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新幹線建設と国鉄 新幹線駅の建設こぼれ話

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新大阪駅を中心とした鉄道網 新大阪駅を中心とした鉄道網 新大阪駅の拡大図 新大阪駅の拡大図 八重洲駅改良工事見取り図 八重洲駅改良工事見取り図
長らく、更新が滞ってしまいました。
申し訳ございませんでした。

本日も、新幹線建設に関するお話を少しだけさせていただこうと思います。
古い資料などを参照していますと、面白い記事を発見することが出来ます。

複数の停車駅候補があった東京

新幹線の始終着駅について、もちろん検討されているのですが、当時の資料を参照しますと、東京側の終点は、停車駅の候補に挙がったのは、新宿・原宿・市ヶ谷・品川・汐留・東京など約10カ所が候補地として挙がったそうです。
最終的に旅客の乗り換えの便を考えて東京駅になったとのことですが、八重洲口駅に関しても書かれていて、次のように書かれています。
鉄道技術昭和35年8月号を参照しますと、
「新幹線旅客はその60%が国電との乗換客であることから、国電連絡の便利さにおいて数段優る現東京駅に決定された。
さし当り八重洲口本屋と7番ホームの間に2本の幹線ホームを新設して開業し
、将来は7番ホームを幹線ホームにふりむける予定である。」
と書かれています。
八重洲側、現在の18番~19番までの1面2線を新幹線用として新設、将来的には7番ホームを新幹線用に転用すると書かれています。

既存の大阪駅に乗り入れはベストだが・・・。

さて、もう一つの終着駅大阪はどうだったのでしょうか。
東京が複数の候補があったのに対して、大阪に関しては、既存の大阪駅に乗り入れる案、東淀川駅付近に駅を設ける案の二つで検討されることとなったそうです。
当時の交通技術昭和37(1962)年4月号の資料から引用しますと、下記のように書かれています。
「利便性を考えれば大阪駅に乗り入れるべきでしょうが、大阪駅を中心とする梅田地区の交通混雑にさらに拍車をかけることになり、一方、家屋の密集する市街地を通過するため、工事が渋滞し工事費も増大するとし、欠点の方が大きいとみられて採用されず、大阪府・市など地元の賛成意見も多かった東淀川附近案となったのである。」
と記述されています。

新大阪駅建設で決まった、新御堂筋並びに地下鉄の新大阪延長

これにより、東淀川付近での場所を選定した結果、東海道本線・北方貨物線・宮原操車場東回送線に囲まれた三角地帯が利便性が良いという決定がなされたそうです。
新大阪駅が、宮原操車場付近に決定した事を受けて、大阪市は新御堂筋線を延伸することとし、さらに御堂筋線(当時の名称は)高速一号線)を延伸することが決定事項となりました。

阪急も新大阪駅への乗り入れを予定していたが・・・

また、阪急も新大阪に乗り入れるべく免許を保有しており、現在の27番ホームが建設されている付近は、阪急が土地を確保していました。
図を見てみますと、神戸線並びに京都線が途中で分岐して、新大阪に乗り入れ、新大阪から更に淡路に抜ける計画となっていたようです。
歴史にIFはありませんが、阪急が新大阪行きの路線を堅持していたら新大阪駅から京都へ、または神戸への流れも変わっていたかもしれません。

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新幹線建設と国鉄 新たなる技術開発

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交通技術 昭和34年8月号掲載... 交通技術 昭和34年8月号掲載から引用
新幹線の技術開発

昭和35年交通技術に資料を参照しますと、新幹線開発に際して色々な技術開発が行われたようです。
その中で、個人的には知らなかった試験等がありましたので、少し書きだしてみたいと思います。

1)猫耳実験が新幹線開発で行われていた。
猫耳新幹線と言えば、E954形電車(愛称・ASTECH 360 S)が有名ですが、東海道新幹線開発に際して、模型実験ですが、風洞実験を行ったそうです。
概要としては、車両限界内で車体断面積の25%にあたる 抵抗板を取り付け、空気抵抗の増加や車体に付加される縦揺れモーメント、車体の、周りの流れの状態を調べたと書かれています。
ここでの実験結果は今後資料を探してみたいと思いますが、おそらく構造が複雑な割には効果が低いと判断されたのか試験車に装備されることはありませんでした。
ただ、実験段階で猫耳試験が行われていたのは事実のようです。

2)湘南電車25両編成による列車風に関する試験が昭和33年11月12~13日にかけて東海道本線、辻堂~茅ヶ崎間で試験が行われたという記述があります。
これは、列車風は、速度はむろんであるが、車体の形状と列車長が大きく影響するためであり、列車長に関しては、在来の実験資料が充分でないことから計画されたようです。
なお、新幹線開発にはSE車のデータも大いに参考になったようです。

80系電車の先頭車にロビンソン風速計(現在は、風杯型風速計と呼ばれている)をつけた写真を中学生の頃に図鑑で見た記憶があるのですが、このときの試験車の記録だったようです。
資料を探してみましたが、現時点ではこの程度の資料しか見つけられませんでしたが、今後新たな資料等が発見された場合は追記させていただきます。

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新幹線建設と国鉄 新幹線で貨物輸送

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新幹線貨物輸送構想の貨物新幹線... 新幹線貨物輸送構想の貨物新幹線電車 新幹線貨物電車、10両編成4M... 新幹線貨物電車、10両編成4M6Tを1ユニットとして3ユニットで構成 カートレイン構想のイメージ図 ... カートレイン構想のイメージ図 軽自動車は枕木方向に普通車はレールと並行に搭載する予定であったことが判ります。
はじめに
連日、踏切事故などの硬い話題ばかり続いていましたので。今回から新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。
今回は、新幹線の貨物輸送ということでお話をさせていただこうと思います。
現在の新幹線は、0:00から6:00までは原則的に新幹線は走行せず、その時間帯は線路の保守に充てられることになっていますが、計画段階では貨物列車の一部も新幹線で夜間に運んでしまおうと言う計画がありました。
最近の資料では、夜間の貨物輸送は世界銀行から借款を得るための口実だったとか、実際には貨物輸送を実施する気が無かったのではないかという記述もありますが、当時の交通技術と言う雑誌を読む限りでは、本気で新幹線による貨物輸送を検討していたように見受けられます。
今回参照したのは、交通技術昭和35年9月号に掲載された、東海道新幹線の貨物方式を参照しています。
新幹線で検討された貨物輸送
当初の発想は。新幹線区間が夜に何も走らないので有効活用の観点から考えられたそうで、当初は新幹線での貨物輸送は構想としてはなかったようです。
そこで、夜間の開いている時間帯を利用して、東京・名古屋・大阪間の速達貨物列車を運転してはどうかという結論に達したようです。
考えられる列車としては、小荷物・小口混載・コンテナ及び車扱いの急行便などが候補に挙がりますが、コンテナ特急「たから」号のような列車こそ、新幹線に移して速達化した方が得策であると考えられたためだと記述されています。
さらに、貨物輸送を行うに当たり、新幹線での旅客輸送が主であることから、貨物列車も従来のような、機関車に牽引させる方式ではなく、電車とすることで軌道構造物の規格を上げる必要がなく結果的に建設費を抑えることが出来ることから下記のような貨物電車が計画されたそうです。
貨物電車構想
計画された貨物電車は、下記のようなものでした。
1)東京~大阪間を最高速度130 km/h 途中ノンストップで約5時間半輸送
2)車両は、10両編成(4M6T))を1ユニットとし3ユニットをつないだ30両編成
3)貨車の長さは1両15m程度とし、5tコンテナを5個積載、30両編成で750tとします。

当時の特急貨物たから号が、最高速度85 km/hで汐留~梅田間を約11時間でしたので、それと比較すれば十分速いと言えるのですが、現在は在来線で、M250系電車が東京貨物ターミナル~大阪・安治川口間を6時間11分で結んでいますので、当時の新幹線貨物構想とほぼ同じ所要時間で結んでいるほか、在来貨物輸送でも概ね6時間半程度で結んでおり、隔世の感があります。
カートレインの可能性も検討されました
新幹線貨物輸送で期待されたものの一つとして、カートレイン輸送が出来るのではないかと書いています。
カートレイン方式をどのような形で考えていたのか判りませんが、当時のイラストなどを参照しますと、コンテナの中に自動車を入れて運ぶ方式のようです。
なお、昭和35年9月号の、交通技術で下記のような記述がなされています。
引用しますと、
欧米で流行し始めている乗用自動車の鉄道輸送があるが、わが国でも自家用自動車の普及発達によっては必要となって来るかも知れないので検討中である。
車両高さの限界は4,500 mmとしているので、床面高さを電動車の条件からレール面上1,300mmとしても小型乗用車は十分2段積が可能であるし、外国製の自動車は背が低いので楽に2段積できる。

引用終わり

として、カートレイン輸送の検討がなされていたことが伺えます。
まぁ、資料に出てくる乗用車が時代を感じさせてくれます。
もし貨物輸送が実現していたら?
最終的に貨物輸送は行わず、旅客輸送のみで営業を開始することになりましたが、仮に新幹線による貨物輸送が実現していれば、山陽新幹線区間などでは積極的な貨物輸送などが行われていたかもしれません。
更に言えば、青函トンネル区間での積み替えの手間は発生しますが、新幹線形貨物電車を開発して260 km/h運転を行えば、旅客側の北海道新幹線も減速せずにそのまま通過することが出来るのではないでしょうか。
要は積み替えに伴うコスト増と、時間制限と速度制限を今のように受けずに走行できることで得られる経済効果との比較で考えられるべきではないでしょうか。
積み替えのコストを考えても、260 km/hで運行できればメリットは大きいと思いますし、あえて言えば、青森ターミナルではなく盛岡など速度メリットが得られる区間から新幹線に載せ替えて走らせることで、積み替えによる所要時間を速度で相殺できれば、新幹線で輸送するメリットはあるのではないでしょうか。
最後は、妄想的なお話となってしまいましたので、改めて別の機会にお話をさせていただこうと思います。

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高度経済成長と輸送力増強 第6話 踏切事故増加と踏切道改良促進法

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自動車の保有台数 自動車の保有台数 踏切事故件数 昭和38年 国鉄... 踏切事故件数 昭和38年 国鉄監査報告書から引用
増える自動車登録台数と踏切事故

昭和30年代の経済成長は、旅客並びに貨物輸送の増大に伴う輸送力増強や。投資不足に伴う数々の事故を発生させたほか、経済の発展は自家用車の登録を増加させていきました。
踏切事故件数および自動車台数を見ていただくとわかるのですが、昭和31年以降急激に伸びていることがわかります。
弊サイトでは、当時の事件事故を年表にしていますが、昭和30年代は無謀運転のトラックや乗用車の他、バスとの接触事故などが後を絶ちません。
特に踏切事故では自動車の乗員が死亡する等悲惨な事故になる場合が多く、その対策は急務とされましたが、踏切対策以前に輸送力の増強に追われていたため。その整備は後手に回るのでした。

当時の踏切事情

鉄道の踏切には、第1種~第4種まであり、現在は第2種と呼ばれる踏切はなくなったものの、一部に第3種・第4種と呼ばれる踏切が存在します。

第4種は、踏切の警報器も遮断機もない踏切で、ローカル線の一部には現在も存在しています。
第3種は、警報器はありますが、遮断機がない踏切で、こちらも現在でも残されている区間があります。
そして、第1種と呼ばれるものが、皆さんが一般的に認識している遮断機も警報器もある踏切であり、遮断機がおり始めたら決して入らないことが原則となります。
そして、現在は廃止になりましたが第2種という踏切は、昼間は踏切の保安員がいて昇降を行いますものの、夜間には無人となり第4種踏切と同じ状況になるものでした。
これは、第1種が元々踏切保安員が常駐して踏切の上げ下げを行うことを前提としていたためです。

鉄道としても踏切事故対策はないがしろに出来ない問題となり、昭和36年以降は輸送力増強と並行して踏切の整備にも取り組むこととなり、自動車の保有台数は増えつつも事故件数は減少傾向になることになりました。
また昭和36年には、「踏切道改良促進法 法律第百九十五号(昭三六・一一・七)」が制定されました。
一部条文を抜粋しますと

(指定)

第三条 運輸大臣及び建設大臣は、踏切道における交通量、踏切事故の発生状況その他の事情を考慮して運輸省令、建設省令で定める基準に従い、昭和三十六年度以降の五箇年間において立体交差化又は構造の改良(踏切道に接続する鉄道又は道路の構造の改良を含む。)により改良することが必要と認められる踏切道について、その改良の方法を定めて、指定するものとする。

2 運輸大臣は、踏切道における交通量、踏切事故の発生状況その他の事情を考慮して運輸省令で定める基準に従い、昭和三十六年度以降の五箇年間において保安設備の整備により改良することが必要と認められる踏切道について、その改良の方法を定めて、指定するものとする。

3 運輸大臣及び建設大臣又は運輸大臣は、第一項又は前項の規定による指定をしたときは、その旨を、当該鉄道事業者(軌道経営者を含む。以下同じ。)及び道路管理者(前条に規定する道路の管理者をいう。以下同じ。)又は当該鉄道事業者に通知するとともに、告示しなければならない。

中略
 (改良の実施)

第五条 鉄道事業者又は道路管理者は、立体交差化計画若しくは構造改良計画又は保安設備整備計画に従い、当該踏切道の改良を実施しなければならない。

 (費用の負担)

第六条 立体交差化計画又は構造改良計画の実施に要する費用は、鉄道事業者及び道路管理者が協議して負担するものとする。

1 保安設備整備計画の実施に要する費用は、鉄道事業者が負担するものとする。

当初は昭和41年までの時限立法でしたが現在も法令としては効力を持っています。
なお、立体交差化については、「実施に要する費用は、鉄道事業者及び道路管理者が協議して負担するものとする。」となっていましたが、「保安設備整備計画の実施に要する費用は、鉄道事業者が負担するものとする。」とあるように、国鉄にしてみればと必要なこととはいえ、第二次長期計画に加えて、こうした費用を捻出することが必要となってきたため、その財源を探す必要に迫られました。

なお、これにより踏切の整備をすることが法的に定められることとなり、徐々にですが踏切事故は減少することとなりました。
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高度経済成長と輸送力増強 第5話 鶴見事故

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高度経済成長と輸送力増強 第5... 鶴見事故現場 鉄道ピクトリアル... 鶴見事故現場 鉄道ピクトリアル 昭和37年12月号から引用
当時の事故の詳細図
高度経済成長と輸送力増強 第5話 鶴見事故

一昨日は、三河島事故のお話をさせていただきました。
三河島事故の場合、国鉄の事故報告書では本線への合流前に信号を無視したことで機関車が安全側線に進入、本線を支障した、となっています。
当時の部内誌などを見ますと、出発信号並びに場内信号のいずれも無視したと言う記述も見られます。
二回の停止現示をいずれも見落としたと言うことになります。
おそらく、当時の国鉄線などという雑誌に書かれているように、出発信号機を見落とした上、場内信号機を通過したという可能性は捨てきれないと思います。
こうした事故が起こった場合、それまでに潜在的な問題があったと思われます。
いわゆる、ハインリッヒの法則という言葉を聞かれたことがあるかと思いますが、この伏線は単純に信号を見落とした・・・だけではないと思います。
また、事故後5分間の乗務員の行動も問題視されました。
列車防護が出来なかったのでしょうか・・・。

こうした問題がクローズアップされ、ATS【列車停止装置】の導入を前倒しで背導入することとなり、昭和41年には、新幹線を除く全線にATSが設置されることになりました。
実際には、確認ボタンを押すとATSが実質解放されてしまうという潜在的な問題があり、追突事故は起こりました。

国鉄の信頼は地に落ち、信頼回復に向けて十河総裁以下精力的に取り組むことになりました。しかし、翌年の昭和38年5月では、再任されず辞任することになりましたが、これは三河島事故の責任ではなく、新幹線建設費が当初予算よりも高騰したことに対して責任を取らされた形でした、この辺は後述しますが、当初から過小に見積もっていたという意見もありますが、それ以上の物件費上昇が大きかったのではないかと思います、ただし、当時は新幹線の成功自体が疑問視されていたため、体よく追い出したというのが現実ではないかと思います。
実際、新幹線開業式には十河総裁は呼ばれなかったことがその証左と言えます。
十河総裁の後を継いだのは、十河総裁当時監査委員長を務めていた石田禮助氏でした。

石田氏が就任して半年後の11月9日、国鉄は大事故を引き起こしてしまいます。
死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事の鶴見事故が起こります。
三河島事故の異なるのは、貨車が突然脱線して、隣の線路を支障、そこへ横須賀線の電車が90 km/h程度の速度で接触して脱線、ほぼ同時刻に走っていた対向列車の4両目に突き刺さる形になり、後続の電車に押される形で4両目を破壊、5両目の半分で停止した事故で、4両目は台枠以外は原形を残さない状態でした。

この事故では、主たる原因は、ワラ1形が突然脱線したことが原因でしたが、当初は国鉄の過密ダイヤが原因だと指摘されたりしました。
実際には、この当時は国鉄のダイヤはかなり逼迫していたのも事実でした。
当時の世論としては、国鉄の事故に対する批判もさることながら安全対策や輸送力の不足が、国鉄だけではなく国全体の問題としてクローズアップされることになりました、

鶴見事故の詳細については、後日監査報告書を参照して詳細をアップさせていただきます。
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高度経済成長と輸送力増強 第4話 三河島事故

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https://www.you... https://www.youtube.com/watch?v=_vvI4-zunRs
昭和37年のニュース「三河島事故」④(終)
三河島事故 Wikipedia... 三河島事故 Wikipediaから
昭和36年からの第二次長期計画は、車両の増備を中心に輸送力増強に努めたのであるがそれでも経済の発展に追いつけず、慢性的な輸送力不足を呈しており、複線化が急がれていたのですが、昭和37年5月に、国鉄にとっては悪夢のような事故が起こりました。
死者160人、重軽傷者296人を出す大惨事、三河島事故でした。
当時の概要は、既に多くの記事等でご覧の方も多いかと思いますので、詳細な解説は省略しますが、貨物列車の乗務員が信号を見落として本線に進入、安全側線に突入したが止まりきれずにそのまま本線を支障、そこに上野発、取手行き電車(2117H)が接触 1.2両目が脱線して、今度は対向線を支障、乗客はドアを開けて線路沿いに歩きかけたところ、今度は、事故を知らされていない上野行き電車(2000H)が進入、徒歩で避難していた乗客を刎ねながら、上野行き電車先頭車と衝突、1.2両目を破壊しながら200H電車は4両が脱線、大破 1両目は原形をとどめず、2,3両目も築堤下に転落。
この事故で、2000Hの乗務員が死亡しています。

国鉄では、常磐穂三河島駅列車衝突事故特別監査報告書を6月14日に提出
それによりますと、 事故の原因として、貨物列車乗務員の信号見落とし並びに、駅および車掌などが後方業務の停止措置を怠ったことが原因であったとしています。

以下、本文から抜粋

事故の直接原因については、細部に不明な点もありますが、国鉄の調査に基づいて検討した結果、次のごとく推定される。
(1) 事故の直接の原因は、下り第287貨物列車の機関車乗務員が三河島駅の出発信号機の停止信号を確認せず、そのため列車が安全側線に突入脱線したことによる 。
この事故の結果を悲惨なものとした原因は、第1の衝突により 、下り第2117H 電車が上り本線を支障したが、約6分後進入してきた上り第2000H電車に対して、防護処置をなすべき関係乗務員および関係駅職員の行動に遺憾の点があったためと思われる。

当時の世論などは、どうだったでしょうか。
当時の部内誌の記事を参照しますと、当時の世論では、機関士の信号見落としは、業務に対する士気の低下では無いのかと言う精神論を討論調が大半を占める中、人間はミスをするものであるから、ミスを未然に防ぐための仕組みを作る必要と言う意見もあったと紹介されています。

昭和37年8月号の国鉄線の記事から引用させていただきますと。
 三河島事故直後の世論は「職貝の士気の弛緩と訓練不足」と「保安施設の不備」を指摘するものがもっとも多く、そこから「国鉄に対する不信感」をかもし出したのであるが、東京・社説(六・一六)は「保安設備を改善せよ、といっているのも当然である。いかに安全運転を心がけても、施設が不十分では事故をなくすわけにはいかない。現状をみると、自動停止装置をとりつけているところは、東海道、中央、山手の各線ぐらいのもので、他の殆んどは相も変らず人間の手で行なわれている。人間の眼とカンに頼っていたのでは、いかに注意深い人間でも時として錯誤はまぬかれず、しばしば大きな事故の原因となっている。」と物心両面の安全確保を主張している。

結果的には、国鉄にしてみればATSなどの非常停止装置の措置は喫緊の課題となり、輸送力増強の投資に併せて、安全運行のための措置にも大きく予算を配分する必要に迫られるのでした。
なお、常磐線にあっては、ATS整備の他、常磐線用防護無線が整備されることになったのはご存じの通りです。
余談ですが、「ある機関助士」は三河島事故を受けて安全確保に尽力していることをアピールするための映像として依頼したのですが、国鉄の意向とは異なり一般公開されないままお蔵入りになった映像でした。

その後は、名作としての誉れが高いのは皆様ご存じの通りかと思います。」

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高度経済成長と第2次5カ年計画 第3話 慢性的な輸送力不足

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高崎発上野行き普通列車 724... 高崎発上野行き普通列車 724列車
動画は下記をご覧ください。
https://youtu.be/q46dgvSsUhM
高崎線724列車時刻表 高崎線724列車時刻表
第二次長期計画は、主に車両の増備等がメインであったと昨日は書かせていただきました。
特に電車や気動車の投資効率が高かったため、国鉄は積極的にそうした車両を投入していったわけですが、YouTubeを検索してみますと昭和35年の高崎線の列車通勤風景が写った動画がありました。
調べてみますと、高崎6:05発上野行きで、上野着は8:25で休日運休の客車列車だったようです。
その5分前並びに11分後にも上野行きの列車が走っていますが連日このような混雑だったのでしょうか。
少し興味はあります、併せて当時の時刻表を貼らせていただきましたので併せてご覧ください。
少なくとも、高崎線に限らず、中央線などでもその問題は大きくクローズアップされ、101系電車などが優先的に投入されたことからもその混雑が大きかったことがうかがえるのですが、当時の昭和35年の国鉄監査報告書を参照しますと、昭和36年度も35年度の引き続き毎年旅客で6%の伸張、貨物輸送にあっても昭和35年度8%、昭和36年度7%と毎年増加し続け、貨物輸送も活発化していた時期でもありました。
特に吹田操車場などでは、ヤードに到着する貨車を捌いても捌いても次から次へ貨車が到着して向こうが見えなかったと言われるほど貨車の到着が多かったと言われています。

また、旅客の嗜好にも変化が見られ、より速い列車を選択する傾向が高くなったことから積極的な優等列車の増発がはかられる反面、投資のための費用を自ら生み出すことを目的として運賃値上げが昭和32年と36年6月運賃が改定されていますが、多少の運賃値上げによる旅客収入の伸びに鈍化が見られましたが、概ね右肩上がりの順調さを示していましたが、それでも高崎線の上記列車に見られるような痛勤も有ったようですし、程度の差こそあれ多くの列車が満員で、年末などの繁忙期では、列車に乗るために前日から駅の待合で過ごし、ダフ屋【今で言う転売屋】が跋扈する、そんな時代でした。
年末やお盆の時期には上野駅や大阪駅ではテント村なる待合施設が出現し、季節の風物詩として話題になったものです。
しかし、国鉄の輸送力増強施策は、国の経済成長にはなかなか追いつけず、特に自動車の発達による踏切事故の多発は、鉄道事業者にとっても頭の痛い問題でした。
当時の運輸省の考え方は、鉄道は地域独占の事業であり踏切の整備等はすべて鉄道事業者の責任とされており、そうした対策への費用も振り向けざるを得なかったのですが、さらに昭和37年には、三河島事件という大きな事故を国鉄は起こすことになるのですがこの辺は、明日またお話しさせていただきます。

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高度経済成長と第2次5カ年計画 第2話 動力近代化よもやま話

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動力近代化として、気動車の増備... 動力近代化として、気動車の増備が続けられました。
昭和36年度を初年度とする第2次5カ年計画は、当初の投資総額が9,750億円という巨額であり、その概要は下記の通りとなっていました。

第2次5箇年計画の内容は,次のとおりです。
 (1) 東海道線に広軌鉄道を増設すること。
 (2) 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。
 (3) 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行い,これを電車化すること。
 (4) 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。
 (5) 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること。

特に、この時期に国鉄が一番力を入れたのは、気動車や電車でした。
特に気動車に力を入れたようですが、これは、蒸気機関車を電気機関車やデイーゼル機関車で取り替えるよりも、気動車や電車による取り替えの方が、資金効率が高かったからだと言われています。【資金効率とは、年間経費の節減額を投資額で割った比率】
実際にどのくらい変わるのかといいますと、蒸気機関車→電気・ディーゼル機関車の置き換えが8~15%、電車・気動車に置き換えた場合、50%~80%と極めて高いため、旅客車は極力電車や気動車を採用する方向になっていったと言われています。
特に、昭和25年の湘南電車の成功はその後長距離電車の可能性を生み、昭和33年には「特急こだま」を誕生させており、その後準急用として153系、さらに急行用設備を153系に付加したサロ152やサハシ153を誕生させていきましたし。
気動車列車も、特急はつかりに代表される特急車両や、急行用気動車キハ28・58を誕生させるなど多数の動力分散列車が誕生することになりました。

特に、電化の場合変電所の設置など固定設備の費用もかかるのに対し、気動車列車の場合は車両の投入だけということもあり、その投資効果は極めて高く、かつ無煙化による旅客サービスの向上を同時に図ることが出来るためその効果は極めて大きかったと言われています。
また、こうして無煙化された線区で使われていた蒸気機関車は玉突きで。老朽化した機関車の置き換えに使われましたが、C59のように重幹線線用機関車はC53同様比較的早い時期に淘汰されてしまいました。
結局、大正時代のに製造された8620や9600が最後まで残り、昭和になって誕生したC59が昭和40年代前半には消えてしまうことになるのですが。

大型蒸気は、地方管理局では固定資産としての費用が増え、場合によっては出力過剰による石炭の浪費などであまり好かれなかったという記事もあります。

久保田 博氏が、国鉄部内誌、交通技術【昭和37年1月号】の下記記事

「蒸気機関車のゆくえ、修正された蒸気機関車の転用廃車計画」で下記のように書かれていました。

この転用計画で、D52,C60の大形形式を受け入れた地方管理局は、資産単価増に伴う償却費の増加や、不適応小単位列車牽引による動力費の増のため、とかく非協力的であって、36
年度以降の実行に相当の困難を覚悟させられた。

と書かれています。

第2次5カ年計画で気動車や電車列車が増発された背景には投資効率が高かったと言う点も見逃してはいけないのではないでしょうか。
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高度経済成長と第2次5カ年計画 第1話

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高度経済成長と第2次5カ年計画...
本日から、国有鉄私見として第2次5カ年計画についてお話をさせていただこうともいます。

高度経済成長と輸送力増強 第3話 第2次5か年計画と国鉄 
http://jp.bloguru.com/jnrerablackcat/311526/5 
も併せて参照していただければ幸いです。

昭和32年から始まった5カ年計画は、主に老朽資産の取り替えなどを中心に行われましたが、人件費の高騰などで計画予算が枯渇したこともあって、計画自体を変更せざるを得なくなりました。【これに関しては国鉄だけに帰属する問題では無く、国民経済成長に国鉄の輸送力が追いつかなかったという側面もありました。】

一般に資料などを見ていますと、資金不足で頓挫したと書かれている文献が多いのですが、実際はどうだったのかという点を掘り下げてみたいと思います。

国鉄部内誌、「国鉄線昭和35年4月号 今年の国鉄は、担当課長に聞く」と言う記事の中で、古川審議室調査役が第一五か年計画に関して発言をしています。
要約させていただきますと、下記の通りとなります。

昭和35年度の第1次5カ年計画の進捗率は、【昭和31年度を初年度として4年目ですので】計画値80%となるのですが、実際には67%しか進んでいない状況であり、その原因は下記の通りです。

当初計画には無かった通信の近代化、おそらく(鉄道電話用交換機の交換で、当時の最新式であったクロスバー式交換機の更改)だと思われます。他にも貨物輸送の近代化も積極的に行おうとして、全般的に資金不足のために予定がずれたとしています。

第1次5カ年計画における3本柱であった、老朽施設の取り替えは順調に進んだ反面、輸送力の増強と動力近代化は40%程度しか達成できなかったとも発言しています。

そこで、国鉄では、国の長期経済展望に対応するために昭和36年度を初年度とする新5カ年計画が再び制定されることになりました。
第2次5カ年計画の特徴は、老朽車両の取り替えと線路増設が大きな柱であり、輸送力を増強して、輸送力の増強と輸送方式の近代化を行うことを主眼にしていました。
ちなみに、昭和36年10月のダイヤ改正は、第1次5カ年計画の成果であり、第2次5カ年計画の実績ではありません【誤っていたので訂正】

新5カ年計画の投資内容は上記の図を参照していただければわかりますが、車両費にも2610億円【全体計画の25%弱を占めているのがご理解いただけると思います。

また、この計画では新幹線建設計画も盛り込まれており、新幹線以外では主要幹線1000 kmの線増を行うほか1800 kmの電化、電車かを行うことが計画に盛り込まれています。
【国鉄監査報告書昭和35年から引用】

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気動車の発展と開発 気動車急行の誕生 第10話

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準急列車として昭和37年から運... 準急列車として昭和37年から運転を開始した「はまゆう」ですが、キハ28・58が連結されていた例としてアップしておきます。
キハ55の成功は、無煙化と高速化を同時に達成する手段として各管理局からの配置要望も多かったそうです。
準急気動車が気動車化されても、急行は客車列車の場合も多く、気動車化は喫緊の課題でした。
ただ、キハ55は気動車としては優秀でも、車内設備は貧弱であったことから、特急列車並みの車体幅とした、急行気動車の開発が進められることになりました。
実は、製造に関しては北海道向けの車両開発が先行したため形式的にはキハ56【北海道用】キハ57【信越線】キハ58の順で製作されました。
昭和36年1月に先行試作車が完成しました。
キハ55と基本的なスタイルは同じですが、車体幅は2900 mm となり、車体幅を絞る形となった他、ドアの幅が740 mmから850 mmに拡大されています。
特に先行して誕生した、キハ56はキハ22に準じた車体であり、1等車は153系サロ152と同様にリクライニング装備のシートが取り付けられましたが、下降式窓は見送られました。
本州向けに開発された車両は、サロ152同様の下降式窓が採用されました
その後本州向けに開発された車両は、サロ152同様の下降式窓が採用されましたが、下降式窓の保守を十分に行えず昭和50年代にはユニットサッシの窓に取り替える工事が行われ、優雅な下降窓は無粋な上段下降下段上昇の緊急時に窓から脱出できないのではと思わせる窓高さの車両が誕生しました。
ただ、1等車に関しては、サロ152等が特急形に準じた蛍光灯カバーがありましたが、気動車では省略されるなど、微妙に簡素化されていたりしました。
なお、エンジンはキハ80系で採用されたDMH17H【横型エンジン】が採用され、排気筒が出入り口両端に移設され、キハ20までの車両にあったように車体中心に排気筒が無くなり車内がすっきりしたものです。
また、洗面所も客車同様のものが設置され、急行列車にふさわしいものとなりました。
実際には、準急気動車でもキハ28・58が使用され、その逆でキハ55・26が急行列車に使用される場合もありました。
もっとも、北海道ではキハ22が急行列車として走るなんてことも一般的でした。
今から考えればおおらかな時代であったと思います。

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