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新幹線開業前 試作車1000形のお話

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新幹線0系のシンボルとも言える... 新幹線0系のシンボルとも言える光前頭 各種座席が検討された 各種座席が検討された
新幹線1000系は2種類が試作されました。
これは、すれ違い試験の確認を行うためのものであり、最小編成として2+4両で計画されました。

本日は、この2両が製造され前に検討された仕様書について当時の資料を参照しながら説明を加えていこうと思います。
新幹線車両の概要
なお、車両の製作には下記のような条件が定められました。
当時の1961-08_交通技術を参照しますと概ね下記のようになっています。
抜粋しますと。

1)車体幅 約3,350mm
2)高さ  レール面上3、950mm
3)車体長さ 自連間長さ25m

 「車体長さについては特に規定はないが定員乗車時の車両重量を60tにおさえることになっているため、おのずから制限される」と記述されていました。
余談ですが、現在の東海道・山陽新幹線の場合は48tに抑えられていますが、この理由は270km/hにおける振動・騒音の係数が0系220km/hとほぼ同じであったからだと言われています。
検討された列車の座席
客室設備については、昭和36(1961)年時点では検討中とされていますが。運転時間が3時間程ですので、ビジネスライクな車両として計画されたようです。
結果的には、1等車(現・グリーン車)は2人掛け、2等車(現・普通車)は2+3人掛けに最終的に決定されるのですが、この辺に関しては、下記のように書かれています。
少し長いですが、全文引用させていただきます。
 
優等車・普通車の別、食堂車またはビュッフェの必要性4人掛・5人掛などについては検討中で、まだ結論は川ていない。しかし車体幅が現在線にくらべて400mm程度広いので、たとえ5人掛にしてもゆっくりした寸法をとることができる。運転室のない車両では5人掛で1両定員100名程度となる。

と書かれており、ビジネス需要も多き新幹線であるから、5人掛けにしたいと言う思いはあるようです。

ただし、現在のグランクラスに相当するパーラーカーの設定は運転時間が3時間ほどということもあって見送られたようです。
余談ですが、国鉄でもパーラーカーの新幹線開業後の運用には苦慮していたようです、実際は4年ほどで製造費を回収する事が出来るほど、高収益を上げたため、その後は普通車でも全く問題は無かったと言われています。
ボンネットの中身は?
また、特徴ある新幹線のボンネットですが、飛行機の機体に範をとったような形になったわけですが、風洞試験などを繰り返して形状が決められたと言われています。
なお、ボンネット内にはATC受信装置・ATC制御装置・列車無線装置(受信・発信部)およびこれらの電源となる交流→直流変換装置などが取付けられることになっていると記述されています。
また、冷房装置は、こだまと同様ユニット方式で天井に取付けるが、新幹線では二重屋根としてその中に空気調和装置を入れ、屋根の形状を平らなものとするとなっており、屋根上のスリットは0系新幹線の特徴と言えましょう。
なお、0系では従来の151系などのユニットクーラー方式では無くヒートポンプ方式が採用されました。
客室の構造に関しては、客室窓は固定窓、出入口扉はプラグドアが計画されていたようですが、量産車では一般的な戸袋方式のドアになっています。
300系でも初期に製造された車両はプラグドアを採用しましたが、その後J16編成以降は通常のドアに戻りました。
さらに、試作車の計画では、「床から下にスカートを取付けることを原則にして床下機器配置を考えている。」と言う記述があり、床下側面の走行時の乱流を減少させるためと、床下取付の電気機器冷却用空気の取入れもスカート外側の埃の少ない所からにするための2点を考慮に入れている。」という記述がありました。
ボディマウント構造までは考えていないようで試作車も、量産車も長めのスカートは見送られました。
なお、本格的なボディマウント構造の車両は200系まで待つことになりました。
新幹線で始まったトイレのタンク化
「便所・洗面所に関しては2両に1ヵ所に集中して設ける事が最初から計画されており、その位置は2両1ユニットの中間付近となろう」と書かれています。
在来線が垂れ流しの状況であったとき、新幹線ではさすがに200km/hで垂れ流しというわけにも行かず、汚物・排水はすべて汚物タンクに収容する事とされました。
ただ、当初は単純にタンクに溜めるだけの方式であり1往復すると満タンにと言うこともあり、その後循環式が開発されて現在に至っています。
いくつかの案が出された新幹線座席
そして、新幹線の特徴としては、座席もいくつか試作されたようで、在来線の普通車の4人向かい合わせをそのまま新幹線に取り込んだタイプや、回転式座席(背ずりの上下が回転する方式なども考案されましたが、最終的には2等車は転換クロスシート、1等車は2人掛けのリクライニングシートとされたのは、よくご存じのことだと思います。
余談ですが、昭和50年頃、シルバーシートを設定するときに首都圏の電車では、シートをグレーのモケットに張り替えましたが、これは大量に余剰があった新幹線のモケットを流用したものだと言われています。
閑話休題
0系新幹線と光前頭
他にも、初期の新幹線を象徴するものとして、前頭部が光る、光前頭がありました。
これは、カバーの中に蛍光灯を入れて照らすようにしたもので。
最後尾の場合尾灯の光が回り込んでボンネット全体が薄赤く光っており幻想的でした。
ただ、強化プラスチックであったため走行中の衝突などでの破損も多かったようで、途中から光前頭方式は中止され、カバーもより強固なFRPへと置き換えられてしまいました。
現在は大宮の交通博物館に保存されている0系は光前頭を装着していますが、元々大阪保管していたらしいので、京都で保存されている0系にこそ光前頭を復元して欲しいと思っています。苦笑

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新幹線開業前 モデル線の建設

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モデル線区を走る新幹線試作車 ... モデル線区を走る新幹線試作車 交通技術から引用 新幹線の構体試験並びに台車試験... 新幹線の構体試験並びに台車試験 交通技術から引用 A編成 交友社 電車のアルバム... A編成 交友社 電車のアルバムⅠから引用 B編成 交友社 電車のアルバム... B編成 交友社 電車のアルバムⅠから引用
モデル線の建設
東海道新幹線の建設に際しては、初めてのケースであり十分な安全性や問題点を洗い出すために、一部区間を早期に完成させる必要がありました。
モデル線区とされた区間は、神奈川県綾瀬市~小田原市鴨宮の間であり、昭和35年4月に路盤工事に着手し、鋭意工事が進められたそうで、一部家屋の移転が遅れたという記述もありますが、昭和37年37年3月までに路盤工事が完成、3月15日からは新幹線の軌道及び電気工事の起工式が鴨宮軌道基地で挙行されました。
また、4月20日には、新幹線用の試作電車第1号の試験調査及び乗務員の養成を行なう目的で、鴨宮にモデル線管理区が設置されて、5.23 には、モデル線での試験計画が決定しています。

後述の新幹線試験用車両は、4月25日にA編成(汽車会社製)が搬入され、B編成は、5月18日に搬入されています。
なお、昭和37(1962)年6月26日には、待望の試運転開始式が開催され
交通技術誌によりますと、「10時から来宮神社の宮司により、新幹線工事の完成と試験無事を祈る諸神事が行われ、その後、十河信二総裁の訓示があり、第1号試験運転電車は国鉄総裁・島技師長・大石新幹線総局長など国鉄関係者多数を乗せた4両編成(B編成)に乗車、午前10時45分、モデル線管理区長の発車合図で基地を発車、基地より約10kmの地点で試験を終って、再び基地に引返し、約40分にわたった初試運転を無事終った。 」
と書かれています。

これにより、東海道新幹線はこのモデル線区を中心に乗務員訓練などが進められることになったのです。
なお、この区間をモデル線区とした理由は、橋梁・トンネル、盛り土区間など新幹線のおよそ考えられる条件が揃っていたためであり、東京からも比較的近い事も決め手になったのでは無いかと思われます。

新幹線の試作車両

東海道新幹線は、昭和39(1964)年に開業するわけですが、その試作車A編成・B編成が試作されたのは昭和37年でした。
本日は、新幹線試作車に関するお話を少しだけさせていただこうと思います。

2種類試作された新幹線車両
新幹線電車は、特段新しい技術を開発した部分よりも既存の技術を積み上げて作られた部分が大きいものでした。
在来線(狭軌)でクモヤ93000号 電気試験車)が日本最高速度である175km/hを出したこともあり、広軌で200km/hは問題ない事は確認されていましたし。
電車の制御方式も在来線の交流機関車で確立した制御方式(低圧タップ切換方式)を採用するなど既存技術の延長によるものでした。
試作車の仕様を当時の交通技術昭和36年8月号の記事から引用させていただきますと。
「試作車両は前述の通り量産旅客電車に移行するために未解決の問題を調査試験によって究明するためのもので単なる試験研究のためのものではない。」
と記されており、あくまでも量産を前提とした車体構造などが求められるとしていました。
実際には試行錯誤が重ねられていたようで、X形の補強を入れたタイプが作られたり、車内に関しても、転換式クロスシートや、シート全体が回転する方式であったりあらゆるタイプが試作されたようです。
ただ、運転時間が3時間(開業当初は4時間)運転であったことから食堂車の連結は見送られ、その代わりにビュフェが連結されるなど、運転開始当初の「こだま」と同じようなイメージでしょうか。
車両は、昭和35(1960)年12月末には中間車が浜松工場で完成し、翌年1月14日から21日まで構体試験が行われたと記録されています。

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新幹線建設と国鉄 新幹線駅の建設こぼれ話

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新大阪駅を中心とした鉄道網 新大阪駅を中心とした鉄道網 新大阪駅の拡大図 新大阪駅の拡大図 八重洲駅改良工事見取り図 八重洲駅改良工事見取り図
長らく、更新が滞ってしまいました。
申し訳ございませんでした。

本日も、新幹線建設に関するお話を少しだけさせていただこうと思います。
古い資料などを参照していますと、面白い記事を発見することが出来ます。

複数の停車駅候補があった東京

新幹線の始終着駅について、もちろん検討されているのですが、当時の資料を参照しますと、東京側の終点は、停車駅の候補に挙がったのは、新宿・原宿・市ヶ谷・品川・汐留・東京など約10カ所が候補地として挙がったそうです。
最終的に旅客の乗り換えの便を考えて東京駅になったとのことですが、八重洲口駅に関しても書かれていて、次のように書かれています。
鉄道技術昭和35年8月号を参照しますと、
「新幹線旅客はその60%が国電との乗換客であることから、国電連絡の便利さにおいて数段優る現東京駅に決定された。
さし当り八重洲口本屋と7番ホームの間に2本の幹線ホームを新設して開業し
、将来は7番ホームを幹線ホームにふりむける予定である。」
と書かれています。
八重洲側、現在の18番~19番までの1面2線を新幹線用として新設、将来的には7番ホームを新幹線用に転用すると書かれています。

既存の大阪駅に乗り入れはベストだが・・・。

さて、もう一つの終着駅大阪はどうだったのでしょうか。
東京が複数の候補があったのに対して、大阪に関しては、既存の大阪駅に乗り入れる案、東淀川駅付近に駅を設ける案の二つで検討されることとなったそうです。
当時の交通技術昭和37(1962)年4月号の資料から引用しますと、下記のように書かれています。
「利便性を考えれば大阪駅に乗り入れるべきでしょうが、大阪駅を中心とする梅田地区の交通混雑にさらに拍車をかけることになり、一方、家屋の密集する市街地を通過するため、工事が渋滞し工事費も増大するとし、欠点の方が大きいとみられて採用されず、大阪府・市など地元の賛成意見も多かった東淀川附近案となったのである。」
と記述されています。

新大阪駅建設で決まった、新御堂筋並びに地下鉄の新大阪延長

これにより、東淀川付近での場所を選定した結果、東海道本線・北方貨物線・宮原操車場東回送線に囲まれた三角地帯が利便性が良いという決定がなされたそうです。
新大阪駅が、宮原操車場付近に決定した事を受けて、大阪市は新御堂筋線を延伸することとし、さらに御堂筋線(当時の名称は)高速一号線)を延伸することが決定事項となりました。

阪急も新大阪駅への乗り入れを予定していたが・・・

また、阪急も新大阪に乗り入れるべく免許を保有しており、現在の27番ホームが建設されている付近は、阪急が土地を確保していました。
図を見てみますと、神戸線並びに京都線が途中で分岐して、新大阪に乗り入れ、新大阪から更に淡路に抜ける計画となっていたようです。
歴史にIFはありませんが、阪急が新大阪行きの路線を堅持していたら新大阪駅から京都へ、または神戸への流れも変わっていたかもしれません。

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新幹線建設と国鉄 新たなる技術開発

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交通技術 昭和34年8月号掲載... 交通技術 昭和34年8月号掲載から引用
新幹線の技術開発

昭和35年交通技術に資料を参照しますと、新幹線開発に際して色々な技術開発が行われたようです。
その中で、個人的には知らなかった試験等がありましたので、少し書きだしてみたいと思います。

1)猫耳実験が新幹線開発で行われていた。
猫耳新幹線と言えば、E954形電車(愛称・ASTECH 360 S)が有名ですが、東海道新幹線開発に際して、模型実験ですが、風洞実験を行ったそうです。
概要としては、車両限界内で車体断面積の25%にあたる 抵抗板を取り付け、空気抵抗の増加や車体に付加される縦揺れモーメント、車体の、周りの流れの状態を調べたと書かれています。
ここでの実験結果は今後資料を探してみたいと思いますが、おそらく構造が複雑な割には効果が低いと判断されたのか試験車に装備されることはありませんでした。
ただ、実験段階で猫耳試験が行われていたのは事実のようです。

2)湘南電車25両編成による列車風に関する試験が昭和33年11月12~13日にかけて東海道本線、辻堂~茅ヶ崎間で試験が行われたという記述があります。
これは、列車風は、速度はむろんであるが、車体の形状と列車長が大きく影響するためであり、列車長に関しては、在来の実験資料が充分でないことから計画されたようです。
なお、新幹線開発にはSE車のデータも大いに参考になったようです。

80系電車の先頭車にロビンソン風速計(現在は、風杯型風速計と呼ばれている)をつけた写真を中学生の頃に図鑑で見た記憶があるのですが、このときの試験車の記録だったようです。
資料を探してみましたが、現時点ではこの程度の資料しか見つけられませんでしたが、今後新たな資料等が発見された場合は追記させていただきます。

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新幹線建設と国鉄 新幹線で貨物輸送

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新幹線貨物輸送構想の貨物新幹線... 新幹線貨物輸送構想の貨物新幹線電車 新幹線貨物電車、10両編成4M... 新幹線貨物電車、10両編成4M6Tを1ユニットとして3ユニットで構成 カートレイン構想のイメージ図 ... カートレイン構想のイメージ図 軽自動車は枕木方向に普通車はレールと並行に搭載する予定であったことが判ります。
はじめに
連日、踏切事故などの硬い話題ばかり続いていましたので。今回から新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。
今回は、新幹線の貨物輸送ということでお話をさせていただこうと思います。
現在の新幹線は、0:00から6:00までは原則的に新幹線は走行せず、その時間帯は線路の保守に充てられることになっていますが、計画段階では貨物列車の一部も新幹線で夜間に運んでしまおうと言う計画がありました。
最近の資料では、夜間の貨物輸送は世界銀行から借款を得るための口実だったとか、実際には貨物輸送を実施する気が無かったのではないかという記述もありますが、当時の交通技術と言う雑誌を読む限りでは、本気で新幹線による貨物輸送を検討していたように見受けられます。
今回参照したのは、交通技術昭和35年9月号に掲載された、東海道新幹線の貨物方式を参照しています。
新幹線で検討された貨物輸送
当初の発想は。新幹線区間が夜に何も走らないので有効活用の観点から考えられたそうで、当初は新幹線での貨物輸送は構想としてはなかったようです。
そこで、夜間の開いている時間帯を利用して、東京・名古屋・大阪間の速達貨物列車を運転してはどうかという結論に達したようです。
考えられる列車としては、小荷物・小口混載・コンテナ及び車扱いの急行便などが候補に挙がりますが、コンテナ特急「たから」号のような列車こそ、新幹線に移して速達化した方が得策であると考えられたためだと記述されています。
さらに、貨物輸送を行うに当たり、新幹線での旅客輸送が主であることから、貨物列車も従来のような、機関車に牽引させる方式ではなく、電車とすることで軌道構造物の規格を上げる必要がなく結果的に建設費を抑えることが出来ることから下記のような貨物電車が計画されたそうです。
貨物電車構想
計画された貨物電車は、下記のようなものでした。
1)東京~大阪間を最高速度130 km/h 途中ノンストップで約5時間半輸送
2)車両は、10両編成(4M6T))を1ユニットとし3ユニットをつないだ30両編成
3)貨車の長さは1両15m程度とし、5tコンテナを5個積載、30両編成で750tとします。

当時の特急貨物たから号が、最高速度85 km/hで汐留~梅田間を約11時間でしたので、それと比較すれば十分速いと言えるのですが、現在は在来線で、M250系電車が東京貨物ターミナル~大阪・安治川口間を6時間11分で結んでいますので、当時の新幹線貨物構想とほぼ同じ所要時間で結んでいるほか、在来貨物輸送でも概ね6時間半程度で結んでおり、隔世の感があります。
カートレインの可能性も検討されました
新幹線貨物輸送で期待されたものの一つとして、カートレイン輸送が出来るのではないかと書いています。
カートレイン方式をどのような形で考えていたのか判りませんが、当時のイラストなどを参照しますと、コンテナの中に自動車を入れて運ぶ方式のようです。
なお、昭和35年9月号の、交通技術で下記のような記述がなされています。
引用しますと、
欧米で流行し始めている乗用自動車の鉄道輸送があるが、わが国でも自家用自動車の普及発達によっては必要となって来るかも知れないので検討中である。
車両高さの限界は4,500 mmとしているので、床面高さを電動車の条件からレール面上1,300mmとしても小型乗用車は十分2段積が可能であるし、外国製の自動車は背が低いので楽に2段積できる。

引用終わり

として、カートレイン輸送の検討がなされていたことが伺えます。
まぁ、資料に出てくる乗用車が時代を感じさせてくれます。
もし貨物輸送が実現していたら?
最終的に貨物輸送は行わず、旅客輸送のみで営業を開始することになりましたが、仮に新幹線による貨物輸送が実現していれば、山陽新幹線区間などでは積極的な貨物輸送などが行われていたかもしれません。
更に言えば、青函トンネル区間での積み替えの手間は発生しますが、新幹線形貨物電車を開発して260 km/h運転を行えば、旅客側の北海道新幹線も減速せずにそのまま通過することが出来るのではないでしょうか。
要は積み替えに伴うコスト増と、時間制限と速度制限を今のように受けずに走行できることで得られる経済効果との比較で考えられるべきではないでしょうか。
積み替えのコストを考えても、260 km/hで運行できればメリットは大きいと思いますし、あえて言えば、青森ターミナルではなく盛岡など速度メリットが得られる区間から新幹線に載せ替えて走らせることで、積み替えによる所要時間を速度で相殺できれば、新幹線で輸送するメリットはあるのではないでしょうか。
最後は、妄想的なお話となってしまいましたので、改めて別の機会にお話をさせていただこうと思います。

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高度経済成長と輸送力増強 第6話 踏切事故増加と踏切道改良促進法

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自動車の保有台数 自動車の保有台数 踏切事故件数 昭和38年 国鉄... 踏切事故件数 昭和38年 国鉄監査報告書から引用
増える自動車登録台数と踏切事故

昭和30年代の経済成長は、旅客並びに貨物輸送の増大に伴う輸送力増強や。投資不足に伴う数々の事故を発生させたほか、経済の発展は自家用車の登録を増加させていきました。
踏切事故件数および自動車台数を見ていただくとわかるのですが、昭和31年以降急激に伸びていることがわかります。
弊サイトでは、当時の事件事故を年表にしていますが、昭和30年代は無謀運転のトラックや乗用車の他、バスとの接触事故などが後を絶ちません。
特に踏切事故では自動車の乗員が死亡する等悲惨な事故になる場合が多く、その対策は急務とされましたが、踏切対策以前に輸送力の増強に追われていたため。その整備は後手に回るのでした。

当時の踏切事情

鉄道の踏切には、第1種~第4種まであり、現在は第2種と呼ばれる踏切はなくなったものの、一部に第3種・第4種と呼ばれる踏切が存在します。

第4種は、踏切の警報器も遮断機もない踏切で、ローカル線の一部には現在も存在しています。
第3種は、警報器はありますが、遮断機がない踏切で、こちらも現在でも残されている区間があります。
そして、第1種と呼ばれるものが、皆さんが一般的に認識している遮断機も警報器もある踏切であり、遮断機がおり始めたら決して入らないことが原則となります。
そして、現在は廃止になりましたが第2種という踏切は、昼間は踏切の保安員がいて昇降を行いますものの、夜間には無人となり第4種踏切と同じ状況になるものでした。
これは、第1種が元々踏切保安員が常駐して踏切の上げ下げを行うことを前提としていたためです。

鉄道としても踏切事故対策はないがしろに出来ない問題となり、昭和36年以降は輸送力増強と並行して踏切の整備にも取り組むこととなり、自動車の保有台数は増えつつも事故件数は減少傾向になることになりました。
また昭和36年には、「踏切道改良促進法 法律第百九十五号(昭三六・一一・七)」が制定されました。
一部条文を抜粋しますと

(指定)

第三条 運輸大臣及び建設大臣は、踏切道における交通量、踏切事故の発生状況その他の事情を考慮して運輸省令、建設省令で定める基準に従い、昭和三十六年度以降の五箇年間において立体交差化又は構造の改良(踏切道に接続する鉄道又は道路の構造の改良を含む。)により改良することが必要と認められる踏切道について、その改良の方法を定めて、指定するものとする。

2 運輸大臣は、踏切道における交通量、踏切事故の発生状況その他の事情を考慮して運輸省令で定める基準に従い、昭和三十六年度以降の五箇年間において保安設備の整備により改良することが必要と認められる踏切道について、その改良の方法を定めて、指定するものとする。

3 運輸大臣及び建設大臣又は運輸大臣は、第一項又は前項の規定による指定をしたときは、その旨を、当該鉄道事業者(軌道経営者を含む。以下同じ。)及び道路管理者(前条に規定する道路の管理者をいう。以下同じ。)又は当該鉄道事業者に通知するとともに、告示しなければならない。

中略
 (改良の実施)

第五条 鉄道事業者又は道路管理者は、立体交差化計画若しくは構造改良計画又は保安設備整備計画に従い、当該踏切道の改良を実施しなければならない。

 (費用の負担)

第六条 立体交差化計画又は構造改良計画の実施に要する費用は、鉄道事業者及び道路管理者が協議して負担するものとする。

1 保安設備整備計画の実施に要する費用は、鉄道事業者が負担するものとする。

当初は昭和41年までの時限立法でしたが現在も法令としては効力を持っています。
なお、立体交差化については、「実施に要する費用は、鉄道事業者及び道路管理者が協議して負担するものとする。」となっていましたが、「保安設備整備計画の実施に要する費用は、鉄道事業者が負担するものとする。」とあるように、国鉄にしてみればと必要なこととはいえ、第二次長期計画に加えて、こうした費用を捻出することが必要となってきたため、その財源を探す必要に迫られました。

なお、これにより踏切の整備をすることが法的に定められることとなり、徐々にですが踏切事故は減少することとなりました。
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高度経済成長と輸送力増強 第5話 鶴見事故

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高度経済成長と輸送力増強 第5... 鶴見事故現場 鉄道ピクトリアル... 鶴見事故現場 鉄道ピクトリアル 昭和37年12月号から引用
当時の事故の詳細図
高度経済成長と輸送力増強 第5話 鶴見事故

一昨日は、三河島事故のお話をさせていただきました。
三河島事故の場合、国鉄の事故報告書では本線への合流前に信号を無視したことで機関車が安全側線に進入、本線を支障した、となっています。
当時の部内誌などを見ますと、出発信号並びに場内信号のいずれも無視したと言う記述も見られます。
二回の停止現示をいずれも見落としたと言うことになります。
おそらく、当時の国鉄線などという雑誌に書かれているように、出発信号機を見落とした上、場内信号機を通過したという可能性は捨てきれないと思います。
こうした事故が起こった場合、それまでに潜在的な問題があったと思われます。
いわゆる、ハインリッヒの法則という言葉を聞かれたことがあるかと思いますが、この伏線は単純に信号を見落とした・・・だけではないと思います。
また、事故後5分間の乗務員の行動も問題視されました。
列車防護が出来なかったのでしょうか・・・。

こうした問題がクローズアップされ、ATS【列車停止装置】の導入を前倒しで背導入することとなり、昭和41年には、新幹線を除く全線にATSが設置されることになりました。
実際には、確認ボタンを押すとATSが実質解放されてしまうという潜在的な問題があり、追突事故は起こりました。

国鉄の信頼は地に落ち、信頼回復に向けて十河総裁以下精力的に取り組むことになりました。しかし、翌年の昭和38年5月では、再任されず辞任することになりましたが、これは三河島事故の責任ではなく、新幹線建設費が当初予算よりも高騰したことに対して責任を取らされた形でした、この辺は後述しますが、当初から過小に見積もっていたという意見もありますが、それ以上の物件費上昇が大きかったのではないかと思います、ただし、当時は新幹線の成功自体が疑問視されていたため、体よく追い出したというのが現実ではないかと思います。
実際、新幹線開業式には十河総裁は呼ばれなかったことがその証左と言えます。
十河総裁の後を継いだのは、十河総裁当時監査委員長を務めていた石田禮助氏でした。

石田氏が就任して半年後の11月9日、国鉄は大事故を引き起こしてしまいます。
死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事の鶴見事故が起こります。
三河島事故の異なるのは、貨車が突然脱線して、隣の線路を支障、そこへ横須賀線の電車が90 km/h程度の速度で接触して脱線、ほぼ同時刻に走っていた対向列車の4両目に突き刺さる形になり、後続の電車に押される形で4両目を破壊、5両目の半分で停止した事故で、4両目は台枠以外は原形を残さない状態でした。

この事故では、主たる原因は、ワラ1形が突然脱線したことが原因でしたが、当初は国鉄の過密ダイヤが原因だと指摘されたりしました。
実際には、この当時は国鉄のダイヤはかなり逼迫していたのも事実でした。
当時の世論としては、国鉄の事故に対する批判もさることながら安全対策や輸送力の不足が、国鉄だけではなく国全体の問題としてクローズアップされることになりました、

鶴見事故の詳細については、後日監査報告書を参照して詳細をアップさせていただきます。
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高度経済成長と輸送力増強 第4話 三河島事故

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https://www.you... https://www.youtube.com/watch?v=_vvI4-zunRs
昭和37年のニュース「三河島事故」④(終)
三河島事故 Wikipedia... 三河島事故 Wikipediaから
昭和36年からの第二次長期計画は、車両の増備を中心に輸送力増強に努めたのであるがそれでも経済の発展に追いつけず、慢性的な輸送力不足を呈しており、複線化が急がれていたのですが、昭和37年5月に、国鉄にとっては悪夢のような事故が起こりました。
死者160人、重軽傷者296人を出す大惨事、三河島事故でした。
当時の概要は、既に多くの記事等でご覧の方も多いかと思いますので、詳細な解説は省略しますが、貨物列車の乗務員が信号を見落として本線に進入、安全側線に突入したが止まりきれずにそのまま本線を支障、そこに上野発、取手行き電車(2117H)が接触 1.2両目が脱線して、今度は対向線を支障、乗客はドアを開けて線路沿いに歩きかけたところ、今度は、事故を知らされていない上野行き電車(2000H)が進入、徒歩で避難していた乗客を刎ねながら、上野行き電車先頭車と衝突、1.2両目を破壊しながら200H電車は4両が脱線、大破 1両目は原形をとどめず、2,3両目も築堤下に転落。
この事故で、2000Hの乗務員が死亡しています。

国鉄では、常磐穂三河島駅列車衝突事故特別監査報告書を6月14日に提出
それによりますと、 事故の原因として、貨物列車乗務員の信号見落とし並びに、駅および車掌などが後方業務の停止措置を怠ったことが原因であったとしています。

以下、本文から抜粋

事故の直接原因については、細部に不明な点もありますが、国鉄の調査に基づいて検討した結果、次のごとく推定される。
(1) 事故の直接の原因は、下り第287貨物列車の機関車乗務員が三河島駅の出発信号機の停止信号を確認せず、そのため列車が安全側線に突入脱線したことによる 。
この事故の結果を悲惨なものとした原因は、第1の衝突により 、下り第2117H 電車が上り本線を支障したが、約6分後進入してきた上り第2000H電車に対して、防護処置をなすべき関係乗務員および関係駅職員の行動に遺憾の点があったためと思われる。

当時の世論などは、どうだったでしょうか。
当時の部内誌の記事を参照しますと、当時の世論では、機関士の信号見落としは、業務に対する士気の低下では無いのかと言う精神論を討論調が大半を占める中、人間はミスをするものであるから、ミスを未然に防ぐための仕組みを作る必要と言う意見もあったと紹介されています。

昭和37年8月号の国鉄線の記事から引用させていただきますと。
 三河島事故直後の世論は「職貝の士気の弛緩と訓練不足」と「保安施設の不備」を指摘するものがもっとも多く、そこから「国鉄に対する不信感」をかもし出したのであるが、東京・社説(六・一六)は「保安設備を改善せよ、といっているのも当然である。いかに安全運転を心がけても、施設が不十分では事故をなくすわけにはいかない。現状をみると、自動停止装置をとりつけているところは、東海道、中央、山手の各線ぐらいのもので、他の殆んどは相も変らず人間の手で行なわれている。人間の眼とカンに頼っていたのでは、いかに注意深い人間でも時として錯誤はまぬかれず、しばしば大きな事故の原因となっている。」と物心両面の安全確保を主張している。

結果的には、国鉄にしてみればATSなどの非常停止装置の措置は喫緊の課題となり、輸送力増強の投資に併せて、安全運行のための措置にも大きく予算を配分する必要に迫られるのでした。
なお、常磐線にあっては、ATS整備の他、常磐線用防護無線が整備されることになったのはご存じの通りです。
余談ですが、「ある機関助士」は三河島事故を受けて安全確保に尽力していることをアピールするための映像として依頼したのですが、国鉄の意向とは異なり一般公開されないままお蔵入りになった映像でした。

その後は、名作としての誉れが高いのは皆様ご存じの通りかと思います。」

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高度経済成長と第2次5カ年計画 第3話 慢性的な輸送力不足

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高崎発上野行き普通列車 724... 高崎発上野行き普通列車 724列車
動画は下記をご覧ください。
https://youtu.be/q46dgvSsUhM
高崎線724列車時刻表 高崎線724列車時刻表
第二次長期計画は、主に車両の増備等がメインであったと昨日は書かせていただきました。
特に電車や気動車の投資効率が高かったため、国鉄は積極的にそうした車両を投入していったわけですが、YouTubeを検索してみますと昭和35年の高崎線の列車通勤風景が写った動画がありました。
調べてみますと、高崎6:05発上野行きで、上野着は8:25で休日運休の客車列車だったようです。
その5分前並びに11分後にも上野行きの列車が走っていますが連日このような混雑だったのでしょうか。
少し興味はあります、併せて当時の時刻表を貼らせていただきましたので併せてご覧ください。
少なくとも、高崎線に限らず、中央線などでもその問題は大きくクローズアップされ、101系電車などが優先的に投入されたことからもその混雑が大きかったことがうかがえるのですが、当時の昭和35年の国鉄監査報告書を参照しますと、昭和36年度も35年度の引き続き毎年旅客で6%の伸張、貨物輸送にあっても昭和35年度8%、昭和36年度7%と毎年増加し続け、貨物輸送も活発化していた時期でもありました。
特に吹田操車場などでは、ヤードに到着する貨車を捌いても捌いても次から次へ貨車が到着して向こうが見えなかったと言われるほど貨車の到着が多かったと言われています。

また、旅客の嗜好にも変化が見られ、より速い列車を選択する傾向が高くなったことから積極的な優等列車の増発がはかられる反面、投資のための費用を自ら生み出すことを目的として運賃値上げが昭和32年と36年6月運賃が改定されていますが、多少の運賃値上げによる旅客収入の伸びに鈍化が見られましたが、概ね右肩上がりの順調さを示していましたが、それでも高崎線の上記列車に見られるような痛勤も有ったようですし、程度の差こそあれ多くの列車が満員で、年末などの繁忙期では、列車に乗るために前日から駅の待合で過ごし、ダフ屋【今で言う転売屋】が跋扈する、そんな時代でした。
年末やお盆の時期には上野駅や大阪駅ではテント村なる待合施設が出現し、季節の風物詩として話題になったものです。
しかし、国鉄の輸送力増強施策は、国の経済成長にはなかなか追いつけず、特に自動車の発達による踏切事故の多発は、鉄道事業者にとっても頭の痛い問題でした。
当時の運輸省の考え方は、鉄道は地域独占の事業であり踏切の整備等はすべて鉄道事業者の責任とされており、そうした対策への費用も振り向けざるを得なかったのですが、さらに昭和37年には、三河島事件という大きな事故を国鉄は起こすことになるのですがこの辺は、明日またお話しさせていただきます。

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高度経済成長と第2次5カ年計画 第2話 動力近代化よもやま話

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動力近代化として、気動車の増備... 動力近代化として、気動車の増備が続けられました。
昭和36年度を初年度とする第2次5カ年計画は、当初の投資総額が9,750億円という巨額であり、その概要は下記の通りとなっていました。

第2次5箇年計画の内容は,次のとおりです。
 (1) 東海道線に広軌鉄道を増設すること。
 (2) 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。
 (3) 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行い,これを電車化すること。
 (4) 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。
 (5) 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること。

特に、この時期に国鉄が一番力を入れたのは、気動車や電車でした。
特に気動車に力を入れたようですが、これは、蒸気機関車を電気機関車やデイーゼル機関車で取り替えるよりも、気動車や電車による取り替えの方が、資金効率が高かったからだと言われています。【資金効率とは、年間経費の節減額を投資額で割った比率】
実際にどのくらい変わるのかといいますと、蒸気機関車→電気・ディーゼル機関車の置き換えが8~15%、電車・気動車に置き換えた場合、50%~80%と極めて高いため、旅客車は極力電車や気動車を採用する方向になっていったと言われています。
特に、昭和25年の湘南電車の成功はその後長距離電車の可能性を生み、昭和33年には「特急こだま」を誕生させており、その後準急用として153系、さらに急行用設備を153系に付加したサロ152やサハシ153を誕生させていきましたし。
気動車列車も、特急はつかりに代表される特急車両や、急行用気動車キハ28・58を誕生させるなど多数の動力分散列車が誕生することになりました。

特に、電化の場合変電所の設置など固定設備の費用もかかるのに対し、気動車列車の場合は車両の投入だけということもあり、その投資効果は極めて高く、かつ無煙化による旅客サービスの向上を同時に図ることが出来るためその効果は極めて大きかったと言われています。
また、こうして無煙化された線区で使われていた蒸気機関車は玉突きで。老朽化した機関車の置き換えに使われましたが、C59のように重幹線線用機関車はC53同様比較的早い時期に淘汰されてしまいました。
結局、大正時代のに製造された8620や9600が最後まで残り、昭和になって誕生したC59が昭和40年代前半には消えてしまうことになるのですが。

大型蒸気は、地方管理局では固定資産としての費用が増え、場合によっては出力過剰による石炭の浪費などであまり好かれなかったという記事もあります。

久保田 博氏が、国鉄部内誌、交通技術【昭和37年1月号】の下記記事

「蒸気機関車のゆくえ、修正された蒸気機関車の転用廃車計画」で下記のように書かれていました。

この転用計画で、D52,C60の大形形式を受け入れた地方管理局は、資産単価増に伴う償却費の増加や、不適応小単位列車牽引による動力費の増のため、とかく非協力的であって、36
年度以降の実行に相当の困難を覚悟させられた。

と書かれています。

第2次5カ年計画で気動車や電車列車が増発された背景には投資効率が高かったと言う点も見逃してはいけないのではないでしょうか。
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