今日、再び母から責められた。ここのとこ、しょっちゅう呼び出されて、文句の言葉を浴びせられてる。運転中にかかってきた電話は、容赦なく私の心をえぐり、悔しくて悔しくて涙が出そうだった。これほど血縁を疎ましく思ったことは無い。他の人から見れば、私の家の揉め事は「いつものこと」だ。私は、ずっと「いつものこと」という括りで何でも見られてきた。仲間内での揉め事も、いつものこと。
先生との言い争いもいつものこと。
母との確執もいつものこと。そう何でも「いつものこと」なのだ。
当事者にとっては、いつも同じようなことが起こっても、「いつものこと」では片付けられない複雑な気持ちがある。多分、聞かされるほうが嫌気がさし、「いつものことじゃん」と流したくなるのだろう。自分のことでなければ、誰かがイジメにあったとしても、いつものことでくくれるに違いない。いつものこと・・・
いつものこと・・・当事者は何も言えなくなり、追い詰められる。私は「いつものこと」という言葉が大嫌いだ。「いつものこと」という言葉がどれだけ冷淡に聞こえるか・・・。大げさにしたくない気持ちの表れかもしれないけど、使い方を間違えれば、これほど冷たい言葉もない。
もう何年も、私はずっとこの言葉を聞いてきた。
試しに、誰かが愚痴を言ったとき「いつものことじゃないか」と答えてみるといい。
その人はもう二度と口を開くことは無いだろう。
何とか浮上してきている自分がいる。少し耐性をつけようと、見なきゃいいものを散々見ている。今日も、どうしても気になって、また見てしまった。生ではもちろんダメ。
ビデオだから見られるのだ。最初に見たときは、気も狂わんばかりだった。今見ても、やっぱり悲しい。どうしてそうなってしまったのか・・・。
何故そこでやることになったのか・・・。自分が決して出来ないことを、見せ付けられるのは悲しい。そんなことを思う私は・・・・多分嫌われてるんだろう。それでも、何かのときはその人の力になりたいと思っている。
助けられてばかりだから、せめて私に出来ることは何でもしたい。
私の想いの先は、神様しか知らない。
でもそれでいいんだろう。泣いて、笑って、苦しんで、嫉妬して、喜んで・・・一生懸命毎日を送ることで悟ることもある。気持ちがどこかにランディングするまで、迷い続けることも必要なんだ。
最近読んだ本に、私にとってほとんど「天啓」とも思える内容が書いてあった。嫉妬、憎悪の感情からは、何ら魂の成長はありえない、と。私は嫉妬に狂う立場に無く、またその感情を持ってもいけないのだ。自分の中で、その関係を変化させなければいけないと思っている。
私の場合、「無条件の愛」でしかなかった。
そこに相手は存在せず、自惚れの自己愛しかない。何があったわけでもないし・・・。
何か進展があったわけでもない・・・。
最初から、何にも無かった・・・。もし気を揉む人がいたら安心して欲しい。
何にも無いんだから・・・。・・・にしても、私は一体何をしてるんだろう?と悩むことばかり・・・。ちゃんと道を正して、進んでいかなければ。
もうダメです。
殺してください。
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
もうダメかもしれないと、本当に思っている。自分のブログに女房の悪口書いてなんになる。私が読むと知っていて、何だあの書き方は!!毎日、毎回、私の悪口ばかり・・・。どうしてほしいんだろう。いい加減嫌になってきた。
先週も木曜、今週も木曜にダウン寸前になってる。耐え難い疲労感に襲われて、何も出来ない。もう仕事辞めちゃいたいなぁ・・・。でも働かなくちゃ食べていけないし・・・。
生きていくって、結構大変なことだよね。
かなり疲れていて、戻ることが出来ない気がしてた・・・。でも、何とか無事に辿り着く。きっと、出る直前につけた香水のおかげだったのかも。優しく包んで守ってくれるようで、安心できたから。
何が嫌いかって、縛られることが一番嫌い。押さえつけられるのも真っ平。よくうちは「自由で良いわね」、「理解があって良いわね」と言われるが、そういう風にしてるのだ。助け合って生きていかなくちゃいけないのは判る。
もちろん、基本はそうしてるつもりだ。でも、他人の意のままに動かされるのは、本意じゃない。他人から見て「木蓮はこうあってほしい」というのに、従うつもりは無い。縛られたら、私は縄を切って逃げ出すだろう。だから、縛るようなことはしないでほしい。私は誰のモノでもない。
今のところ普通に暮らしてる。特に何ら変わりなし。だけど、だけど・・・・疑うわけではないけど、確かめてみたい気持ちもある。それは真実なのか、と。判ったところでどうなるものでもない。でももし本当だとしたら、大変なことだ。信じようか・・・・。確かめてみようか・・・。ただ、もし違うのであれば、何で逃げるのか判らない・・。
逃げたらずっとその烙印を押されちゃうじゃないか。何で立ち向かわないのかな。私だったら絶対逃げることはしない。
(いや、一度逃げたことがあったけど、それは自分のやったことを認めたから)いわれの無い冤罪を押し付けられたら、信用を回復するまで、そこを逃げたりはしない。
真実は多分判らないだろう。私は「その言葉」を信じるしかない。
・・・と思う人が、世の中にはどれくらいいるんだろう。自分の価値観が全ての人。自分は道徳的だと思ってる人。
自分の正しいと思ったことが、全ての人に当てはまると思い、正義感を振りかざす人は多い。
その立場になってもみず、ただの傍観者でありながら、自分は正義だという。
何が正しいか、なんてモラルだけで計れるものじゃない。正しくなくても、その時には正解だった、なんてことはザラにある。自分で行動して、自分で経験して、そんな積み重ねの中から、自分の判断で選択するしかないと思う。自分が正しいと思った人が、いくら正義を振りかざして人に諭したところで、言う方も言われる方も、実際に経験し身になっていなければ、心に響くものではない。
『自分の正しいと思ったことが、他の人にも正しいと信じられる人。その人は天才であり、妥協を排する人だ』
とはエマーソンの言葉。今の日本には、そんな『天才』が多いんだろうね・・・。
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