、あくまでもビジネス特急としてのスタートであり、当初は8両編成でスタートしますが、完全冷暖房の車内は好評を持って迎えられ、昭和34年には増備が始まり、編成は12両まで拡大、その後本格的に特急「つばめ・はと」も客車ではなく、電車で置き換えようと言う話となり、それまでは優等列車は客車による機関車牽引と言う意見は姿を消し、電車による置換えが検討されることになるのですが、その辺りはまた別の機会にさせていただきます。

80系試作車による冷房試験に関しては、下記も参照ください。旧型国電と冷房
鉄道ジャーナリスト blackcatの鉄道技術昔話

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新性能電車の幕開け第3話 小田急SE車による高速試験

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小田急SE車 3000形初代 小田急SE車 3000形初代
本日は、小田急が開発したSE車が、国鉄線を走った頃のお話をしてみたいと思います。

1)国鉄技術研究所の協力で始まったSE車
小田急のSE車は、ご存じのとおり小田急が最初に開発した特急専用電車であり、現在も1編成が海老名車両基地(神奈川県海老名市)の専用保管庫に保存されています。
当初は、鉄道技術研究所の協力で開発が始まったそうで、完成後は小田急線内で最高速度を出せるところがなかったので、これまた国鉄で試験をさせて欲しいということになったそうです。
 国鉄の部内にも私鉄の車両を借り入れることに対して反対意見も多かったそうで、借入費用が大きくなることや、車両自体が信託(住友信託銀行)されていたこともあり、最高速度は設計最高速度である145km/h以上出さない様に事前に取り決めたり、「高速試験」自体に保険をかけたり、145km/hにおけるブレーキ距離が600mを越えることから運輸省の特認が必要といった手続きもあったと言われています。
また、国鉄として私鉄の車両が走ることは面子が立たないと言った意見もあったそうですが、詳細は省きますが、個々の調整も進み、小田急と国鉄の間で貸借契約が交わされ、下記の日程と場所で試験が行われることになりました。

9月20日~9月26日
  大船~平塚間の旅客下り線
  ロングレールを敷設した、モデル軌道区間を含む当時として最も軌道の良い区間で、架線も高速集電に有利なコンパウンド・カテナリ架線方式

9月27日・28日
  函南~沼津間の下り線
  普通の状態の保線区間で、架線も従来のシンプルカテナリ式架線方式

試験の結果、従来車両に比べて横圧(レールを外に押し出そうとする力)でありこの力が大きいと軌道の狂いが生じるため小さい方が好ましいことになります。
従来の車両では4t程度あったものが2.5tと軽減されていることが確認されたと言う記述がなされています。

集電に若干問題が残ったことや、高速度でのブレーキの利きが悪くて600mを越えたことなどの問題点もあったそうですが、概ね初期の性能は確認できたとのことでした。
また、流線形の効果による空気抵抗軽減も十分確認されたことから、国鉄としても私鉄の車両を走らせることに抵抗は有ったものの結果的には新幹線に繋がる貴重な資料を提供したと言われています。
実際に、高速度試験での離線状況などから新型のヘビーコンパウンド式カテナリ―架線が開発されたりしました。
明日からは、新幹線建設のお話に移りたいと思います。

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新性能電車の幕開け 第2話

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八王子市人口 八王子市人口 モハ90(101系)と72系の... モハ90(101系)と72系の比較
引続き、101系のお話を少しだけさせていただく前に、中央線に最初に101系が投入されたのかという経緯を知る必要があるかと思います。
中央線沿線は、戦後の人口増加が大きかったと言われています。
いささか乱暴な話ですが、中央線が通過する八王子市の人口を八王子市の統計で見てみますと、上記のグラフに有るように、昭和30(1955)年に大きく増加し、その後昭和40(1965)年までは周囲の町村合併もあったとはいえ人口が爆発的に増加していることが理解していただけると思います。
これは、戦後、東京都民が郊外に引っ越したことも原因としてあったかもしれませんが、この頃から東京一極集中の問題は起こっており、鉄道輸送にあっても、昭和8(1933)年6両編成でスタートした中央線は、昭和30年には9両編成まで対応できるようにホームを延長、その後昭和31(1956)年11月には10両編成まで対応可能となったそうですが、抜本的な改善には至っておらず、連日ダイヤの乱れによる混乱があったと記録には残っています。
昭和32年には、東京駅に中央線ホームの改良に着手しホーム拡幅工事を行ったと記述されています。
改善案として、旧形のモハ72形電車に代えて、新性能電車(101系)を導入することで、時間短縮が図れるとして計画されたのでした。
当初の計画では、オール電動車で製作する代わり、加速度は3.2km/h/sec 減速度 4.0km/h/secで、130cmの両開きドア併用で、運転時分の短縮が図れるとしていましたが、
実際には、オール電動車にすることでピーク電流(ノッチ投入時にかかる過電圧)の増大やこれに伴う架線電圧の降下などもあり変電所を強化する必要があり、その費用だけで役10億円(昭和32年当時)であり、それ以外にも性能に合わせて信号設備なども最適化を図るとなるとその経費も膨大になることや、旧形国電との混用ではさほど高加速があっても使いづらいと言うことから。当面は、出力を下げてMT比を下げる手法が取られました。
当初は8M2Tその後6M4Tとトレーラーの両数を増やす形で性能は最終的には旧形国電とさほど変わらない2.0km/h/secになってしまいました。
それでも、当初は将来的には電動車化するとのことで付随車(サハ)も動力台車を履くこととなり、DT21T(Tはトレーラーの意味)と呼ばれる電動車用台車を履き、また一部のサハにはパンタグラフの設置のための準備工事なども行われていました。
この失敗に懲りたのか、それ以降は国鉄では電車の起動加速度を積極的に公表することはありませんでした。
現在のN700系の加速度2.6km/h/secであり101系よりも速いことになります。

第一話はこちらを参照

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新性能電車の幕開け 第1話

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直角カルダン駆動 Wikipe... 直角カルダン駆動 Wikipedia参照 WNカルダン駆動 Wikipe... WNカルダン駆動 Wikipedia参照
本日から、新性能電車の幕開けとということで何回かに分けてお話をさせていただこうと思います。
しばしお付き合いくださいませ。

1)今までの常識を変えた湘南電車

昭和25年に「運行を開始した湘南電車は、今までの電車の常識を覆すこととなりました。
それまで、電車は振動も多く長距離の移動には向かないのでせいぜい60km程度までの距離を走るものと思われていました。
 100km以上の距離を走る湘南電車は、電車の新しい可能性を示すものと言えました。
80系電車は性能的には吊りかけ駆動のため、分類上は旧型国電ですが、電車による可能性を広げたことは間違いありません。

2)新駆動方式による高性能電車の誕生

昭和27年には、新しい駆動方式、カルダン駆動が国鉄の電気式気動車キハ44000形でが初めて採用され、45kWモーターを駆動する方式が試験的に採用されたました。
 しかし、閑散線区に電気式は不利ということから、電気式気動車は、全車液体式に再改造されましたが、日本初であることには変わりありません。
翌昭和28年には、東武の5700系が直角カルダン駆動方式でデビュー、京阪1800系はWN駆動としてデビューするのですが、東武5700系が初期故障に巻き込まれていた中で、京阪は完成後直ちに営業運転に使われるなど安定した走りを見せました。
ということで、新性能電車(カルダン駆動)の最初の営業運転は京阪ということになりますが、この頃から私鉄では積極的に新性能電車(当時の表現を借りれば)を導入が検討されていきました。

3)眠れる巨人、国鉄

国鉄でも、新性能電車の設計は検討されましたが、その動きは緩慢で、昭和28年当時は63形電車から72形への改造が昭和26年の桜木町事故から行われており、昭和27年当時も半鋼製のモハ72形電車が増備されていた時代でした、全金属タイプの72形電車が登場するのは昭和31年まで待たねばなりませんでした。
しかし、昭和31年頃、大手私鉄は着々と新しい電車を導入して、近鉄では奈良線用として800形を増備したり、阪神でも3011形がジェットカーとして新性能電車が運転を開始していましたが、巨像はまだ、目覚めないと言った状況になっていました。
国鉄の新性能電車がデビューするのは、昭和32年に登場するモハ90系(後の101系)まで待たねばなりませんでした。
101系については、みなさんもよくご存知と思いますが中央線の慢性的遅延を解消するために導入が検討されたものであり全車電動車で当初は3.2km/hの加速を計画していました。
 
続く
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高速鉄道の可能性を求めて

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広軌高速鉄道建設要綱(案)にな... 広軌高速鉄道建設要綱(案)になります。参照 交通技術昭和31年2月号
本日から、高速鉄道の可能性についてと言う話題でお話を進めて行きたいと思います。
戦後の輸送量は飛躍的に増加し、経済成長率は戦前の水準を越えたと思われ、昭和32年当時、輸送申込みの60%しか輸送できなかったと、国鉄線の記事では出てきますが、当時は他の輸送機関が殆ど発達しておらず、(飛行機も60人程度の定員で東京~福岡などは、特急1等運賃で東京~博多まで行くのとほぼ同じ金額(当時はあえて、航空運賃を高く設定すると言う政策的な部分がありました。)
利用者の多くは、鉄道に頼らざるを得ない状況でした。
 そのような中、輸送力の拡大(特に東海道線)は喫緊の課題だったのです。
 当時、国鉄本社の予測では、現在の経済成長が続く限り、東海道本線の輸送力は昭和39年頃には飽和状態に達するであろうと考えられていました。
 その解決策として、東海道本線の全線複々線化による解決策を模索していました。
 昭和21年当時にも戦前の弾丸列車の復活を提唱する意見もありましたが、新幹線の実現と言うのは夢のまた夢と思われていました。
 そんな折、鉄道技術研究所【現在の鉄道総研】が昭和32(1957年年)5月30日に銀座山葉ホール「東京~大阪間3時間」の構想を発表した時は大変な反響がありました。
 
 高速鉄道建設の話題は、新聞にも大々的に扱われたため、85%以上の人が知っていると答えたと言われています。
 だた、本社としては、鉄道技術研究所が勝手なことをしたといって物議を醸したとも言われています。
 当時、本社では鉄道技術研究所という組織は、あくまでも付属物であり、本社の命令で動いていればよい、そんな風潮がありました、しかし、東海道線改良の抜本的対策は新幹線しかないという信念を持って、かつその実現の推進に尽力したのが、十河信二国鉄総裁でした。
 なお、十河総裁については改めてお話をしたいと思います。
 ちなみに、国鉄当時の運転速度では、3時間10分運転であり、3時間ではないと言うご意見もあるかもしれません、当初の計画では、京都停車は想定していませんでした、ところが、世界的観光地である京都を通過させるのは問題があるという経営的判断から停車が決定したと言われています。
 それにより当初は東京~大阪3時間運転の予定が、3時間10分に延長となりました。
 京都通過の列車が誕生したのは、平成元年にデビューした「のぞみ1号」東京発の列車で、途中新横浜以外は全て通過と言う過激な?運転でしたが、その後は名古屋財界の猛反発もあり、現在の形になったのはご存知のとおりです。

参考 http://library.transport.or.jp/

画像は、昭和31年交通技術に掲載された「広軌幹線の構想」に掲載された、広軌高速鉄道建設要綱(案)になります。参照 交通技術昭和31年2月号

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景気循環と国鉄 第3話 特急あさかぜの誕生

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参照 wikipedia 昭和... 参照 wikipedia
昭和31年運転当初の時刻表
昭和31年に、「特急あさかぜ」は旧形客車を連ねた編成で誕生します。
荷物・3等合造車 3等寝台車3両、3等座席車2両、食堂車、2等座席車、2等AB寝台車(個室&開放室)2等C寝台(開放室非冷房)の編成でした。
当初案では、大阪を無視する列車(実際には停車・客扱を行う)として計画され物議をかもしたものでした。
考えられた案は下記の3つ
1)東海道夜行+山陽昼行特急とする案。(東京発は深夜になる)
2)つばめ・はとに続行する形で、山陽区間を夜行にする案(昼間の走行時間が長くなる。
3)大阪を深夜に通過するダイヤとし、東京を夕刻、博多には到着する案

3案は、前例がないと大阪鉄道管理局は反発しますが、関西始発の九州方面急行列車「玄海」・「天草」を同時に登場させるということで、本社に言い切られる形でダイヤは決定したといわれています。
実際には、旧形客車で運転されていましたので、列車が停車すれば自由に乗り降りできる状態でしたので、大阪駅を2:00に客扱いすると言うことが行われていたわけです。
余談ですが、国鉄時代は、寝台急行列車の場合は、停車駅では客扱いをしていましたがこれも、旧形客車で運転されていた頃の名残です。

当初は、大阪が非有効体時間帯になることへの危惧もありましたが、運転開始してみると、好評で、切符が取れない列車と言うことでむしろ話題になり、昭和32年7月20日からは「特急さちかぜ」が設定され「あさかぜ」に続行する形で運転されました。

誘発需要や急行列車からの転移もあったかもしれませんが、それ以上に飛行機の深夜便(ムーンライト)からの転移が大きかったのではないかと言われています。
当時ムーンライトは、博多~羽田間に飛んでおり、夜2:35頃出発し、大阪空港を経由して、朝の5:30頃に羽田に到着する便と、東京を3:20に出発し、博多に6:15に到着する便があったそうですが、定員60人に対して20人程度しか乗らないことも多くなったという記事が国鉄線の記事の中にかいてありました。

昭和30年代は、景気拡大に支えられ、人や物の動きは活発化、一方では高速道路の建設も進められることから、輸送力のさらなる拡大(特に東海道線)は喫緊の課題としてクローズアップされていくのでした。

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