今月のお誕生日ケーキーーーなぜか、エリックが一番大きいやつを取ってました。ちっ
今月は、さくらちゃんと、まきさんのお誕生日でした。
おめでとうございます!
2018年4月22日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
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今週末は、学校で神経生物学の専門の先生のお話しを聞きました。恥についての本を書かれた先生で、私がとても霊感を受けている先生です。このセミナーで恵まれたことを交えながら今日はお話ししたいと思います
わたしの、日本の神学校恩師がよく言われたことに、「今を生きる」という言葉があります。人というのは、いつも将来のことを考えて心配しているか、過去のことを思いめぐらして縛られているかのどちらかであると。今現在、目の前にあることに従事している人がどれほどいるでしょうか
★イエス様にとどまる Abiding in Him – Connection
「今を生きる」ということのコンセプトを次のみ言葉がよく表しています。
ヨハネ15:4-5
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
また、イエス様ご自身も、ご自分の働きについて次のように言われています。
ヨハネ5:19
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。
私たちは、イエス様と繋がって位ならば多くの実を結ぶとあり、イエス様も天の父にとどまりながら、この地上を生きられたことがかかれています。
★私たちの本当の姿 Our Biblical Reality
私たちは、神の言葉を信じて生きているのか、過去に縛られて生きているのか、それとも将来の心配で生きているのでしょうか。イエス様は、私たちの存在について次のように言われています。
マタイ5: 13-14
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
私たちは、塩であり、光である。私たちが、この世の中に味付けをされるのではなく、すなわちこの世によって私の味が決まるのではなく、私がいることによって私の住んでる世の中の味が変わる。私の家族の味が変わる、職場の味が変わる、と。
私は、光であり、私が部屋に入ると、全てのものが光に照らされるのです。私が何かの日陰になるのではなく、私が部屋の中の影を消しているのだという現実が神のみ言葉なのです。
★私たちと支配する過去と未来 Abiding in Past and Future?
しかし、私たちは、過去の経験を信じていたり先のことを心配して、目の前の自分の現実をまげて見ています。もし、私たちが今としっかり直面して生きているなら、すごいインパクトがあるのです。
例) 私たちに感情を自分で制する能力というのは小さい時に決まる。もしも、毎日、どなり合いの多い、暴力の多い環境にいたなら、他人から感じる少しのいら立ちや怒りにも敏感になるでしょう。そして、その他人の怒りに触れると、小さい時の持ってた感情に戻り、そこに縛られて出てこれなくなる。大人の自由人としてふるまえなくなる。
こんなことは、事が変わっても誰もにあるのではないでしようか。人に気にいられるために、いろいろと操作しながら生きてきた。親に怒られないように、いろいろとごまかした。等々。。人は、小さい時に着いた、自分を守るためのシステム、それに縛られて生きている。すなわち過去に縛られています。
将来の心配については説明がいりませんね。私たちは、衣、食、住、人間関係など心配しながら生きています。
★神様と適合する Attunement with God
私たちには、その気持ちを調整していくれる方が必要です。子供の例。子供は、前にも言いましたが、赤ちゃんの時、泣いたら、母親が来てあやしてくれる、母親のにっこり笑顔を見てにっこりする。赤ちゃんには、まだ自分の感情を自分でおさめることができないので、お母さんと一緒に感情をおさめることを一緒にこうやって習得していきます。適合
神様と適合していくことについて、聖書は、次のように言っています。
ロマ12:1,2
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
★礼拝について Worship
—Pick me up – Toddler 二歳児の抱っこしてのポーズ。子供は教えられなくても、自分をケアして感情をなだめてくれる人を求めている。心のケア。私たちは礼拝する時も、同じポーズをします。手を上げて自分たちよりも大きな存在を求めるポーズをとることでドーパミンが出るそうです。人というのは何歳になっても、その存在を求めている。90才になっても、まだ、助けて下さい。と大きな存在を求めてるのが人間である。人は、神を礼拝するように造られている。そして、礼拝の中に、神との直面があり、感情がレギュレイト調整、消化される。これが癒しと成長を私たちにもたらすんです。
★この世と調子を合わせる Conformed with what?
心の一新が無ければ—私たちのマインド、心は流動的なもの。いつも流れている。Our mind is plastic, and it is flow of energy. いつも何かに形作られて存在する。もし、私たちが、今、神様と繋がっていないなら、この世の方にはまってしまうのです。
英語ではマインドを新しくするとある。マインドを新しくするには、古い考えを捨てて、新しい考えに帰るということであり。考えが変わると行動も変わります
神の御心を知るには、神様と顔と顔とを合わせることから始まる。
今、目の前にいる神様に助けを求めながら生きる。神様に繋がりながら生きるには、乗り越えないといけないことがある。
★Vulnerability 脆弱性(ぜいじゃくせい)
Vulnerability 裏表なく裸になること。が、今を生き、今、主にとどまるに必要なこと。自分の必要、心のニードを表すこと、それを隠さないことは、vulnerable. ですね。
これは、神の前にももちろんそうですが、人に対しても同じことです。Renewing your mind のYOUR は複数形であり、コミュニティ全体をさしています。
わたしたは、神様とも適合し、また、教会の兄弟姉妹ととも適合します。そのようにして、私たちの心を一新し、共に、今を生き、神の働きをしていくのです・
ぼ
日本からのお客さま。。シアトルは十年ぶりだそうです。
今日は、遠く、レイクスティーブンスからも礼拝に参加された方があったりと、嬉しいサプライズでした!
みなさんも、お気軽にお立ち寄りください。日曜日は、12:30pm より皆さんでランチを食べていますー。
2018年4月8日日曜日バイリンガル礼拝音声は、
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ヨハネ12:23-26
23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
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先週は、イースター礼拝で、復活についてお話ししました。先週に引き続き、復活のテーマでお話しします。
12章のはじめでは、異邦人の人たちがイエス様に会いたがり、弟子たちにお願いするようになりました。するとイエス様は、神様の時が近づいていることを感じ、一粒の麦の話しをされました。すなわち、もうすぐ、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも福音が届き、もっともっと多くの人々、全世界の人たちがイエス様によって霊的な祝福を受け取ることができるようになるからでした。しかし、その前に、十字架と死と、葬りと復活が無ければいけませんでした。そこで、一粒の麦の話をとれました。
神様は、地上の全てを造られましたが、その全てに神様特質・メッセージを入れておられます。神様は、種をデザインされ、種が地に落ちて、種の殻が割れて中の栄養が全て新芽に吸われて、新芽が殻を破って出てきます。これを、ユダヤの当時の人たちは「死」とみなしていました。種は、自分が死ぬことによって新しい命を生み出します。
★豊かに実を結んだストーリーit produces much grain
・宣教師
私の母教会は、スウェーデンからの宣教師によって創設されました。人口の少ない小さな町ですが、教会ができました。宣教師の中には、独身の女性もいました。私の親世代の宣教師などは、シベリヤ鉄道に乗ってはるばるスーツケース一つもってやってきたのです。西洋から東洋へ文化も言葉も違う中、今のようにネットも電話もできない時代でした。
わたしも一人の宣教の青年の働きによって救われました。アメリカから来た、わたしよりも一歳年上の兄弟でした。私は、まだ二十歳でしたから、彼のその行動を不思議に思っていました。この人は、恋人をアメリカにおいて、若くてやりたいこともたくさんあるし、遊びたいだろうに、わざわざ、言葉も通じない、文化も違う、しかも、LAからこんな田舎に、どうして来たんだろう。。。これが私の一番の疑問でした。
また、キャンパスクルセードのチームが来ました。韓国の青年たち。当時は、日本は円高ですし、経済の格差も大きかったです。彼らは、自分で働いて、一、二年お金をためてまで、日本に来ました。日本でも、食べるものは、白いご飯どんぶりめしでやまもり食べて、質素な食事をしていました。私は、そこまでして、私たちに親切にする姿に感動しました。
マイカも今日本に行っていますね。マイかもスタバをやめていきました。帰国後の仕事がどうなるかは、神様に信頼するしかありません。
・イエス・キリスト
イエス様は、ご自分を一粒の種に例えられています。それが死ななければならない、と。イエス様がもし十字架にかからなかったら、その命を捧げなかったら、死も、復活もなく、私たちの救いもないのです。イエス様は、自分の命を天の目的のために捧げられました。
宣教師たちも、自分の人生の楽しみ、楽、生活を捧げて、天の声に従って日本に来たのです。
★私たちにとって死ぬこととは。。。Meaning of death
v25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。He who loves his life will lose it, and he who hates his life in this world will keep it for eternal life
・自分のいのち
自分のいのちを憎むとありますが、ここでいういのちは、新約聖書の原語ギリシャ語では、サイキという言葉が使われています。これは、the soul の意味であり、情、欲望、感覚、衝動を含みます。the seat of the feelings, desires, affections, aversions 自分、自分という自分がかわいいという思いです。
先に述べた宣教師もイエス様も自分のいのちを憎まれました。
イエス様は、自分のいわゆる肉の欲、情、衝動は死ななければならない。と言われているのです。この肉の性質というのは、世に属するものです。
◎ 人生の車の運転席
こう考えたら分かりやすいです。自分の人生の車の運転席にしがみついてハンドルを思いのままにきるのも一つの生き方ですが、その運転席を、自分よりも優れた運転者神様にお任せする、運転したいという欲を置いて神様に任せるという風に考えたら分かりやすいかも知れません。マイカも、帰国後の仕事探しなど不安はあるけど、神様が今も将来も運転して目的地に連れて行ってくれると信頼するから、自分の運転欲、我を捨てることができたのですね。
イエス様も罪は犯されませんでしたが、肉の体に宿る葛藤を経験し、知っておられました。
◎自分がなくなる??
よく人に聞かれるのは、自分に死んだら自分がなくなっちゃう。。自分がなくなるのがいいのか? と聞かれます。けれども、ここで書いてある通り、自分のいのちを憎むものはそれを保ち、そして、その上に永遠のいのちに至るとあります。だから、自分はなくならないのです。
ですから、私が私が、わたしわたし。。。という思いではなく、神様に自分をゆだねるときに、私も保ちますし、永遠のいのちにも導かれるということなんです。
ですから、人生の車の運転席のようなものなんです。車がなくなるわけではないんですね。
・永遠のいのち
自分のいのち・情を憎むものは、それを保って永遠の「いのち」を得る、と。言葉には原語では、違った言葉が使われています。それは、ゾーエーと言う言葉です。Of absolute fullness, both essential and ethical which belong to God, life real and genuine, a life active and vigorous, devoted to God. 絶対不可欠であり、道徳的にも全くの充足しているさまであり、神に属するものである。本物の命である。活動的で、活発な神に献身した命である。
◎自分の命憎むとき、永遠の命に至る。。。he who hates his life in this world, will keep it for eternal life
種が死に、芽という全く違う形のものが生まれる。自分の命を憎むなら、永遠の命に至る。たましいの領域から、霊が生きるという領域に移される。死から不死の世界に移る。質の違うものに変わっていく様を語られている。すなわち、自分の命を憎むものは、変革を体験し、生き方が変えられるということである。
◎人には、生き方の型がある。Type of life
私は、「自分の行いで人の愛を得る」という型にはまって小さい時から生きてきました。無条件の愛が分からなかった。ですから、entitlement (資格、権利獲得)という罠といつも隣り合わせでした。これだけしたから、これだけ報われるだろう。であるとか、何か、無意識のうちに、神様の前に頑張って、神様の私への愛を増やすというか、神の前に認められようとする、そのような生き方でした。しかし、それには行き詰まりがあります。何をどうしても道が開かれない時がありました。そんなとき、神様に語られたのは、信仰についてです。
へブル11:1
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.
へブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。But without faith it is impossible to please Him, for he who comes to God must believe that He is, and that He is a rewarder of those who diligently seek Him.
私は、道が見えない、閉ざされていると思っていました。こんなにしているのに。。。と。でも、本当に見えていなものは、神さまだったということ。信仰は、自分の祈りの課題が成就することを信じすることではなく、神様を心の目で見ることだと分かりました。それが、はっきり分かった時、閉ざされた道が奇跡的に開かれました。
★新しい生き方の型。イエス・キリストについて行くこと。New type of life; following Jesus
V26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。26 If anyone serves Me, let him follow Me; and where I am, there My servant will be also. If anyone serves Me, him My Father will honor.
私たちの新しい生き方の型は、イエス様について行くことです。ここに、実りがあり、ここに本当の命があります。なくならない、命、増え広がる命があるのです。これは、復活とともに、大きくの命がついてくるという力を持っています。みなさん、これがわがままに死ぬことの報いです。死に対して、私たちは何もできませんが、神は、そこに命を吹き込まれます。自分のわがまま、我をすてることを恐れないでください。
この道には、報いがあります。私に仕える者は、わたしがいる所にいる。。。所 abiding in Me.John15, この場所は、私たちが宿るところ。留まるところ。泊まるところ。住まうところ。主にある安息を意味する。主にある充足。主のSeat of Rest
★一つだけ覚えていて欲しいこと。
皆さん、新しい生き方に入りませんか。自分のいのち・感情や衝動を愛する生き方から神に属する命に写りませんか。 種は内側から、殻を破るのです。他の誰かが殻を破ってくれるのではありません。そこには、あなたの意思がとても重要に関わってきます。あなたの決断。新しい命に入りたいという決断かとても大切なのです。新しい命に入りましょう。そこには、神様の約束があります。必ず多くの実りと報いがあるのです。
すっかり春です。火曜日に近くのフェイスバイブル教会で、イースターアフタヌーンティの女性のイベントで奉仕させていただきました。教会からも三名の姉妹たちが参加しました。私は、まるで応援団がいるようで、心強く感じました。ゆっくりすわってお茶を楽しめるなんて。。。毎日忙しいママたち、女性たちには贅沢な時間でした。
2018年3月18日日曜日バイリンガル礼拝音声は、
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安息日シリーズ、今日で最終回です。今日は新約の安息日について考えてみたい思います。
★新約聖書New Testament
マルコの福音書では、イエス様がガリラヤに来られたこと。時が満ち、神の御国が来た、悔い改めて福音を信じるように、とマルコ1: 14 ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
Mark; Jesus came to Galilee, the time fulfilled, Kingdom of God is at hand. Repent and believe Gospel. Time is filled.
ラビや預言者は時が満ちることを話していた。
ギリシャ語で時は二つ、一つはカイロス、正しい時、時別な瞬間、ともう一つは、クロノス、時系列上の時間、順次通常の時間。Greek, Kiros- right time, moment special, Kronos – sequential time, ordinary time. Children is ruled by Kiros.
人々は、今がどんな時か知らなかった。大人というものは、クロノスの時間に縛られている。が子供たちは、違う。だから子供のようにならなければ天の御国に入れないとイエスは言われるのだろう。今がその時であるというメッセージをバプテスマのヨハネやイエスは語っていたのです。
そして、その時、その日というのは、預言者よりも神の家よりも大切なものであります。イエス様は、安息日にやってこられました。マルコの福音書では、四つの安息日の出来事について言及しています。ここに福音があらわされているのです。
① 聖なるスペース Holy Space
マルコMark 1:21-26
21 それから、一行はカペナウムに入った。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた。22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられたからである。23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。24 「ナザレ人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしにきたのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
イエス様はすぐにカベナウムの神殿に行かれました。先週のお話しを覚えていますか。イエス様は、聖なる日に、聖なる場所である神殿に来ました。そして、汚れた霊につかれた人から悪霊を追い出しました。イエス様は、聖なるスペースを守られた。また、この後、人を癒されます。イエス様が来られると、人々は悪霊や病の束縛から自由になりました。聖さの中に、それは含まれている。Sozo --- イエス様こそが聖をわたしたちのために造ることができる方。
② 喜び楽しむ時 Time of delight and joy
マルコMark 2: 18-19
ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
イエス様が安息に入ってきてくださって、その場所は聖められ、病気が追い出されました。それだけではないのです。人々は不思議に思った。どうしてあなたの弟子たちは、ヨハネの弟子やパリサイ人たちみたいに断食しないのかと。イエス様は、花婿、すなわち婚礼の席で、花婿がいるのに周りの人が楽しんで祝って一緒に食事をしないということはあろうか。と問うている。
イエス様こそ、後に私たち教会の花婿です。イエス様、そして私たちの真の罪からの解放者がともにいるのに、罪深さを覚えるために身を慎んで断食する必要があろうか。。ということ。現に、もう何人もの人たちが癒されたり、悪霊から解放されたりしている。安息は、イエスにある自由を祝って楽しむ日なのです。
③ 安息日は人間のため Sabbath is for man
マルコMark 2:23-24, 27-28
23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」---27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。28 人の子は安息日の主です。
安息日に麦をとって食べることが、罪かどうか。。。が問題に。
イエス様は、安息日は人のためだ。お腹がすいたら食べたらいい。食べ物は神様からのギフトだと習いましたよね。ギフトを受け取って感謝して喜んでいただいたらいいのです。宗教家たちは、宗教の枠にとらわれていました。また、自分たちが何になるかということ。そして、罪を犯すということを重箱のすみをつつくように探していました。自由とはなんでしょうか。
律法とはなんでしょうか。律法は、私たちに仕えるものであって、私たちが律法に仕えるためにあるのではありません。イエス様は、その律法を全うするためにこられたのです。イエス様の霊に従うなら、私たちに自由が与えられます。イエス様に隠されて、私たちは責められることもなく隠れる必要もないのです。イエス様こそが、安全な場所なのです。
④ 安息日は、全ての人のため Sabbath is Inclusive
マルコMark 3:1-6
イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった。3 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。
イエス様はまた、聖なる時に、聖なる場所で、わざをなさった。イエス様は、安息日に人を癒すかどうか責めるために見てやろうという人たちの心を嘆きながら、いのちを選び、癒しをされた。イエス様は、曲がった世の中に安息をもたらしました。この、一人の手の萎えた人も、喜びの安息に入るべきだったからです。安息日は、すべての人にとってギフトであり、全ての人が招かれているものです。
このようにイエス様は、この地上に来られた時、真の安息を示して下さいました。罪、汚れ、悪霊、病からの解放、食事を楽しみ、みなを安息日に招き入れる。イエス様は、身をもって示されました。イエス様は、全てを可能にしてくださいました。私たちが安息に入るためにです。今が、カイロスなのです。私たちがイエス様にいつでも、今がその時、となりました。それを信じますか。
今、一緒に祈りましょう。
今がその時です。イエス様の力を受け取りましょう。
礼拝後、子供たちがごみ集めをしています。。。ちゃんと、ごみ袋も入れ替えて、替えの袋も中に入れてっと。。。そういえば、日本の学校では、みんなやってますもんね。幼稚園児が草むしりしているし。。。なんか、できるんだーと新鮮に感じてしまいました。アメリカナイズされたなー。。。
今日は、初めて、けっぴーとしずかちゃんで、ワーシップをリードしてくれました。
不安だったみたいですが、とっても良かったです! 神様は、神によりたのむものを用いられますね。
2018年2月18日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、こちらから。。。
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主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。詩編34:8
Taste and see that the Lord is good. Oh, the joys of those who take refuge in Him! Ps.34:8
ダビデがアビメレクの前で気が狂っているふりをして、難を逃れた、その時のダビデの歌です。私たちは、どんな試練の中にあっても、安息に入ることができる。神の豊かさを味わうことができるのです。主に身を避けるなら。。。
ユダヤ人の安息日は、前もって料理をしておいて、安息日の日には料理はしません。けれども、皆が食卓について食べ物を分かち合い、楽しみます。
★安息は,肉体的感覚で喜びを味わう日です
創世記2:1-3 Genesis2:1-3
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。.
他の宗教や、キリスト教でも肉体は悪、霊は良いとされる傾向があり、肉体的な欲を取り除くことが、徳を積むようなそんな認識が広くあります。キリスト教の場合は、プラトン、アウグスティヌスに代表される二元論によって、肉体は悪。肉の欲は悪とされてしまいました。私たちの神様は、本当は逆だったのです。私たちの肉体を喜ばせることは、私たちの人間であることを祝うことです。安息とは、タッチ、におい、聞く、見る、そして何より味わうことを祝い楽しむ日です。
★食べ物
食べ物というのは、もっとも私たちを満たす楽しみ。Eating with fullest pleasure.
この楽しみの中に、私たちの感謝が込められています。私たちが作り出したものでない、食べ物は神様からの贈り物です。
エデンの園で、アダムはなんでも取って食べることができた。それは、実践的なレベルでの神様からの命令であり、またアダムの従順のあらわれでもあった。
食べ物というのは、ユダヤの文化の中心的なものとなった。食べ物は、信頼を表します。主の祈りでも、我らの日用の糧を今日も与えたまえ、といいますね。先週のメッセージのマナも、信頼が試されました。荒野を旅しているユダヤ人たちは、岩から自ら出る経験もしました。食べ物がない時に、信仰がなくてはならないのです。食べ物は、もう一度、神を信頼するかどうかをいつも問われるものであります。マナを荒野で自分のためにため込むことは、不信仰の現れでしたね。
何を食べるか、いつ、だれと食べるかということはまたとても重要です。
イエス様がこの地上に来られてからは、それが特に強調されました。イエス様は、また天からのパンであり、生ける水であられました。イエス様の存在は、食べ物に例えられました。そして、奇跡を通しても、神の与えるパンは、いつも十分であり、いつも余りあるほどである豊かさがあることが示されました。イエス様は、人々とともに食べました。ある時は、いつも罪人と食事をしていると責められました。
食べ物は、交わりを示しています。神の豊かさの中で、ともに食することに素晴らしい意味があるのです。
★美しさ
レビ23:3 Leviticus23:3 聖なる会合 Holy Convocation
六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。
食べ物は、交わりのためでもあるといいましたが、レビ記でも、安息日は聖なる会合の日であるとあります。人々が集う日であると。私たちは、聖なる会合に招かれています。
〇三位一体の関係に招待されている
安息とは、神の創造の神殿の中に入ることだと、先週話しましたが、そこには、ホストしてくれている方々がいるのです。それは、父、御子、御霊の三位が交わりながら存在体いる。その三位一体の神が私たちを、安息の神殿に招いていらっしゃるのです。
カール・バルトが次のように書いています。「三位の神は輝かしい、その輝きは喜びである。この喜びは人々を引き寄せ、また打ちのめすほどだ。ですから、この神の美しさ、すなわち、三位であられる神は、一つであるがそれぞれに異なっており、互いに関係をもち、完全な一致がある。その存在が美であり、また経済であり、その愛にあふれる三位の交わりは、まるでダンスのようだ。そのダンスが、美しさを放っている。」
神の美しさは、肉体的な感覚からも私たちに伝わるのです。ともに神の臨在の中で交わり、食事を共にするとき、私たちも神のダンスに参加し、神の美しさを体験するのです。
私たちの教会が毎週食事を共にする意図は、ここにあります。毎週、ケビンさんが心を込めて用意してくれていること、とても感謝しています。
私たちは、神の交わりの美しさから喜びを頂き、神の美しさは、私たちにさらなる願いを引き起こし、その願いは、神に対する畏敬の念に導いていきます。
★受肉のイエス様を受け取る
この私たちを安息に招く神は、私たちのように肉体をまとって、この地に来てくださいました。これは、大きな意味があります。神は、私たちの肉体を祝福されているのです。イエス様の美しさ、それは、受肉、誕生、奉仕、十字架、死、復活、復活、その命に触れる時、私たちはその美しさ故に、もっと知りたいという願い、それが欲しいという願いがおき、そして、主への畏敬の念にかれるのです。
このイエス様は、私を覚えてこれをしなさいと、パンを裂きました。イエス様を覚えてパンを食しぶどう酒を飲むときに、このイエス様と一つとなるのです。救いを得、そして、まことの魂の安息に入ることができます。
ヨハネ6:55-58
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。
共同体の食事とは、イエス様を食することであり、神の美に招かれているということです。
近所の桃ノ木に、つぼみが!!
今日、日曜日は、ここシアトルとても冷えています。
日中、雪が降りました。
けれども、お天気に。。。
しかし、氷点下の寒さです。
今勉強しているんですが、ヒーターが全然きいてないと感じるほど
寒いです。
こたつが懐かしい。
昨日はいい天気で、風は強いですが、すがすがしく、
なんだか春の日差しのようで。。。
しかも、近所の桃ノ木につぼみがついているのを見つけました。
ああ、春だなーーーと実感。。。
けれど、インフルエンザや風邪が流行っています。
用心して、あたたかくしましょう。
こたつが恋しくなる、今日この頃です。
こたつで、ミカンと、おかきと、チョコ食べながらオリンピックみたいなぁ
なんて。。。
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