交流電化の夜明け 第2話 仙山線の成功と北陸本線電化
Nov
23
当時の資料などを参照しますと、技術陣は当初は直接式を本命としていたようです、ただし下記にも書きましたように直接式の場合起動時に整流子(ブラシ)から派手に火花を飛ばしながら走るため、 運用ごとにブラシの清掃や交換が必要となったと言われています。
その反面重量面では不利になるものの、整流器式は想定以上の性能を示し、水銀整流器の寿命(当初は5年から10年程度と言われていた)や、高周波問題などの問題を解決する必要があったと言われています。
最終的には、水銀整流器を採用したED45が、25‰勾配(1000mで25m上昇の意味)における引出し試験で、ED44が360tの性能であったのに対し、ED45は600t(ちなみに、定格出力はED45 の方が上)を示し、当時のF級直流機関車とほぼ同等の性能を、D形で実現したのでした。
これは、水銀整流器による界磁制御粘着性能の直流F機と同等の性能を示したのは驚きであったと言われました。
こうなると、交流電気機関車は間接式(整流器式)を中心に考えることとなりました。
商用周波数による交流電化の目処が付いたことから、国鉄では幹線区間における電化は交流電化で行くことを決定しました。
その第1弾として北陸線 田村~敦賀間が選定され。(これは、60Hz区間における交流電化を検証する意味合いもあったようです。)
昭和32年10月1日 北陸線 田村~敦賀間交流電化が完成、(木ノ本~近江塩津~敦賀間新線開通、旧線は柳ケ瀬線として存続)し、ED70形がED45形をベースとして18両製造されました。
柳ケ瀬線に関しては、柳ケ瀬線の廃止を当時の資料から振り返る
https://local-line.at.webry.info/201802/article_5.html
も併せてご覧ください。
なお、ED70形機関車は、長浜鉄道スクエアに1両保存されています。
特徴ある全面の入口部分が溶接されているなど、原型を崩してしまっているのは寂しいことですが、量産型交流機関車の始祖として永久に保存していただきたい車両です。
昭和34年には東北線黒磯以北が50Hzで電化が始まり、ED70を改良した高出力機ED71が昭和33年の試作機を経て38年まで製造され、長く東北本線の顔として君臨していました。
なお、北陸本線に関しては交流と直流を直接つなげないので、米原~田村間を非電化とし、蒸気機関車(当初はE10)で接続を行っていました、東北本線黒磯では、黒磯駅構内に共用区間を設けて、そこで交直切替えを行う。機関車交換方式をとっていました。(現在、北陸線は敦賀まで直流化されており、デッドセクションはそれ以遠に設置されています。)
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