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昭和47年 新幹線岡山開業 第1話

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昭和47年3月時刻改正の時刻表... 昭和47年3月時刻改正の時刻表から抜粋
本日から、東海道新幹線岡山開業のお話をさせていただこうと思います。
昭和47年3月、新幹線は岡山まで開業しました。
当時の資料などを参照しながら、お話を進めさせていただこうと思います。

実は、昭和47年に3月に全国白紙ダイヤ改正と、10月には日本海縦貫線完成と言うことで2回改正が行われています。

改正の準備は前年の10月頃から行われており、山陽新幹線誕生で大きく変わったのは、「ひかり号」でしょうか。
「ひかり号」が超特急から特急に統一されるとともに、三種類のひかり号が登場することになりました。
分類上は、「Aひかり」、「Bひかり」、「Wひかり」で「Wひかり」は通称「赤ひかり」と呼ばれて新大阪~岡山間をノンストップで結ぶ列車でした。
列車種別 Aひかり・Bひかり・Wひかり

Wひかりの側面表示器のイメージ
Wひかりの側面表示器のイメージ
新幹線開業では、大阪発着であった特急8往復、急行9往復を岡山始終着としましたが、特急64往復と急行2往復は従来通り大阪始発で残りました。
なお、夜行列車に関しては、月光号を除き、引き続き大阪始発となっていました。
これは、新幹線博多開業が三年後に控えており、岡山発着の列車を強化して車両基地を整備しますと、今度は岡山地区の施設が過剰設備となることも考慮されたものでした。
結果的には、大阪始発で残った列車(昼間に出発する列車だけ)を列挙しますと、下記のようになります

昼行列車
大阪 7:25発 特急「なは・日向」西鹿児島・宮崎行き 終着西鹿児島21:09、宮崎20:42
京都 7:30発 特急「かもめ」長崎・佐世保行き 終着長崎 19:12、佐世保 18:48
大阪 8;25発 特急「みどり」大分行き 終着大分 17:53
大阪 8:42発 急行「つくし1号・べっぷ1号」博多・大分行き 終着 博多18:10 大分 19:26
新大阪 9:22発 特急「しおじ1号」広島行き 終着広島 13:39
大阪 15:05発 急行「屋久島1号」西鹿児島行き 終着西鹿児島 6:56
新大阪 16:30発 特急「しおじ2号」下関行き 終着下関 23:35
新大阪 17:25発 特急「しおじ3号」広島行き 終着広島 21:39

新幹線との接続にも考慮した、しおじ号などもありますが、長距離列車が大阪始発で残ったことで、旅客にしてみれば選択肢の幅が広がるとともに乗車機会も増えることになりました。(万一、乗り遅れても新幹線で追いついて乗車すること可能)之は夜行列車も同じで、ひかり77号(山陽新幹線最終、新大阪~岡山間は各駅停車)は、岡山23:30であり、あかつき号、明星号、等と接続できるダイヤとなっていました。下図参照

余談ですが、ひかり345号(東海道新幹線、新大阪行き最終)では、名古屋で金星と接続することで博多10:10着を実現していました。

次回は、岡山地区を中心にしたダイヤ改正の話をさせていただく予定です。
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生産性運動(マルセイ運動)と国鉄 第三話

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生産性運動(マルセイ運動)と国...
約1ヶ月ぶりの更新となります。
国鉄改革の方策として期待された、生産性運動は、確実に国鉄の職場を変えていきつつある雰囲気でした。
それは、組合員の数にも顕著に現れていきました。
生産性運動は、国労・動労組合員の脱退を加速させた
国労・動労を脱退して、鉄労に移籍する組合員が増えていったのです。

ストライキを容認する、総評系の国労・動労
総評を上部団体とし、ストライキを容認する、国労・動労
動労は機関車乗務員ならびに関連する職場の職員のみを組合員とする単一組合であり、国労が非現業から、駅、乗務員などをすべて網羅する職場であったことが大きく異なります
労使協調路線を標榜する、鉄労
昭和32年の新潟闘争を経て非現業系の事務職員を中心として。国労を脱退した組合員が結成した組合で、全日本労働総同盟(同盟)上部団体にいただく
、生産性運動を受講した職員が、国労を脱退して鉄労に加入する人が増え、国労・動労の組合員は目に見えて減っていくこととなりました。
昭和47年10月組合員数
組合員の減少は、当然のことながら組合費の減少を招くことになりますから、組織として好ましいことではありません。
そこで、組合は全面的に新聞広告を出したりいろいろな手法を考えていきます。
そして、最も決定的だったのは、ある駅だかの助役が、国労組合員を辞めさせて、鉄労の加入させるのが助役の得点稼ぎだと勘違いした、助役が露骨に組合脱退を示唆した会話を録音したテープを入手したとして、マスコミが公開したことでした。
この問題は、連携した野党議員の手で、国鉄の生産性運動は、不当労働行為ではないかと国会でも取り上げられることとなりました。
徹底的にマスコミを利用した国労・動労
今でこそ、会話記録などは小さなボイスレコーダーがありますので簡単ですが、当時はそのようなボイスレコーダーはありませんからどのようにして録音したのかいささか疑問ですが、実際にそうした事例があるとして、マスコミは連日、国鉄の管理者は労働者の団結を阻害しているとしてキャンペーンを張るなどしていきました。

さらに、国労は地方裁判所や、中央労働委員会に救済申し立てを行い、
9月14日には、札幌地裁が、札幌・苗穂工場に対すして行った、仮処分(当局に「脱退工作の禁止」を命じた。)ことであり、同年の10月5日には、公労委 昭和45年(不)第4号 並びに、公労委 昭和46年(不)第1号で申し立てた、、国労静岡地本が救済命令が認められ、不当労働行為であるとして救済命令が出されています。
以下は、国労静岡地本が中央労働委員会に救済命令を行った際の内容を引用したものです。
事件概要

区長、支区長、助役らの管理者が、国労組合員に対し、自宅に招く等 して、国労から脱退し別組合に加入するよう強要または勧奨したことが争われた事件で、文書交付を命じたほか、一部の服役の言 動については申立てを棄却し、静岡鉄道管理局に対する申立ては却下した。



命令主文

1 被申立人日本国有鉄道は、下記内容の文書を、本命令交付の日か ら30日以内に、国鉄労働組合に交付しなければならない。


 日本国有鉄道は、日本国有鉄道静岡鉄道管理局管内の駒ヶ根車掌区長Y1、同車掌区首席助役Y2、同車掌区助役Y3、同車掌 区助役Y4、飯田運輸長付総務係長Y5、清水駅首席助役Y6、同駅輸送総括助役Y7、静岡電力区第一電力支区長Y8、同支区 助役Y9、同支区助役Y10、掛川駅予備助役Y11および浜松駅庶務助役Y12が、貴労働組合の組合員に対し、貴労働組合から脱退するよう勧奨したことについて、陳謝するとともに、今後このような行為をくり返さないことを約します。

  昭和 年 月 日

 国鉄労働組合

  中央執行委員長 X1 殿

 国鉄労働組合静岡地方本部

  執行委員長   X2 殿

              日本国有鉄道 総裁 Y13



2 申立人らの被申立人日本国有鉄道に対するその余の申立ては、棄却する。

3 申立人らの被申立人日本国有鉄道静岡鉄道管理局に対する申立ては、却下する。

引用ここまで、
全文は、下記をご覧ください。
日本国有鉄道静岡鉄道管理局
更に、同年11月2日には、吹田第二機関区、姫路第一機関区で動労組合員に対し、動労を脱退することを勧奨したとして、同じように救済命令が出ています。
中央労働委員会命令・裁判例データベースから引用

立て続けに出される、救済命令など
なお、これに先立ち、10月1日には、生産性運動は、不当労働行為と見做されるような行動を慎むようにと異例の指示を出したほか、10月5日には、、生産性運動に絡む不当労働行為が5件あったとして、全面的に組合側の主張を認めることとなり、10月8日には、国鉄労組に陳謝するように救済命令をだすことになり、同日磯崎総裁が厚生省に呼ばれ、翌日は、国労・動労代表から事情聴取が行われました。
ここで、国鉄当局は正式に生産性運動に関して陳謝し、昭和44年からスタートした生産性運動はあっさりと終焉を迎えることとなりました。

引き続き、10月11日には、磯崎叡総裁は、組合側に陳謝文を交付する旨の談話を発表
さらに、12日には、国鉄側が不当労働行為の断絶などを約束したとされています

ここに来て、生産性運動は中止に追い込まれ、中間管理職約1000名の追放を組合は提案して、当局はそれを受け入れてしまいます。
これいより、昭和30年代に見られた、当局と対立する姿勢ではなく、組合に飲まれてしまう当局が誕生することとなり、この後急速に国鉄の財政も悪化することとなり、管理職には冬の時代が来ることとなりました。

なお、こちらではあくまでも概要にとどめておき、その後のことは今後詳細にアップしていきたいと思います。
国鉄労働組合史詳細解説 33

国鉄労働組合史詳細解説 34-1

国鉄労働組合史詳細解説 34-2

国鉄労働組合史詳細解説 35

国鉄労働組合史詳細解説 35-2

国鉄労働組合史詳細解説 56

国鉄労働組合史詳細解説 59

国鉄労働組合史詳細解説 60
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生産性運動(マルセイ運動)と国鉄 第二話

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国鉄動力車 昭和47年10月3... 国鉄動力車 昭和47年10月31日 初版
三一書房 刊
圧倒的な成果を上げていった生産性運動
マル生運動は一定の成果を上げる事に成功し、職員の中にはマル生運動後積極的に改善活動に参加したり、職場環境改善のための整備を始めるなどの一定の成果が見られました。
この辺は、動労の松崎委員長も、「国鉄動力車」松崎明・谷恭介共著で下記のように書かれています。
国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒業して国鉄に就職している、

実際、国鉄の場合は本社採用のごく一部のキャリアと呼ばれる人以外は管理局採用で有り、試験によらず臨時雇用員等で採用され、そのまま本採用になる人も多く、これは現業機関で有る郵便局でも同じようなものでした。
特に小さな郵便局(郵政省時代は特定郵便局と呼ばれた)局員や、郵便配達の職員などは各々局長権限で採用されることが多かったと言われています。
話を本題に戻しましょう。

国鉄の現場職員(助役)等も学校を卒業後は国鉄という職場しか知りませんし、国鉄という職場はそれこそ、病院も、買物も国鉄の中で終わってしまうため、外部との接触もなく自ずと国鉄以外の常識を得ることがなくなり、国鉄での世界が全てと思えるようになってしまう部分があるわけです。
再び、「国鉄動力車」の記事から引用しますと。
国鉄以外に生きる場を持たない中・高年齢者が、国鉄の赤字、経営の危機を吹き込まれ、生活の基盤が今にも消滅してしまうような不安感を最初に受け付けられて、・・・中略・・・
窓も出口もないコンクリートの部屋に"マル生の"ドアだけを付けておく、その部屋から出る方法はだだ一つ。"マル生の"ドアをくぐるよりないのである。

もっとも、動労視点の話なので、割り引いて考える必要があるとしても、国鉄職員の多くが国鉄以外の社会と接触しないことから世間に疎くなる傾向はあるわけで、良く言えば非常に純粋人々で有ったと言うことです。
それ故に、マル生運動の研修後、国労や動労の組合員が鉄労に移籍することが後を絶たなかったわけです。

その辺は、国鉄を売った官僚たち、大野光基氏の、4 章生産性運動の急速な拡大で下記のような記述が見られます。
引用してたいと思います。

私の演題はいつも「生産性運動を広めよう」と言うことだった。
そして、次の話で何時も私の講演の結びとした。
「今年の4月か5月のことです、4泊5日の生産性研修が終わった時点で懇談会をやりました。
この席上であ、有る動力車区の指導機関士がこう言いました。『私はなんの気なしに研修にやってきました。ところがだんだん聞いていくうちに大変なことになったと思ってしまいました。そして最後に自分自身にぶつかったのです。生産性運動というのは、俺がやらねば誰がやる、これだと思いました』と、彼は語ったのです。

と言うところで全てを語っていると思いますが、動労や国労の視点からすると、組合員が当局に洗脳されてしまったという解釈をするわけですから、組合は当局に対してマル生反対運動を実施していきます。

その辺は長くなりそうなので次の機会にさせていただきます。

国鉄労働組合史詳細解説 33

国鉄労働組合史詳細解説 34-1

国鉄労働組合史詳細解説 34-2

国鉄労働組合史詳細解説 35

国鉄労働組合史詳細解説 35-2

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生産性運動(マルセイ運動)と国鉄 第一話

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生産性運動(マルセイ運動)と国...
話は、前後しますが。やはりマル生運動に関して、概要を書いておかないと延滞が見えなくなると思いますので、簡単に時系列を書かせていただきます。
生産性運動【マル生運動】とは
昭和45年4月から始まった運動で、昭和46年10月には中止に追い込まれた運動
簡単に時系列を示します。
昭和44年11月 運転指導者研修【試行的な生産性運動の導入】
昭和45年4月 生産性運動開始
この後、国鉄でも生産性本部だけでなく、生産性本部のカリキュラムに沿った形で生産性運動を開始
昭和46年 9月頃~国労がマスコミを使った反マル生キャンペーンを開始、
昭和46年10月 磯崎総裁、国会で陳謝、マル生運動は中止に追い込まれることになる

マスコミの論調は国鉄当局悪しと言う印象操作
下記のような新聞の論調が見られたので、一部引用します。
【国鉄線昭和46年11月号】
まず、二十四日、東京は社説で、「火の車の経営に苦悩する国鉄当局が、その改善のための一方法として生産性を向上させようとする事情は理解にかたくない。しかし、問題はその進め方である。国労、勤労を闘争至上主義として敵視し、一方、鉄労を協力的として保護するような印象を与えるならば、国労、動労の反発を招き、生産性向上の目的はとうてい達成できまい。・・・・国労、勤労を過激にさせた根因(根本の原因の意)には、公企体労働者の労働基本権が制限されていること、その制限に当局側が寄りかかって安易で一方的な労務政策を進めてきたことに対する不満の累積があることは否定出来ない・・・・」とし、「むろん国労、勤労にしても、その合理化反対闘争、たび重なるストなどには自省すべきであるが、とくに当局側の労務対策の姿勢転換を求めざるを得ない。」と主張している。

と言った具合で、国鉄当局が、国労・動労を一方的に敵視してきたことが根本原因であるという論調で書かれていますが、これは、正に国労が書いた原稿をそのまま丸写し、というか、国労の代弁をしている内容であったわけで、国労・動労は組織奪還費として当時の金額で約2億円を使ったとも言われています。
その辺は、「拝啓動労・国労殿」鷹書房から引用してみたいと思います。
少し長いのですが、引用させていただこうと思います。

国鉄労働組合員にしてみれば、ストライキで闘うのではなく、利用者に喜んで貰うことで結果的に自分たちの賃金を上げることができるという発想は、ごく自然に溶け込めていくものでした。
特に、昭和50年頃から、こうした考え方が民間では一般的となってきていました。
官公労だけが、昔ながらの昭和30年代のストライキ至上主義を抜け出せないままでいたのでした。
引用、ここから
それまで七万人台であった五つの組合の内、鉄労組織はグングン伸びだして、一時は十三万人を呼号するまでにいだったのである。
青くなったのは国労。そして、動労。
特に国労は、過半数組合さえあぶなくなるという見通しさえ出、当時の中川委員長は、「座して死を待つより、立って反撃に転じよう」と、戦時中、どこかで聞かされたような決意を披歴したものである。
なぜ、そうなったかというと、生産性教育が、"ストをやって賃金が決まるのではない。生産性の向上が賃金の向上につながるというあたりまえといえば、あたりまえのことだが、従来の”賃金は独占資本の手先である当局とわれわれとの力関係で決まる、強力なストを打ちぬくことによって高賃金をかちとらねばならない″
とする国・動労の理論を何の抵抗もなく受け入れてきた一般組合員にとっては、目を見はらせる理論を展開したことに、その真因があったのである。
 ”国鉄を良くしよう。職場を明るくしよう。お客に喜こんでもらえる国鉄にして、増収をはかろう。ムダ、ムリをなくす合理化をすすめて生産性を高めよう。そして労働条件を良くしよう。高賃金をもたらそう″
 これらのことが、干天の慈雨となって国鉄職員にしみこんで行った。5万人の管理者に勇気と情熱を与え、11万人の組合員がそれを受講し、労使ともども国鉄再建に向けて足を一歩踏み出そうとしていた。目ざめた職員が、スト偏重・闘争至上主義の国労や動労を離れて、鉄労に走ったのは、けだし当然といえよう。

引用以上

言わば組合員にしてみれば、今までの理論が180度変化したわけで、実際に国鉄各地で独自の運動が広げられて行ったわけです。

国鉄職員は純粋培養
国鉄という組織は、無いのは火葬場だけと言われるほど、外部との接触がなくとも生活できる環境が整っていたこともあり、純朴な職員も多かったとと言えそうです。
生産性教育を知って目からうろこであった職員が多くいたわけで、生産性教育を受けた仲間が自発的に駅を綺麗にする運動を始め、駅ホームのペンキを自発的に勤務時間外に行ったりして言った事例が多々ありました。
また、結果的に国労・動労を脱退して、鉄労に加盟する組合員も多かったのです。
下記のグラフがその実態を示していると思います。
国労前年比組合員増減
拝啓動労・国労殿から引用

続く


併せて下記を参照ください。

国鉄労働組合史詳細解説 34-1
https://whitecat-kat.hatenablog.com/entry/2015/09/27/121800

国鉄労働組合史詳細解説 34-2
https://whitecat-kat.hatenablog.com/entry/2015/10/12/225912

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運賃値上げと国鉄再建問題

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国鉄運賃値上げに対する世間の反... 国鉄運賃値上げに対する世間の反発は大きいものがありました。
2か月ほど放置状態になってしまいました、こうして改めて記述をしようと色々と調べていきますと、私の無知を改めて知らされることとなります。
まぁ、その都度blog等は修正していくことになりますが。色々と面白いことが見えてきました。

国鉄では、新幹線整備計画が昭和46年1月に決定しますが、国鉄の赤字は引き続き継続しており、国鉄再建問題は待ったなしとなってきていました。
国鉄としては、抜本的な再建を目指すため、部内的には生産性運動が行われ、外部的には、国鉄再建法案を国会に提出することになり、昭和46年3月12日に提出を試みますが、提出は見送りとなりました

その内容は以下のとおりでした。
弊サイト国鉄があった時代、昭和46年前半から引用します。

国鉄法案見送り、再建頓挫 3/12

政府は国鉄財政再建を促進するため、国鉄再建法案を国会に提出していたが、3月12日、党執行部と橋本運輸相が折衝の結果、今国会での成立は見送ることとなった

国鉄法の改正では、次の2点が問題となった。


  • 赤字線の経営権を地方自治体へ譲渡する・・・・国鉄線の切捨てを意味し反対

  • 国鉄事業の多角経営を認める・・・・・・・・・国鉄の兼業は既存の民間事業を圧迫する


以上の理由から反対され、未成立となった、

としています、更に、赤字83線への取組は引き続き継続努力することとして、昭和47年度の予算措置では、地方閑散線運営費補助金と言う新たな補助金が国鉄に助成されています。
具体的には、
地方閑散線は5年以内の廃止する、ただし地元が希望する路線については、運用赤字補填額の、国が3/6、地方が2/6を負担すると言うものでした。
ただし、この補助は、廃止に至るまでの間(5年間を限度とする)ものとされていました。
また、国鉄に対しても生産性の向上や。要員11万人の縮減【合理化】を求めていました。

それと併せて、運賃改定を認めると言うことで、昭和47年度と50年度、及び53年度に運賃改定を行うとしていました。

当時の様子を国鉄線、昭和47年2月並びに、昭和48年2月を参照しますと、下記のように書かれていました。
いずれも当時の記事をキャプチャーしたものです。
世論1972 国鉄線 197202

世論1974 国鉄線 197402

こうして、何度か廃案となった国鉄運賃改定法案は、昭和49年まで持ち越されることとなり、昭和49年10月の時刻表で初めて運賃改定のご案内として出てきます。
新旧の運賃を比較のために掲載しておきます。

運賃改定前
197210時刻表
運賃改定後

197410時刻表世論1974
こうして、昭和49年に、運賃改定はやっと行われるのですが、
赤字線の経営権を地方自治体へ譲渡や、国鉄事業の多角経営は認められず、国鉄の財政は益々窮地に立たされることとなったのです。

続く
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全国新幹線鉄道整備法公布に伴う、全国新幹線網の決定

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整備新幹線計画... 整備新幹線計画
全国に新幹線を敷設しようとする膨大な計画
全国新幹線鉄道整備法は、日本全国に高速鉄道(新幹線を建設しようという構想で、現在の整備新幹線構想の基礎となっているものです。

決定までの流れ
当時の政府が掲げていた、「経済社会発展計画」に呼応して国鉄が太平洋岸縦断新幹線(盛岡~博多間〉を提案したのが始まりで、その後以下の時系列に示すように、計画が修正、肥大化して行きました。

  1. 昭和41年9月 経済社会発展計画(目標年次昭和47年)に対応して、経済審議会社会資本分科会に国鉄は「太平洋縦断新幹線(盛岡~博多間〉」ならびに「首都圏高速鉄道網」の構想を提案し、その計画に織り込まれた

  2. 昭和42年9月 国鉄は、自民党都市政策調査会に総延長約4,500kmの全国新幹線鉄道網、総延長約560kmの首都圏高速鉄道網の構想を説明、都市政策大綱(1968年)に基幹交通体系の建設として具体的に採用

  3. 昭和43年2月 全国新幹線鉄道網の構想を具体化するための法律、および、-建設資金の調達方法などに関する調査を促進するため、国鉄は本社内にと幹線調査室を設置

  4. 昭和44年5月 総延長約7,200kmと想定される全国新幹線鉄道網の計画および構想を織り込んだと新全国総合開発計画が閣議決定された。

  5. 昭和44年6月 第48回鉄道建設審議会で「新幹線鉄道網整備のための法律案を次期通常国会へ提出ずることを目途にする」ことが決議

  6. 昭和44年9月 自民党国鉄基本問題調査会および同交通部会の合同総会では、総延長約9,000kmの全国新幹線鉄道網を昭和60年までに総額約11兆3,000億円で整備することおよびその他整備に関する基本方針を決定

  7. 昭和45年3月 第50回鉄道建設審議会で全国新幹線鉄道整備法(案〉要綱決議

  8. 昭和45年4月 自民党鈴木善幸衆議院議員ほか16名提出による全国新幹線鉄道整備法案が第63国会に上程され審議が開始

  9. 昭和45年5月 参議院において同法律が可決成立し、昭和45年5月18日、「法律第71号」として公布され、6月18日より施行されることとなった。


交通技術 1970年8月号を参考に作成

最初に決定したのは、上越新幹線・東北新幹線・成田新幹線
昭和46(1971)年1月18日、上越新幹線・東北新幹線・成田新幹線の基本計画が決定され、同日、運輸大臣から国鉄、鉄道建設公団に調査命令が出されました。
同年4月1日、整備計画が決定されて、

上越新幹線兎成田新幹線は、鉄建公団が、東北新幹線は国鉄が直轄で建設することになりました。成田新幹線も空港付近の駅舎建設がスタートしますが沿線住民の反対などもあり、結局成田新幹線は建設されず、現在はJRと京成が乗り入れる路盤に活用されているのはご存じのとおりです。

その後も、整備新幹線に関して多くの調査指示が出され、昭和47(1972)年6月29日には、北海道・東北・北陸・九州新幹線の基本計画が決定され、国鉄及び鉄道建設公団に調査命令が出されています。
北海道・東北・北陸・九州新幹線の基本計画が決定
ただ、国鉄は新幹線建設にあたっては、
i )建設資金の調達、政府出資および利子補給
ii〕経営に対する補助
などが必要であるとし、道路建設に対する税制上の特別措置、地下鉄建設に対する国の助成、空港や港湾の整備、住宅建設など社会的な必要性の大小により順次所要の措置がとられてきているといえるので公共的に重要な使命をもち、社会的要請ーの強いプロジェクトである新幹線建設なので、資金面および経営上の必要な措置がなされるものと考えられる。
としているのですが、実際の東北・上越新幹線の建設に際しても、国からの新幹線に対する助成はなく(以下訂正、新幹線の建設に際しては助成金及び利子補給などの措置は取られていますが、建設費用全額を国が負担したという井訳ではありませんので、開業後に財政投融資屋鉄道債券の償還などに追われることになりました。)
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Discover Japan 美しい日本と私 お寺に泊まろう

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「DISCOVER JAPAN... 「DISCOVER JAPAN」 展覧会で再発見 今、何を見つけますか
産経新聞 2014.9.18
前回は、宿泊でお寺に泊まることが出来ると書かせていただきました。
改めて、もう少し詳しく書かせていただこうと思います。

2年目のキャンペーンと言うことで、かなり新しゅう取組が行われていることが窺えます。
丁度、国鉄ではマル生運動も始まった頃であり、若手の国鉄職員を中心に国鉄を変えようという意識があった飲も、今までの常識に囚われない増収に繋がったと思われます。

国鉄の部内誌、国鉄線昭和46(1971)年8月号から、長いですが引用させていただきます。

お寺の販売
最近の旅行はデラックスになりつつある反面、民宿や国民宿舎、ユースホステルを利用した旅行形態もふえている。また、女性週刊誌などにのっているように、若い女性の声として。"お寺に泊ってみたいというのも多い。そこで浄土真宗西本願寺派の寺院に宿泊する”お寺に泊る”販売を実施し、新しいディスカバーの旅の形として販売宣伝を開始した、その要項は次のとおりである。

  1. 全国で約250か寺にしぼった。

    西本願寺派にしぼったのは、ここには統一した組織があり、宿泊設備の改善、指導や、連絡などが徹底できるため。本年の実績をみて、来年以降ふやして行きたい

  2. 宿泊券(お寺券)は、東京、上野、新宿、大宮、名古屋、京都、大阪駅の旅行センターで取扱う。(お寺との販売契約は日本交通公社、日本旅行が行なった)

  3. 宿泊料金 1泊2食 1,350円

    食事は何品と定めてないが、郷土料理など特殊なものを提供するようにしている。(精進料理ばかりではない。)浴衣と洗面道具の提供はない。風呂はほとんどあるが、一部で付近の壇家のもらい風呂がある。朝のおつとめなどは強要しない

  4. 二名以上の女性のグループに限る。

    新しいムードづくりの対象になるのは女性であると考えられたからである。ただし、小学生までは男子でもよい。


ということで、女性の旅行需要を誘発しようとしていました。
お寺の販売
宿泊券のデザイン

ということで、お寺へ泊まってもらう体験を国鉄自らが置こうなったというのは非常に画期的なことであったと言えます。
当時は、アンアン・non・noと言ったファッション雑誌が全盛のころで、独身女性同士の旅などがやっと一般化してきた頃でした。



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Discover Japan 美しい日本と私キャンペーンと国鉄

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万博輸送その後の計画されたキャンペーン

国鉄は1970年10月に万博終了後の旅客確保対策として、個人旅行拡大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」が開始されました

このキャンペーンの目的は、経済成長により可処分所得が増えたことや、万国博覧会を経て、個人旅行の機会が増えたこと等から更なる旅行者の誘発を目的に昭和44年10月頃~考えられました。

キャンペーンは、昭和45年1014日から始まりましたが、この時初めて売り出されたのがミニ周遊券でした。

それまでの周遊券は、オーダーメイド形と言われるもので、旅慣れない旅行者には手続きが煩雑でした。

そこで、昭和45年10月からは、「ミニ周遊券」と呼ばれるもので、全国9箇所をの周遊値を指定して発売されました。




翌年からは、本格的なキャンペーンの開始
翌昭和46年には更に実質的に商品に結びつけることに重点を置いて推進する積極的なキャンペーンが7月から12月にかけて行われました。
以下に列挙してみたいと思います。


  • 美しい日本と私71の執筆依頼


  • 現代の71人の人たちに「思い出に残る土地と、そこでのできごと」について執筆をお願いし、北はオホーツクから南は指宿までのなかでの思い出の土地を選んでもらい、これを"美しい日本と私"と題して旅への呼びかけを行なう(71にしたのは、今年が1971年であるため。)この71を基本にして、一般へは"71人の人たちは、このような旅と、思い出を持っています"あなたなら、どのような旅をしますか?"といった呼びかけをして旅へのムードをもりあげる。

  • "美しい日本と私71箇所の駅長招待旅行の実施"


  • "美しい日本と私71の思い出に残る土地のもより駅長が、地元観光協会、旅館組合等の協刀を得て、その地へ旅してみたいという人々をグループで招待する。これは、遠くの駅長が旅行に招待してくれるという期待を持って、はがきを出す」という全国的なDISCOVERJAPANムードのもりあげをはかる企画で。官製はがきに応募要項を記載してもより駅長あて投函することにより招待旅行に応募の権利をつかむというもの、7月1日から9月20日(消印有効)間で多数の場合は抽選によることとしている。一箇所について3組(1組は4名以内)のグループを1泊2日ないし2泊3日の旅行に招待するが、現地での行程は駅長が観光協会等と協議してきめたものとしている。なお、全国各地からの応募があるので、招体内旅行のさいの行程は、当選者国鉄もより駅から順路によることとし、途中、特急、急行利用と指定』車、B寝台車は提供することにしている。招待旅行の交通費は国鉄負担、宿泊、観光地めぐりは地元負担で実施する。

    駅掛ポスターを作成

  • ミニブック"美しい日本と私71"の発行


  • 71人の人たちに書いてもらった「思い出に残る地と、そこでのできごと」の短編(3000字程度)と、その地にふさわしいカラー写真をのせたミニブック"美しい日本と私71"という小冊子を発行、駅の売店や、旅行あっ旋業者の窓口、一般書店で発売。新書版(約60ページ)、定価1OO円

    これら"美しい日本と私71"一連の周知宣伝は、従来どおりマス媒体を含めた各種媒体を使って進めているが、とくに駅長招待旅行の応募要領についてはBO版(B全版の二枚連続)駅掛ポスターを作成し、これに71箇所の写真ともより駅名、住所、郵便番号を掲載した。

  • 駅スタンプの増備


  • 駅スタンプの増備

    昨年10月、駅スタンプを整備して、全国的にスタンプムードをもりあげたが、各地から増設の要望もあったので、7月1日から23駅と2個列車(特急さくら、上・下)を追加した。これにより、駅スタンプの数は全国で1357となり、このほか船11、列車8となっている。〔追加駅〕蒲田、桜木町、松田、伊那大島、玉島、日生、茶屋町、道後山、香椎、原田、篠栗、石原町、伊田、後藤寺、新飯塚、新田(東北本線)、屋代、六日町、万座・鹿沢口、大河津、伊達紋別、夕張、岩内

    他にも、女性限定ではあるが、浄土真宗西本願寺派のお寺【全国250箇所限定】で宿泊できるキャンペーンが実施された、女性2名以上での宿泊限定で、食事付きとなっていました。
    浄土真宗西本願寺派のお寺【全国250箇所限定】で宿泊できるキャンペーンが実施された

    お寺に泊まるプランを国鉄が発売していたというのは実は、今回こうしてblogを書いていて初めて気づきました。

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    輸送の近代化と輸送力増強

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    D51形蒸気機関車 D51形蒸気機関車
    首都圏から蒸気機関車引退
    新鶴見操車場から横浜港を結んでいた、高島貨物線が電化されるのに伴い、それまで使用されていた蒸気機関車が廃止になることに伴い、昭和45年10月10日、11日、18日に東京駅~横浜港間をD51形蒸気機関車が牽引する旅客列車が走りました。
    東京駅に、蒸気機関車が入線するのは、13年ぶりだそうで、客車6両を牽引してD51791号機が走ったのでした。

    夏期の当日の記録を残した貴重な写真が上がっておりましたので、リンクを貼らせていただきます。

    東京でサヨナラ蒸気機関車東京でサヨナラ蒸気機関車
    上記動画:引用 NHKアーカイブス

    この運転を最後に首都圏では一足早く蒸気機関車が姿を消すことになりますが、むしろ昭和45(1970)年まで、東京付近に蒸気機関車が残っていたことの方が驚きです。
    むしろ、地方の方が無煙化は早く進んでおり、昭和34年に全通した、紀勢本線の最後に開通した、三木里駅 - 新鹿駅間 (12.3km) を含む紀勢東線区間は開業当初から無煙化されており、トンネルは多いものの旅客が煙に悩まされることはありませんでした。

    輸送の近代化に着手
    コンピューターを取り入れた運転情報システムの構築に取りかかり、運転計画伝達システム(オペラン-D)と呼ばれるシステムが、昭和45年10月(詳細な府は不明)から開発が始まりました。
    弊サイト、国鉄があった時代から引用します。

    オペラン-Dに着手


    年々増加する需要と社会構造の変化などにより、輸送には即時的、列車には質的な要請が高度化してきている
    しかし運転計画から実施にいたるまですべてを人手により処理しており業務の複雑化と所要時間の増大化を来しているのが現状のため、国鉄ではコンピューターを取り入れた運転情報システム(オペラン-A~H)の開発を進めており、今回、運転計画伝達システム(オペラン-D)を実施することになったもの
    オペランDとは、主要現場機関に与えられる運転条件の変更、指示をコンピューターを用いて迅速、正確に選択し、伝送するシステムで、このシステムの完成により、従来現場で達示の整理のため局報から所要事項を抜すい、転記していた業務が大幅に軽減されることになる
    今回の計画では、このオペランーDを東海道沿線32動力車区で実施することとなったもので、工事は今年度から着手し、47年度には完成する、なおオペラン計画はAからHシステムまで8種類あるが、これらオペラン計画の推進により、運転業務は大きく前進するものと期待される→注:オペラン計画は、昭和46年からスタートしましたが、昭和48年に中止されています

    なお、これについては下記のような記事が有りましたので、引用させていただきます。
    その原因としては、マシン処理能力が低く、使用対象範囲の拡大につれて計算機処理が追いつかなくなり、入出力機器も未発達で、実務に供するには無理があったこと?列車の運転時刻データという重要データを持たなかったため、大きな効果が表れなかったこと?対象線区以外は従来業務のままであるが、列車は線区をまたがり走行するため、現場での効果が少なくなり、現場の協力姿勢が得られなかったことなどが挙げられている。
    出典 輸送計画のシステム化の歴史と列車運行に関わる情報の標準化の重要性について―JR西日本における輸送業務近代化の取り組み―


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    万博輸送その後 新快速電車の誕生

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    万博輸送その後 新快速電車の誕...
    万博輸送後のダイヤ改正
    大阪府吹田市千里丘丘陵で開催された、日本万国博覧会(Japan World Exposition, Osaka 1970)は、1970年3月15日から9月13日までの183日間開催され、アジア初かつ日本で最初の国際博覧会として開催されました。
    期間中の入場者数は、6,421万8,770人(うち外国人 約170万人)であり、当初目標が3000万人であったので大成功を収めました。
    国鉄も、輸送力増強で応えた他、茨木駅を万博東口として、バス輸送を行ったほか、新幹線の16両化、12系客車に見られる、波動用客車の増備などが行われました。
    12系客車の話はまた別の機会に詳しくさせていただきますが、15年ぶりに製造された一般型客車であり、6両1ユニットで運用される客車で、冷房装置が付いた車両でありもっぱら急行用に利用されました。
    車体の基本構造は、上下2段式の窓や2枚折り戸など同時期に製造されたキハ65とよく似ていました。
    国鉄としては、こうした万博輸送に向けて増強した輸送力を活かすための方策が幾つか考えらることとなりました。
    その一つが、新快速電車の誕生でした。

    新快速電車の誕生
    新快速電車の誕生
    新快速電車は、万博輸送用の快速電車として投入された車両を使用して増発されることとなり、当初は京都~西明石間に1時間一本の割合で運転されることとなり、京都~西明石間を1時間20分で結びました。
    当時は関東から転属の113系冷房改造車が投入されました。
    当時の時刻表には下記のような説明文が書かれています。
    ただ、国鉄本社は新快速という名称ではなく、特別快速にしたかったようですが、最終的に管理局が押し切ったようです。
    ただし、10月号の時刻表では、本文が「新快速」ではなく、「特別快速」と書かれています。11月号からは「新快速」の表記かと思いますが手元に昭和45年11月の時刻表がないので確認ができません。
    本文が「新快速」ではなく、「特別快速」
    Discover japan(美しい日本と私)キャンペーンの始まり
    そして、もう一つ国鉄が充実させた輸送力を活かすために考えたものが、Doscpver Japanキャンペーンでした。
    駅頭にDiscover Japanと書かれたポスターが貼られ、駅にはスタンプが用意されていました。
    an・anと言う雑誌が発行された頃もこの頃で、女性の社会進出、女性同士の旅行などが増加していった時期でも有りました。
    今でも、youtubeで見ることができますが、当時の情勢のファッションなど見ることができます。
    こうした新しいキャンペーンは、国鉄の強化した輸送力を吸収するのに上手い具合にマッチしてくれました。





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