Search Bloguru posts

ぼくしのめがね

https://en.bloguru.com/horizonjapanese
  • Hashtag "#日曜礼拝" returned 3 results.

ローマ書三章 Romans Chapter 3

thread
土曜日は、グレッグさんの教会で... 土曜日は、グレッグさんの教会で、七つの賜物セミナーを教えてきました。今回は、エリックと一緒に教えました。バークヤードに建てた屋根の下で。。。自然いっぱいの教会で良かったですー。場所は、レスクスティーブンスです。シアトルから車で40分くらい北の町です。 木曜日のロバの子。。子供たちの... 木曜日のロバの子。。子供たちの成長が毎週目まぐるしく。。。楽しいです。今週は、新しいベイビーちゃんが来てくれました。子供たちも、かわいいかわいいと一緒に遊びたがりました。小さい子がいてくれると、みんな思いやりを学べていいですね!
2016年9月25日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/enrWea9ItAM

前回は、ローマ書二章から、ユダヤ人の罪に関してお話ししました。自分たちは、神様の律法を持っている割礼をしているということを誇りにし、周りを裁いているが、律法は、持っている者が正しいのではなく、行うものが正しいこと、割礼も外面的な割礼よりも心の割礼こそが真の割礼であることをパウロは語りました。今週は、その続きの三章です。

★ユダヤ人は神のリトマス試験紙 Litmus – PH indicator

ロマ書3:2 

それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。Much in every way! Chiefly because to them were committed the oracles of God.

ユダヤ人は、神様の選びの民とも言われています。それは、神様と関係を持ち、周りの民族に神の民とはということを証しし、神を指し示すためともいえます。しかし、ユダヤ人自身は、本末転倒で、神からの律法を持っていることを誇り、神と契約を持っていることを誇りました。

みなさん、いかに、誇りが分裂をもたらすか、と思いませんか。自分を誇るのか、神を誇るのかで、周りへの影響力が変わってきますね。誇るとは、ギリシャ語で、喜ぶとも肯定的なことばとして訳せる言葉ですが、誰を喜ぶのか。。。。で、人との交わりが断たれるか広がるかと変わってきます。

イエス様は、その謙遜さ、私たちへの愛のゆえに、隔たりを越えて、地上に来てくださり、私たちの一人のようになってくださいました。壁を取り壊すイエス様。それこには、プライドはありませんでした。
謙遜は、壁を壊し、隔たりをなくすものです。

「ユダヤ人は、神の言葉を委ねられている。」という立場です。よきにつけ悪しきにつけ、神の言葉をどう扱っているか、どう行っているかが注目されるというのです。
3節からは、だから、ユダヤ人が悪いと神様の栄誉に傷がつくのか? そんなことはない、かえって神の真理が明らかにされる。それでは、ユダヤ人が罪を犯せば犯すほどいいのか? いいえ、そうではない。だからと言って、悪をすすんでやるべきではない。
という風に続きます。

そもそも、ユダヤ人は、神の言葉を委ねられている以外には、異邦人との差はない。みな、罪人なのです。みな、罪を犯し、不義の状態なのです。

ロマ書3:10

それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。As it is written: “There is none righteous, no, not one;
と、

★律法の役割

ロマ書3:20

なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。Therefore by the deeds of the law no flesh will be justified in His sight, for by the law is the knowledge of sin.

律法は、神様の愛による私たちへの教えであり、私たちの正しさを測る尺度です。私たちは、この律法を完全に守れたらいいのですが、守れる人は、地上に一人もいません。誰に、教えられなくても、言葉がまだ話せない時から、うそをつける私たち人間ですから。。。。

ガラテヤ書に律法は、私たちの養育係だ、と書かれています。律法は、私たちの罪意識を呼び覚まします。はっきりさせます。私たちをある意味で、罪に定めます。
私たちが、律法を守ろうとすればするほど、もがき、悩みます。それが当然の人間の良心の姿であります。「律法を行う」こと自体によっては、私たちに救いはないのです。

ダイエットを考えてください。これは食べてはだめだと思えば思うほど、食べたくなってしまいますよね。ダイエットをしている人ほど痩せにくいということをよく聞きます。律法にとらわれると「もがき」があっても、救いがないのです。そこに、義への到達はないのです。

★律法と別の形で示された神の義

では、律法を持っているユダヤ人にも、持ってない異邦人もどうしたらいいのでしょうか。

ロマ書3:23-27

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。25 神は、イエス・キリストを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

 ◎キリストに示された神の義

キリストこそ、「もがき」から私たちを解放し救いを与えてくださるかたです。

  ・価なし…私たちの側に何も支払うべきことがない。行いも、代価も、清さも、敬虔さも
  ・その血による…イエス様は、私たちの罪の代価を支払うために、刑罰を身代わりに受けてくださいました。
  ・信仰による…その恵みにアクセスするのは、信仰です。律法による行いです
  ・なだめの供え物…神様は義ですから、不義に対する怒りがあります。イエス様の罪のない人間としての生活、そして、その全身全霊が神様の怒りをなだめるために捧げられました。罪のある人間の捧げものではこの業は、成し遂げられませんでした。
  ・公に示された…誰の目に明らかです。A.D. という風にキリストの表れによって、世界的な年号さえ変わりました。キリストの十字架の死は、世界中に明らかで、隠されてはいません。

 ◎誇りが行いの原理から信仰の原理に移った

ロマ書3:31

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。Do we then make void the law through faith? Certainly not! On the contrary, we establish the law.

信仰によって、恵みの中に入れられた人たちは、義とされます。義とされた人は、聖書によると、キリストの内に隠されているのです。キリストによって、律法を守りきることができているのです。だから、私たちがどう生きるのかということは、また12章で詳しくでてきます。
ユダヤ人は、神様に選ばれて、神のお言葉が委ねられているとありましたが、律法を委ねられているだけに、リトマス試験紙のように、神を軸にして、こっちに傾き、あっちに傾き、もがいている姿を周りの民に見せ、良い時も、悪い時も、神を指し示しているのです。

そして、その律法を確立する、信仰については、四章で詳しく学んで行きましょう。


#キリスト教 #メッセージ #教会 #日曜礼拝 #聖書

People Who Wowed This Post

ローマ書一章 Romans 1

thread
初めてCheese Cake ... 初めてCheese Cake Factory に行きました。お友達にもらったギフトカードがあったのと、この前、Youtuber のちかさんが紹介していたので。。。量が多いのは、聞いていましたが、ここまでとは。。。私は、サンドイッチをたのみましたが、三つも来て、しかも、フライも。。。サンドイッチは一つしか食べられませんでした。汗 こんな感じです。あと、食事前に... こんな感じです。あと、食事前に、二種類のパンを持ってきてくれました。そちらも美味しかったです。。。
エリックは、Kobe バーガー。こちらも美味しかったそうです。
アメリカに来たら、Cheese Cake Factory お試しください。カロリー、量ともアメリカ感まちがいなし!! 笑
2016年9月4日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Luca7JjzBcg

ローマ1:16-32

今日から新しいシリーズローマ人への手紙を一章一章開いて行きたいと思います。

ローマ書は、パウロによって書かれた手紙です。パウロは、ローマに行って伝道したいと願っていました。そして、すでにローマにいる信者に向けて手紙を書き、コリントにいるときに、ローマに旅立つフィベに託したものと言われています。56年ころのお話しです。

ロマ書一章の1-15 パウロのロ-マ教会へのあいさつがかかれています。パウロのこの手紙の主題が来て、続いて、人の罪に関して書かれています。
この書の特徴は、教理が整理されて書かれているということです。パウロは、この手紙の趣旨をこうまとめて言っています。

★ロマ書の主題…パウロからあなたへの主題提起

ロマ1:16-17

16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

と、力強く語っています。福音とは、神様の良い知らせという意味です。この福音は、哲学でも、思想でも考え方でもありません。あなたが理解したから、どうこうというものではなく、あなたが受け取るものです。パウロは、救いを得させる力である。と書いています。力は、デュナミス(ギ) ダイナマイトの語源です。奇跡を与える爆発的な圧倒的な力というのです。劇的に物事を変えることのできるものであり、暗闇を粉砕する力です。パウロは、この福音の豊かさについて、この書を通して話しています。

V17この良い知らせ、福音の中に、「神の義」が啓示されている。救いを得るには、義を得なければならない。そして、その義は、信仰によるのだと。。。と語っています。
義とは、正しいことですね。神の前に正しくあるならば、救いを得ることができるのですが。私たちの内にはたして、正しい者がいるのでしょうか?

そして、どうして、その正しさに、信仰、信じることが関係してくるのでしょうか? パウロがとてもいい問題提起をしてくれました。ご一緒にみていまきょう。

★人の罪について…異邦人の罪

◎自然界を通して啓示されている神

v18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。19 それゆえ、神について知らされることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

よく七つの賜物セミナーでも言いますが、神様のご性質というのは、神様の造られた全てのものを通して語られています。私の母が、私が献身するというので、教会に行かなくなった時期がありました。そして、教会に戻るきっかけとなったことがありました。一緒に、テレビを見ていた時のことです。その番組では、植物や動物の不思議について細かく解説し、研究するような内容のものでした。「いやーー、すごいなー、すごいなー、不思議だなー、よくできていなー」と見ていましたが、ちらっと、「これは、全部神様が造られたんだよ」とぼそっと私が言ったことで、母の内で何かが変わりました。

科学者たちも言います。ある説を立ててみんな研究している、ある意味、自分の説と神様の法則の戦い。しかし、最終的には、それら全部を造られた神様の知恵に服するしかない。と言っていました。研究すれば研究するほど、神の神秘に引き寄せられるというのです。そんな中でクリスチャンとなった科学者を何人か知っています。

私たちは、生きていて、神を否むことができないのです。私も、クリスチャンになる前、高速道路で事故を起こしそうなときに、とっさに叫んだ言葉が、「神様!」でした。自分でもこの言葉にびっくりしました。信じてもいない神様の名前を、誰かも個人的に知らない神様の名前を叫んだのです。

人は、みな神に造られたのです。ですから、人の霊には、神のフィンガープリントが残されているのです。みな、神の存在を否むことはできないのです。否むことのできない神の存在を、否定しているところに私たちの罪があります。それに対して、天からの神の怒りの啓示があるというのです。

◎神を認めない罪

21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

人々は、見えない神を無視し、目に見える神々を作りだしました。「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」自分たちで思い思いの神々、動物を自分の神にしたりするようになるのは、まず第一に、神を認めないから。そして、神を神としてあがめないから。そして、栄光を神に返して感謝しないことが、私たちをさらなる暗闇と盲目に導くのです。

私たちも、何か良いことがあったとき、神に第一に栄光を返すことを、神に感謝することをつい忘れてしまい、自分の功績のようにしてしまうことがあります。これは、偶像礼拝の始まりであることを覚えておきたいものです。

偶像礼拝と性的な罪というのは、歴史上見ても、一体化しています。偶像のあるところに性の乱れがあります。人は、神の子である尊厳を捨て、動物や木などの人間以下のものを拝むようになり、自分の身体をも軽んじるようになるのです。

◎神のいない世界の罪

26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
そして、罪の極みとして、動物もしないようなことをするようになってしまうのです。今の世の中、このことに触れるのは、特にシアトルは容易なことではありません。しかし、罪の出どころを順を追ってみるとこうなっているのです。

◎罪の種類

28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

私たちの良心は、罪を犯すならば刑罰があるということをみな心の中で知っています。死後、天国に行けるという自身のある人に出会ったことがありません。(クリスチャン以外の人で)そして、私たちは、それに同意していると書いてある通りに。死後のことに関して無関心でいることにするか、また地獄で何が悪い、みんな地獄に行くのだからと開きなおってしまうのです。そんな中、真理に対して真剣に取り組む人は少ないのです。


#キリスト教 #ローマ書 #教会 #日曜礼拝 #聖書 #説教

People Who Wowed This Post

聖霊の九つの賜物 その2 9 Gifts of Holy Spirit 2

thread
土曜日は、ミャンマー教会で、「... 土曜日は、ミャンマー教会で、「教会における女性の立場」についてセミナーを行いました。 女性セミナーとはいえ、内容は、... 女性セミナーとはいえ、内容は、教会全体のものです。教会が一つになるためには、正しい女性理解がなされなければなりません。。。 私は、お礼に、ミャンマーの女性... 私は、お礼に、ミャンマーの女性用のショールをいただきました。織物です。そして、きれいな色で、とっても似あっているので、びっくりです。次回からこれを着て、ミャンマー教会に行こうと思います!
2016年5月29日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Ot2rsZorbjU

1コリント12:6-14

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。11 しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

先々週は、聖霊の九つの賜物のお話しでしたが、全部終わらなかったので、今日は、その続きになります。先週は、グレッグ先生からのメッセージで恵まれたと思います。

さて、もう一度、思い出していただきたいと思います。九つの聖霊の賜物は、他人の益となるために与えられています。誰かの祝福となるためです。そして、この賜物は、求めるなら、信者に与えられるものです。私たちが、お互いに愛し合うために神様から与えられています。教会というところは、互いに愛され、愛する場所であります。

預言と異言については、Ⅰコリント14章に詳しく書かれています。

⑥  預言… 

神様からあずかった言葉を語る 神様の心を語る、将来について、過去に関することについて。。。しかし、いづれも神様の目的は、その人を成長させ、建て上げるため。預言の言葉をもらった人は、よく分かると思いますが、祝福を受けますね。励まされ、慰められ、強められ、希望が戻ります。その個人を建て上げる働きがあります。
Affirmation, comfort, edification
1コリント14:3
ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。3 But he who prophesies speaks edification and exhortation and comfort to men.


⑦  霊を見分ける力… 

神の霊、人の霊、悪霊、人の態度や考え、肉か霊か。。。などと言うことを見分けます。サタンも、御言葉を使って私たちをチャレンジしてきたりします。イエス様を誘惑したサタンも、イエス様に御言葉でチャレンジしましたね。そのように、ああ、御言葉が聞こえるから、神の声だ。。。とは限らないことがあります。その背後にいる霊が御言葉をもって、私たちを罪悪感を持たせてコントロールしようとしたりします。とにかく、「あれ?今もっともらしいことを言われたが、それによって私は愛、喜び、平安を感じない。」と思ったら、霊を見分ける力を神様に求めたらいいでしょう。
また、誰かが感情的に攻撃してくるようなとき、ワンクッションおいて神様に霊を見分ける力を祈ったらいいですね。それが、人の霊から来ているのか、悪霊的なものか、それとも、単なるコミュニケーションの問題なのか。。。すぐに反応しないで、神様から知恵をいただてから、対応したいものです。

⑧  異言… 

自分の知らない言葉で話す。その言葉は、完全に天国の言葉であるか、また地上の言葉であります。異言については、ペンテコステのときに話しましたが、天とつながる能力が与えられることです。超自然へのアクセスが可能になります。また、使途の働き二章にあるように、あんなに恐れに縛られていたペテロがすくっと立ち上がり、今起こっていることを聖書から解き明かしていき、三千人以上の人が信仰に入ることになりました。ペテロは、聖霊のバプテスマによって、天的な理解力を与えられたのです。聖霊に満たされ、聖霊様を受け取ることによって、私たちは、天的な理解力が与えられます。
異言を語られる方は、このような体験がないでしょうか。頭では、今起こっていることが分からず、とにかく、祈りたいから、なんと祈っていいかわからないが、異言で祈りだす。すると、頭では理解できないが、霊において、確信がくる。霊において、これは、必ず解決がくるという確信がくるということがないでしょうか。異言は、天的な理解力が与えられるツールなのです。個人の霊を立て上げることができるものなのです。ですから、パウロは、ぜひ求めてください。話せたほうがいいですと言っているのです。

⑨  異言を解き明かす力… 

その知らない言葉の語っている意味を解き明かす力。異言は、通常、頭では実を結びません。が、意味がないわけではありません。神様は、必要な時に、それを解き明かす力を人々に与えられます。パスターキャリーがよく異言で私に祈ってくれるのですが、それを聞いて神様に理解できるようにお願いすると、意味がつらつらつらっと言葉になって入ってきます。そして、その内容が非常に私に必要なことで私の霊を励ますということが過去に何度もありました。必要な時に、求める時に与えられます。
また、このようなこともありました。友達が試練の中にいるときに、どう祈ったらいいかわからないくて、異言で祈っているのを聞いて、実は、それは、インドネシア語でした。私にインドネシア語が分かるので、「あなたは、神様にいつもどんなときも感謝します。」と神様をほめたたえていましたよ。と伝えると、その友達は、泣き出しました。つらいときで、頭では、神様に信頼できない。。。と思っていても、霊では神様をほめたたえていたのだ、神様はともにおられるとわかり、神様に守られていることを知り、信仰と希望を取り戻すことができました。

聖霊の賜物は、他人の益となるといいましたね。このように、必ず、相手を祝福し、そして、信仰と希望が戻り、相手を立て上げることができるものなのです。

時間が無くなってしまったので、
預言についての吟味の仕方や方法、また軽い練習などは、来週にしたいと思います

祈りましょう


#クリスチャン #日曜礼拝 #聖書

People Who Wowed This Post

  • If you are a bloguru member, please login.
    Login
  • If you are not a bloguru member, you may request a free account here:
    Request Account
Happy
Sad
Surprise