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国鉄があった時代、日本国有鉄道史

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山陽新幹線 岡山開業 番外編

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長らく労働運動の話ばかりが続いていますが、その辺は特化したblogに任せて、国有鉄道史に戻りたいと思います。

新幹線岡山開業前後の話
昭和47年3月には、山陽新幹線の延長区間として、新大阪~岡山間が開業することとなりました。
この開業はあくまでも暫定的であり、昭和50年に博多開業が予定されているため、改正自体は小規模なものとなり。
大阪始発の九州特急も数多く残る結果となりました。

山陽新幹線と遣い同新幹線の建設基準>
以下の通り簡単にまとめてみましたが、曲線半径が4000mと広くなり、最急勾配も15‰以下となっています。
また、レールは60kgレール(より正確には60.8kgレール)が採用され、東海道新幹線の50T(53.3kg)レールよりも重軌条化が進んでいました。
スラブ軌道が多用された、山陽新幹線
スラブ軌道が多用されたのも、山陽新幹線の特徴でした。
スラブ軌道は、保守の省力化を目的とした直結軌道の一種で、昭和45年頃から、東海道新幹線名古屋駅および岐阜羽島駅構内等で試験的に施工され、その成果を踏まえて、山陽新幹線 新大阪~岡山間の帆坂・神戸トンネル、その他高架橋の一部スラブ軌道が採用されたほか、山陽新幹線の岡山から博多間もスラブ軌道が採用されました。
スラブ軌道
スラブ軌道は、長さ約5m、幅2~2.4mの鉄筋コンクリートスラプ(ブロックを高架橋上あるいはトンネル内に連続して敷設し、基礎とスラプの間、およひどスラプとスラプの間には緩衝材を設けて支持するもので、緩衝材部分と締結装置部分でスラプ位置の調整、狂いの整正を行なうものです。
工場で精度の高いコンクリートスラブを製造できる反面、路盤とレールの間に減衰効果を生む隙間がなく、列車走行時の騒音や振動が大きくなる傾向があり、近年は騒音問題の観点から、他に軌道敷設方法(弾性まくら木直結軌道)などが採用されています。
建設基準
岡山開業で変化する列車パターン
それまでは、超特急が「ひかり」特急が「こだま」となっていましたが、新幹線岡山開業では、そのパターンが崩れ、岡山まで乗り入れるのは基本的に「ひかり」のみとなり、「こだま」は東京~新大阪間の列車および、早朝・深夜の区間列車のみとなり、ひかりは下記のように3種類の列車としました。
    Aひかり 新神戸・姫路に停車するパターン

    Bひかり 岡山までの各駅に停車するパターン

    Wひかり 岡山まで無停車

Wひかりとは、「西行き(West)の意味」で、九州・四国・伯備線方面のスピードアップを目的とした列車としています。
当時の時刻表で確認すると
Wひかり・・・・ひかり 1~8号
Aひかり・・・・ひかり21~44号
Bひかり・・・・ひかり51~78号
であり、下図のようなパターンで運転されています。
新幹線岡山開業

この改正は、暫定開業であり3年後の昭和50年3月には、博多開業が予定されているため、「つばめ・はと」が岡山発着になりましたが、その他長距離特急はそのまま温存され、大阪発西鹿児島行きの特急「なは・日向」や「かもめ」「みどり」と言った長距離列車は大阪発で残りました。(「かもめ」は、京都発着)

続く

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修学旅行の新幹線利用一般化と、ローカル線廃止基準設定

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修学旅行の新幹線利用一般化と、...
久々に日本国有鉄道史更新させていただきます。
本日は、弊サイト国鉄があった時代から見ていこうと思います。

昭和47年4月から、修学旅行の新幹線利用が一般化して言ったと書かれています。
この理由としては、「東京地区の修学旅行は、従来専用電車「ひので号」を利用してきたが、旅行のスピード化と生徒の体位向上などから、今年度から全面的に新幹線を利用することになった」と書かれていますが。

新幹線の利用は、昭和40年から始まっているようであり、昭和47年まで修学旅行電車が残った背景には、利用債の償還が終わるまでは使い続けるといった話もありましたので、そうした大人の事情もあったようです。
それが、償還も終わったことから全面的な新幹線利用担ったものと思われます

新幹線の修学旅行、第一陣スタート 4/13

春の修学旅行第一陣が、東京駅から新幹線で関西方面へ出発
東京地区の修学旅行は、従来専用電車「ひので号」を利用してきたが、旅行のスピード化と生徒の体位向上などから、今年度から全面的に新幹線を利用することになったもので、今年度修学旅行で新幹線を利用するのは、東京地区で11万5千人、関東各地で24万5千人が見込まれている
。これ以降修学旅行の新幹線利用は一般化し、修学旅行用電車はその任を解かれ、臨時電車として運用されるようになる

更にもう一つは、昭和47年に運輸省が、国鉄地方閑散線の認定基準を発表されたという点です。
国鉄の赤字ローカル線問題は、昭和54年の国鉄再建法まで、そのような計画はなかったと思われがちであり、又国鉄であれば今でもローカル線が維持されたのではないかという幻想をもつ方も多いのですが、国鉄時代には、何度もこうした廃止計画が出されました。

地方ローカル線廃止と財政再建計画

運輸省、国鉄地方閑散線の認定基準を発表 5/9

運輸省は、地方閑散線の認定基準(案)を明らかにした。この基準により、運輸大臣は国鉄再建10ヵ年の期間中に廃止すべき路線として、3,400キロを8月ごろまでに認定することになっている
 認定基準(案)は次のとおり。

1 輸送量が少ないこと。
 (1)ランニング・コストで比較して自動車輸送の方が経済的であると認
められる輸送密度であること。
 (2)過去の輸送量が停滞又は減少していること。
2 代替輸送の確保が可能であり、廃止によって公衆の利便が著しく阻害
されるおそれがないこと。
 (1)ほぼ並行している道路が存在すること。
 (2)ラッシ。時においても自動車輸送に耐えられる程度の輸送量であること。
 (3)豪雪地帯対策特別措置法による特別豪雪地帯を通過する路線であって
冬期における自動車翰送が著しく困難であるもの以外のものであること。
3 国家的開発計画により輸送量が 増加すると想定される路線でないこと。
4 建設を継続すべき新線に接続していないこと

ただし、地元が存続を希望する場合は、同線の欠損額の1/3を地元、1/2を国が5年間に限り補助して存続する、この期間中に地元の了解を得て順次廃止の方向に持っていく方針

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昭和47年 新幹線岡山開業 第2話

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昭和47年 新幹線岡山開業 第...
新幹線岡山開業で観光地としての岡山をアピール

当時の部内紙などを参照しますと、当時の岡山は、山陰・四国への乗り換え地点という位置づけであり、「観光岡山」という意識があまりなかったことから、この度積極的に岡山を売り出していくとともに、新幹線で四時間ほどという点を活かして、関西圏からだけではなく、東京方面からの観光客も受け入れるようにしたいと意気込んでいます。

昭和47年3月号、国鉄線という部内記事からその辺を引用してみたいと思います。

観光開発については、これまで観光地といえば山陰、四国のイメージが強く、「観光岡山」の名はあまり知られていない。新幹線の開通は、観光面でとくに大きなインパクトを与えることになる。これまで岡山を訪れる観光客は京阪神からが大半であったものが、東京岡山四時間という時間短縮によって、中京、関東から東北にまで足が伸びることが予想されている。同局が打ち出している「ワンステップ岡山」は、新幹線開業を契機に、これまであまり知られていなかった「観光岡山Hを大々的に売り出すとともに、山陰、四国を訪れる新幹線客にも岡山にワンステップ、ツーステップをしてもらおうというのがねらいで、中四国、山陰をめぐる広域的な観光により誘客をはかろうというわけである。これのひとつとして、同局では新しい観光地「吉備路」の売り出しに力を入れている。これは、国分寺、古墳等吉備文化のあとをさぐるコースで、観光客に荒されていないヒナびた観光地として脱都会組の観光客に人気を呼び始めている


国鉄線昭和47年3月号

引用 国鉄線昭和47年3月号

ワンステップ岡山キャンペーンを中心として
また、新幹線岡山開業を機会として、岡山鉄道管理局が中心になって、「ワンステップ岡山キャンペーン」を展開しました。
これは、新幹線開業で岡山の魅力を知ってもらうとともに、四国・山陰方面への観光客にも、更に岡山の観光を知ってもらうという趣旨から始められたものですが、この頃は倉敷市の倉敷美観地区のような地域は未だ岡山の観光地としては定着していなかったようですが、新幹線の開業は、こうした観光地開発にも拍車がかかったように思われます。新幹線開業時には、岡山ではなく吉備地区を観光の目玉として売り出すこととし、古墳等を探るコースを提案するとしています。

また、こうした観光開発とは別に、新幹線岡山開業記念行事として、岡山交通博覧会を開催しています。
いわば地方博覧会の走りのようなものでしょうか。
岡山県・岡山市・岡山鉄道管理局により企画され、担当者らは、万国博覧会の岡山版を目指すとして、万博のプランニングも担当した、岡本太郎に、総合プランニングを依頼したとされています。

岡山で開催された交通博覧会

概要は以下の通り

  • 会期:3月25日から5月7日までの44日間

  • 会場:津島 県営総合グラウンドを第一会場、岡山駅貨物整備場跡地を第二会場

  • テーマ:未来を開く交通

  • 出展物:第一会場 未来交通システムの大パノラマを擁するテーマ館、航空館、自動車館等ががり、地元放送局が出展する地域パビリオン
    第二会場 岡山鉄道管理局が担当する鉄道を中心とした企画展で、元お召し指定機の展示や新幹線のカットモデルなど展示


詳細は昭和47年3月号、国鉄線という部内記事から引用したいと思います。
鉄道館の面積は約5,500平方メートルで、屋外には、義経号、交通科学館【現在の京都鉄道博物館)の新幹線前頭部、伯備線でお召列車をけん引した栄光のSL・D51838号、津山線で活濯したC1180号などを展示する。展示館は600平方メートルのテントで、なかには、中央に未来コーナーを設ける。ここには、リニヤモーターカーを中心に、地下チューブ列車、高速滑走体ホバークラフトなどにより未来交通と未来の旅行の姿を立体的に表現する計画である。また、このコーナーに新幹線シュミレーターを出品する。
引用 1972-03_国鉄線(s47)

国鉄線昭和47年3月号

参考 なつかしの鉄道写真館

山陽新幹線で投入された新技術に関してましては、次回アップさせていただきます

スラブ軌道
コムトラック
ATき電方式

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昭和47年 新幹線岡山開業 第1話

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昭和47年3月時刻改正の時刻表... 昭和47年3月時刻改正の時刻表から抜粋
本日から、東海道新幹線岡山開業のお話をさせていただこうと思います。
昭和47年3月、新幹線は岡山まで開業しました。
当時の資料などを参照しながら、お話を進めさせていただこうと思います。

実は、昭和47年に3月に全国白紙ダイヤ改正と、10月には日本海縦貫線完成と言うことで2回改正が行われています。

改正の準備は前年の10月頃から行われており、山陽新幹線誕生で大きく変わったのは、「ひかり号」でしょうか。
「ひかり号」が超特急から特急に統一されるとともに、三種類のひかり号が登場することになりました。
分類上は、「Aひかり」、「Bひかり」、「Wひかり」で「Wひかり」は通称「赤ひかり」と呼ばれて新大阪~岡山間をノンストップで結ぶ列車でした。
列車種別 Aひかり・Bひかり・Wひかり

Wひかりの側面表示器のイメージ
Wひかりの側面表示器のイメージ
新幹線開業では、大阪発着であった特急8往復、急行9往復を岡山始終着としましたが、特急64往復と急行2往復は従来通り大阪始発で残りました。
なお、夜行列車に関しては、月光号を除き、引き続き大阪始発となっていました。
これは、新幹線博多開業が三年後に控えており、岡山発着の列車を強化して車両基地を整備しますと、今度は岡山地区の施設が過剰設備となることも考慮されたものでした。
結果的には、大阪始発で残った列車(昼間に出発する列車だけ)を列挙しますと、下記のようになります

昼行列車
大阪 7:25発 特急「なは・日向」西鹿児島・宮崎行き 終着西鹿児島21:09、宮崎20:42
京都 7:30発 特急「かもめ」長崎・佐世保行き 終着長崎 19:12、佐世保 18:48
大阪 8;25発 特急「みどり」大分行き 終着大分 17:53
大阪 8:42発 急行「つくし1号・べっぷ1号」博多・大分行き 終着 博多18:10 大分 19:26
新大阪 9:22発 特急「しおじ1号」広島行き 終着広島 13:39
大阪 15:05発 急行「屋久島1号」西鹿児島行き 終着西鹿児島 6:56
新大阪 16:30発 特急「しおじ2号」下関行き 終着下関 23:35
新大阪 17:25発 特急「しおじ3号」広島行き 終着広島 21:39

新幹線との接続にも考慮した、しおじ号などもありますが、長距離列車が大阪始発で残ったことで、旅客にしてみれば選択肢の幅が広がるとともに乗車機会も増えることになりました。(万一、乗り遅れても新幹線で追いついて乗車すること可能)之は夜行列車も同じで、ひかり77号(山陽新幹線最終、新大阪~岡山間は各駅停車)は、岡山23:30であり、あかつき号、明星号、等と接続できるダイヤとなっていました。下図参照

余談ですが、ひかり345号(東海道新幹線、新大阪行き最終)では、名古屋で金星と接続することで博多10:10着を実現していました。

次回は、岡山地区を中心にしたダイヤ改正の話をさせていただく予定です。
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万国博覧会と旅客輸送 第一話

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万国博覧会と旅客輸送 第一話
日本万国博覧会とは
日本万国博覧会、大阪府吹田市の千里丘陵で1970年3月15日から9月13日までの183日間開催された国際博覧会であり、現在はその跡地の多くが万博公園として残されているのは御存じの通りかと思います。

輸送計画の概要
万博輸送の概要について、当時の部内誌などを参考にしながら述べてみたいと思います。
当時の資料を参照しますと、
万国博覧会の訪問者は
国内日本人  48,980,000人
    • 近畿    27,500,000人
    • 近畿圏以外 21,480,000人
外国人 1,020,000人
    • うち訪日外国人   740,000人
    •   在日外国人   280,000人
と推定されていました。
現在と比べますと、訪日外国人の数は非常に少ないのですが、なお、交通網に関しては、大阪地下鉄の延伸、国鉄、阪急による鉄道輸送と自動車による輸送が想定されていました。

当時の資料から直接引用させていただきます。
参照、交通技術昭和45年1月号、万国博輸送についてから引用

■万国博会場への交通網
 万国陣の会場は、大阪市の中心から北東へ約15 kmのところに千里ニュータウンと隣接して所在し、広さ約100万坪、中央口を始め東口・西口・南口・北口と5つのゲートを有します。国鉄 茨木駅から西方へ茨木駅前道路を経て2.2 km、阪急京都線、茨木市駅から同じく茨木駅前道路を経て3.5 kmで会場東口にいたり、南茨木駅からは中央環状道路を経て4.3 kmで万博中央口にいたる。会場の西駅を阪急千里山線が走り、臨時に設けられる万国博西口駅と陸橋で会場西口と結ばれる。会場のすぐ東側を名神高速道路か走り、吹田インターチェンジが新設される大阪国際空港からは。中央環状道路を経て釣10 kmで会場中央口にいたる。中央環状道路は。会場を東西に横断しており、西側へは中国縦貫道と並行して池田市にいたり、会場の東側へは、名神高速道路と吹田インターチェンジで立体交差し、近畿自動車道と平行して南下し、大阪市の外周を取り巻き、各衛星都市を貫通し、堺市にいたる大阪高槻京都線。国道1号線、大阪生駒線・阪奈道路。国道25号線、国道26号線など大阪市内から京都・奈良、和歌山など他府県へ伸びる放射軸道路を結ぶ基幹的な環状道路である。
         中略
いわゆる万国博急行といわれる北大阪急行電鉄は、現在、新大阪駅に乗り入れている大阪市地下鉄1号線が御道筋と平行して北上し、江坂まで延長されるが、この後を受けて、上新田にいたり、そこで右折して中国縦貫道の道路敷の片側を占用して会場中央口にいたる鉄道である。(上新田~会場間は万国博終了後撤去される)。以上が移換したように万国博への交通網は、鉄道・道路とも網の目のように整備される。もちろん、空の玄関である大阪空港・海の玄関である大阪港・神戸港も整備される。

となっています。

国鉄の動き
国鉄は、大阪に向かう万博利用者のその多くを引き受けることとなるため、新幹線脳輸送力増強、臨時列車の増発等が行われました。
特に、ゴールデンウィーク以降は、利用者が急増し、ゴールデンウィーク及び夏休みにはエキスポこだまなる、なんともユニークな列車が上りのみ運転(下りは回送)されました。【詳細は後述】
阪急電車の動き
阪急電車では、千里山線の南千里と北千里の間に、万博西口駅が臨時で設けられました。
なお、この当時は現在の「山田駅」は誕生していません。
現在、駅があった付近は駐車場となっており、駅から西口まで歩道橋で結ばれていました。
北大阪急行電鉄の建設
北大阪急行電鉄は、昭和42年6月28日に運輸大臣、通産大臣、大阪府知事、大阪市長、及び阪急社長の5者会議で建設が決定したもので、は大阪市営地輸送が不透明であったことから、最終的には、政府・府・市などの強力なバックアップの元にという条件で、阪急の子会社として設立されました。
実際には、建設費の殆どが万博輸送で償却できたほか、東西線(万博中央口から千里中央仮駅間の撤去費用は、高速道路建設の一環として行われたため負担がなかったことも有り、現在も初乗り100円という非常に安い運賃が実現されています。)
以下は、次回以降に書かせていただきます。

併せてご覧ください


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東海道新幹線開業 開業1ヶ月後の状況

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新幹線時間帯別、乗車率 新幹線時間帯別、乗車率

本日は、東海道新幹線開業の様子ということで、部内誌、国鉄線という雑誌の記事の中から参照していこうと思います。
開業1ヶ月の通信簿は下記の通りでした。
ただし、東京オリンピックの開催もあったので、この数字が全てでは無いということで、割り引いて考える必要があるとしています。

1)新幹線の予約は低調だった?
新幹線開業前は予約が比較的低調で、開業後が心配されたそうですが、開業と共に人気が高まり、10月中旬には、「つばめ」「こだま」当時と劣らない乗車効率を示したと記述されています。
2)初月の収入は予想を下回った。
輸送人員は、予測通りであったが平均乗車キロは計画の9.7%減、それにつれて輸送人キロも11.4%の減少となり、収入面では36億1600万円の収入に対して、32億700万円と4億900万円の目標未達となった。
3)超特急(ひかり)は人気、特急(こだま)は不人気
 開業当初は、超特急(ひかり)、特急(こだま)として、運賃も超特急運賃と特急運賃に分けていましたが開業当初1ヶ月の結果は、下記の通りで会ったそうです。
超特急 計画に対して7.7%増、特急 計画に対して 8.3%減【いずれも計画輸送人員】
短距離区間の、東京⇔熱海間、東京⇔静岡は利用が多かったが、東京⇔大阪間は圧倒的に超特急の利用が多かったとされています。
4)誘発需要は低調
 新幹線に限らず、新たな交通手段が誕生することで、誘発需要が喚起されるのですが、開業1ヶ月の成果は、一日2500人ほどであり、30%誘発需要の予測に対して6%と低調だと記録されています。
5)超特急の月間平均乗車率は、下り88% 上り84%、それに比して特急は、上下とも63%と振るわない結果となっており、特に朝夕の特急は空席が目立つとのこと。

今後の方向性
特急と超特急の料金が200円、(現在で1000円程度)の差であり速い列車を望む傾向があることが顕著になったことから、超特急と特急の列車本数の変更、特急への旅客誘致【団体客を中心に)、特急の部分指定席化または、全面自由席化を検討する必要があると結んでいます。

在来線についても言及されております。
東海道新幹線は、東海道線の線増という位置づけでしたので、特急は新幹線に移行したものの、急行列車以下はそのまま在来線に残されました。と言うよりも、国鉄としても全て新幹線に移行させるのは不安があったからだと思われます。
開業に伴い昼行急行列車は3本廃止ししたことにより乗車率が93%→101%に増加したそうですが、その原因として新幹線特急料金と急行料金の差、特急料金【東京⇔大阪 1100円、急行 300円】との差が大きかったと推定されていますが、夜行急行列車については新幹線開通により、1割程度利用客が減少したと言う記述があります。
実際、昭和40年以降のダイヤ改正では、東海道線(東京~大阪間のみ)を走る夜行急行は、銀河と明星のみとなり、特に銀河は、輸送力列車として寝台中心から座席車主体の編成に衣替えされることとなりました。姫路まで延長された背景には、播磨工業地帯の工場進出などが著しく、当時の利用者向けの輸送力を確保したかったとも言われています。

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東海道新幹線開業前、世論はどうだったのか?

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0系新幹線 0系新幹線
気がつけば2ヶ月も更新しないままになっていました、さて今回も引き続き新幹線開業前後のお話から始めさせていただこうと思います。

少し当時雑誌などから拾った記事と言うことで、新幹線開業前の世論はどのようなものだったのでしょうか。
これによりますと、新幹線開業前に、京都で新幹線を撮影しようとしたのか否かは判りませんが、桂川橋梁で7月17日に高校生が上り電車と接触して死亡したと言う記事が出ていますし、それ以外にも開業前に滋賀県内で、ガスボンベが線路上におかれてこれを跳ね飛ばした事件【年月は不明で今後調査の必要あり】や置き石事件などが報告されており、開業までの線路への立ち入りを禁止するための措置として防護柵を設けるとしています。

当時の朝日新聞朝刊の投書欄には、下記のような記事が書かれていました。
少し長いですが、引用させていただこうと思います。

二日「朝日」(朝刊)投書欄に「新幹線の事故防止に一案」と題して次のように掲載されている。「列車の前方に重量百キロほどの軽い無人探索者車を走らせ、これを列車と無線またはパルス(時間波動)無線で結び、列車から制御するのである。・・・今、考えているレーダー法などはたとえば、カラスがとまっていても危険物として探知されるという難点がある。・・・高速列車の事故は重大な結果を生じるので、その防止のためにはあらゆる可能性を検討してほしい」といっている。


まぁ、探索車はともかく、レーダー方式はそれなり面白いかもと言うか、現在のドクターイエローは前面運転台にテレビカメラが装備されていますが、現在の技術ならそれとAIを組み合わせてなんてことも可能かもしれないですね。あくまでも可能性ですが。

ただ、新幹線は従来の車両と比べて圧倒的に速度も速いことから小さな障害で大きな事故を招きかねませんので、それを避けるために新たに法律が制定されることになりました。
それが、昭和39年6月22日に公布された、「東海道新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法」

(線路上に物件を置く等の罪)

第三条 次の各号の一に該当する者は、一年以下の懲役又は五万円以下の罰金に処する。

 一 列車の運行の妨害となるような方法で、みだりに、物件を東海道新幹線鉄道の線路(軌道及びこれに附属する保線用通路その他の施設であつて、軌道の中心線の両側について幅三メートル以内の場所にあるものをいう。次号において同じ。)上に置き、又はこれに類する行為をした者


となっています、この新幹線に関する法律では、山形・秋田新幹線、並びに在来線扱として届けた、博多南線のみがこの法律の適用外となっています。

http://jnrera3.webcrow.jp/potal_shiryou/Law/Law_other/s39/s39_111.html
東海道新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法(昭和39年法律第111号)

他にも、アンチな意見や突拍子な意見もあったようで、いずれも国鉄線と言う雑誌の10月号で見かけた記事を少しアレンジして引用させていただこうと思います。

最初は、アンチ新幹線の意見
"夢の超特急は空前の愚挙"と題して、八月九日号(八月二十三日号)週刊読売に掲載された記事で、「超特急『ひかり』全線試乗記」に同調したもので、東京~大阪を往復する人間が何人いるのか、料金も高価になるので乗る人は金持ちに限られるだろうし、三時間もかかる超特急より一時間そこそこでゆける飛行機を利用するのは自に見えている。
と手厳しい、新幹線開業は国鉄の自慰行為であると決めつけているのですが・・・これに対しては国鉄も部内誌の中では反論しているようです。
まぁ、一部にはこうした反対論もあったようですが、こうした意見ってよく考えてみると、クルーズトレインに反対する人の意見と同根なんですね。
自分は乗れないから、誰も乗らないだろうって・・・。
まぁ、実際はどうなのかという点は、答えを見るまでも無いんですけどね。

そして、こちらは週刊サンケイ(現在のSPA)の記事からですが

『時速二百キロで走る夢の趨特急の車内で結婚式をあげたい』という許可願が国鉄に届いて、国鉄も苦慮しているというお話。

新郎は大阪市に住む某セールスマンで新婦は静岡市内の病院で働く女子事務員。挙式をこの秋に予定しているので、新幹線の新大阪~東京の全線試運転のときに『一車両ご提供願いたい』というちゃっかりというか図々しいというか、なかなかの強者のお話。
新婚旅行客にはできるだけのサービスにつとめたいとしていますが、走る列車内での結婚式は前代未聞であり、まして試運転中なので大切な門出に万一のことがあってはこの"スピード結婚式"の許可願に頭を悩ませている。」という、まぁ、実際にそうしたことが行われたと記録は無いので、当然却下だと思われますが、面白い記事でしたので、いささか古い記事ですが併せてアップしてみました(五月十八日週刊サンケイ)

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東海道新幹線開業前、東海道新幹線支局誕生

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東海道新幹線支局は、東海道新幹... 東海道新幹線支局は、東海道新幹線だけを管轄する組織として10番目の支社として誕生することになった。 新幹線支社は、支社制度廃止後も... 新幹線支社は、支社制度廃止後も東海道新幹線総局として力を持ち続けることになりました。
東海道新幹線は、東海道線の別線として計画され、また国鉄部内でもあくまでも東海道本線の線増部分であるという認識をなされていたようで、新幹線開業前の昭和39年4月までは新幹線局という一部局に過ぎなかったようですが、4月に入って、東海道新幹線支局が誕生しています、その理由について、昭和39年6月の交通技術を参照しますと、新幹線支社は、従来の支社と同様の権限を持つ組織として誕生させる事としたとされています。
少し長いですが、引用させていただきます。

東海道本線(新幹線〉を管理運営する支社東海道本線(新幹線〉を管理運営するための組織として、東海道線新幹線支社が、本年4月1日をもって設置された。新幹線は、10月1日の営業開始を目前に控え、エ事は予定通り着々と進捗しているが開業後の管理運営についても万全の体制を整え、自らの責任において遺憾のないよう諸問題の検討と解決を図るため、開業半年前に発足することになった。
新幹線は、周知の通り、国の大動脈である東海道本線の輸送力不足を解決する抜本的対策として誕生するものであるが、4000億円に及ぶ巨大な投資を要し、その運営の如何は国鉄経営に重大な影響を与えることになる。従って、その管理運営の基本的フアクターと『る組織については、国鉄本社内に設けられた東海道新幹線開業準備委員会(委員長副総裁〉において慎重に審議検討を行ない、国鉄理事会において決定されたものである。すなわち、「東海道本線(新幹線〕全線を一体的に管理運営することとし、そのために東海道新幹線支社を新たに設置する。また、その権限については続ね現在線支社と同等とする」こととなった。


ということで、東海道新幹線は、当初の東海道線の線増>という位置づけから離れて、独自の組織として運営させろ・・・と言う形に変わっていったと言えます。
本来であれば、東海道線の別線ですから、鉄道管理局の権限なり各支社の担当でも良かったはずです。(当時は、全国を9つの支社とその下に管理局がぶら下がる組織になっていました。)
注:広島・四国・新潟は支社が管理局を包括していました。
支社制度は、本社の権限を大幅に委譲したもので、本社はどちらかと言えば調整機能を持たせると言うもので、現在の持ち株会社に近いものでした。
なお、当初は、広島支社は九州の西部支社に。四国は関西支社に、新潟は関東支社から分離したものであり、発足当初は6支社体制であり、この仕組みが分割民営化のモデルになったと言われています。
そこに、新幹線だけを管轄する組織として新幹線支社が誕生することとなったのでした。
これにより、人事を含め各支社は新幹線に対して直接介入することが出来なくなり、1970年8月15日に支社制度が廃止された後も、新幹線支社は東海道新幹線総局(山陽新幹線開業後は新幹線総局)として存続し、その後山陽新幹線開業でさらなる巨大な組織となっていきました。
国鉄は本社があって、管理局なり総局はその下部組織というイメージをもたれる方も多いのですが、実際には大規模局などでは本社のコントロールがしばし効かないと言った問題もあったと聞いたことがあります。
実際に、東海道新幹線支社は支社制度がなくなったときに、新幹線総局に移行して組織は存続、その後山陽新幹線開業では博多までの管理を一元で行う等その組織は更に強大なものとなっていくのですが、その辺は新幹線開業とは関係ない話ですので割愛させていただきますが、新幹線総局は組織を温存したまま、JR東海に移行、新幹線運行本部として現在も山陽新幹線を含めて一括の管理運用を行っているのはご存じの通りです。
余談ですが、その後開業する東北・上越新幹線は、新幹線総局の管理では無く管理局単位の管轄となっており、JR東日本にもそのまま引き継がれています。

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新幹線開業前 試作車1000形のお話

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新幹線0系のシンボルとも言える... 新幹線0系のシンボルとも言える光前頭 各種座席が検討された 各種座席が検討された
新幹線1000系は2種類が試作されました。
これは、すれ違い試験の確認を行うためのものであり、最小編成として2+4両で計画されました。

本日は、この2両が製造され前に検討された仕様書について当時の資料を参照しながら説明を加えていこうと思います。
新幹線車両の概要
なお、車両の製作には下記のような条件が定められました。
当時の1961-08_交通技術を参照しますと概ね下記のようになっています。
抜粋しますと。

1)車体幅 約3,350mm
2)高さ  レール面上3、950mm
3)車体長さ 自連間長さ25m

 「車体長さについては特に規定はないが定員乗車時の車両重量を60tにおさえることになっているため、おのずから制限される」と記述されていました。
余談ですが、現在の東海道・山陽新幹線の場合は48tに抑えられていますが、この理由は270km/hにおける振動・騒音の係数が0系220km/hとほぼ同じであったからだと言われています。
検討された列車の座席
客室設備については、昭和36(1961)年時点では検討中とされていますが。運転時間が3時間程ですので、ビジネスライクな車両として計画されたようです。
結果的には、1等車(現・グリーン車)は2人掛け、2等車(現・普通車)は2+3人掛けに最終的に決定されるのですが、この辺に関しては、下記のように書かれています。
少し長いですが、全文引用させていただきます。
 
優等車・普通車の別、食堂車またはビュッフェの必要性4人掛・5人掛などについては検討中で、まだ結論は川ていない。しかし車体幅が現在線にくらべて400mm程度広いので、たとえ5人掛にしてもゆっくりした寸法をとることができる。運転室のない車両では5人掛で1両定員100名程度となる。

と書かれており、ビジネス需要も多き新幹線であるから、5人掛けにしたいと言う思いはあるようです。

ただし、現在のグランクラスに相当するパーラーカーの設定は運転時間が3時間ほどということもあって見送られたようです。
余談ですが、国鉄でもパーラーカーの新幹線開業後の運用には苦慮していたようです、実際は4年ほどで製造費を回収する事が出来るほど、高収益を上げたため、その後は普通車でも全く問題は無かったと言われています。
ボンネットの中身は?
また、特徴ある新幹線のボンネットですが、飛行機の機体に範をとったような形になったわけですが、風洞試験などを繰り返して形状が決められたと言われています。
なお、ボンネット内にはATC受信装置・ATC制御装置・列車無線装置(受信・発信部)およびこれらの電源となる交流→直流変換装置などが取付けられることになっていると記述されています。
また、冷房装置は、こだまと同様ユニット方式で天井に取付けるが、新幹線では二重屋根としてその中に空気調和装置を入れ、屋根の形状を平らなものとするとなっており、屋根上のスリットは0系新幹線の特徴と言えましょう。
なお、0系では従来の151系などのユニットクーラー方式では無くヒートポンプ方式が採用されました。
客室の構造に関しては、客室窓は固定窓、出入口扉はプラグドアが計画されていたようですが、量産車では一般的な戸袋方式のドアになっています。
300系でも初期に製造された車両はプラグドアを採用しましたが、その後J16編成以降は通常のドアに戻りました。
さらに、試作車の計画では、「床から下にスカートを取付けることを原則にして床下機器配置を考えている。」と言う記述があり、床下側面の走行時の乱流を減少させるためと、床下取付の電気機器冷却用空気の取入れもスカート外側の埃の少ない所からにするための2点を考慮に入れている。」という記述がありました。
ボディマウント構造までは考えていないようで試作車も、量産車も長めのスカートは見送られました。
なお、本格的なボディマウント構造の車両は200系まで待つことになりました。
新幹線で始まったトイレのタンク化
「便所・洗面所に関しては2両に1ヵ所に集中して設ける事が最初から計画されており、その位置は2両1ユニットの中間付近となろう」と書かれています。
在来線が垂れ流しの状況であったとき、新幹線ではさすがに200km/hで垂れ流しというわけにも行かず、汚物・排水はすべて汚物タンクに収容する事とされました。
ただ、当初は単純にタンクに溜めるだけの方式であり1往復すると満タンにと言うこともあり、その後循環式が開発されて現在に至っています。
いくつかの案が出された新幹線座席
そして、新幹線の特徴としては、座席もいくつか試作されたようで、在来線の普通車の4人向かい合わせをそのまま新幹線に取り込んだタイプや、回転式座席(背ずりの上下が回転する方式なども考案されましたが、最終的には2等車は転換クロスシート、1等車は2人掛けのリクライニングシートとされたのは、よくご存じのことだと思います。
余談ですが、昭和50年頃、シルバーシートを設定するときに首都圏の電車では、シートをグレーのモケットに張り替えましたが、これは大量に余剰があった新幹線のモケットを流用したものだと言われています。
閑話休題
0系新幹線と光前頭
他にも、初期の新幹線を象徴するものとして、前頭部が光る、光前頭がありました。
これは、カバーの中に蛍光灯を入れて照らすようにしたもので。
最後尾の場合尾灯の光が回り込んでボンネット全体が薄赤く光っており幻想的でした。
ただ、強化プラスチックであったため走行中の衝突などでの破損も多かったようで、途中から光前頭方式は中止され、カバーもより強固なFRPへと置き換えられてしまいました。
現在は大宮の交通博物館に保存されている0系は光前頭を装着していますが、元々大阪保管していたらしいので、京都で保存されている0系にこそ光前頭を復元して欲しいと思っています。苦笑

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新幹線開業前 モデル線の建設

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モデル線区を走る新幹線試作車 ... モデル線区を走る新幹線試作車 交通技術から引用 新幹線の構体試験並びに台車試験... 新幹線の構体試験並びに台車試験 交通技術から引用 A編成 交友社 電車のアルバム... A編成 交友社 電車のアルバムⅠから引用 B編成 交友社 電車のアルバム... B編成 交友社 電車のアルバムⅠから引用
モデル線の建設
東海道新幹線の建設に際しては、初めてのケースであり十分な安全性や問題点を洗い出すために、一部区間を早期に完成させる必要がありました。
モデル線区とされた区間は、神奈川県綾瀬市~小田原市鴨宮の間であり、昭和35年4月に路盤工事に着手し、鋭意工事が進められたそうで、一部家屋の移転が遅れたという記述もありますが、昭和37年37年3月までに路盤工事が完成、3月15日からは新幹線の軌道及び電気工事の起工式が鴨宮軌道基地で挙行されました。
また、4月20日には、新幹線用の試作電車第1号の試験調査及び乗務員の養成を行なう目的で、鴨宮にモデル線管理区が設置されて、5.23 には、モデル線での試験計画が決定しています。

後述の新幹線試験用車両は、4月25日にA編成(汽車会社製)が搬入され、B編成は、5月18日に搬入されています。
なお、昭和37(1962)年6月26日には、待望の試運転開始式が開催され
交通技術誌によりますと、「10時から来宮神社の宮司により、新幹線工事の完成と試験無事を祈る諸神事が行われ、その後、十河信二総裁の訓示があり、第1号試験運転電車は国鉄総裁・島技師長・大石新幹線総局長など国鉄関係者多数を乗せた4両編成(B編成)に乗車、午前10時45分、モデル線管理区長の発車合図で基地を発車、基地より約10kmの地点で試験を終って、再び基地に引返し、約40分にわたった初試運転を無事終った。 」
と書かれています。

これにより、東海道新幹線はこのモデル線区を中心に乗務員訓練などが進められることになったのです。
なお、この区間をモデル線区とした理由は、橋梁・トンネル、盛り土区間など新幹線のおよそ考えられる条件が揃っていたためであり、東京からも比較的近い事も決め手になったのでは無いかと思われます。

新幹線の試作車両

東海道新幹線は、昭和39(1964)年に開業するわけですが、その試作車A編成・B編成が試作されたのは昭和37年でした。
本日は、新幹線試作車に関するお話を少しだけさせていただこうと思います。

2種類試作された新幹線車両
新幹線電車は、特段新しい技術を開発した部分よりも既存の技術を積み上げて作られた部分が大きいものでした。
在来線(狭軌)でクモヤ93000号 電気試験車)が日本最高速度である175km/hを出したこともあり、広軌で200km/hは問題ない事は確認されていましたし。
電車の制御方式も在来線の交流機関車で確立した制御方式(低圧タップ切換方式)を採用するなど既存技術の延長によるものでした。
試作車の仕様を当時の交通技術昭和36年8月号の記事から引用させていただきますと。
「試作車両は前述の通り量産旅客電車に移行するために未解決の問題を調査試験によって究明するためのもので単なる試験研究のためのものではない。」
と記されており、あくまでも量産を前提とした車体構造などが求められるとしていました。
実際には試行錯誤が重ねられていたようで、X形の補強を入れたタイプが作られたり、車内に関しても、転換式クロスシートや、シート全体が回転する方式であったりあらゆるタイプが試作されたようです。
ただ、運転時間が3時間(開業当初は4時間)運転であったことから食堂車の連結は見送られ、その代わりにビュフェが連結されるなど、運転開始当初の「こだま」と同じようなイメージでしょうか。
車両は、昭和35(1960)年12月末には中間車が浜松工場で完成し、翌年1月14日から21日まで構体試験が行われたと記録されています。

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