わたしを遣わした方のわざThe works of Him who sent Me
Apr
18
https://youtu.be/YuvIQE4LCD0
ヨハネJohn 9:1-7
1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。 4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。 7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
今日は、病についてです。先週も体について話しましたが。もしも、癒しがあり得ないというような病、または生まれつきの何かしらの状態がある時、私達は特にキリスト教から排除されて考えられているような気がするものです。というのも、旧約聖書では体に障害がある人は神の奉仕が出来なかったのです。また新約でも病と罪というのは結び付けられて語られることが多いです。
しかし、ここでイエス様は全く新しいコンセプトを紹介しました。もちろんイエス様は癒しに導きます。イエス様が好んで病人をたずねて癒されたことも新約にはたくさん紹介されています。
★ 病気の原因? Why uncurable disease?
V2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」And His disciples asked Him, saying, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?”
私たちは、病に直面するときに、何が悪かったのだろうか。。。と考えます。私にも、長年病を患っているおばがいました。祖母が気に病んでありとあらゆることをやりました。先祖のたたりかと。。。お遍路さんに、お百度参り、霊能者に除霊もしてもらいましたが、結局どれもききませんでした。ほとんどは、先祖供養がなっていないから、たたりなんだと言われました。たくさんのお金も積み増したが、すべて無駄に終わりました。
「この人が生まれつき盲目なのは、だれが罪を犯したからですか?」と、弟子たちは質問しました。
世代に渡る罪のことは、私のおばの件にもある通りに、日本人の方が理解しやいかもしれませんね。罪や、災い病というのは、先祖から受け継ぐものもあるのです。。。だから、あながち、弟子たちが誤った質問をしているわけではありません。
最初の人アダムとエバが罪を犯し、罪が入ったから死が入り、死が入ったらので病気が入りました。人の命は限りあるものとなりました。罪の性質が遺伝し、受け継がれると同時に、病気や死も必ず受け継がれていきます。ですから、この盲目が誰かの罪の結果であることは、もしかしたらあながち間違っている質問でもないかも知れません。しかし、イエス様は違った道を示されました。
しかし、イエス様は、こう答えられました。イエスは答えられた。
V3「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。Jesus answered, “Neither this man nor his parents sinned, but that the works of God should be revealed in him.
罪の問題を解決し、罪の連鎖を断ち切り、わたし達を祝福を流すものとするために、地上に来られたイエス様が、「神のわざがこの人に現れるためだ」と言われるのです。
私達に、希望があるのです。
しかし、誰でも彼でもに神のわざが現されるのでしょうか? そうではないのです。イエス・キリストと出会い、このお方に掛けた人のみです。
罪、死、病気の問題を解決できる方は、キリスト・イエスの他に誰もいないからです。キリストこそが、神のみ業をあなたの上に現すことができるのです。
★ 時間が限られている Limited time frame
V4,5 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」4 I must work the works of Him who sent Me while it is day; the night is coming when no one can work. 5 As long as I am in the world, I am the light of the world.”
イエス様が言われているのは、イエス様が私たちと共にいるかぎり、私たちに光があり、昼の間だというのです。そして、光のある間にイエス様を信じるなら、あなたの一番大きな問題であっても、それは、神の栄光のためだと言うのです。
たとえ、先祖から引き継いできた問題、病気、生まれつきの問題であっても、イエス様に出会うならば、それは、神の栄光となるとおっしゃっているのです。ハレルヤ!
★ つばで作ったドロで Mud with saliva
V6,7 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行ったWhen He had said these things, He spat on the ground and made clay with the saliva; and He anointed the eyes of the blind man with the clay. 7 And He said to him, “Go, wash in the pool of Siloam” (which is translated, Sent). So he went and washed, and came back seeing.
「つば」とは、しばしば、聖書の中で、恥を表すものとして表現されてきました。つばをかけられると清くなくなったり、相手に辱めを与えたい、恥の象徴としてつばを吐きかけることがありました。(旧約聖書、レビ15:8, 民数記12:14, 申命記25:9 参照) 現代のアメリカでも、日本でもつばというのには、あまりいい意味がありません。つばをかけるのは、汚いと感じますし、あまりいい気持ちにはならないものです。
イエス様は、つばを土に吐きかけそして、それでドロをつくって、盲人の目に塗りました。
イエス様は、完全な人であり、完全な神でありましたね。
そして、聖書の中には、しばしば、最初のアダムと後のアダムという表現をみます。
最初のアダムとは、創世記の初めの人、アダムです。アダムは、神様が土の塵からつくられました。そして、後のアダムとは、イエス様のことです。イエス様は、最初の人アダムのもたらした人類の罪とその呪いを完全に取り除くために来られたのです。しかも、神であられるのに、人間の形を取って。。。ですから、イエス様もアダム、すなわち、土に属しているものとして、後のアダムと呼ばれたのです。
この後のアダムが人類の罪を取り除くことができたのは、ご自身を神の前にささげられた贖罪のいけにえとなられたのです。イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって、十字架に掛けられたのです。イエス様は、文字通りつばを吐きかけられ、平手打ちをされました。人類の恥を一手にその身に負われました。
ですから、つばを掛けられた土は、十字架で恥を受けられたイエス様を表しているのです。
イエス様は、そのドロでこの盲人の目を開けました。
イザヤIsaiah 53:5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。But He was wounded for our transgressions, He was bruised for our iniquities; The chastisement for our peace was upon Him, And by His stripes we are healed.
と聖書に書いてあるとおりです。キリストの打ち傷、十字架のわざによって私たちは癒されるのです。
★ 主と出会うEncounter God
十字架の主を表すつばの泥は、盲人の目につけられた。
主は私たちが主の受けた恥と主の体の痛みに接点を持つことが必要であることを示されている。
主の傷と私の傷が一体化することの必要である。
主は、私の肉を食し、私の血を飲むという表現で、ヨハネ6
で語られてもします。
主の十字架と個人的に出会わなければならないのです。
★ 行って洗うDo what He says
そのあと、シロアムの池で洗えと言われた。盲人は、出かけて行って、お言葉通りにした。ここで、彼は、自分の信仰を使った。
自動的に癒されたわけではなかったのです。用意された十字架の主との出会い。その後は、信仰だったのです。
信仰は、信じてみる、信じたことを行動に起こす。その行動が心で信じていることの証し、信仰が本当であることが示されるのです。ですから、信じていることを信じてると信仰告白することが非常に大切なのです。
★ 目があいた Eyes are opened
この盲人は、目という、生まれつき癒されようのない場所に十字架の主を塗られました。
信仰をもって言葉に従った結果。目が開かれ見えるようになったのです。
文字通り視力が与えられたのですが、世界が見えた、自分が見えた、開かれたのです。
彼は、遣わす、シロアムの池で目を洗って、目があいて、今度は、神に遣わされた証し人となりました。人々がイエス様のことを聞き、彼は、イエス様のことを証しするものとなりました。
全ては、彼の持って生まれた試練から始まりました。
これが主の業であり、これが主の栄光なのです。
イエス様は、罪と呪いの考えから、体の不具合を神の栄光のために解放されたのです。
私達も、なかなか変わらない状態、まるでもう癒しが無いかと思われることのために、主に出会い、向き合い、主の苦しみにあわされ、信じ、霊の目が開かれる必要があります。
今日です。時間が限られています。キリストが今あなたに語っている今、主を求めましょう。